KTOOONZ BLOG

ktooonzのオシラセBLOGです。

夢de思考 松の木のように固く

2010-06-07 13:08:38 | 

夢の話です。


私は夢を観ています。


ある峠のさびれた庵に若く美しいお侍が一人います。

その庵に三人の屈強な侍が客として招かれたようです。


庵へ向かう三人の侍へは、招いた若い侍から謎が出されているようです。

「松の木のように固く強くというのは、一体どういう事なのか?と」


3人は道すがら話し合います。

「武士の友情こそ固く強い松の木のようなもの」

その辺りに落ち着くわけですが、

3人が(実際に庵にはまだ着いていないようなのですが)その答を若い侍に返したところ、
美しいまだ少年のような侍は、庵の中で突然世にも恐ろしい爺いのような形相になり、

「軟弱である!」

と、3人の答を大否定するのです。

若い侍は、まるで狂ったように怒りながら、

「友情の心など無い。侍の美徳も一切関係が無い。ただ松は松!」

みたいな事を延々と怒鳴り、(全部憶えていません)

その異様な迫力に驚いた三人の侍のイメージ(なのか?)の若い侍は、
庵の囲炉裏の横に生える、あるいはかつて生えていたのか、松の木、あるいは松の木の切り株と
姿がダブっていくのです。

その峠には庵の横に大きな一本の松がありますが、
かつては松の林でもあって残りは切られてしまったのか・・・?私はイメージします。

その時、あっけに取られた3人の侍には
「松の木のように固く、とはどういう事なのか」謎の答が納得できたようで、
彼らは庵に招きいれられたのか、あるいはもはや訪ねる必要もないのか、(庵はもはや無人なのかも)

よくわからない処で夢は終わり、

私は目覚めます。


これは憶えているものの中では珍しいタイプの夢です。

夢の中では、3人の侍の納得に、私自身も納得がいくのですが、
目覚めてみると、夢の思考のしくみが何だかわかりません。

最初の侍の答が武士道の欺瞞が入っていることは、よくわかるのです。
夢の中でも、この答えには、一見良心に思える中の思考停止や世間体が入っていることは理解できました。

言ってみれば、納得の答えは、侍というものが持つ、全ての虚飾や習慣を払い去った、
友情などを遥かに超えた縁のようなもの、と、あえて言ってみることもできるかもしれませんが、
自分が観た夢とはいえ、何だかよくわかりません。


でも、松は「待つ」でもあるかなとか・・・?


夢の中で思考の言葉がすさまじい勢いで流れていました。
脳ってコンピューターみたいだと思いました。

現の脳で夢の脳を掴めなくても、それはいいやと思いつつも、
やっぱりどうしても、その発想法を知ってみたいのです。



画像は背中


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恐ろしい真実・・・

2010-06-06 02:07:28 | 

夢の話です。


私は色々なことを考えたりしますが、
多くの答みたいな、納得や実感みたいなものを夢で得ることがあります。

それが正しいのか何だか全くわかりませんが、
物によっては、その後の生き方の方向性に影響を与えるものや、
始めは夢の中とはいえ、一つの気付きのようなものを与えられて良かったと
思っていることもあります。

しかし夢ってシュールです。
マジメな問いかけに対して、
とんでもない、思いもよらないシチュエーションで
夢が私から答を引き出そうとしているのかな?と思える時があります。

例えば、
「自分が不愉快や被害や損害をこうむったからといって、
必ずしも加害者(と自分が思っている人)を責めていいというわけではない」
という、文字で記せば当たり前のことでも、
自分が怒っている最中に、この一つの一面の真実を冷静に見極めることができるかというと
それは私のような、まだまだ未熟な人間には捉え難いものだったのですが(今でもですが)、
私はそれが自分自身の間違いだという自らの実感を、
なんと夢でトイレが私の許可無く勝手に改装されたという、
わけのわからんシチュで持つ事になりました。

余りにもシュールな事態が起こっていると、
現象全体に疑いを持つので、
私の「自分が被害者ならば必ず責めるべき加害者がいる」という
その場の思考抜きに作動してしまう無意識のプログラムにも疑いを持つことが
可能になったのだと思います。

そんなことを考えてみると、
シュールリアリズムの芸術運動などが、
現実認識そのものを揺さぶってくるということも
私のトイレの夢と、同じような思考効果として
人の魂に訴えかけてくるものなのかもしれません。


さて、今日は日中、急に意識が落ちて眠ってしまったのですが、
こういう突然眠ってしまう時に、よく不思議な夢を見ます。

寝ている間に公園で烏の巣を取り払っていたので、
子烏のオギャーという人間に似た悲鳴や親の声や、公園の人たちが気の毒だと騒ぐ声が
夢うつつの中で響いていました。

そんなけたたましく悲しい騒音の中、どうしても目を覚ますことができません。

外が多少静かになった時に、

ある知人の男性(変な夢を観てしまい真にすみませんが)に
安っぽい喫茶店みたいなところで、ドリンクをおごってもらいます。
元々私と特別親しくも無い彼のチョイスは私の食の好みを全く理解していないもので、
お気持ちありがとうということでお礼を言ってドリンクを飲もうすると、
いきなり抱きしめられて胸にキスをされまくるという、欲求不満なんじゃないかという恥ずかしい夢を観てしまいました。

やめてとふりはらい、何でこんなことをするのか問いかけても
わけのわからない答が返ってきただけなので、そこから立ち去り、家に帰りながら考える夢でした。

その男性はご近所さんですが、私の友人と付き合っていて、私は友人の方により友情と好意を持っています。

先ほど起こった事実を、友人に言うべきか言わざるべきか?

私は夢の中で育った懐かしい石神井公園の道を歩きながら延々と考えるわけです。

本当のことを言うと彼女が傷つくかも・・・かえって私が彼女から嫌われないか?・・・
二人の仲が壊れてしまうかも・・・いや、実はもう壊れているからあんなことするんだろうか・・・

延々と思考がループしていきます。


「真実を言う」


突然一つの言葉が降りてくるようにやってきて、
その時に、結果が私にとっても彼らにとってもどうなろうが、
とにかく新しい一歩を踏み出すために、真実を友人に話そうと決意するところで夢は終わります。

勿論夢の内容事態は真実ではない、シュールな大嘘です。
そういう事実は全くないし、多分これからも無いことでしょう。

私が夢で体験した「真実」とは、むしろ心の中の確固たるぶれない力強い新しい感覚の方です。


思考がループする中で、

自分の保身や、偽りを通して事なかれ主義で友情を保ちたい、ごたごたを起こして面倒くさくしたくない、
あるいは不埒なことをする友人の恋人に思い知らせてやりたい、不愉快だからばらしてやりたい、

これらの余計な怖れや怒りの感情を取り払う中で、
私の感情とは関係の無い、起こった事実、真実が初めて力強くそこにあるという感覚です。


私には新鮮な納得感がありました。

自分自身の感情に拘ったところでは、仮に事実を言っても、相手には真実にならない場合もあるだろう。

逆に言えば、自分が自分の都合を捨て払ったところで、初めて人に色付けの無いありのままの真実が言える。

真実という瞬間の前には、友人に対する哀れみも、友達の彼に対する怒りも、
自分が嫌われるかもしれない怖れもありません。

真実の前には3人とも自由で平等な存在なのです。
(多分偽りの前には人間の不平等があるのでしょう)

これらのことは、思考の上では考えてきたことです。

実際の人生の中でも、自分の本当の心を見つけられた時にはじめてできた行動もいっぱいあると思います。

だけどケースバイケースの事柄の中で、
体験として、ぶれない確固たる真実がそこにあるという力強い感覚の実感は
夢とはいえ、初めてのことだったかもしれません。



さあ・・・できるだけ本当のことだけを言って生きて行きたいと思っていたらこんな夢を観てしまうわけですが、

時に本当のことは残酷で世間をひっくり返し、知り合いが離れていくかもしれず・・・

そう思ってビビッているところもありましたが、
真実の前に人間が自由で平等という感覚が理解できれば、私はきっと本当のことだけ言って生きられるでしょう。


何ておっそろしいのだろう!私は益々迷惑な人間になってしまいそうです。


と、思いつつわくわくしている。


夢で生まれた小さな種を現の世界で花咲かせたいです。



画像はネコ


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