戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

7/28 その2 又、戦争の話に戻ります。威勢の良かった頃の提灯行列

2010-07-28 13:10:59 | Weblog
戦争が始まってから1度提灯行列があった。最初の軍艦マーチからいくらもたっていなかった頃で、あの日から毎日朝から晩まで軍艦マーチで沸き立っていた。国民学校1年生でも、その威勢のよさは感じ取る事は出来た。日本が1番威勢がよかった頃だろうか。
少したってから提灯行列をということを聞いた。
いくらもたっていなかった、と思うが。提灯行列というのは日露戦争に勝った時、全国的な規模でやったような気がする。もちろん、映画か、ニュース番組で見ただけだ。でも、欲しがりません、勝つまでは、なんて云って私達の欲しいようなものはだんだん少なくなっていった。うちの初っちゃんなどパーマネントをかけてもらいに行く時は炭を持っていかなければならなかった。どんなものでも、先ず、第一に戦争の為だった。うちのお店の番頭さんもほかの人も出征していく。番頭さんは私が生まれた時、「八月でとても暑く、頭にあせもが出来てひどくなってしまったのを、毎日毎日抱いてお医者さんに連れていってくれて、それで直ったようなものなんだよ」と姉に云われた。番頭さんは特に私を可愛がってどこに行く時も連れていったんだよ。と、なるほど、それで番頭さんと一緒の写真が多いんだと思った。でもね、いくつになっても「おしめを取替えたんだ」とみんなに云うのにはまいった。
提灯行列の頃出征して一番威勢のいい時中国にいっていた。その後ニューギニアでマラリヤにかかり治療のため帰ってき44部隊にお見舞いに行ったときの写真が1枚残っている。番頭さんは、また戦線に復帰し、かつての提灯行列のときと正反対の、後へ前進(逃げること)という命令を受け1升くらいの米を渡されただけで、時には谷底へ落ち、あの戦友がいなかったら帰って来られなかったというような悲惨な思いをしながらも、その後の船はもう出ることは無かった、という日本への最後の船に乗って帰ってくることが出来た。あの時はそれでもギリギリではなかった。という事は、その後、残った日本軍の兵士たちの運命を考えるとどれだけ多くの民間をも含めた日本人が 彼の地で果てているのかと、戦争の残酷さを憎まずにはいられない。


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