皇室典範問題について認識のずれがある、ということは感じていたのだけど、どこがどうずれているのかということについてあまりよくわからなくてどのように情報や意見を発信していけばいいのかわからずフラストレーションが溜まっていた。しかしとあるブログを読んで、こうした皇統に対する認識の問題は結局はいかなる日本史教育を受けたかということにかかってくるのだなということでだいぶじぶんの中では整理されてきた。つまり、「有識者会議」なるものに参加している人たち自身が「無識者」なのである。皇統に関する知識が圧倒的に欠落している。何も知らないところで議論してみても何も出てこないのは当然のことだ。それであのように荒唐無稽な結論が出てきたのであろう。従って、問題点を整理すると共に、歴史と伝統とを考えて一応こうしたことを知った上で議論してもらいたいということを書き出してみようと思う。
まず皇位につくのが男子か女子かという問題。これはけっこう知られているようだが、飛鳥・奈良時代には推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)の六方八代の女帝がおられ、江戸時代には明正・後桜町の二代の女帝がおられた。125代の皇統の中の八方十代の天皇が女性であられたということは多いとか少ないということではなく共通認識としてもっている必要があることである。
その即位の際の事情を考えると推古天皇(33)は祟峻天皇(32)のシイ逆(字が出て来ない)という非常事態の中で他の皇族を押さえて敏達天皇(30)の皇后が即位されたもので、皇太子に用明天皇(31)の皇子である聖徳太子がつかれたことからも緊急避難的な措置であったと言える。また推古天皇自身が欽明天皇(29)の皇女であった。ちなみに括弧の中は代数であり、敏達天皇以下推古天皇までの4代はみな兄弟姉妹である。この時代は異母兄妹なら結婚が成り立っていた。
皇極天皇(35)ももともと皇后であり、敏達天皇の曾孫である。これは日本書紀では聖徳太子の皇子である蘇我入鹿が山背大兄王を排除するために即位させたということになっていると記憶している。それぞれの女帝の即位事情について書き出すと連載する必要がでてきてしまうが、推古・皇極(斉明)・持統・元明の最初の四方五代の女帝は皇女あるいは皇族出身の皇后が即位したものであり、持統天皇以外は強い権力を握ったと考えられる例はない。その後の四方五代の女帝はすべて皇女であり、生涯独身であった。その中で実権を握ったと考えられるのは孝謙(称徳)天皇だけで、このときに有名な弓削道鏡事件が起こり、天皇に尊敬されて法王の位まで与えられた僧侶が皇位につく寸前まで行ったが和気清麻呂が持ち帰った宇佐八幡宮の神勅に「天之日嗣には必ず皇緒をたてよ。無道の人はよろしく除くべし」(原文「天之日嗣必立皇緒。无道之人。宜早掃除。」)とあり、結局皇位にはつけなかったということがあった。これは伝統教養の中ではもっとも皇統の危機であったとされている事件である。
まあ事の当否(あるいは続日本紀に記されている記述の信憑性)はともかく、女帝は認められても皇族でない男子が皇位につくことを強く忌避する観念があったことは事実であるといってよいだろう。女帝の子ども、あるいは子孫が皇位についたのは女帝がもともと皇后であった場合だけであり、女系のみによる継承の例はない。
一つの皇統が途切れて他に皇統が移った例としては、『神皇正統記』だったかに出ている最初の例は十三代成務天皇の崩御後甥の仲哀天皇が継承した例から論じられているが、もっともかけ離れている例は武烈天皇(25)の崩御後、応神天皇(15)の子孫である継体天皇(26)が即位したというものである。記紀の年代で行っても数百年は遡っている。そのあとも壬申の乱の後、天武天皇の皇統が奈良時代に継承されていくが、道鏡事件の称徳天皇の崩御後は天智天皇の皇統に移った例、鎌倉時代の大覚寺統と持明院統の分裂が南北朝の騒乱を巻き起こしたことなどが著名だろう。
現皇統を考えても南北朝の合一によって結局は北朝の持明院統が継承することになった後も称光天皇の崩御によって皇統が途切れ、伏見宮家から皇位が継承されている。江戸時代は皇位継承の備えとして伏見・有栖川・桂・閑院の四宮家が代々親王として継承されていたことも重視するべきだろう。また今上天皇(125・その時点での現天皇陛下のことを今上天皇という・念のため)の直系の祖先である光格天皇(119)も後桃園天皇(118)の死去による皇統の途切れから閑院宮家から入って皇位についている。明治になってから各宮家の子孫が増えて新たに宮家を創設した例が多かったが、敗戦によりGHQの指令で大正天皇の子孫以外はすべて皇籍離脱を余儀なくされた。ここで外国から不当な圧力がかけられているということも重視すべきポイントだろう。
このように見てくると、ここ数百年の歴史を見れば宮家からの皇位継承は何ら不自然なものではないことがよくわかるだろう。伏見宮家が南北朝時代から続いているといってもそれは元来皇位継承の備えとして皇族でありつづけたのだからむしろ宮家から継承すべきなのが当然なのである。GHQの不当な圧力がなければ重大問題である皇位継承のために宮家が存続したのは自明のことであり、独立国である日本が独自の歴史と伝統に基づいて宮家からの皇位継承を行うのはあたりまえのことだと思う。
万世一系の論拠になる「天壌無窮の神勅」とか神功皇后のこと、記紀に書かれた皇位継承その他論じたいことはたくさんある。そうしたものもの科学的根拠がないとか言い出せばきりがないが、国家民族国民の至宝として千数百年も受け継がれた史書に載っているということの重みを無視すべきではない。少なくとも教養としては押さえておいてよいことである。欧米人は米民主党支持者の多い東部エリートのようにキリスト教を馬鹿にする人々であれ聖書の記述くらいは知っているし押さえている。(私は彼らの集まった席でノアとかモーゼとかの事跡についてありえねーとか馬鹿げているとか嘲笑しあっているのを聞いたことがある。かなり違和感を感じたが。)それと同様の次元で、少なくともこの程度のことは押さえた上で議論していただきたいものだと思う。皇位継承というのはデリケートな問題である。近代合理主義だけで割り切れるものではない。近代合理主義で割り切ることで世界にいったいどれだけの弊害が起こっているのか、そういうことをも考えたうえで論じていただきたいと思う。
翻って、自分がどうしてこのようなことを知っているのかと考えてみると(ここまで書いたことは何も見ないで書いている。従ってどこかに間違いがあるかもしれないのだが※続日本紀の記述はあとで確認して修正)、結局教室で教えられる日本史に飽き足りず、自分で好きで調べたからだと思う。それは歴史好き、というよりも日本というものについてもっと知りたいという純粋な動機だった気がする。考えてみれば私の場合でも小中高の歴史の先生のほとんどはハード左翼かソフトサヨクのどちらかであったし、先生の言うことを素直に吸収するまじめな方々、優等生の人たちが皇室という存在が日本の歴史に占めていた位置の重要性について特に考えもしないというのもあたりまえのことかもしれない。まあ私にしたところで共産主義国みたいに思想的に洗脳する教育でなく、自分勝手に勉強してそういう認識に達したのだから戦後の文脈の上に存在する「戦後民主主義の申し子」(笑)ではあるのだが。
だから日本の伝統を振り返って省察する機会が若いころにあったかどうかということは大きいのだろうなと思う。伝統に対する認識が欠落したままで「惑わず」の年齢を過ぎてしまうと、そこから新たな世界観を構築するのはかなり困難なのかもしれない。そういう人が大勢いるんだなと思うと、改めて淋しい感じがする。経済優先、科学優先の風潮がもたらした最大の弊害はおそらくそれなのだろうと思う。
しかし、だからといって伝統に対する自分なりの認識を持っている側が何も発信しないわけには行かない、と改めて思う。読者数の乏しいブログにこうした議論を展開したところで蟷螂の斧ではあるが、少しずつ訴えを広げていければいいなと思う。
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まず皇位につくのが男子か女子かという問題。これはけっこう知られているようだが、飛鳥・奈良時代には推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)の六方八代の女帝がおられ、江戸時代には明正・後桜町の二代の女帝がおられた。125代の皇統の中の八方十代の天皇が女性であられたということは多いとか少ないということではなく共通認識としてもっている必要があることである。
その即位の際の事情を考えると推古天皇(33)は祟峻天皇(32)のシイ逆(字が出て来ない)という非常事態の中で他の皇族を押さえて敏達天皇(30)の皇后が即位されたもので、皇太子に用明天皇(31)の皇子である聖徳太子がつかれたことからも緊急避難的な措置であったと言える。また推古天皇自身が欽明天皇(29)の皇女であった。ちなみに括弧の中は代数であり、敏達天皇以下推古天皇までの4代はみな兄弟姉妹である。この時代は異母兄妹なら結婚が成り立っていた。
皇極天皇(35)ももともと皇后であり、敏達天皇の曾孫である。これは日本書紀では聖徳太子の皇子である蘇我入鹿が山背大兄王を排除するために即位させたということになっていると記憶している。それぞれの女帝の即位事情について書き出すと連載する必要がでてきてしまうが、推古・皇極(斉明)・持統・元明の最初の四方五代の女帝は皇女あるいは皇族出身の皇后が即位したものであり、持統天皇以外は強い権力を握ったと考えられる例はない。その後の四方五代の女帝はすべて皇女であり、生涯独身であった。その中で実権を握ったと考えられるのは孝謙(称徳)天皇だけで、このときに有名な弓削道鏡事件が起こり、天皇に尊敬されて法王の位まで与えられた僧侶が皇位につく寸前まで行ったが和気清麻呂が持ち帰った宇佐八幡宮の神勅に「天之日嗣には必ず皇緒をたてよ。無道の人はよろしく除くべし」(原文「天之日嗣必立皇緒。无道之人。宜早掃除。」)とあり、結局皇位にはつけなかったということがあった。これは伝統教養の中ではもっとも皇統の危機であったとされている事件である。
まあ事の当否(あるいは続日本紀に記されている記述の信憑性)はともかく、女帝は認められても皇族でない男子が皇位につくことを強く忌避する観念があったことは事実であるといってよいだろう。女帝の子ども、あるいは子孫が皇位についたのは女帝がもともと皇后であった場合だけであり、女系のみによる継承の例はない。
一つの皇統が途切れて他に皇統が移った例としては、『神皇正統記』だったかに出ている最初の例は十三代成務天皇の崩御後甥の仲哀天皇が継承した例から論じられているが、もっともかけ離れている例は武烈天皇(25)の崩御後、応神天皇(15)の子孫である継体天皇(26)が即位したというものである。記紀の年代で行っても数百年は遡っている。そのあとも壬申の乱の後、天武天皇の皇統が奈良時代に継承されていくが、道鏡事件の称徳天皇の崩御後は天智天皇の皇統に移った例、鎌倉時代の大覚寺統と持明院統の分裂が南北朝の騒乱を巻き起こしたことなどが著名だろう。
現皇統を考えても南北朝の合一によって結局は北朝の持明院統が継承することになった後も称光天皇の崩御によって皇統が途切れ、伏見宮家から皇位が継承されている。江戸時代は皇位継承の備えとして伏見・有栖川・桂・閑院の四宮家が代々親王として継承されていたことも重視するべきだろう。また今上天皇(125・その時点での現天皇陛下のことを今上天皇という・念のため)の直系の祖先である光格天皇(119)も後桃園天皇(118)の死去による皇統の途切れから閑院宮家から入って皇位についている。明治になってから各宮家の子孫が増えて新たに宮家を創設した例が多かったが、敗戦によりGHQの指令で大正天皇の子孫以外はすべて皇籍離脱を余儀なくされた。ここで外国から不当な圧力がかけられているということも重視すべきポイントだろう。
このように見てくると、ここ数百年の歴史を見れば宮家からの皇位継承は何ら不自然なものではないことがよくわかるだろう。伏見宮家が南北朝時代から続いているといってもそれは元来皇位継承の備えとして皇族でありつづけたのだからむしろ宮家から継承すべきなのが当然なのである。GHQの不当な圧力がなければ重大問題である皇位継承のために宮家が存続したのは自明のことであり、独立国である日本が独自の歴史と伝統に基づいて宮家からの皇位継承を行うのはあたりまえのことだと思う。
万世一系の論拠になる「天壌無窮の神勅」とか神功皇后のこと、記紀に書かれた皇位継承その他論じたいことはたくさんある。そうしたものもの科学的根拠がないとか言い出せばきりがないが、国家民族国民の至宝として千数百年も受け継がれた史書に載っているということの重みを無視すべきではない。少なくとも教養としては押さえておいてよいことである。欧米人は米民主党支持者の多い東部エリートのようにキリスト教を馬鹿にする人々であれ聖書の記述くらいは知っているし押さえている。(私は彼らの集まった席でノアとかモーゼとかの事跡についてありえねーとか馬鹿げているとか嘲笑しあっているのを聞いたことがある。かなり違和感を感じたが。)それと同様の次元で、少なくともこの程度のことは押さえた上で議論していただきたいものだと思う。皇位継承というのはデリケートな問題である。近代合理主義だけで割り切れるものではない。近代合理主義で割り切ることで世界にいったいどれだけの弊害が起こっているのか、そういうことをも考えたうえで論じていただきたいと思う。
翻って、自分がどうしてこのようなことを知っているのかと考えてみると(ここまで書いたことは何も見ないで書いている。従ってどこかに間違いがあるかもしれないのだが※続日本紀の記述はあとで確認して修正)、結局教室で教えられる日本史に飽き足りず、自分で好きで調べたからだと思う。それは歴史好き、というよりも日本というものについてもっと知りたいという純粋な動機だった気がする。考えてみれば私の場合でも小中高の歴史の先生のほとんどはハード左翼かソフトサヨクのどちらかであったし、先生の言うことを素直に吸収するまじめな方々、優等生の人たちが皇室という存在が日本の歴史に占めていた位置の重要性について特に考えもしないというのもあたりまえのことかもしれない。まあ私にしたところで共産主義国みたいに思想的に洗脳する教育でなく、自分勝手に勉強してそういう認識に達したのだから戦後の文脈の上に存在する「戦後民主主義の申し子」(笑)ではあるのだが。
だから日本の伝統を振り返って省察する機会が若いころにあったかどうかということは大きいのだろうなと思う。伝統に対する認識が欠落したままで「惑わず」の年齢を過ぎてしまうと、そこから新たな世界観を構築するのはかなり困難なのかもしれない。そういう人が大勢いるんだなと思うと、改めて淋しい感じがする。経済優先、科学優先の風潮がもたらした最大の弊害はおそらくそれなのだろうと思う。
しかし、だからといって伝統に対する自分なりの認識を持っている側が何も発信しないわけには行かない、と改めて思う。読者数の乏しいブログにこうした議論を展開したところで蟷螂の斧ではあるが、少しずつ訴えを広げていければいいなと思う。
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