今朝は寒い。今ようやく日がさしてきて向うの山のふもとの町に当たっている。
昨日の続きで、皇室典範論議には世界各国の例も見た方がよいと思うので、それらについて。
東アジアの各国は基本的に儒教文化なので皇位・王位継承が男系男子に限られるのはこの地域のスタンダードである。隣国の韓国・朝鮮では新羅時代に女王の例がいくつかあるが、これはまだ儒教が浸透する前で、姓名も現在のような中国風になる以前、あるいはその前後のことである。新羅による統一以降は金氏新羅(統一以前は新羅の王統は3氏あった)、王氏高麗、李氏朝鮮とずっと男系男子相続が続いている。朝鮮の近代史をにぎわす大院君は直系の王統が途絶えたあと数百年前に分岐した傍系から相続した高宗王の父である。
中国ではもっと徹底しており、唐の時代に帝位を簒奪して周という国を立てた則天武后を唯一の例外として女帝の例は皆無である。則天武后にしてもその一般的な名称が示す通り皇后としての側面が強調されていて中国の伝統教養から見れば皇帝としては認められていない。
ヨーロッパの例を見ると、フランスはカペー王朝の成立以後は二月革命によるルイ・フィリップの退位まで基本的に「万世一系」の男系男子相続ですべてパリ伯ユーグ・カペーの系統である。これはフランク族の相続法、いわゆるサリカ法典に男系男子相続が定められていたためで、女王あるいは女系の相続の例は皆無であった。カペー家は数百年間直系男子が相続し、その揺るぎない安定性の上でフランス王国を強大化させた。王統が途絶えたあと最後の王の従兄弟が位を継ぎヴァロア朝を創始したが、女系でカペー家の血を受け継いでいたイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張して百年戦争になったのである。もちろん利害対立の面はあるが、女系での相続が見られるイングランドの相続法と男系男子相続を規定するサリカ法典との相続法どうしの争いと見ることもできる。
カペー・ヴァロワ・ブルボンの三王朝が続きフランス革命の断絶があり、一度正統王朝が復活するが七月革命でルイ14世の弟の系統のオルレアン家が王位につき、二月革命で退位する。その後もブルボン家の正統の王位継承権主張者とオルレアン家の主張者が対立し、普仏戦争の敗北後の王政復活機運を生かせなかった。結局正統派が勝つが子孫が絶え、現在ではオルレアン家がパリ伯として王位継承権を主張している。ただ1901年生まれの当主の後を追跡していないので、2005年現在どうなっているのかよくわからない。
ブルボン家の系統は現在はスペイン王家に残っていて、こちらは女王が出ている。スペインはアラゴン王とカスティリア女王の婚姻により合併してできた国であるから、それも歴史と伝統に照らして起こったものだといえるだろう。
イギリスを見るとノルマンの征服がもともと女系での継承権主張者が王位簒奪に成功した例として始まり、先に述べたようにエドワード3世は女系でのフランス王位簒奪を狙いヘンリー5世の時代にはフランス王も称していた。(百年戦争に敗北後もしばらく王位を自称していた)しかし女王の例はなかったのがテューダー朝でメアリー、エリザベスという二人の女王が出ている。メアリーの夫となったスペイン王フェリペ2世が強大な影響力を持ったことはよく知られている。しかし彼女たちの子孫が王位を継承することなく、イングランド王ヘンリー7世の女系の子孫であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として即位し、「17世紀の危機」を迎える。
ピューリタン革命と名誉革命を経て、カトリックのジェームズ2世の子孫の王位継承を排除するために1701年の王位継承法では王はプロテスタントであることという条件がつけられ、ウィリアム3世とメアリ2世の共治・アン女王の時代を経てまた遠い女系をたどってドイツのハノーバー選帝侯家から王を迎えた。ジェームズ2世の子どもと孫は王位継承を主張して二度にわたる反乱を起こした(彼らの党派はジャコバイトと呼ばれる)が敗れ、名誉革命体制=新教徒国王体制は現在まで続いている。最近でもエリザベス2世現国王の従兄弟に当たる人物がカトリックの女性と結婚したために王位継承権を剥奪された。この法律は現在でも生きている。イギリスの王位継承はプロテスタント優位の議会によって強く規定されており、歴史的に女系相続も女王も珍しくはない(ある意味女系での継承権を主張する簒奪者の歴史と言えるかもしれない)が、男子がいれば男子が優先という規定になっている。イギリスの女王・女系の多さはそうした歴史と伝統の産物である。
女王・女系の多い北欧3国やロシア、オランダ・ベルギーなどについても論じたかったが、そちら方面は知識が不足しているのでまた機会があれば調べて論じてみたいとも思う。いずれにしても王位継承はその国の文化伝統や歴史に則して生成されてきた伝統的なルールに基づくものであることは強調しておかなければならないだろう。
日本の場合は危機の時代にそれを回避し一時棚上げするために女帝が即位する例はあっても女系相続の例はなく、それは決して「なんとなく男系が続いた」というようなものではない。人がそのときそのときの事態に真剣に向き合った歴史の繰り返しの中で生まれてきたのが伝統なのであって、それは決して無視し去ることはできない。1000年を越えて日本人が守りつづけたものを変更するのはいわば革命であり、その場限りのごまかしのような十分な知識に欠ける人たちの形式的な短時間審議によって強行されるべき事柄ではない。1000年を越える伝統と対峙し、それを否定し去るだけの自らの深い確信と豪胆さを彼らは持っているのだろうか。皇位継承とはそれを巡って人類が数千年の間激しい戦争や闘争を繰り返してきた事柄であり、各国ともその歴史の中で継承のルールが作られてきたのである。もちろん現在の皇室典範に瑕疵がないかというとそうでもないだろう。しかし、変更するならば昨日書いたように占領軍によって強いられた旧宮家の臣籍降下を定めた法令を取り消して数百年来の伝統である親王家を復活すべきであると思う。
皇室の存在感の薄さと、日本の伝統や教養の底力のどうしようもない凋落とはやはり共通するものがあると思う。特に伝統的なものが根強く残っている上方などとは違い、関東でそういうものが感じられる場所や機会はそう多くない。靖国神社の存在に伝統維持や保守を自認する人々が拠り所を見つけようとするのもそうした伝統の薄さというものと無縁ではないという気もする。地方ではなおさらそうした伝統の残存の薄さがそうしたものの存在感のなさにつながってしまうだろうと思う。
どのような形にしろ、そうしたことを訴えていければと思う。
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昨日の続きで、皇室典範論議には世界各国の例も見た方がよいと思うので、それらについて。
東アジアの各国は基本的に儒教文化なので皇位・王位継承が男系男子に限られるのはこの地域のスタンダードである。隣国の韓国・朝鮮では新羅時代に女王の例がいくつかあるが、これはまだ儒教が浸透する前で、姓名も現在のような中国風になる以前、あるいはその前後のことである。新羅による統一以降は金氏新羅(統一以前は新羅の王統は3氏あった)、王氏高麗、李氏朝鮮とずっと男系男子相続が続いている。朝鮮の近代史をにぎわす大院君は直系の王統が途絶えたあと数百年前に分岐した傍系から相続した高宗王の父である。
中国ではもっと徹底しており、唐の時代に帝位を簒奪して周という国を立てた則天武后を唯一の例外として女帝の例は皆無である。則天武后にしてもその一般的な名称が示す通り皇后としての側面が強調されていて中国の伝統教養から見れば皇帝としては認められていない。
ヨーロッパの例を見ると、フランスはカペー王朝の成立以後は二月革命によるルイ・フィリップの退位まで基本的に「万世一系」の男系男子相続ですべてパリ伯ユーグ・カペーの系統である。これはフランク族の相続法、いわゆるサリカ法典に男系男子相続が定められていたためで、女王あるいは女系の相続の例は皆無であった。カペー家は数百年間直系男子が相続し、その揺るぎない安定性の上でフランス王国を強大化させた。王統が途絶えたあと最後の王の従兄弟が位を継ぎヴァロア朝を創始したが、女系でカペー家の血を受け継いでいたイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張して百年戦争になったのである。もちろん利害対立の面はあるが、女系での相続が見られるイングランドの相続法と男系男子相続を規定するサリカ法典との相続法どうしの争いと見ることもできる。
カペー・ヴァロワ・ブルボンの三王朝が続きフランス革命の断絶があり、一度正統王朝が復活するが七月革命でルイ14世の弟の系統のオルレアン家が王位につき、二月革命で退位する。その後もブルボン家の正統の王位継承権主張者とオルレアン家の主張者が対立し、普仏戦争の敗北後の王政復活機運を生かせなかった。結局正統派が勝つが子孫が絶え、現在ではオルレアン家がパリ伯として王位継承権を主張している。ただ1901年生まれの当主の後を追跡していないので、2005年現在どうなっているのかよくわからない。
ブルボン家の系統は現在はスペイン王家に残っていて、こちらは女王が出ている。スペインはアラゴン王とカスティリア女王の婚姻により合併してできた国であるから、それも歴史と伝統に照らして起こったものだといえるだろう。
イギリスを見るとノルマンの征服がもともと女系での継承権主張者が王位簒奪に成功した例として始まり、先に述べたようにエドワード3世は女系でのフランス王位簒奪を狙いヘンリー5世の時代にはフランス王も称していた。(百年戦争に敗北後もしばらく王位を自称していた)しかし女王の例はなかったのがテューダー朝でメアリー、エリザベスという二人の女王が出ている。メアリーの夫となったスペイン王フェリペ2世が強大な影響力を持ったことはよく知られている。しかし彼女たちの子孫が王位を継承することなく、イングランド王ヘンリー7世の女系の子孫であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として即位し、「17世紀の危機」を迎える。
ピューリタン革命と名誉革命を経て、カトリックのジェームズ2世の子孫の王位継承を排除するために1701年の王位継承法では王はプロテスタントであることという条件がつけられ、ウィリアム3世とメアリ2世の共治・アン女王の時代を経てまた遠い女系をたどってドイツのハノーバー選帝侯家から王を迎えた。ジェームズ2世の子どもと孫は王位継承を主張して二度にわたる反乱を起こした(彼らの党派はジャコバイトと呼ばれる)が敗れ、名誉革命体制=新教徒国王体制は現在まで続いている。最近でもエリザベス2世現国王の従兄弟に当たる人物がカトリックの女性と結婚したために王位継承権を剥奪された。この法律は現在でも生きている。イギリスの王位継承はプロテスタント優位の議会によって強く規定されており、歴史的に女系相続も女王も珍しくはない(ある意味女系での継承権を主張する簒奪者の歴史と言えるかもしれない)が、男子がいれば男子が優先という規定になっている。イギリスの女王・女系の多さはそうした歴史と伝統の産物である。
女王・女系の多い北欧3国やロシア、オランダ・ベルギーなどについても論じたかったが、そちら方面は知識が不足しているのでまた機会があれば調べて論じてみたいとも思う。いずれにしても王位継承はその国の文化伝統や歴史に則して生成されてきた伝統的なルールに基づくものであることは強調しておかなければならないだろう。
日本の場合は危機の時代にそれを回避し一時棚上げするために女帝が即位する例はあっても女系相続の例はなく、それは決して「なんとなく男系が続いた」というようなものではない。人がそのときそのときの事態に真剣に向き合った歴史の繰り返しの中で生まれてきたのが伝統なのであって、それは決して無視し去ることはできない。1000年を越えて日本人が守りつづけたものを変更するのはいわば革命であり、その場限りのごまかしのような十分な知識に欠ける人たちの形式的な短時間審議によって強行されるべき事柄ではない。1000年を越える伝統と対峙し、それを否定し去るだけの自らの深い確信と豪胆さを彼らは持っているのだろうか。皇位継承とはそれを巡って人類が数千年の間激しい戦争や闘争を繰り返してきた事柄であり、各国ともその歴史の中で継承のルールが作られてきたのである。もちろん現在の皇室典範に瑕疵がないかというとそうでもないだろう。しかし、変更するならば昨日書いたように占領軍によって強いられた旧宮家の臣籍降下を定めた法令を取り消して数百年来の伝統である親王家を復活すべきであると思う。
皇室の存在感の薄さと、日本の伝統や教養の底力のどうしようもない凋落とはやはり共通するものがあると思う。特に伝統的なものが根強く残っている上方などとは違い、関東でそういうものが感じられる場所や機会はそう多くない。靖国神社の存在に伝統維持や保守を自認する人々が拠り所を見つけようとするのもそうした伝統の薄さというものと無縁ではないという気もする。地方ではなおさらそうした伝統の残存の薄さがそうしたものの存在感のなさにつながってしまうだろうと思う。
どのような形にしろ、そうしたことを訴えていければと思う。
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