Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

「うたう」とはどういうことか

2005-12-09 11:02:00 | 読書ノート
今朝は冷え込んだ。水道の出が悪かったので、一部凍結したのかもしれない。凍結防止の電熱線のコンセントを入れていないことに気づき、セットする。しばらくはこれで大丈夫だろう。本当に寒くなってきたらそれでも凍結するのだが。天気は良くて、だいぶ明るくなってきた。朝仕事を片付けに仕事場に行ったら別の仕事ができて片付ける。

ネットに接続しようとしたらいつも使っている接続ポイントが調子が悪い。こちらではブロードバンドにしていないので接続ポイントの調子が悪いと参る。こちらからのデータ送信も調子が悪くなるので急いでいるときなど頭に血が上る。急いでいないときに限って快適な接続なのだ。何とかの法則のようなものだろうか。

小林秀雄『本居宣長』を読みつづける。『古事記伝』論にはいるかと思ったら賀茂真淵とのやり取りの中での和歌論が延々と続いていた。上代の人々は心に浮かんだ思い、心を表現するための言葉を求めて和歌を作ればよかったが、後代のわれわれは表現すべき心も表現すべき言葉も共に探さなければならない、という表現は面白いなと思った。このあたり微妙な内容が多くて読んでいるときはわかったと思ったのだが今書こうとするとうまく言葉にできないし曖昧になってしまうところが多い。心を晴らすために感情はその形式を求め、その形式を得ることによって心は晴れ、その感情がその人のものになる、それが歌だ、という表現もまた面白い。人は嘆くときにも自然にその嘆きの方のようなものを生み出していて、それが言葉よりも前の歌の形式であり、その形を得ることで人は心が晴れる。芝居で、せりふなどを調子をつけて言うことを「うたう」というが、それと似たところがあると思った。芝居ではうたいすぎるとリアリティがなくなるし鼻につくのだが、例えば平幹二郎などは「うたう」のがうまい。声も良くないといけないし、声量もいる。うまく使えば人を酔わせる表現手段なのだが、それを「歌う」ということと宣長の和歌論との共通性を思う。

今読んでいるところは「やまとだましひ」論で、平田篤胤に至って国学は古き言葉をたずねるという方法論が欠落することになる、ということを述べているのだが、それは全くそのとおりだなと思う。宣長から篤胤に移ることで国学は質的な転換を遂げていると私も思う。その当たりの重大性については私自身もまだあまりよくわからないのでじっくり読んでみたい。

和田哲哉『文房具を楽しく使う 筆記具編』読みかけ。油性ボールペンと水性ボールペン、その中間という意味でのゲルを使用した中性ボールペンの説明など興味深い。細かい色の粒子を使うことで色を出すという仕組みが中性ボールペンの多様な発色を可能にしたという話はへえぇと思った。普段散々世話になっておきながらあまり知らない文房具の話が、和田氏の筆致に乗ると非常に興味深く読める。またシャープペンシルが日本で発明され日本で発展を遂げた筆記具であるという話も興味深かった。

午前中にこんなに晴れるのは久しぶりじゃないかという気がする。気持ちが良くて少し眠くなってきた。

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