Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

世界は美しい

2005-11-07 07:33:26 | 読書ノート
昨日も降っていたが、今朝も雨だ。しかし今日は晴れてきて、25度くらいまで上がるらしい。今日は立冬。少し前に、12月1日に台風が来たことがあったが、こういう話を聞くとやはり気候は温暖化しているのかと思う。寒いのが好きなわけではないが、冬が冬らしくないのは落ち着かない。

昨日は睡眠時間が足りず、午後は少し昼寝をした。しかし目が覚めたら暗くて何時かと思ったらまだ4時過ぎだったのには驚いた。曇りの日の日中がこんなに暗いというのは、やはり冬が近づいているのだなと思う。目が覚めてからしばらくラテン語をやり、何とか7課を終わる。身についていないところが多いから、もう少し進んだらまた復習しないとと思う。その後インターバルに『王様の仕立て屋』を読み返しながら、『日本思想史入門』を読み進める。休み休み読んだが「正法眼蔵」「歎異抄」「平家物語」「徒然草」と読了して就寝前には「説教集」の途中まで行った。「説教集」で中世は終わりだが、「歎異抄」「平家」「徒然」など高校レベルの古文でメジャーなものは一通りの知識があるし理解のベースが出来ているからすいすい読める。いずれも非常に面白く知的興奮のようなものを感じながら読んだ。

「正法眼蔵」の解説の中に、「究極の実相は現象的諸法の中に常に現成している」とあり、このあたりは感動した。これだけ書いても何のことか分からないが、つまりわれわれの生きている現世は仮の姿であり、真実の実在はその奥、背後、天上、などにあるという思想があるわけだが、道元はそれ自体を疑い現象を超絶したかたちで実相は存在せず、現象界のなかにいかなる理論的限定も拒絶するかたちで「何か」として存在する、ということである。このあたり、自分自身の実感を見事に言葉に表してくれてあることに感動した。

さらに、現象界では水は人から見れば有用なものだが別の面から見れば洪水のような危険性をもたらすものでもある。そればかりでなく、「餓鬼」は水を猛火だと思っているかもしれないし、魚は水を宮殿や楼台だと思っているかもしれない、という。このあたりの表現にイメージの卓越性というか、観念的というよりごつごつした五感を総動員した、もっと言えば触感とか嗅覚などまで、自分自身の「今ここにある」意識、感覚まで動かしそうな力を感じる。水をはじめとする万物が人間の秩序感覚に位置づけられた存在ではなくなり、目くるめく万物そのものの実在感の饗宴となる。その中で「今ここ」にいる自分自身がひとつのものに集中し、知ることによってそれと力強い関係を結んでいる万物について知ることが出来るのだ、という。

こころはそうした存在から超越して存在しているのではなく、そうした万物との関係そのものなのだという。「心とは山河大地なり、日月星辰なり」という。「山河大地を思うこと」はあるが、「山河大地を思う心」は存在しない、とでも言えばいいか。このあたり、小林秀雄の言う「美しい花がある、花の美しさというものはない」という表現を思い出す。

言葉もまた、そのようにしてわれわれ自身が現象界に足を踏み入れ、そうした根源的な関係の仲立ちとなる力である、といえばいいか。つまり「言葉のうちに存在をのものを宿らせる」、ことが必要になる。そしてそればかりでなく、言葉として表現されえない存在の声そのものを聞き、声にならない声、言葉にならない言葉で真理そのものを語りすなわち真理そのものを生きることになる、というと大変なことだが、このあたりを「唖声きこゆべし、唖語聞くべし」と表現しているという。

人はそうして世界の中に生きつつ、世界の意味を明らかにしていく存在でもある。船に乗せられつつ、船を操ってもいる、という。世界の意味を明らかにしつつ、新たに明らかになった世界によってさらに自分自身をも新たにしていかなければならない。それを「修証一如」(修行と悟りは違うものではない)と表現している。生きるということは常に自分自身を新たにしていくことなのである。

道元にとって時間とはただ過ぎ去っていくものではなく、存在を貫くものであるとし、われわれは今という瞬間に立ちつつ、過去・現在・未来の「千峯万峯」を見渡し、それをおのれのうちに持つことが出来るのだという。それによって全ての時は我が時であるという。このあたりになるとちょっと目眩がしてくるが、全く理解できないというわけではない。しかし、歴史というようなものに関わってきたものとして、その感覚は理解可能である。千峯万峯という具象的なイメージも分かりやすい。過去も、こちらに向けた過去の顔は一望できるが、山の側面や裏側は見えないのだ。歴史研究とは鷹の目を持ったりより詳細な手がかりをつかんでその過去という山の全貌を明らかにすることだなと思う。決して現在という峯から見て満足して済ますべきものではない。


しかし、いずれにせよこうした諸存在は全て夢なのだという。このように考えた後での現象界は夢だ、という表現には最初から現象界を否定する悟り澄ました態度とは違うものがある。人間はこのように主体的に世界を意味づけすることによって今ここに全時空を収斂させることができ、この限定された生の一瞬一瞬に世界そのものというこれ以上ない美しく善く真実な絵を見、描くことが出来る。道元にとって禅とはそうした絵の見方であり描き方であるという。このあたり、『達磨はなぜ東へ行ったか』の故事と韓国映画を思い出す。仏陀もまた、「世界は美しい」といったが、仏陀の見た世界もまたこのようなものだったのかもしれない。

ああなんだか話がでかくなりすぎているが、以上「正法眼蔵」の感想。一休み。

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