今朝は雨だ。昨日の夜中から降り始めたが、目が覚めると本格的な梅雨の雨だ。昨日は夏至だったから、太陽は今日から衰え始めるということになる。易の卦で言うと天風后(女偏がつく)。すべて陽の乾為天の一番底に陰が潜り込んだ形だ。実際の季節ではこれから本格的に暑くなるわけだが、物事は極盛に向かうときにはすでに衰退の兆しが見えている、というようなことだろうか。しかし「光のあるうちに、光の中を歩め」とトルストイだったかが言うように、陰ばかりを見るのも愚かなことだと思う。
「バロックの森」でヴィヴァルディを聞く。ヴェネツィアで人気が衰えた彼が庇護者であるカール6世を頼ってウィーンに行ったがすでにカール6世は亡くなっており(ということはマリア・テレジアの治世ということだ)ヴィヴァルディは貧窮のうちになくなった、というエピソードを聞く。物悲しい。
昨日は午前中に松本に出かける。最近の体調がどんなものなのかあまりよくわからなかったのだが、そう悪くはないようだ。午後はあまり時間がなくてあまりいろいろなことが出来なかったが、時間を作りつつクッツェー『恥辱』(早川書房、2000)を読み、寝る前までに何とか読了した。
この小説は本当の意味で読むのが大変な作品だった。読みながら本気で怒りを感じたり、嫌悪感を持ったりすることは今までそんなになかったのだが、自分の中のマグマのようなものが呼び起こされて、自分という人間がどういう人間なのかという普段見ていない面にも向き合わざるを得なくなったからいろいろ疲れた。
作風としてはちょっと思わせぶりなサンボリズムというかそういう部分が結構あって、ある意味読みにくくある意味不意に笑わされる。解説ではそれを「引用の地雷」と表現していたが、なるほどなあと思う。最後にバイロンが出てきて、ちょうど『マンフレッド』を読んだばかりだったのでその余韻がこの小説の理解を助けたという感じがある。世の中に偶然というものはない、という話があるが、確かに偶発的ないろいろなことが必然的にあることの手助けになるものだと思う。ただ、グィッチョーリ伯爵夫人テレサについてはほとんどまったく知識がなかった。この小説の中で描写されている限りでしか知識はない。
『恥辱』という題名は主人公のラウリーの「セクハラの烙印」と、その娘ルーシーのアフリカ人グループによる「憎しみに満ちたレイプ」という二つをさしているわけだが、当然のことながらその二つの事件をめぐる描写は不愉快でやりきれなく、嫌悪や憎悪に満ちている。前者はポリティカル・コレクトネスの嵐吹きすさぶ「清教徒時代としての現代」を描き出し、後者は白人優位社会の崩壊と底で噴出した被支配者たちの復讐と憎悪、また白人の論理の崩壊とアフリカ人の論理の台頭を描いている、といえばいいか。ポスト・モダンがこれだけ激しい形で描かれた作品は他にないのではないかという気がする。それは主人公ラウリーのある意味きわめて魅力的な個性があって初めて成り立つものだろう。ロマン派詩人を研究する恋愛至上主義者、性的な快楽主義的自由主義者、不信仰者の初老の男。その娘がニューエイジに影響されたナチュラリストで動物愛護家でレズビアンというギャップ自体が笑えるが、ある意味不条理な設定が物語りの展開とともにさらに激しさを増していく。これはハードである。
この世界は調和した世界なのか、不調和の世界なのか。ロマン派はモダンの中では不調和を追い求めるが、ポストモダンに直面すると調和の側の存在であったことが明らかになる。逆にレイプを実行するグループは世界の不調和への復讐の実行者であるわけだが、最後に「勝利」するのはポストモダンないしは前近代の論理の体現者であるぺトラスである、ということになる。そこにはロマン派が考えるのとはまったく別の調和が生まれつつある。なんというか、私はカフカを読んでいないが、カフカの作品というのはこういう雰囲気なんだろうか。ちょっと読んでみたくなった。
このラウリーはいわばルイ15世初期の摂政時代のリベルタンで、それが処刑と虐殺のフランス革命時代に直面した、とでも言えるのかもしれない。そのような意味でのリベルタンの典型が革命と帝政時代を生き抜いたタレイランであるが、彼は「革命前に生きたことのない人間に、人生の本当の楽しみなどわからない」と言っている。また王政の復活とともにフランスに戻った貴族たちは「何事も学ばず、何事も忘れず」といわれたが、少なくともラウリーはそういうわけには行っていない。少なくとも動物に対する愛と憐憫を覚え、そしてそれに苦しみながらも生きていけない動物に苦しませずに死を与える動物愛護家と少なくとも行動面では同じ行動を取るようになるところで唐突なラストを迎える。
この小説を読みながら自分の中の封印が破れた部分がたくさんあって、それはとても不用意に書けるようなものではないのだが、そういうことで自分という人間と現代という時代についての認識と理解が深まるということなんだよなあと思う。小説を読むというのは大変なことだ。
やっぱとりあえず、カフカは読まないと駄目だな。
ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ
「バロックの森」でヴィヴァルディを聞く。ヴェネツィアで人気が衰えた彼が庇護者であるカール6世を頼ってウィーンに行ったがすでにカール6世は亡くなっており(ということはマリア・テレジアの治世ということだ)ヴィヴァルディは貧窮のうちになくなった、というエピソードを聞く。物悲しい。
昨日は午前中に松本に出かける。最近の体調がどんなものなのかあまりよくわからなかったのだが、そう悪くはないようだ。午後はあまり時間がなくてあまりいろいろなことが出来なかったが、時間を作りつつクッツェー『恥辱』(早川書房、2000)を読み、寝る前までに何とか読了した。
この小説は本当の意味で読むのが大変な作品だった。読みながら本気で怒りを感じたり、嫌悪感を持ったりすることは今までそんなになかったのだが、自分の中のマグマのようなものが呼び起こされて、自分という人間がどういう人間なのかという普段見ていない面にも向き合わざるを得なくなったからいろいろ疲れた。
作風としてはちょっと思わせぶりなサンボリズムというかそういう部分が結構あって、ある意味読みにくくある意味不意に笑わされる。解説ではそれを「引用の地雷」と表現していたが、なるほどなあと思う。最後にバイロンが出てきて、ちょうど『マンフレッド』を読んだばかりだったのでその余韻がこの小説の理解を助けたという感じがある。世の中に偶然というものはない、という話があるが、確かに偶発的ないろいろなことが必然的にあることの手助けになるものだと思う。ただ、グィッチョーリ伯爵夫人テレサについてはほとんどまったく知識がなかった。この小説の中で描写されている限りでしか知識はない。
『恥辱』という題名は主人公のラウリーの「セクハラの烙印」と、その娘ルーシーのアフリカ人グループによる「憎しみに満ちたレイプ」という二つをさしているわけだが、当然のことながらその二つの事件をめぐる描写は不愉快でやりきれなく、嫌悪や憎悪に満ちている。前者はポリティカル・コレクトネスの嵐吹きすさぶ「清教徒時代としての現代」を描き出し、後者は白人優位社会の崩壊と底で噴出した被支配者たちの復讐と憎悪、また白人の論理の崩壊とアフリカ人の論理の台頭を描いている、といえばいいか。ポスト・モダンがこれだけ激しい形で描かれた作品は他にないのではないかという気がする。それは主人公ラウリーのある意味きわめて魅力的な個性があって初めて成り立つものだろう。ロマン派詩人を研究する恋愛至上主義者、性的な快楽主義的自由主義者、不信仰者の初老の男。その娘がニューエイジに影響されたナチュラリストで動物愛護家でレズビアンというギャップ自体が笑えるが、ある意味不条理な設定が物語りの展開とともにさらに激しさを増していく。これはハードである。
この世界は調和した世界なのか、不調和の世界なのか。ロマン派はモダンの中では不調和を追い求めるが、ポストモダンに直面すると調和の側の存在であったことが明らかになる。逆にレイプを実行するグループは世界の不調和への復讐の実行者であるわけだが、最後に「勝利」するのはポストモダンないしは前近代の論理の体現者であるぺトラスである、ということになる。そこにはロマン派が考えるのとはまったく別の調和が生まれつつある。なんというか、私はカフカを読んでいないが、カフカの作品というのはこういう雰囲気なんだろうか。ちょっと読んでみたくなった。
このラウリーはいわばルイ15世初期の摂政時代のリベルタンで、それが処刑と虐殺のフランス革命時代に直面した、とでも言えるのかもしれない。そのような意味でのリベルタンの典型が革命と帝政時代を生き抜いたタレイランであるが、彼は「革命前に生きたことのない人間に、人生の本当の楽しみなどわからない」と言っている。また王政の復活とともにフランスに戻った貴族たちは「何事も学ばず、何事も忘れず」といわれたが、少なくともラウリーはそういうわけには行っていない。少なくとも動物に対する愛と憐憫を覚え、そしてそれに苦しみながらも生きていけない動物に苦しませずに死を与える動物愛護家と少なくとも行動面では同じ行動を取るようになるところで唐突なラストを迎える。
この小説を読みながら自分の中の封印が破れた部分がたくさんあって、それはとても不用意に書けるようなものではないのだが、そういうことで自分という人間と現代という時代についての認識と理解が深まるということなんだよなあと思う。小説を読むというのは大変なことだ。
やっぱとりあえず、カフカは読まないと駄目だな。
恥辱早川書房このアイテムの詳細を見る |
ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ
ところで『恥辱』は二度読みましたが、まだ地雷がたくさん残っています。
いや、確かに参りましたよ。この視座の崩壊が、自分自身のさまざまな状況における状況認識の危機のようなものとオーヴァーラップしてきてしまいます。ポストコロニアル、というのも確かにそうなんだけど、植民地時代のあとというより、近代そのものの崩壊過程の文学という感じが私にはしました。
『どうぶつの命』という題の作品があるなら、あの中の動物の生命と魂、「愛護」の問題はかなり彼の中で深い問題なのかな。最初は何かの意匠なんだろうと思ってたんですが、ラストにまで関わってくるしどうもぴんと来てないんですが。
そういえばベヴ・ショウという人は白人(イギリス人)ですよね?なんか彼女がらみのくだりの情けなさの味はこの人の真骨頂なんじゃないかという気がしました。
クッツェー、カフカ、安倍公房というふうに僕は並べちゃうんですよ。
理解者はまだあまりいないように思いますが。
結局ポストコロニアル文学とは植民地秩序の崩壊が人間の実存に及ぼす深甚な影響を扱った文学、というふうに定義できるんでしょうかね。どちらかというと脱植民地化した新興諸国の希望の文学、そのための植民地秩序の心性の批判、みたいに捉えられている気がしますが、「建設の文学」というより(それじゃ社会主義リアリズムだ・笑)「崩壊と混沌の文学」ということになりますね。
この前購入した古い『現代思想』なのだが、今福のは駄目だったが、青木とリーベのは良かった。ポストコロニアル文学のラシュディは、国民も個人もない(cfイシグロは土を作っている、箱庭みたいのを)というのが良かった。
そうなんだ。私は、反日反韓反中反フィリピン反インドネシア、もちろん変米反英の自虐派なんだと共感した。
>ポストコロニアル文学とは植民地秩序の崩壊が人間の実存に及ぼす深甚な影響を扱った文学、というふうに定義できるんでしょうかね
カミュ
>ラシュディは、国民も個人も無い
まさに「非同一性」そのものですね。
非同一性的であるところに希望はあるのか。アナキズムの理論的深化なのでしょうか。
現代思想。
お願いします。