こっぽんおりブログ

朝鮮学校と民族教育の発展をめざす会・京滋(愛称:こっぽんおり)のブログです。

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第4回連続講座の報告

2013-08-06 16:39:25 | 連続講座
7月15日、東九条のエルファで第4回連続講座を開催しました。

今回は2部構成で、1部で在日1世の朴明寿さん(1926年生)の個人史(体験談)を聞き、2部で世界人権問題研究センターの松下佳弘さんのレクチャーを聞きました。
朴さんは、4月の総会の後、こっぽんおりの主催企画で使えるようにと、団体名を記した題字を揮毫してくださいました。本講座で、それをみなさんに初お披露目することができました。

朴さんの個人史は、戦時に植民地支配された朝鮮民族にとって、生き抜くことがどれほど壮絶なものだったか、ありありと感じられる体験談でした。一世の証言を聞くことがほぼ難しい今日において、流れるような語り口で当時の様子を語っていただき、朴さんの証言を記録することもできました。朴さんの証言禄は、他にもいくつかの資料として残されています。

平安南道で生まれた朴さんのアボジは自宅に書堂を建て、朴さんご自身も千字文(書道の手本となる漢文)を習っていたとの話に、現在の達筆な腕前に納得がいきました。17歳でオモニを亡くされ学校を辞めた後に家を飛び出して、日本人の石炭鉱業所で働いた話、そこを解雇され巡査から「日本に徴用に行け」と言われた話、関釜連絡船に詰め込まれて瀬戸内・直島の三菱の精錬所で働かされた話、逃亡者は半殺しだと見せしめがあった話、それでも仲間2人と脱出をはかり丸太舟で命からがら抜け出した話、名古屋まで行き見つけた鋳物型取りの仕事が1日2円程度でとても生きていけなかったこと、空襲が激しくなり疎開先で亜炭鉱の採掘作業をした話、そうしてある日突然解放を迎えた話など、すらすらとした語り口とは裏腹に苦難の連続を乗り越えてこられた様子をうかがうことができました。

松下さんの講座は、占領期の京都市における朝鮮人児童の学校教育の状況を一次資料をもとにつぶさに研究されたものでした。資料は日本側の資料なので民族教育の主体側の視点は別ですとはじめに付言されましたが、民族教育の場を守ろうと京都府や軍政部とかけあう朝鮮人団体の粘り強い交渉の様子が伝わってくるほど具体的な研究発表でした。1948年から49年の時期の動きを中心的にまとめてくださいました。

1948年1月の文部省適格審査室長通知では、軍国主義を排する観点から日本人教員におこなった適格審査を朝鮮人学校の教職員に対しても機械的に適用していたことを教えていただきました。同年4月は、山口・岡山・兵庫・大阪・東京などで「阪神教育闘争」がたたかわれたものの朝鮮人学校が強制閉鎖されていきます。
京都では4~5月に朝鮮人団体と京都府・京都軍政部が数回にわたって協議の場をもち、5月15日・18日の覚書で、公立学校において朝鮮人のみの特別学級を編成して朝鮮人独自の教育をする合意ができていました。全国的には、週に2~4時間の選択教科・自由研究の時間枠での民族教育が認められていただけですから、京都の民族団体の交渉努力がうかがわれます。現に、京都第一朝連初等学校は、市立陶化小学校の校門をくぐったところに校名札が掲げられ、これまでどおり陶化小学校の数教室を使って民族教育がおこなわれます。ところが49年2月に京都軍政部が「占拠」規定をしはじめ、5月に京都府・軍政部・朝連と協議の場を開くも一方的に特別学級の設置は違法だと通告し、10月に強制的に封鎖されます。

また、京都朝鮮人教育会が運営する京都朝鮮中学は、1947年5月に創立され9月に各種学校として認可されます。のちに韓国学園になるまで閉鎖を免れて今日の国際学園にいたりますが、創設期には朝連系・民団系の学生が共学し、朝連系の活動家も理事に参入していたとのことです。クリスチャンも存在し、教員には京都大学に留学していた学生も混ざっていたそうです。

民族教育の場をつくり守るために、「北」・「南」問わずに朝鮮人団体が奔走していた時期、京都も結局は朝連系の学校が強制閉鎖されますが、京都府や軍政部にかけあいながら全国的な閉鎖期に民族学校を維持していたことがわかりました。

その後の歴史について、あらためて連続講座の場をもち、今日の民族教育の礎を学ぶとともに、今後発展していく民族教育の未来像をともに描いていく機会をつくっていきたいと思いました。