その日、私は自分の町の商店街をフラフラと彷徨っていた。
友達と街ブラをする約束があり、待ち合わせ場所でしばらく待っていたのだが、友達が来ない。
メールを確認すると友達から体調不良で行けないと連絡が入っていた。
移動中で着信音に気づかなかったらしい。
せっかくなので一人で商店街の探索をすることにした。
かなり大きな商店街なので中心部は再開発でオシャレな街並みになり、新しい店がはいっている。
しかし、周辺部になると、閉店してしまった店やコンビニ、古くからある店などが混在し、混沌としていた。
私は特に当てもなく表通りと交わる鄙びた路地に入ってみたり、適当に道を選んでは彷徨っていた。
ある角を曲がった時、初めて見る通りに入った。
いや、正確に言うと、初めてなんだろうけどなんだか懐かしい通りだ。
いくつもの商店が軒を並べていたが、その一軒に目は釘付けになった。
赤レンガとクリーム色の塗り壁の外観。ちょっとしゃれた出窓はどことなく昭和な雰囲気がする。
そして壁に掛かった看板には『喫茶クロフネ』の文字。
これって…、あのクロフネだよね?
近寄って眺めてみる。
確かにあのクロフネだ。
どうやら私は異次元の空間を抜けて恋色デイズの世界に紛れ込んだらしい。
間違いない。
例え本当の吉祥寺に行ったところでクロフネという喫茶店は存在しないのだから…。
ということは、あの扉の向こうに譲二さんもいるのだろうか?
私は扉の前で躊躇した。
あってみたい。でも少し怖い。
扉にはcloseのプレート…。
でも店の中には人の気配がする。
私は意を決して、扉を押した。
(先代マスターだったらどうしよう…)
カランカランと音がして扉が開く。
店の奥からはバリトンの優しい声が響いた。
「いらっしゃい」
初めて聞く声なのに懐かしい響きで、その声を聞くだけで安心する。
「すみません。開いてますか?」
私が声をかけるとその声は言った。
「はい。開いてますよ。今プレートをOpenに替えようと思っていたところなんですよ」
声に続いて背の高い男性が現れた。
少しはねた髪、綺麗に整えられた顎髭、少し薄めの茶色の瞳はとても優しい。
そして、物腰は柔らかく大柄なのに威圧感はない。
私はずっと憧れ続けてきた人を目の前にして、言葉を発することができなかった。
「お一人ですか?」
「はい」
声がうわずってしまう。
マスターはにっこり笑うと言った。
「どうぞ、どこでも好きな席にお座りください」
「あのう、カウンターでもいいですか?」
せっかくクロフネに来たのにカウンターに座らない手はないだろう。
「もちろんいいですよ」
マスターの優しい笑顔に引き込まれてしまう。
マスターはお手拭きと水を 出しながら言った。
「お客さんは…初めてですよね?」
「ええ、散策してたらこの前の通りに出て、感じのいい店だなって思ったので、入ってみたんです」
「それはありがとうございます。これを機会にまた来てください」
私は昨日入荷したばかりだというマスターお勧めのコーヒー豆を使ったコーヒーとサンドイッチをもらうことにした。
クロフネに来たら、コーヒーとサンドイッチは外せないだろう。
あ、ナポリタンを注文した方がよかったかな?
カウンターからはマスターが手際良く働いている姿がよく見えた。
コーヒーのいい香りがし、やがてサンドイッチと一緒にカウンターの上に置かれた。
「美味しい…」
私は思わず呟いた。
「ありがとうございます」
マスターはにっこり笑っていう。
「店の名前のクロフネって、あの黒船のことですよね?」
私が水を向けるとマスターは幕末の志士たちの話をいろいろなエピソードを交えて話してくれた。
2人だけの夢のような時間。
しかし、それにも終わりはある。
チャイムの音がなり、お客さんが入って来た。
「ちょっと失礼します」
マスターはオーダーを取りに新しいお客さんの方へ向かう。
私は常連らしい人たちとやり取りするマスターをぼんやり眺めた。
さて、私もそろそろ帰らないと…。
名残り惜しいが仕方がない。
伝票を持って席を立つ。
レジでマスターはにっこり笑うと言った。
「また来てください」
「ええ、機会があれば」
「また幕末の話などしましょう」
優しい笑みは心を揺さぶった。
クロフネから出て2、3歩進んだとき、街の雰囲気がガラリと変わった。
ちょっと覇気の無い、寂れた商店街…。
私は恐る恐る振り向いた。
そこにはもちろんクロフネはなかった。
私は少し苦笑いすると、家路につくため賑やかな商店街の方へと向かった。
いつか、またクロフネに遭遇する機会はあるだろうか?
皆さんも、特に用のない休日の午後には自分の街の商店街をそぞろ歩いてみてはどうだろう。
もしかしたら、クロフネの立つ商店街の一角に迷い込むかもしれない。
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