もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

るーちゃんと蝉

2022年02月07日 15時51分59秒 | タイ歌謡
 昭和の34年というと戦後14年も経っているのだから、さすがにもう戦争なんて過去のことだと忘れ去られていたのかと思うかもしれないが、そうでもない。この年におれは生まれているのだが、とうぜん当時の記憶は、さっぱりだ。「あ。今、ものごころがついたな」と思ったのが6歳のときで戦後20年だったが、ふつうに「トラ! トラ! トラ!」とか「ニイタカヤマノボレ」なんていう映画が公開されていて、そのポスターが銭湯の壁に貼ってあったし、傷痍軍人だというふれこみの男が街頭で募金箱を持って立っていて、父は「あれは傷痍軍人でも何でもないインチキだから、近寄ったり目を合わせてはいけない」という意味のことを言っていた。たしかに戦争は終わっていて空襲こそなかったが、戦争の残像みたいなのは、そこら中にあった。
 売春防止法が施行されたのが昭和32年。罰則の施行は翌年だったから昭和33年に公娼・私娼ともに姿を消し、その年に結婚した娼婦たちは多い。だから翌34年に子を産んだ元娼婦も数多いて、同級生で元娼婦の子という者は、なん人かいた。ああいう子と遊んではいけません、と親に言われたという話が同級生から伝わってくるのだった。ひどい話だが、その頃の北海道の田舎町の観念なんてそんなものだった。
 当時、うちの実家は副業でアパートを営み、田舎町の中心街から外れた場所だったこともあり、住人は模範的な市民とは言いかねた。うちの家族は一階に住んでいたが、階段を昇ってすぐの部屋には流しの演歌師が住んでいた。昼間は音を抑えてギターを弾いていた。今になって思うと、あれは練習というより、新しい曲のレパートリーのコードを憶えていたのではないか。やがて演歌師から、友人と一緒に住んでも良いだろうかと打診があり、許可したら転がり込んできたのは今で言うゲイの男だった。漫画雑誌を見せてくれたりしたので、おれはこのゲイの男が好きだったが、うちがアパートをやめてしまうのは、この二人の影響が大きいと思う。ふつうに考えたら、教育上よろしくないということになろう。思うに、世の中には様々な人がいるのだということを垣間見たのは悪いことではなかったと思うのだが、うちの両親の浅知恵では仕方のないことだった。
 その隣には4人家族が住んでいて、二人の姉妹は姉がおれより1歳下で、妹はそのまた一つ下だっただろうか。クリスマスまえに、何を思ったのか妹がツリーの電飾を囓ってランプが割れ、感電して口から出血して病院に運ばれていた。このとき初めて救急車というものを見たのだが、世間にはアタマの悪い人間というのがいて、知能の低さが命に関わるということを知ったのだった。とんでもないのは娘だけではなく、その家の父も大概で「うちの犬を潰して食うなんて!」と近所の人に怒鳴り込まれ、「紐で繋いでおかないからだ!」と逆に怒鳴り返したりして、もう、どこのアジアの話だかわからない無法地帯だった。彼は「一赤、二白、三にブチ」と言って、犬はその順番に肉が旨いのだから、それ以外の犬を飼うと良いというアドバイスまでしてくれたが、その知識が役に立ったことは、まだない。
 夜になってアパートの店子が、うちの父を訪ねて来ることは度々で、それは役場や子供の学校に提出する書類を、おれの父に書いてもらうためだった。
「おれ、字が下手だから」そう言って恐縮していた。
 父は静かに頷いて、さらさらと書き込んで、それを渡していた。あとになって知ったが、彼らは字が下手というわけではなく、字の読み書きができなかったんだそうだ。昭和40年代の話だ。あと数年で人類が月に行っちゃう頃だ。日本の、昭和の話だ。
 そりゃ、アパートなんてやめたくなっちゃうよな。
 演歌師とゲイが暮らす部屋の対角線にあった部屋には3人の家族が住んでいて、そこの一人娘は、おれと同い年だった。「るーちゃん(仮名)」と呼ばれていたその娘は近所でも評判の美少女で、母親も田舎には珍しいような美人だった。
 るーちゃんとは、よく遊んだ。年も同じだったし、性格も良かったように記憶している。何よりおれは子供の頃からの美人好きで、でもそういうことに気がついたのは最近だ。うちの母親に「あんたは面食いだから」と言われて、そんなことはないが、言われてみたら確かに一緒に暮らした女の人は、みんな美人だったな、と納得したら、「そうじゃなくて、女友達だって美人しかいなかったじゃないの」と咎めるように言われ、考えたらその通りだった。そういえば高校生の時に喫茶店のマスターにも羨ましそうに同じ事を言われたんだった。まあ、たまたまそういうこともあるよね、と言うと、「ばか言ってんじゃないの。あんた、美人じゃなきゃ話しかけないんだから」と言ってて、昔からおれのそういう所が嫌だったそうだ。いや。おれはそんな区別はしないぞと思ったが、思い返すと確かに美人じゃないと話しかけてなかった。うわー、おれサイテーじゃん。そんなの、息子が60歳過ぎてから言うなよなぁ。若いうちに、いや、幼いうちに言っておいてほしかった。
 そういえば、おれの息子も面食いで、5歳の頃に「あの子、可愛い女の子としか話をしないのよ」とうちの奥さんに教えられ、とんでもねぇガキだと笑ったんだが、父親(おれのこと)譲りだったのか。それとも、そう言うことで、うちの奥さんはおれの距離でも測っていたのかもしれない。何の距離かは、わからないが。
 でも、いちおうね。女の人のおっぱいを眺めたりはしない。これは若い頃からで、あの視線は同性のおれでも気付くんだから、見られてる本人に気付かれない訳がないわけで、これはもうぜったいに視線を外す(恋人・配偶者は除く)。おっぱいというものについては、もちろん興味津々だったんだが、道徳的な理由というより、「そんなのカッコ悪い」というやせ我慢だ。12歳の頃に「ハレンチ学園」効果で全国的にスカートめくりが流行ったのだが、そんなことをしない男子はクラスでもおれを含めて数人だったから、おかげで女の子には、よくモテた。お行儀良くしていると良いことがあるというのを学習したのだ。そんな品行のせいで、うちの奥さんは当初おれをゲイだと思っていたというんだが、「あのひと、おっぱいは見ないけど、美人としか話をしないわよね」とか思われていたんだろうか。もう今更しょうがないが、これを読んだ美人好きの方は、お気をつけください。おっぱいが嫌いな男なんていない、と断言していいんじゃないかな。それをですね。おれは見ないってのは、我慢してるからで、胸への視線で不快感を与えたくない。恋人でないなら尚更で、高校生のとき女友達と遊んでて、圭子ちゃんが屈んだときに夏物のワンピースから胸が見えそうになって思わず目を背けたんだが、ああいうのはドキドキしちゃう。視覚をシャットダウンしたせいか、やかましい蝉の声ばかりが強烈な思い出になった。蝉の声なんて、美しい要素が一つもなく、良い思い出になりようがないんだが、あの音を聞くと白い胸の残像が、今でも蘇る。圭子ちゃん、おげんきですか。
 北海道にだって蝉はいるのだ。
 蝉とおっぱいの二者択一で蝉を選んだのではない。紳士的であろうとしたら、蝉の声しか残っていなかっただけだ。長じてサングラスをかけたとき、「やった。これで、おっぱいの盗み見ができる!」と思ったが、習い性とは恐ろしいものでサングラスくらいで解放される抑制ではなかった。死ぬまでにいち度でいいから知らない女性の胸をまじまじと見る(もちろん着衣の胸だよ)ことができるだろうか。と思うものの、知らない人の胸が見えたからといって何が楽しいのか、とも思う。欲望とは、おっぱいであり、理性は蝉だ。ほんとかよ。テキトーなことを言いました。
←おっぱいの一例
 で、るーちゃんなんだが、あれは小学1年生のときだ。夏の日に一緒に遊んでいたら、不意にたたた、と駆け出して、すい、と木に登って、ぴた、と蝉を捕まえた。あまりの素早さに唖然と見ていたら、羽をむしって、ぽりぽりと食った。蝉を。蝉を食ったのだ。
 え?
 一部始終を見ていたのに、それがなんだか理解できなかった、というより処理が追いつかなかったんだろう。そのまま固まっていたら、るーちゃんは、また新しく蝉を捕まえていて、振り向いて、言った。
「たべる?」
 あ。いや。
 そう言ったかどうか。おれは首を振って否定したんだと思う。
「おいしいんだよ」そう言って、にっこり笑った。るーちゃんは可愛くて好きだったけど、このときはほんとうに可愛くて、可愛くて。おれが女の人に見とれたのは、これが最初だったような気がする。
 へえ。おいしいんだ。
 素直に、そう思えた。蝉ってのは、日本の虫の中で最も旨いという話を聞いたのは、大人になってからだ。海老そっくりの味だという。食ったことはないが。

 それから数ヶ月、るーちゃんは、いなくなった。
 話はかんたんで、夫の暴力に耐えかねたるーちゃんの母が、家を飛び出したからだ。るーちゃんは、うちの母に懐いていたので、あの娘の母は「あの子をよろしく」と言い残し、うちの母は「そんな今生の別れみたいなことを言わないで」と笑っていたら、それが今生の別れになったと言う。
 残された父娘の父は酒が入ると碌でなしだったのが、妻の出奔でシラフでも碌でなしになってしまい、やがてシラフの時がなくなるのは、あっという間だった。
 酒に逃げるということは体力の要ることで、おれにはツラいのだが、るーちゃんの親父は、きっちり己の欠落を酒で満たすという解決策に縋った。
 とうぜん、るーちゃんは放置され、季節の移ろいと共に蝉もいなくなっていた。見かねた近所の人が交代で食事を与えていたが、るーちゃんの親父が目を醒まして立ち直る兆しは、なかった。
 るーちゃんは施設に引き取られた。
 係員が、るーちゃんを連れに来たとき、いつも静かに微笑んでいたるーちゃんは聞いたこともないような大きな泣き声で叫んだという。うちの母に抱きついて、「いやだ! ここにいる! ここにいる!」と駄々をこね、母の服は、るーちゃんの涙と鼻水に濡れた。るーちゃんの父以外の、その場にいた大人たちは、みな泣いたそうだ。
 おれは学校に行っていたので、このことは知らなかった。
 ぜんぜん、知らなかった。
「あの子、いつもおなかを空かせていて」と母は涙ぐんだ。「だから、うちでよくご飯食べてたでしょ。よっぽどうちで引き取ろうかとも思ったんだけど、お父さんが、ねえ」
 ああ。まあ、そうだろうね。
「そう。お父さんは、そういうことしないでしょ」
 うん。しない人が多いと思うけど。………あ。……そうか。だから、るーちゃん、蝉を食べてたのか。あれは好きで食べていたとばかり思っていたが、違ったのかもしれない。
「え。あの子、蝉なんか食べてたの……」絶句して、母は顔を覆った。

 年頃になって、るーちゃんが結婚したという知らせを聞いて数年経ち、離婚したという話を人づてに聞いた。それっきり、その後の行方は知らない。
นักร้องบ้านนอก - พุ่มพวง ดวงจันทร์ cover by อ้อย มะละกอ & แตงโม ภัทรา
 今日の歌。「นักร้องบ้านนอก(ナックローンバンノーク – 田舎の歌手)」という歌で、動画はアマチュアの歌唱だ。これもオリジナルはプムプワン・ドゥワンチャンが歌うルクトゥンで、名曲だ。今風の暗喩がオシャレな歌詞ではなく、アタマの悪い田舎者の心情がヘンに迫力のある単語で、ごろり、と投げ出されていて、正拳突きみたいに胸を打ちにくる。だって、ツラいとか悲しいとか言い募って、その挙げ句に「いつになったら幸運が来るんだろう」だよ。努力とか、自力で運命を切り拓くみたいな説教は、しない。タイ語がわかれば、聴いて落涙してしまう曲だ。
 曲が良い。だからシロウトの歌唱でも胸を打つ。
 動画をもう一つ。これはさっきの二人組よりも遙かに巧いが、やはりアマチュアだ。タイのオーディション番組で、顔で人気が出ないようにマスクで歌わせる番組なんだが、何もこんなふざけた格好で歌わせなくても、というコスチュームだ。ところが、こんなヘンな格好でも歌が凄いと、ヘンな感動を呼ぶ。じゅうぶん巧くて感動するんだが、最後のカデンツァには、やられてしまう。
 けっきょく、番組で優勝して、マスクを取り、プロとしてデビューするんだが、取り立てて美人でもなくコネもない田舎娘ということを考えると、チェンマイで大学を卒業したのち、バンコクに出てきて普通にデビューするのは難しかっただろうから、実力だけで勝負できるこの番組は良かったんだろう。นิว นภัสสร(ニウ・ナパソーン)という歌手だ。日本語学科卒だから日本語を話せるのかもしれない。この動画では、手っ取り早く人気を獲得するためにルクトゥンを歌っているが、じつはR&B歌手だ。
นักร้องบ้านนอก - หน้ากากผึ้ง | THE MASK SINGER 4
←優勝してマスクを外した
 つうことで、今回は予告通りエントリーの文章が短いのだ。いや、普通のブログに比べたら、まだ長いけど。それでも通常のおれの半分くらいの文字数の筈だ。
 短いと、とうぜん書き終えるのが早いとはいえ、先日エントリーupしてまだ3日後じゃないか。もう少し寝かせても良いんだが、そんなことには意味がないのでupしちゃおう。
 次回はもっと短いぞ。たぶん。

 そうだ。歌詞だ。かつて訳したものに、少し手を加えた。

 カラスの群れが 彼らの巣へ向かって飛んでいく
 わたしは都会にいて 故郷の原野に思いを馳せる
 いつになったら帰れるのだろう
 私の望みは一つだけ それは都心に住んで スターになることだった
 でも 友達にそれを言うのは恥ずかしくて 独り黙って故郷を出た
 歌手でいることは私の望みなのに
 なぜ こんなに傷つくことばかりなのだろう
 場末の酒場で 酔っぱらいに背中を触られたりしながら私は歌う
 幸福になるんだ
 そう思って故郷を出てきたのに 目立たず 有名にもなれず 引き返せない
 眠りに就くまえ 私は泣いてしまう
 いつになったら幸運が訪れるのだろう
 陽が沈んで 黄昏でさえ家に帰って暗くなるというのに
 私は耐えられるだろうか
 それでも この私は田舎の歌手
 バンドに合わせて今夜も歌わなくちゃ

 むかしバンドマンのアルバイトをしたとき、ギャラの支払いは当日のステージがハネてすぐに店の隅っこで現金払い、って慣習は日本中どこでもそうで、あれは独特の風情で好きだったな。タイのバンドマンも同じようなもんだと思う。暗くなったステージでマネージャーとか店のオヤジが現金を配ってくれるのね。トラ(レギュラーメンバーの代役)だとギャラが少し高いのも、よくわからない話で、でもトラは好きだったな。知らない人と話すのは苦手だったけど、知らないバンドでベース弾くのは楽しかった。あの切羽詰まった感じ。すんげぇ昂揚するんだよね。
 カラオケが普及するまえの昔話だ。
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