9月11日に書いた記事(項羽と劉邦)を読んだのと同じ日に、日本語と中国語の文体・特徴について書かれた興味深い記事を読みました。
どこかの新聞社のサイトで読んだ記事だと思うのですが分らなくなってしまいました。
記事のタイトルは【村上春樹は中国でなぜ読まれるのか】、筆者は、青島海洋大学外国語学院教授の林少華さんです。面白い部分だけを抜粋してご紹介します。
《 》がその部分です。
《 村上春樹の『ノルウェイの森』が出版されたばかりのころ、私は日本にいた。当時の私は、中国と日本の古詩の比較をテーマとしていたから、翻訳には興味がなかった。帰国してから、私の文章の調子が『ノルウェイの森』の翻訳にきわめて適している、と漓江出版社に推薦してくれる人があり、私はそこで初めて真剣に、村上春樹の原著を読んだ。》
《 これから始まって一冊、また一冊と、翻訳を一度始めたら収拾がつかなくなった。すでに中国で出版されたのは六作品である。『ノルウェイの森』(中国語の題名は『ナイ威的森林』)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(『世界尽頭與冷酷仙境』)、『ダンス・ダンス・ダンス』(『舞!舞!舞!』)、『羊をめぐる冒険』(『尋羊冒険記』)、『ねじまき鳥クロニクル』(『奇鳥行状録』)及び短編集の『象工場のハッピーエンド』(『象的失踪』)である。ほとんどの作品が読者に歓迎され、好評を博した。
中でも、『ノルウェイの森』はこれまでにもっとも売れた日本の文学作品で、累計ですでに40万冊以上印刷された。この数字は、これまで中国で発行されたいかなる日本の小説をも遥かにしのいでいるばかりでなく、どの外国の現代小説よりも売れ、奇跡的な販売記録を樹立したのだ。日本や外国の現代小説が、十年もの間売れ続け、依然その勢いが衰えないということは、これまでおそらくなかったことだろう。・・・中略・・・》
《 中国の読者はなぜ村上春樹ばかりを寵愛するのだろうか。・・・中略・・・簡単にその原因を紹介したい。・・・中略・・・これを二点に分けて論じてみよう。 風が水面を渡るような文章 まず、村上作品独特の言葉遣いや筆の運び、それに文体が、中国人の読みたいという気持ちを引き起こしたことだ。》
《 中国は昔から「詩文大国」を任じ、とくに文章の彩りや技巧を重視してきた。「二句をつくるのに三年かかり、ひとたび吟ずれば両眼から涙があふれる」といった唐の賈島のような文人墨客は、どの時代も枚挙にいとまがない。おそらくこうした文化的遺伝子のせいで今日までずっと、中国人は文章や作品の水準や風格に対して、ことのほか敏感であり、重箱の隅をつつくようなことをしてきたのだ。
もっとも称賛される文章は簡潔、明瞭な筆致である。(これは中国語の最大の優れた特徴でもある)。これに比して「粘着語」に属する日本語には、こうした優れた点はない。だから、中国語に翻訳された日本の文学作品を中国人が読み始めるときまって、どろどろとした、すっきりしない感じを受けるのだ。(もちろん、翻訳の拙さが原因である場合も排除できないが)。
たとえ川端康成のような大文学者の作品でも、文章の風格から言えば、普通の中国人が読み続けていくのは大変苦しい。これはたいてい、川端文学をはじめすべての日本文学が、中国ではかなり少数の人にしか興味を持たれない原因の一つとなっている。
多くの読者からの手紙では、作者の名前を見なくとも、ほんの数行読めば、それが日本文学だとわかってしまう、と書いてきている。日本文学の、あのねばねば、べたべたした感じは、読者には実に耐えられないのだ。》
《 村上春樹の賢いところは、彼が最初から、伝統的な日本語の持つこうした先天的な弱点を意識していて、洗練された、簡潔な言葉の使い方に格別の注意を払っている点だ。
・・・中略・・・彼の書き方は明らかに他の日本の作家とは異なっている。このため中国の読者の眼には、彼の小説は日本の小説ではないように見える。》
『日本文学の、あのねばねば、べたべたした感じ』というのは、私も感じることがあります。ただし、川端康成の小説を読むと、「あのねばねば、べとべと」が、心地よいねばねば・べたべたに見事に料理されているのを感じます。
これは私の推測ですが、「川端文学」にでも「ねばねば、べたべた」を感じるのであれば、中国人は谷崎潤一郎の小説など1ページも読めないのではないかと思います。ちなみに、私は谷崎の作品も文体も大好きです。
記事はこの後、中国人からみた村上文学の魅力について更に深く掘り下げていきます。「中国論」、「日本論」としても読めるなかなか興味深い内容のものです。別の機会に是非ご紹介したいと思います。