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株式投資の記録を中心に、日々感じた事や考えたこと、読んだ本のことなどなど

韓国・盧武鉉大統領の評判

2006年03月14日 21時55分36秒 | トピックス
【株式投資の記録:3月14日】
 取引しませんでした。
 


 今週もがんばってネタの在庫一掃大蔵ざらえを行います。(笑)

 きょうは韓国ネタです。
 朝鮮半島産のネタは、上は盧武鉉大統領や金正日から、下は名も無き庶民に至るまで、ユニークで漫画チックな面白いものが多く、そういうニュースを目にするたびに、今度暇なときにブログに書こうと思って、とりあえずはメモを下書きで保存するのですが、いざブログに書いてみると「侮蔑的な内容」になっていることが多く、読み返すとやや自己嫌悪に襲われて、結局削除してしまうというのがいつものパターンです。

 私自身は「嫌韓サイト」の仲間入りをする気は全くありません。そのことをあらかじめ申し上げておきます。
 
【韓国・盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の評判】

 きのう、TVドラマの「水戸黄門2時間スペシャル」を見ていたら、ライブドア株の上場廃止が決まったという速報のテロップが流れました。きょう14日から整理ポストに移され、1カ月後の4月14日に上場が廃止されるということです。 

『韓国の盧武鉉大統領が一日、「三・一独立運動」記念式典の演説で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を重ねて批判し、憲法改正論議にも注文をつけたことに、政府内からは内政干渉だ、との反発が広がった。』という趣旨の新聞記事が今月初めの各紙に載っていました。

 この演説は日本国内では、かなり評判が悪かったように思います。産経新聞などは、3月5日の「主張」(社説)【韓国の反日 肩の力を抜いてはどうか】の中で、『日本批判は仕方ないとしても、その内容はかなり度を越したものだ。』と書いています。

私と私の周囲では、「盧武鉉株」は去年ストップ安の大暴落を何度も繰り返し、既に「監視ポスト」(人によっては整理ポスト)に割り当てられている銘柄です。
 韓国内でも大統領支持率が20%前後ということですから、これが日本のような議院内閣制の国だったら、とっくの昔に政権が倒れていてもおかしくないレベルと言っても良いと思います。

 「盧武鉉株」暴落のきっかけは、一昨年の暮れに指宿で日韓シャトル首脳会談を行った際に、盧武鉉大統領は「歴史問題については取り上げない」とか言っておきながら、その数ヶ月後には歴史問題も含めた猛烈な反日キャンペーンを繰り広げたことです。
 誰が見ても、「あいつは嘘つきだ」と言うことになります。

 盧武鉉大統領の言動で特に評判の悪かったものを幾つか挙げます。

ドイツに行ってまで日本の悪口を言ってましたが、私の友人などは「あれは"火病"だろう」とまで言っていました。

戦後の賠償・補償問題でも、日韓の先人たちが積み上げてきた約束事を、おいしいところは黙って受け取り、そうでないところは駄々をこねて受け取りを拒否するような言動がありました。財産は相続するが負債は相続しないという態度は、人間として未熟といわざるを得ません。

盧武鉉大統領は「北東アジアのバランサー(均衡者)」になると言っていましたが、これも極めて評判が悪くて、その時々の事情で右に行ったり左に行ったりするような奴は信用できない。昔からある言葉で言えば「変節漢」ということだ、と私も思っています。自らを変節漢と名乗る政治家というのは珍しい。

陳舜臣さんの小説「江は流れず 小説日清戦争(上)」(中公文庫)の72ページにこんな記述があります。
 『その置かれた立場から、当時の朝鮮の要路の人たちは、とかく遠まわしな表現をよく用いたようである。たとえば、馬健忠の日誌のなかに、
 
 ――金允植館に来たりて筆談す。為人(人となり)頗る迂鈍(うどん)なり。一事を談ずるたびに、すなわち了(おわ)らず。・・・・・・

 といった文章がみえます。
 金允植は朝鮮の第一線の外交官であり、学者でもあった。作者がげんに恩恵をうけている「陰晴史」をはじめ著作もすくなくない。けっして鈍な人物ではなかった。
 鈍ではなかったが「迂」ではあったろう。直裁的な発言をひかえ、できるだけ遠まわしな表現をえらぼうとしたのである。』

 辞書で調べると、うどん【迂鈍】とは 「愚かで役に立たないさま。世事にうとくてのろいさま」とありました。

 陳舜臣さんの表現をマネして書くと、『盧武鉉大統領は、迂ではなかったが「鈍」ではあったろう』となると思います。欧米や中国の政治家ならば、後世の人が読むのを意識しながら「日記」に書くようなことを公の場でしゃべっている。
 それを私のような向こう三軒両隣に住む唯の人が聞けば、「バッカじゃないの」と思ってしまいます。

『私はつねづね、朝鮮人は世界でもっとも政治論理のするどい民族だと思っている。政治論理というのは奇妙なもので、鋭ければ鋭いほど物事を生まなくなり、要するに不毛になってゆく』

『朝鮮人ほど老いた歴史をもった民族はそうざらになく、政治というものはどういうものであるかを民族の智恵としてそなわりすぎるほど備えているはずなのに、その聡明さを、政治的論理という、この鋭利で、そして鋭利なほど一種の快感をよび、また快感をよべばよぶほど物事が不毛になるという危険な抽象能力が、覆ってしまっているのかもしれない。』

 これは司馬遼太郎さんが「街道をゆく2 韓のくに紀行」(朝日文庫)の15ページと16ページに書いている文章です。
 ひょっとすると盧武鉉さんは、この覆われた状態にあるのかもしれませんね。
コメント
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