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ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

長い長い長い一日

2010年02月03日 00時07分17秒 | NPO
雪の朝でした。
雪を踏み踏み歩いての登園、楽しかった。

事務所によらず直行で、助成元へ不備書類の持ち込み。
「いいよ、やっとくから」と、なんだかやさしく受け取ってくれました。

事務所へ。スタッフにとうとう新インフルエンザが。
私は子どもたち二人かかってもうつらなかったから、
大丈夫なんだろうな~。


午後は重た目の会議。でも準備をつめてつめてつめて、
丁寧に下敷きをしたから、すっと、いいところに落ちた感じがしました。
あまり、もめることがなかった。
未来が開けていくような気持ちになれる落ち方に、ほっと一息。


夜はNPO会計基準協議会の臨時開催。
疑義がふくらむような議論がMLの中でなされていて、
ついていけない、なんだこりゃ、と思っていた。
今日の協議会の議論は、右往左往しつつ、
行きつ戻りつにジリジリする気持ちでいたけれど、
それでも、未来志向で、まとまって良かったと思います。
これというより所は必要。だから、この基準は必要。

中身のほどを言えば、たぶん、この基準でいけば、
私たちの団体は楽になる。

でも、一方で、NPOの本来の本質的な特異性には
踏みこむこと無い、会計基準に落ち着きそう。

信頼できるNPOであることを、ある意味では示す「認定NPO」の
認定要件をクリアさせていけるかどうかに照らして、
あるいは、認定申請事務に照らして、
この基準では踏みこまなかった。

認定をとれ!とれ!、と進めるNPOサポートセンターが推奨する会計基準が
認定をとりやすくするような、会計基準作りに向かわないことにじりじりする。
でも、自身を持ってよりどころにできる基準はあった方が絶対にいい。
NPOのような法人の一番のはかりどころは、決算書と事業報告くらいのものだもの。

しっかりしたものを作って、質を底上げしていこうよみんな~、それでがんばろうでいじゃん。
と、途中で言いたくなった。だって収支の額も合わない団体に慮る必要がどこにあるの。



雪を踏んで歩いた朝は今日のことだったっけ。
密度の濃い、
長い長い長い一日でした。

地域における「新しい公共」ってなんだ?

2010年01月27日 14時23分39秒 | NPO
<病児保育>運営に工夫 NPOと医院連携/医師会が事業主体にhttp://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20100126ddm013100109000c.html

NPO法人フローレンスさんのサービス、とってもいいと思います。
近隣で資格があって、ちょっとした時間もあって、という人たちが
子どもが病気になって困ってしまっている人の病気の子どもを預かるサービス。
ファミリーサポートの病児版。

だけど、いざ利用しようとしてみて気がつきます。
すごく利用料が高い。少なくとも、私は利用したいと思った時にはあきらめます。
ベビーシッターを雇うのと、あまりかわりない。


一方のファミリーサポートの仕組みは、
同じように子どもをあずかれるよ、あずかりたいよ、あずかってもいいよ、
という地域の方が研修を受けて、1時間800円であずかるシステム。
コーディネートは行政(委託含む)がするので、
そこが担保されているので、利用者にとって価格帯は安いけれど、
病児はあずかってくれません。


そういう意味では医師会がその行政が行っていること、
サービスを提供する地域の方々を育てたり、
コーディネートする仕事への費用を負担しつつ、
フローレンスのノウハウを生かして
提供するサービスの価格をおさえて、
利用者負担を減らすのは
協働の在り方としては、「正解!」ではないかと思う。


ただ、提供者と利用者の出会いと結びつきが地域の中で生まれていくことが
おそらくは出口としてあるべきだろうな。
利用した人が退職したり、なんらかの理由で時間ができた時に、
私が今度は提供者になろう、と思えるような出会いであることがベスト。

お金を介在にサービスを売買するにとどまらない、というところに
NPOがNPOとしてやる所以があるのだろうと思う。


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システム、ってなんだろうな、と思う。
私が小さい時、保育園児の頃に、両親とも外出するときには、
おとなりのおばさんや近所のおばさんに伝えて、
弟と二人で気ままによそのお家を出入りしたりもしながら、
過ごしていました。

それが、システムとか、サービスとかでしか、できなくなったのが「今」なんだな。
昨日さわりだけ読んだ土居さんの『「甘え」と日本人』的に考えると、
「ちょっと出かけてくる間、見ていてもらえない?(別の時には、私も何かお手伝いするからね~)」、
という「甘え」が成立しなくなった社会。

野本三吉さんの言葉を借りると、人のつながりが最後のセーフティネット。
それに穴があいてしまった状態が今。

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人のつながりは、日本人特有の「甘え」により成り立っていたけれど、
近代以降、内田樹さん曰く「辺境的日本」の特質ゆえに、
その「甘え」が、そもそもない西欧的な個人主義を取り入れなくては、
とあせって、せっせと取り入れていったから、
それまで社会の中でおのずと補われていた「部分」が
ごっそりと、なくなる状態ができてしまって、
それがあらわになるにつれて、
「公によるセーフティネットが弱すぎる」
と言われてしまうようになっている。

今、政権が代わり、市民に異なる形をもって「公共」の部分の
担い方を整理しよう、という提案がなされています。

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そういう歴史を日本がたどってきた中の
30数年分を生きてきた私は、
今後をどういう展開にもっていくのがいいのかな、と模索する。
ひとまずは、子どもを育てると視点に立った時に。

その地域に生きているから、その地域にいる、
おとなりやお向かいやご近所をあてにする「甘え」は排除されてしまった社会の中では、
目的を同じくする地域の人とつながる仕掛けを次々と作っていくしかないのだろうな。

ただそこに住んでいるから、ではなく、
子どもを育てる苦労を知っているから、とか、
今時間があって何かしたいと思っているから、とか、
そういうキモチを潜在的に持っている人たちが表に出てこられるステージを用意して、活躍してもらう、
そんな風に、地域の編み目を編み変えながら、
新しい模様のセーフティネットを、作ることなのだろう、と思う。

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あぁ、またやばい風向きに思考を展開させている。
気付いてしまう、というのは、悪だ。

気付いたら、やるっしょ。
やらなきゃ、女(男)がすたる。
あ、またやっちゃった、気付いてしまった「しまった~」 )>。<(
と思いつつ、がんばっちゃうのがNPOでがんばっちゃってる人のマインド。

自身については、今、それで走りすぎたゆえに
無理がたたってしまったために、やっちゃいけないと禁じている。
(周囲にも禁じられ、それで強制的にとらねばならぬ中休みの日なのに・・・)

結局のところ、むむちゃんの小学校入学にともない
地域でのフィールドが保育園から小学校に広がっていく。
そこで、私は何ができるのか、リアルな問に、解を探している。というところ。

あ、だから、「甘える」ことを、私にも、周囲にも、とりもどしつつ、という文脈を添えればいいのか。

考えるだけなら自由。
動くのは「待った」をかけつつ。

ワーキングプアの「静かなる逆襲」? 逆襲ってなんだ?

2010年01月22日 23時28分41秒 | NPO
地盤沈下の労働市場で始まった ワーキングプアの「静かなる逆襲」(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/diamond/business/2010012204-diamond.html

「ワーキングプア」
…非営利団体スタッフの中にさえ、自分自身を自虐的にこう呼ぶ人々が増えている。
の一文に苦笑い。


でも、逆襲、なのだろうか。
逆襲の逆って何?記事を読んでもわかりませんでした。
むしろ、「正襲」
人が働いて、生活を安心して営む。

働くことも、安心して生活することも、憲法が定めた、
私たちに与えられる「あたりまえ」

そのあたりまえの獲得のために、あたりまえではないのはおかしくない?
と、声をあげはじめただけのこと。

ちなみに非営利法人の人たちは、誇りをもってワーキングプアである現状を
受け入れ、かつ、その改善を実現することこそ、社会を良くすることと
イコール関係にあると、自負しています。


自虐的であるけれども、負けてるわけではありませんから。ちっとも。


忘れない 1月17日

2010年01月17日 19時07分38秒 | NPO
1994年、12月末に1週間、兵庫県加古川市の断食道場で断食をした。
はじめて兵庫県を訪れた。

加古川の駅で降り立つと何もなかった。
山の中腹にある木々に囲まれた道場から、夜には海に向かってポツリポツリと家の灯りが見えた。

断食を明けて、新幹線に乗るために俗世間は、
なんだか、身になじまず、新幹線の中で食べるためのものを探すけれど
選ぶことができなかった。


1995年、1月15日に成人式があった。
振袖を着て、成人式で「成人の辞」を読んだ。

1月16日の夕方に、東京に戻った。
故郷の駅を電車が出て振り向くと、煌々と月が輝いていた。
東京の部屋に戻るとエアコンが壊れていた。
たくさん着こんで寝て、その晩をしのいだ。

1月17日の朝、エアコンは壊れたままだった。
震えながら、TVをつけると。

流れていた映像は、担架が毛布でくるんだおばあちゃんを運んでいた。
腰の曲がったおじいちゃんが、言葉にならない言葉で涙でぐちゃぐちゃになりながら、
はこばれていくおばあちゃんにすがって泣いていた。


ボランティアを募集する団体に片っ端から電話をかけた。
期末テストが終わるまでに準備を整えて、
すでに顔合わせして打ち合わせしたグループで神戸に向かった。


途中で電車を降りて、3時間くらい歩いて
割り当てられていた長田の避難所になっている三ツ星ベルトの体育館で生活することになった。


その避難所は自治がとれていて、
親分になるおっちゃんと幹部になるおっちゃんたちがいて、
みな役割に応じて動いていて、私たちにできることなど
とってもちっぽけだった。


配給のお弁当を配るお手伝い。
一日に二回トイレ用のお水を川からタンクに運ぶお手伝い。

子どもたちとあそぶこと。

そして、お話をきくこと。

どんなふうに揺れたか、
箪笥が支えになって生き延びたこと
次々火柱が立ったこと
隙間から、人を集めてひっぱりだしたこと
となりの家は一階がつぶれて、二階だけになっていたこと
全財産をなくしたこと
お店がぺちゃんこにつぶれてしまったこと


親分のおっちゃんは
17日、その日に子どもを亡くしていた。
最後の日に教えてくれた。


東京の快適な住まいがある若い人たちが、
こんな不便でひどい場所の避難所に来てくれるなんて
ありがたい、
と、何人ものおばちゃん、おじちゃんたちに手を合わせられた。
返す言葉なく、頭を垂れるだけだった。


私たちが避難所にいる間に
光が戻った。電気が通るようになり、お弁当を温められるようになった。
体育館に電気が灯ったとき、一斉に拍手が起きた。

お風呂ができた。自衛隊が設えた。
手足が伸ばせるお風呂なんてありがたいと
口々に言うおばちゃんたちと一緒に入った。


避難所を後にして東京に戻る日、
新幹線に乗るとき、新幹線の中で食べるお弁当を選ぶことができなかった。

エアコンは直してもらっていた。
快適な生活が後ろめたくて、数日間、暖房を入れずに過ごした。
後ろめたさは、ずっと後を引いている。


あれから15年、幾度かの大きな災害の経験を積み重ねて
災害ボランティアに入るボランティアの心得集ができた。

災害ボランティアから帰宅するときには、ショッピングセンターなどによって
日常にスイッチを切り替えるよう指南されている。
http://www.bousai-vol.go.jp/kihan/index.html


震災から3年後、NPO法ができた。
いつの間にかその時から続くレールの上を走って生きている。


忘れないよ、神戸。 1月17日。

阪神大震災犠牲者悼む「希望の灯り」分灯はじまる

2010年01月11日 20時14分22秒 | NPO
阪神大震災犠牲者悼む「希望の灯り」分灯始まる(読売新聞) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20100110-567-OYT1T00841.html

阪神淡路大震災から15年が経つのか。
成人式で実家に帰省し、東京に戻った翌朝のTVで見た惨状。
忘れることはできない。

昨日のニュース、
全焼 3遺体、父と2児か 「お父さんが中に」子戻った(朝日新聞) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2010011000600.html
青森市で火事で燃える家の中に子どもたちが
中に残るお父さんを探しに駆け入って焼死した。
駆け入った子どもたちのことを思うと、
そして、何より残されたお母さんの気持ちを思うとやるせない。


阪神淡路大震災で近しい人を亡くし、
自らの財産も無くし、思い出のつまった数々を無くし、
それでも、生き残った方たちの人生は15年間続いている。
亡くなられた方たちに、合掌。
15年間、あの苦しい出来事を経てなお生き延びてこられた方々に
静かにエールを送りたい。
どうか安心して休む場を得ていますように、と、祈りながら。