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ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

4歳のぷうちゃん、7歳のむむちゃん

2011年11月02日 13時19分18秒 | 日記

ぷうちゃんが4歳になって、2カ月が過ぎようとしている。

ぷうちゃんの4歳の進化は目覚ましい。
頭を悩ませていた、ぷうちゃん、むむちゃんの喧嘩がなくなった。
ぷうちゃんの手に負えない乱暴が、ぴたっと止んだから。
ぐっとこらえるようになり、時折はこらえて悔し涙を流すようになった。
洗濯物を干していると寄って来て、干すのを手伝う。
畳んでいると、ぷうちゃんがやる、とたたみはじめる。
掃除機をかけようとすると、ぷうちゃんがかける、と自ら。
お料理をしていると、のぞき込んで、「そうやるのか」とぶつぶつつぶやく。
ママ今日は疲れちゃったよ、と言うと、
先回りして私のパジャマを用意しようとしたり、お布団を用意しようとしたりする。
夜、自転車で走っていて道をよけて下さる親子がいたら
「ママ、いまのお母さんとおねえさん、エライね」とつぶやく。

なんでもやってみようとする気持ちと、
他者をいたわりながら一緒にいようとする気持ちと、
相手との間合いをはかることが、急速にこの二カ月のうちにできるようになってい
る。

むむちゃんが3歳の時、ぷうちゃんを身ごもったのを境に、
お茶碗洗いをひとりでしてしまうようになったり、
お洗濯をせっせと手伝うようになったりしたのは、
とっても衝撃的な変化で、鮮明な記憶として残っているのだけれど、
3-4歳というのは、ひゅ~っと、飛躍する年齢なんだ。

そして、むむちゃんは、このところ
ひとりでお風呂に入れるようになった。
さっさと入る。
ぷうちゃんは、むむちゃんにつられるように、
ひとりで自分のからだもあたまも洗えるようになった。

気が向いた時間に、むむちゃんとぷうちゃんと、
ふたりでさっさとお風呂に入る。
出遅れる私。

こんな日が、本当にくるなんて。
3人で入るのは狭いな、と思い始めた矢先。
子どもたちの成長は、しっかりと状況を先回りしていく。

ぷうちゃん、すごいな。
目をやると、私のお腹より下に頭のてっぺんがある。
まだ、こんなに小さいんだ、ぷうちゃん。

むむちゃん、すごいな。
ぎゅっとすると、私の胸のあたりに顔があたる。
むむちゃん、こんなに大きくなったんだ。

仲良くはしゃぎまわる、子どもたち。
たしかに、育っている。
時間にさからうことなく、育っていく。
それを、見届けらる場に居られて、ただただうれしい。

夜な夜なバザーのお菓子を焼く

2011年11月02日 04時23分57秒 | 日記



保育園のバザーが週末にせまる。
毎年のことだけれど、バザーに出展する手作り菓子を用意する時期。

今日はひと山越えて、ひといきついた区切りに、
ジョナサンでお夕飯を食べた。

その余力をもって、ぷうちゃんむむちゃんをしたがえて、
バザーのお菓子を焼く夜となる。

帰って来てすぐにパウンドケーキを焼く。
焼きあがりまでのあいだにお風呂に入る。

お風呂からあがったら、今度は
先日ちほこお菓子教室で習ったカップシフォンケーキを焼く。

部屋中、お菓子の焼ける香ばしい甘い匂いに満ちる夜。

けして、得意な作業ではない。
出来上がりの良し悪しには、今日もやっぱり自信なし。

だけど、こんな夜も悪くない。
「おいしそ~」と盛り上げてくれる子どもたち。
そして、焼きあがりの端切れを「おいし~!なにこれ~!」と
もろ手をあげてよろこんでくれるおかげで。

子どもたちの寝静まった深夜にお菓子作りに励んでいたのは
それほど前のことではないのだけれど。

むむちゃんのお誕生日は、今日のパウンドケーキがいい、とリクエスト。
オッケー。これなら楽勝。

むむちゃんが、泡だてる手をのぞきこみながらつぶやく。
むむがおとなになったらこんな風につくれるようになりたいな、
子どもにつくってあげたい。

ちょっぴり、胸が熱くなる。

自己実現とキャリアデザイン

2011年11月02日 01時16分40秒 | 日記
先生に声をかけていただいて、
前期に引き続き、今期も学生さんにお話する機会をいただいた。

自己実現とキャリアデザイン。

キャリアをデザイニングしたことのない私が、
学生さんに何を伝えられるのか。
何しろ、今もって私はどこに向かっているのか
どこに着地していくのかわからないままに、
今を生きている。
日々、不安に感じ、日々、漂ってしまう感じに翻弄され。
だけれど、きっと選択肢が与えられたなら、つかみ取ろうとするところは、
決まっているのだろう、などとも思ったりしながら。


前回も、今回も、この授業のことが頭を離れずに数カ月間を過ごす。
あれこれ考え巡らせながら、あちこち見渡しながら、
たどりつくのは、私が歩んできた軌跡をさらけ出してみる、ということだけ。

前回の経験を生かせる今回は、
その分、ハードルも高くなった感じを覚える。

そうして、この授業をめがけて、数ヶ月間、自らに問うたおかげで、
私は、なぜいまこんな風に生きているのか、
見つけることができた。

学生さんに向けてお話するための作業だったのに、
自らを発見していくプロセスにいつの間にか代わっていた。

話は相変わらず上手にはならない。
笑いのポイントなど盛り込めたらどんなにかいいのに、と思いながら、
せめて上滑りにならないように言葉をつむぐ。

いつもいつも関心させられたり、驚くのは、
つまらない話でごめんね、と思ってしまうような、
聴き方をしている学生さんたちが、感想文では
見事な洞察を書き記してくること。

そして、今回は前回と比較にならないくらい
伝えたいことが届いていた。
ホッとしたと同時に、うれしさが湧きあがる。

授業終了後の、先生からの感想。
前回に比べて、深化しましたね。
苦しんだでしょう。

あぁ、本当にありがとうございます。先生。
その一言で、何もかもが報われました。

バイブルと出会ってしめくくる10月 鈴木啓嗣「子どものための小さな援助論』日本評論社2011.6.25

2011年11月01日 05時46分09秒 | 日記


一日終わった~、お疲れさま、の、気分で地下鉄に座り開いた一冊。

ぐいっと引きこまれて、身動きがとれなくなる。


思春期外来を担当していて、自らクリニックを開院された
精神科医の鈴木啓嗣さん。

専門家の立場から、自らの足元を問う
援助ってなんなのか。
とりわけ専門家がする援助とは。

鈴木さんは書く。
援助(の関係)は日常の中にある。
専門家の援助は日常の外にあり、専門性といわれるもののストライクゾーンは
そもそもとても狭いところでしかなく、
かつ専門性を追求する専門家集団はより狭いところのスキルを
開発し高めようとする。
総体としての「ひとり」は日常の多岐にわたる関係性の中にあり、
そこのごく一部にしかない専門家の援助は、
日常への関わりに小さな力しかもてぬこと、
診療室での援助が時に治療者と患者の二者関係の力関係に誘導されて成り立つことを
忘れがちであり、そこを忘れることが日常に戻っていく際には大きな負になること。

そのようなことを、もう少し、難しい言葉で表現している。

専門家が専門性を否定し、日常の日々の暮らしに目を向けよ、
と、きっぱりと伝える。

自身の立ち所を常に疑い続けることは、
自らの安心、安住を妨げる。
それでも、なお、そう書かざるを得ない、
自らに問わざるを得ない、ごまかしのない厳しさを
ズンと感じた。

あぁ、私はこの本をバイブルとして、きっとずっと、繰り返し読み続けるだろう。
初めの10頁まで読んで、確信した。
ずいぶんとたくさんの本を読んできたけれど、
これほどまで重たく手放せなくなると感じる本とは
人生の中でまだ3冊も出会っていない。

私の言葉では、上手に伝えきれない。
子どもに関わる人、
支援とか援助職と言われる職についている人、活動に携わる人、
ややもすると陥る危険性のあるところを、
しっかりとブレーキをかけてくれる本です。

そして、子どもへの、というよりも、人への寄り添い、の姿勢を
ガツンと示してくれる本です。

同じような警告を発するメッセージは、
他でも触れる機会は多々あったけれど、
それらとは、何かが違う。

どういったらいいのか、自らへの厳しさに身を痛めながら、
それでも、その痛みの中に身を置くことを、
選び直していいるからなのだろうか。

援助に携わることに対する戒めを
ここまでえぐるように記した本とは、いまだ出会っていません。

文章が少し難しいかもしれない。
だけれど、願わくは
子どもに関わる場に居る人、
支援援助にたずさわる場に居る人には読んでほしい。

できれば、一度は読んでほしい。
できれば、この本だけは読んでほしい。
はじめの70頁まででいい、読んでほしい。
そう願いたくなる、一冊です。

**********
これほどまでに、重く手のひらに残るのは、
かねてからずっと、抱え続けてきた
私自身の命題に答をくれたからだと、気づいている。

日々の暮らしの中で、
生きる苦しさを抱えている子どもたち、人たちと出会い、
支え合う関係に身を置きたい、と願っている。
特別な場、ではなく。
特別な立場、でもなく。
特別な役割や、特別な機能として、でもなく。
ただ、そばに居た人として。
たまたま、そこに居合わせた人として。

苦しさの種類は、カテゴライズできない。
レッテルも貼れない。

病気なのか、障害なのか、経済的になのか、
不登校なのか、いじめなのか、うつ状態なのか、とか、
そんなカテゴライズではなくて、
その子の、その人の、
今日のしんどさ、今日の悲しさ、今日のいたたまれなさ、今日の居心地の悪さ。
気づけるアンテナを持ちたい、
気づいた時にかける言葉、
気づいた時にふとそばに居るたたずまいのようなものを、
持ち得たい、と、願っている。

それは、日々の暮らし方、日々のふるまい、日常の中の身の処し方、
つまるところ、生き方そのものの姿勢として、私はどうありたいか、ということ。


最近私は混乱していた。
専門的な機関へ実習に行ったことも大きな揺さぶりだった。

「そのように在る」ことと、「そのように働く」こととが、
混在してしまったことが、混乱の要因だったと、
読みながら気づいた。

暮らし方、なのであって、働き方、ではない。
たまたま、そのような姿勢が仕事に活かされることはあっても、
仕事のために、そのような姿勢を目指すということでは、
けしてないんだ。
そして、それで、いいんだ。

どんな仕事をしていようと、仕事をしていまいと、
生き方そのものの姿勢として、
追及し続けるものなんだ、そもそも。

そう気づいたら、なんだか、もやもやしていた雲がはれた。
呪縛をとかれた気持ちになった。

*********

ミラクル続きの10月でした。
ほんとうにいろんな人と、思いがけない場所で、場面で出会った一カ月でした。
そして、よくこのスケジュールをやりくりし得た、生ききれたという一カ月でした。
詰まった日々の中でいつ読む時間があったか定かではないけれど、
良い本とたくさん出会い、
コスモスを愛で、愛すべき花水木が紅葉も美しいことを知り得た10月でした。

生きのびた10月のしめくくりは、呪縛からとかれ、
自らの根幹を支えるバイブルとの、ミラクルな出会い。

きっと、たぶん、忘れることのない10月になりました。

お誕生日、ありがとうございました。

2011年10月31日 09時01分33秒 | 日記
昨日は誕生日でした。

前祝いにはじまり、当日も、プレゼントに、メッセージに、ありがとうございました。


「おめでとう」が、
生き続けてきたこと、
生き続けることへの
エールに聞こえる今年です。

これから一年、
しっかり生きよう。

大好きな子どもたち、
大好きな人たち、
一緒に、たしかに、一年を刻んでゆけますように。