唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

新潟水俣病に関する西村肇の「昭和電工論文」解析

2021-09-29 | 日記

10月4日付で刊行される私の『科学・技術倫理とその方法』緑風出版(すでに書店では扱っていただいています)の3章2では,西村肇氏の(熊本)水俣病の原因究明について紹介しました〔『科学技術倫理とその方法』の「目次」〕.ここではその「補遺」として,同じ西村氏による新潟水俣病に関する仕事を紹介します.これは,湘南科学史懇話会(猪野修治氏主宰)での私の講演の一部にもとづきます.講演の全体は,「異なった価値観の間におけるコミュニケーションの方法」『湘南科学史懇話会通信』第10号,2004年1月,36~54ページに採録されています.

唐木田健一

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 個別事例の最後として,西村肇による昭和電工論文の解析を紹介します.西村さんは,東大工学部の教授で,93年の定年退職後は「研究工房シンセシス」を主宰しています.きょうお話しするのは,新潟水俣病に関するごく最近の仕事です.しかし,西村さんは熊本水俣病―水俣の水俣病―についても仕事をしていて,御存知のかたはそちらと混同する恐れがありますので,まずは西村さんの熊本水俣病の研究に触れておきます.

 熊本水俣病については,西村さんは共著あるいは単独でいくつか論文を発表していますが,最終的には岡本達明さんとの共著による『水俣病の科学』[1]という単行本がまとめられました.この岡本さんというのもスゴイ人で,彼は東大法学部を卒業してチッソに入ったのですが,いわゆる「学校出」で第一組合に残留した唯一の人だったそうです.彼はその委員長としてチッソと闘いました.

 熊本水俣病に関する西村さんたちの仕事は,「なぜあの時期にあの地で水俣病が発生したのか」を解明したものです.そう,そんなことが最近まで謎であったのです.原因とされるアセトアルデヒドの製造工程―簡単に言うと,水(H2O)のなかにアセチレン(C2H2)のガスをブクブクと通し,アセチレンを水と反応させてアセトアルデヒド(CH3CHO)を製造するもので,その反応の触媒として水銀を用いる方式―は戦前から採用されていたものです.「奇病」が発生したとされるのは1953年ごろです.工場側の要因としては生産量の増大が考えられますが,実はこの時期はやっと1940年ぐらいのレベルを回復しつつあるところでした.だから,53年ごろの生産量で惨劇が生じるなら,水俣病はすでに戦中に発生していてもよいはずでした.

 また,同様のアセトアルデヒド製造方式は,「奇病」発生の当時,国内では7社,国外でも20の工場において採用されていました.しかし,これだけの病状を引き起こしたのはチッソ水俣工場だけです.確かに昭和電工も―すぐこのあとお話しするように―新潟水俣病を引き起こしましたが,規模は水俣ほど著しいものではありませんでした.だから,「なぜあの時期にあの地で発生したのか」は謎だったのです.西村さんたちは,20年の歳月をかけ,それを解きました.結果は先に紹介した本を参照していただくとして,ここでは新潟水俣病に関する西村さんの仕事[2]のほうをお話しします.きょうこれまでに私が述べてきた「方法」と密接に関わるのです.

 まずは,西村さん自身の記述による事件の概要です.

 新潟水俣病事件とは,1960年代,新潟県下阿賀野川下流流域に居住する漁民に集中的に起こったメチル水銀中毒事件です.その原因については,患者は上流にある昭和電工鹿瀬(かのせ)工場の廃液が原因であると主張しましたが,昭和電工はそれを否定しましたので,患者側は裁判を提起しました(1967年6月).我が国初の公害裁判(民事)です.ここで患者側は工場廃液説を主張し,昭和電工側は農薬説を主張して,激しい争いとなりましたが,1971年9月,新潟地裁は患者側全面勝訴の判決を下しました.昭和電工側は判決前に控訴を断念していましたので,昭和電工側の民事責任は確定しました.昭和電工の刑事責任についても検討されましたが,警察は因果関係の立証は不可能と結論し,刑事訴追は行われませんでした.その後,未認定患者が国と昭和電工を相手取り,損害賠償を求める第二次訴訟を起こし(1982年6月),長期裁判となりましたが,1995年,政府は未認定患者救済のため,因果関係は争わないことを基本とする調停案を呈示し,患者側(共闘会議)と昭和電工はこれに合意し,永年の争いに一応の決着がつけられました.

このように,事件の科学的因果関係は依然不明瞭なままだったのです.

 問題のアセトアルデヒド製造工程でメチル水銀が生成したことを実証あるいは否定できれば決定的なのですが,その可能性は昭電によって完全に断たれてしまいました.

 昭和電工の場合は〔チッソとは〕様子はまったく違っていました.鹿瀬のプラントは1965年1月ほとんど極秘のうちに操業停止し,ただちにプラントを完全解体し,廃棄してしまいました.さらに徹底していたのは文書の廃棄です.操業マニュアル,操業日誌は無論のこと,関連文書はすべてあとかたもなく廃棄されました.驚くべきは関連するプロセスのフローシートが全部廃棄されたことです.もちろんすべて作業は極秘のうちになされましたから,いつどのように廃棄されたのかは知りようがありませんが,患者側が裁判でメチル水銀の生成,排出を立証するためにプロセス内部資料を求めたときは何一つ残っていませんでした.

 チッソも関連資料を意図的に廃棄しようとした点には変わりありませんが,その徹底性,迅速性では昭和電工には雲泥の差をつけられました.1972年刑事訴追のための検事の立ち入り捜査の際にも,まだ大量の関連文書が残っていて押収されているからです.さすがに操業日誌のような重要なものは廃棄されていましたが,その一部は疑問を抱いた人の手で極秘のうちに廃棄をまぬがれました.それらが後年,筆者らによる水俣病発生原因の科学的解明を可能にしたのです.昭和電工には,このように会社のやり方に疑問をもって一身の危険をおかしても,大切な資料を隠匿保全しようとした人はいませんでした.(〔 〕内の挿入は引用者による)

 証拠の徹底廃棄をした昭電の側は,メチル水銀を排出しなかったという証明をするため,模型プラントをつくり実験して,その結果を『工業化学雑誌』1971年2月号に発表しました.これは日本化学会の日本語雑誌です.その結論は,メチル水銀は反応器内で生成することはなく,また反応器外に一切出ていないというものでした.

 西村さんは発表当時からこの論文の内容を把握しようとつとめたようです.しかし,不明のことが多過ぎました.結論を導くのに必要な最低限の前提や実験条件の記述が省略されていたからです.論文のデータによれば,反応器の内部でメチル水銀は生成しているのです.それがなぜ生成しないという結論になるかといえば,メチル水銀は生成もするが分解もしている.反応器内でのメチル水銀濃度が低いときは生成であり,濃度が上がっていくと分解に変わる.そして,時間経過によってメチル水銀の生成と分解の速度が等しくなる「平衡」に達し,正味の生成はなくなるというのです.そして,系が「平衡」に達する《理由》も論じられています.

 西村さんは一時,この論文のデータ全体が信頼に値するものではないのではないかと考えたようです.たとえば,論文に与えられている数値から,メチル水銀濃度の初期値を計算し,それを論文の図の時間ゼロのところにプロットしても,その後のデータの傾向とは合いません.(論文では,反応器内のメチル水銀濃度の初期値をいくつかに変化させ,アセトアルデヒド合成反応の時間経過によってそれがどう変化するかを測定しています.)西村さんがプロットすると,彼の計算した初期値は図のなかの他のデータから外挿・予測される位置よりも高くなるのです.すると,反応時間の経過でメチル水銀が生成しているように見えるデータも,もしかしたら誤差の範囲なのかも知れない・・・・・.

 行き詰まりを打開してくれたのは患者側弁護団の中心だった坂東克彦が公刊した新潟水俣病の膨大な訴訟記録[3]です.そこには,昭電論文の著者のひとりによる証言が含まれていました.実験データは論文と同じであり,また実験条件についての肝心な点も論文以上のことは何も言っていませんでしたが,実験装置の図面を示し,実験データの解析についての考え方を述べていたので,論文内容の全面的な検討が可能となったのです.なお,この坂東史料の全体は35ミリマイクロフィルム75リールで,B5判書籍に換算して6万頁に相当するそうです.解説と検索用のCDROMが付いて280万円とのことです.

 昭電論文における秩序が明確な姿を現したのは,裁判史料の図面から,反応器の容積が西村さんが想定していた1リットルではなく,実は1.2リットルであると推定できたときのことだったそうです.これにより,初期値を計算し直してグラフ上にプロットすると以降の測定値とよく合い,またこれによって測定値全体も異常ではないことが確認できた.裁判記録の引用によれば,昭電論文の著者のひとりも,1リットルと思い違いしていたようです.これにより,昭電論文におけるメチル水銀生成のデータは信頼できることがわかりました.それでは,生成と分解が「平衡」に達するので正味の生成はないという主張のほうは?

 西村さんは,すでに熊本水俣病の仕事において,メチル水銀生成反応機構の全体を明らかにしていました(『水俣病の科学』).それによれば,メチル水銀は系内で分解することはない.これには量子化学的研究の裏付けもある.それでは,実際は何が起きたのか.メチル水銀は系内で分解していたのではなく,系外へ漏れていたのです.西村さんが着目したのは「飛沫同伴」という現象です.これは,気泡が反応器内の液体を吹き抜けるとき,液表面で気泡がつぶれる際に必ずごく小さな液滴が生成し,これがガスによって運ばれて系外に出てしまうものです.この液滴にメチル水銀が含まれていたのです.これは液面から出口までに十分な距離をとれば防ぐことができますが―ということはメチル水銀は系外に漏れることなく系内にしっかりと蓄積するはずだったのですが―小型の実験装置だったのでそうはならなかったのです.

 このように全貌を把握したうえで,西村さんは昭電論文のデータから,昭電での実際のメチル水銀生成量を推定・算出しました.それによると,鹿瀬工場によるメチル水銀の生成量は年間50キログラムでした.チッソ水俣では,事件発生時の1953年の排出量は年間40キログラムでしたから,それとほぼ同量ということになります.

 西村さんはこの仕事を,メチル水銀生成の「逆証明」と呼んでいます.すなわち,相手の実験データにおいて首尾一貫性を追求し,欠けているものを見出し,不整合(矛盾)を解決して,相手とは逆の結論を導き出したということです.

☆本件に関連しては,私のブログ記事「1968年の一学生がみた水俣病」も参照して下さい.


[1] 西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(2001).

[2] 西村肇「昭和電工鹿瀬工場は大量のメチル水銀を生成していた」『現代化学』2003年3月号13-17頁(上)および4月号13-20頁(下).また,西村「栗原氏の主張を読んで」『現代化学』2003年8月号62-63頁も参照せよ.

[3] 橋本道夫・平野孝監修/坂東克彦・平野孝編集『坂東克彦史料・戦後日本公害事件史料集成』(Ⅰ.新潟水俣病裁判第1次訴訟記録)柏書房(2003).


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