唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

サルトル『方法の問題』より「マルクス主義と実存主義」.(2)マルクス主義の問題

2024-03-27 | 日記

 ここに掲載するのは先の私のブログ記事「サルトル『方法の問題』より“マルクス主義と実存主義”.(1)哲学と思想」のつづきであり,サルトル『方法の問題』J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)の冒頭部分の私による要約である.文章は平井啓之訳の日本語版『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)に依拠するが,一部表記を変更したところもある.文中の〔○○頁〕は,この日本語版における対応ページである.また,小見出しは私が便宜的に付した.

 ここでサルトルが批判する《マルクス主義者》たちの言動は,現在さまざまなメディアにチョコマカと顔を出す《評論家》・《コメンテーター》たちの一部にほぼそのままあてはまるものである.

唐木田健一

     *

一 マルクス主義と実存主義

現代の哲学であるマルクス主義の問題

 『方法の問題』において展開される提案と探究は,現代ののりこえ不可能な哲学であるマルクス主義に対する一つの思想としての試みである.何故このような試みが必要であるのか? それはマルクス主義が停滞してしまったためである.今世紀に初めて出現した社会主義国家・ソヴィエト連邦が,自己をつくりかつ防衛するため,理論と実践をそれぞれ別の側にしりぞけてしまったのである〔29下-30上頁〕.その結果として実践は原理を欠いた経験主義となり,また理論は純粋で凝結した知に変わってしまった〔30下頁〕.長い間に渡り,マルクス主義を信奉する知識人は経験を踏みにじり,都合の悪い細部の事情は無視し,与件を大ざっぱに単純化し,とりわけ事件を研究する以前にそれを概念化してしまうことによって社会主義のために寄与していると信じてきた〔30下-31上頁〕.

 同時に,今日,社会的経験は知の外にこぼれ出ている.合衆国の社会学の現実の成果も,その理論的不確定を覆い隠すことはできない.また,精神分析学は初期のめざましい成功のあとに動きがとれなくなってしまった.細部についての知識は数多くあるが,その基盤に欠けているのである.そして,マルクス主義はといえば,それは理論的基礎をそなえていてすべての人間活動を包含することはできるが,しかし,何一つ知ってはいないという事情にある.その諸概念は絶対命令であり,その目的はもはや知識を獲得することではなくて,自らを先験的に絶対知として構成することである〔35下頁〕.

 我々の時代のもっとも目につく性格の一つは,歴史が自らを認識することなしにつくられているということである.いつの時代でも事情は同じであったという人もあるであろう.前世紀の後半までは確かにその意見は通用した;端的に言えばマルクスが出るまでは.マルクス哲学は歴史の過程をその全体において明らかにするための根本的な試みであった.しかし現状はどうか? マルクス哲学は歴史とともに生きることをやめ,官僚的な保守主義によって変化を同一性に還元しようと試みているのである〔36下頁〕.

 だが理解せねばならない.このマルクス主義の硬化症は正常な老化現象ではない.それは特殊な型の世界的な状勢によって生み出されたものである.老化どころではなく,マルクス主義はなおごく年若いのであって,ほとんど幼少期にあるといってよいほどである.その状態でマルクス主義は我々の時代の哲学として留まっている.それを生んだ状況が未だのりこえられていないため,マルクス主義はのりこえることができない.我々の思惟は,どんなものにもせよ,この腐植土の上にしか形成されることはない.思惟はマルクス主義の与える枠内に包含されるべきであり,さもなければ虚ろなものとなって消えてしまうか後退するよりほかはない〔37下-38上頁〕.

 実存主義は,マルクス主義と同様,経験の中に具体的な諸綜合を見出そうとする.実存主義はこの綜合を歴史にほかならぬ動的で弁証法的な全体化作用の内部においてだけ考えることができる.我々実存主義者にとって真理とは成りつつあるものであり,それは現に在り,将来成りおえてしまうはずのものである.それはいわば,たえず全体化されつつある全体化である.個々の事象は,種々の部分的全体の媒介によって進行中の全体化に照合されない限り,何一つ意味することはなく真理でも偽りでもない〔38上頁〕.

 生活のための生産のかなたに,現実的自由の余裕がすべての人のために存在するようになればマルクス主義はその命脈を終えるであろう.自由の哲学がマルクス主義にとって替わるだろう.しかし我々は少なくとも現在のところ,このような自由や哲学を考えることを許すようないかなる手段,いかなる知的用具,いかなる具体的経験も有してはいない〔42上-42下頁〕.

 

二 媒体と補助的諸学の問題

マルクス主義の具体的問題

 今日のマルクス主義は先験的である.それはその諸概念を経験から導出しない;あるいは,少なくとも,それが解読しようと試みている新しい経験からは導出しない.それはその概念をあらかじめ形成ずみであり,その真理性をすでに確信しており,その諸概念に構成的図式としての役割を配分するのみである.その唯一の目標は考察の対象である事件や人物や行為をあらかじめつくられた鋳型の中にはめ込むことである〔50上頁〕.マルクス主義は現実の人間を深く究めるべきであって,それを硫酸風呂の中で溶解すべきではない.手っ取り早い図式的説明は人物たちを消してしまうことであり,さもなければまた,彼らを彼らの階級の純粋に受身の用具あるいはロボットと化してしまうことになる〔56上頁〕.

 マルクスは,もっとも大まかな決定因からもっとも詳細な決定因へと逐次的に進んでいくことによって人間についての知識を弁証法的に生み出そうと試みている.彼は自分の方法を「抽象的なものから具体的なものへと高まりいく」探究として定義している.そして,具体的なものとは,彼にとって,段階的な決定因と現実性との段階を追った全体化であった〔61上-61下頁〕.

 ところが,思惟するとは,現代の多くのマルクス主義者にとって全体化をめざすことであり,そしてこの口実のもとに,特殊を普遍に置き代えてしまうことである〔60下頁〕.この操作により,自分は仮象を真理に還元したのだと信じて満足する〔61上頁〕.

 ヴァレリー(Paul Valéry, 1871-1945)が一個のプチブル・インテリであるということ,このことに疑いはない.しかしすべてのプチブリ・インテリがヴァレリーであるわけではない.現代のマルクス主義の発見学としての不十分さは,この二つの言葉のうちにひそんでいる.与えられた歴史の一時期における与えられた階級と社会との内部において,人間とその人間の所産が産み出される過程をとらえるためには,マルクス主義は段階的な媒体に欠けているのである〔67下頁〕.

 我々はマルクス哲学の諸々のテーゼを裏切ることなしに,独自で具体的なもの,人生,現実的で動かしがたい日付をもった闘争,人間を生産力と生産関係の一般的矛盾をもととして現出させることを可能とするようないくつかの媒体を発見したいと願う〔68上頁〕.

〔唐木田による要約了〕

 


サルトル『方法の問題』より「マルクス主義と実存主義」.(1)哲学と思想

2024-03-20 | 日記

 ここに掲載するのは,サルトル『方法の問題』J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)の冒頭部分の私による要約である.文章は平井啓之訳の日本語版『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)に依拠するが,一部表記を変更したところもある.文中の〔○○頁〕は,この日本語版における対応ページである.また,小見出しは私が便宜的に付した.

 ここでサルトルが「哲学」と呼んだものについて,私は科学史における「基本理論」(いわゆるパラダイムpradigm)と非常によく似た性質を有することに着目した.さらにこの「哲学」は,私のいう「倫=理」(人間関係〔倫〕におけるコトワリ〔理〕)の枠組みを形成するものである.

唐木田健一

     *

一 マルクス主義と実存主義

哲学

 ある種の人々は哲学を一つの意見とみなし,それを採るも採らぬも自己の勝手と考えている.また別の人々にとっては限界のある一分野であるかも知れない〔13上頁〕.我々にとっての哲学とは,まず興隆期にある階級が自己についての意識をもつ仕方である.この意識ははっきりしていることもあれば曇っていることもあり,間接的であることもあれば直接的であることもある.法官貴族や商業資本主義の時代には,法律家,商人,銀行家,等からなるブルジョアジーは,デカルト哲学を通じて自己について何事かを把握した.その一世紀半ばかりあと,産業化の第一段階で,製造業者,技師,学者がカント哲学における普遍的人間像の中におぼろげながら自己の姿を見出した〔13下頁〕.

 哲学はその時代の知識の全体化としてあらわれ〔14上頁〕,その時代の人々の文化中心としての役割を果たす.それはたがいに異なった種々の相のもとにあらわれて絶えず統一化作用をおこなう〔13下頁〕.すなわち,一つの哲学は,その毒性を存分に発揮する間は,決して生命を欠いた一つの対象として,あるいはすでに統一が終了したものとしてあらわれることはない〔14下頁〕.

 歴史が展開し,この知識の細目ひとつ一つが異議を生じ,すたれたものとなったときには,その総体は区分されない一つの内容として留まりつづける.哲学的対象物はもっとも簡単な表現にまで還元されて,規制的観念という形をとって残りつづける.かくして今日では〈カント的理念〉やフィヒテの〈世界観〉について語られる〔14上-14下頁〕.

 哲学は探究と説明の一方法としての性格をもつ.あらゆる哲学は実践的であり,一見もっとも思弁的と思われる哲学でさえもそうである〔14下頁〕.デカルトの弟子たちの分析的・批判的合理主義は彼らを超えて生きつづけ無名の大衆の中に移り行きフランスの第三身分の態度を左右した〔14下頁,15下頁〕.ブルジョアジーがアンシャン・レジームの諸制度をくつがえそうと企てたとき,合理主義は,それらの諸制度を正当化しようと試みる時代遅れの教理を攻撃した〔14下-15上頁〕.事情ははるかに進行して,この哲学的精神はブルジョア階級の枠を超え庶民の世界にまでゆきわたる.フランス・ブルジョアジーが自ら普遍的階級をもって任ずるに至るのはこのときである.この哲学の浸透のおかげで彼らは,第三身分を分裂させはじめている闘争を覆い隠し,すべての革命的な階級のために一つの言語と共通の身振りとを見つけてやることが可能となった〔15下-16上頁〕.

 もしも哲学が我々の考える上記のようなものであるならば,哲学的創造の時期は歴史上まれであったことは明らかである.十七世紀から二〇世紀の間で,いまそれを著名な人物の名で示すとすれば,デカルトとロック,カントとヘーゲル,そしてマルクスということになる.この三つの哲学はすべての個々の思想を育てる腐植土となり,すべての文化の地平線をかぎるものとなって,これらの哲学がその表現にほかならぬ歴史的状況がのりこえられない間はのりこえ不可能となる〔16上-16下頁〕.

 

哲学と思想

 哲学の誕生ののちにあらわれ,諸体系を整えたり未知の領域を新しい方法で探究し,また理論に実践的機能を付与してそれを破壊や建設のための道具として利用しようとする人々を哲学者というのは用語上適当でない.もちろん彼らは新しい領域を開拓し,いくつかの建造物を建て,そこに内的変革をもたらすことさえある.しかし彼らは偉大な死者たちのいまだ生きている思惟によって身を養っているのだ.このような相対的な人々を我々は思想家(イデオローグ)と呼びたいと思う.私(サルトル)は実存主義を一個の思想(イデオロギー)とみなしている.その現在の野心と機能を理解するために,キルケゴールの時代にまでさかのぼってみよう〔17上-17下頁〕.

 ヘーゲル哲学においては,認識は存在と合体しそれを自己のうちに溶解する.精神は自己を客観化して自己疎外を生じ,しかも絶えず自己を回復して自己の歴史を通して自己を実現する.すべての自己疎外は哲学者の絶対知によって超克される.我々は単に意味づけるものであるのみでなく,同時に意味づけられたものである.ここで,意味づけられたものとは,現実の社会で生きている人間である.知は我々をつらぬき,我々を溶解するに先立って我々を位置づけ,我々は生きながら至高の総計へと統合される.かくして,悲劇的経験とか死に至る苦悩とかの純粋経験は真に具体的なものである絶対に導く一過程として体系に飲み込まれてしまう〔17下-18上頁(および19上の注*)〕.

 キルケゴールはこのヘーゲルの〈主知主義〉に対し,断固として体験の還元不可能性と特殊性とを主張する〔19上頁〕.現実存在としての人間は観念の体系によって同化されることはできない.苦悩について何を語り何を考えようと苦悩は知の手をまぬがれてしまう〔19下頁〕.人間とは意味づけるものである.人間はたとえ神によってさえも意味づけられるものとはならない.アブラハムに対しある日天使があらわれ,「汝はアブラハムなり.汝の息子を犠牲にささげよ」と告げても,彼は自分がアブラハムかどうかを知りはしない〔19上頁の注*〕.

 このように,キルケゴールはヘーゲルから切り離すことはできない.この一切の体系の否定は,ヘーゲル哲学圏の外で生まれることはありえない.しかし,その時代の枠の中に身を置きなおして注目すべきは,ヘーゲルがキルケゴールに対して正しかったとまったく同じだけキルケゴールはヘーゲルに対して正しかったということである.ヘーゲルは主観的な逆説に固執することなく,その概念によって真に具体的なものを思念した.一方,キルケゴールは人間の苦悩・情念・苦痛は知によってのりこえられることも変えられることもできない生の実在であることを示した.もちろん彼の主観主義は観念論のきわみとみなされるであろう.しかし彼はヘーゲルに対し,現実主義の方へ一進歩をみせた.なぜなら彼は,ある種の現実は思惟に還元不可能であることとその優位性を主張したからである〔20下-21上頁〕.キルケゴールはおそらく,ヘーゲルに対抗しそしてヘーゲルのおかげで,現実と知が互いに通約不可能であることを示した最初の人であった〔21上-21下頁〕.

 全然別の観点からではあるが,マルクスがヘーゲルに対しキルケゴールと同じ非難をあびせていることは注目を引く.マルクスにとってヘーゲルは,人間の客観化を自己疎外と混同してしまっている.客観化とは人間の物質に対する働きかけであり,人間に自分がつくり出した世界の中に自分自身の姿を眺めることを可能にする〔21下-22上頁〕.ところが,歴史の現段階においては生産力は生産関係と矛盾しており,その結果として自己疎外があらわれている.したがって,これは歴史的現実であって,一つの観念には還元できぬものである.人間が自己疎外から解放されるためには意識が自己を思惟するだけでは足りず,物質的労働と革命的実践が必要である.マルクスは行動と知の異質性と同時に,知に対する行動の優先権も示す.ただし彼は,キルケゴールとは異なり,人間的事象を空虚な主観性と混同しようとはしなかった.彼が哲学的探究の中心にしたのは具体的人間――その欲求・生活の物質的条件・労働,すなわち事物と人間に対抗しての闘争の性質によって自己を決定するあの人間であった〔22上-22下頁〕.

 かくて,マルクスはヘーゲルに対してもキルケゴールに対しても等しく正しい.彼はヘーゲルとともに具体的人間をその客観的現実でとらえる.またキルケゴールとともに人間実存の特殊性を確認するからである〔22下頁〕.

〔「(2)マルクス主義の問題」につづく〕


(続)都城秋穂「日本の地質学界の学問的低さと,私たちの世代の閉塞感」

2024-03-13 | 日記

 本記事は先に掲載した都城秋穂「日本の地質学界の学問的低さと,私たち世代の閉塞感」のつづきである.内容は,都城秋穂「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」〔小島丈兒先生追悼文集刊行会世話人編『小島丈兒先生追悼文集』(非売品,2007年)における特別寄稿,pp.3-53〕のうちの後の部分(pp.39-41)からの抜粋である.

唐木田健一

     *

都城秋穂(ニューヨーク州立大学名誉教授)「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」から

われわれの閉塞感の行方

 小島さんの二つの論文〔筑波山をつくるガブロ岩体についての研究(1943)および三波川結晶片岩におけるスティルプノメレンの発見(1944)〕は,どちらも岩石学の正統的な研究であった.しかし小島さんは,東大におられた時期の末頃は,自分が岩石学の正統的な道を進むことに疑いを持ち,これからどういう方向に進もうかと,迷っておられたように私は感じた.

 そのころ新カント派の哲学者リッケルトの著書「文化科学と自然科学」(1898)が和訳されて,岩波文庫として出版され,いたるところの本屋に出ていた.その本は,自然科学は一般性のある法則を発見する学問であるが,文化科学は歴史上の個個の人物や事件を記述する学問だと主張していた.小島さんはそれを読んで,ある日私に,地質学(岩石学を含む)は,リッケルト風に言うと自然科学ではなく,文化科学になるのだと言われた.つまり,地質学は法則を見付ける学問ではなくて,個個の地質学的物体や地質学的事件を記述する学問だというのである.岩石学をも含む地質学全体が,地域的な個物記載を主たる目的とする学問だというのである.そのころの地質学のなかでは,法則を発見しようとしていたのは正統的な岩石学(と鉱物学)だけであったが,小島さんの主張は,地質学者(岩石学者を含む)は,従来の正統的岩石学のように法則を発見しようとしないで,地域的な個個の物の記載をその本来の主たる任務と考え,それに満足すべきだという意味であった.それを聞いて私は,小島さんは正統的岩石学を去ろうとしておられると感じた.

 小島さんは岩石学の前途に閉塞感を感じて,それよりもむしろ,鈴木 醇のような地域的・記載的な道とか,あるいは構造地質学・構造岩石学へ向かう道などを,ご自分の将来の研究方針にしたらどうだろうかと思って,比較しながら考えておられたのであろう.ことに変成岩地域の構造地質学・構造岩石学は,日本では全く未開拓な重要な研究分野あったから,小島さんにとって魅力的であったに違いない.間もなく小島さんは,広島文理科大学に赴任されたが,赴任後まもなくその大学が戦災を受けた.そして,その新しい条件のもとで,小島さんは決定的に構造地質学・構造岩石学への道をお選びになった.

 そのころ私自身も,岩石学の前途に対する閉塞感に悩んでいた.石岡孝吉さんと一緒に,岩石学は何物をも証明しないし,何物をも否定しないと話し合って嘆いていたことは,前に書いた.しかしそれでもまだ私は,正統的な岩石学の範囲内で何とかして自分の進むべき道を見出せないかと考えていた.小島さんが広島へ去られて後になっても,まだ何年間も,私はただ暗中模索を続けていた.世界中の岩石学者の言っていることは,ほとんどすべて当てにならないと私は思っていた.そんなものはみんな捨てて,何か新しい確実な出発点にできることはないだろうかと思った.その確実な出発点から出発して,必要ならば自覚的に明確な仮定(仮説)を加えて,理論を組み立てる方向に前進したいと思っていた.

 1948年ごろになって私は,私の考えを次のようにもっと具体的な形にした.ハーカー〔Alfred Harker〕が累進変成作用とよんだものが,地球上のあちらこちらにある.そこでは,変成作用の温度が一つの方向に上昇していることは,間違いなさそうであるから,私はこれを出発点にしよう.温度が上がるにつれて,既存の鉱物の間に化学反応が起こって,新しい鉱物が出来る.地表でその新しい鉱物ができ始める地点を連ねる線が,アイソグラッド(鉱物アイソグラッド)である.変成地域は,そういうアイソグラッドで分帯しなければならない.おおくの変成地域の化学反応の性質やアイソグラッドの形を検討することにより,そのほかの条件の分布も推定できるかもしれないと,私は思った.

 杉 健一や小出 博の研究では,変成地域は,たとえば片状ホルンフェルス帯,縞状片麻岩帯というように,主な岩型によって分帯されていた.そのような岩型は,ある程度は温度にも関係するのであろうが,そのほかに原岩の化学組成や組織,変成作用の間の物質移動,変成作用の継続時間の長さ,そのほかいろいろな作用によって影響をうけるかも知れないから,岩型による分帯を研究の出発点にすることは好ましくないと私は思った.

 あらゆる変成鉱物の中で,熱力学的性質が一番簡単なのは,一定の化学組成を持つ無水鉱物である.そこで私は,その例として,Al2SiO5という化学組成をもつ,藍晶石,紅柱石,珪線石という三つの同質多形鉱物を取り上げて,変成岩の中におけるそれら鉱物の出現状態からそれらの間の安定関係を導くことを考えた.そして,それらの鉱物の性質や天然の出現状態と熱力学との間に矛盾が起らないような一つの説明を考え出した(都城,1949).それがうまくいったので,それと同じように,もっと複雑なさまざまな変成鉱物についても,その性質や天然の出現状態と,熱力学と,結晶科学とを組み合わせて,矛盾のない理論を組み立てていく方針をとって進もうと思った.そして,変成岩の中の固溶体鉱物をどう取扱ったらよいかを考えるために,この次には柘榴石を研究しようと思った.こうして私も,おぼろげながら自分が進むべき方向を見付けることができた.

〔唐木田による抜粋了〕

 


都城秋穂「日本の地質学界の学問的低さと,私たちの世代の閉塞感」

2024-03-06 | 日記

 ここに紹介するのは,都城秋穂「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」〔小島丈兒先生追悼文集刊行会世話人編『小島丈兒先生追悼文集』(非売品,2007年)における特別寄稿,pp.3-53〕のうちの二つの部分(pp.31-34,pp.39-41)からの抜粋であり,本記事はその前部分である.後の部分「われわれの閉塞感の行方」はこのあと別に掲載する.文中の〔 〕は私が挿入したものである.なお,この「追悼文集」の対象である小島丈兒(1916-2006)は東京帝国大学理学部地質学科出身であり,広島大学理学部教授を務めた.

 タイトルには「学問的低さ」との表現があるが,これは地質学界だけの問題でもまた都城らの世代だけの問題でもないと私は思う.

 著者・都城については本ブログ記事「都城秋穂『科学革命とは何か』の紹介」,「無機化学者・斎藤信房と地質学者・都城秋穂」,および「日本の地質学界におけるプレートテクトニクス受容過程の理論科学的考察」の後半部参照.

唐木田健一

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都城秋穂(ニューヨーク州立大学名誉教授)「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」から

日本の地質学界の学問的低さと,私たちの世代の閉塞感

 私は上に,1930年代の日本の変成岩や花崗岩の研究の方面で広く指導者(あるいは模範)と見られてきた鈴木 醇,杉 健一,小出 博という三人の岩石学者のことを書いた〔文末注☆〕.彼らは日本の変成岩地域を研究し,その結果は,日本の地質学界の代表的研究とみられ,彼らは一般に日本の岩石学の指導者とみられていた.しかし,彼らの成因論的な議論の内容を,ちょっと批判的に検討してみると,どれ一つとして,検討に耐えるものではなかった.彼らの成因論は,まるで論理になっていなかった.それらは如何なる学説をも証明する力がなく,如何なる学説をも否定する力がなく,議論として無意味であった.

 私は1943年の秋,大学院に入って,朝鮮中部のアルカリ深成岩の研究を始めた.しかし,研究をやり始めるとすぐに,それが火成岩とは思われなくなった.それは変成岩なのかもしれないと思ったが,私も,私の周りにいた誰も,変成岩の知識がほとんどなくて,私の研究は行き詰った.困惑しているうちに,私の大学院の期間は終わった.それは1945年の秋で,太平洋戦争が敗戦で終わったのと,ほとんど同時であった.

 1946年以降私は,変成作用をもっとよく理解するために,自分で変成岩の研究をしようと思うようになった.そこで私は,変成岩の研究をする上の自分の研究方針を見出すための参考資料として,1930年代の日本のそれらの岩石学者たちの研究を批判的に検討した.そしてすぐに,上に述べたように彼らの成因論的研究が,何物をも証明しないし,何物をも否定しないので,すべて無意味であることに気がついた.彼らは,そのころ世界的に広く知られていた何かの学説を日本に輸入して,日本の変成岩を説明しようとしたのであって,世界的に見て新しい学説を立てるとか,新しい見地を開くとかいうようなことは,全く考えていなかった.当時の日本の地質学も,そのなかの岩石学も,世界的に見ると学問的水準が低くて,本当に新しい学問をつくるような研究をすることを考えようとする水準に達していなかったのである.しかしそのように,外国の出来合いの学説を輸入することは,私にはあまり魅力的には感じられなかった.輸入ではなくて,何か世界的に見ても本当に新しいものを自分で作りたいと思った.しかし,それではどんな方針で,どうしたらよいのかということになると,私は見当もつかなかった.研究方針が立たなくて,行き詰まった.このように,研究方針が立たなくて,行き詰まって,動きようのない状態からくる焦燥感のことを,私は本稿では簡単のために閉塞感とよぶことにしよう.

 1946年から,私と石岡孝吉さんが東大の岩石学の助手になった.ふたりとも,これから何をどう研究したらよいかを考えては,閉塞感に悩んでいた.岩石学は「何物をも証明しないし,何物をも否定しない」というのは,そのころの石岡さんが放った名言であったが,私もまったく同感であった.日本には,指導者も模範もいないと思った.ふたりとも,日本の地質学界は学問的に低すぎて,その評価は当てにならないことを痛感した.この上は,欧米の論文をできるだけ広く読んで,できるだけ多くの見方や考え方を知り,それらを批判的に検討して,自分の探究の方針を自分で立てるよりほかはないと思った.もちろん欧米にも,つまらない研究が多いに違いないが,それでもたくさんの研究のなかには,稀に何か新しい見解の出発点になるような事実か発想があるかもしれない.そうでないまでも,世界でこれまで何がどんなに論じられたか,何が論じられなかったかを知ることは,われわれの考え方を有効に進めるために望ましいことだと思った.そこでふたりは,毎日毎日,朝から晩まで,欧米のめぼしい論文を見付けては読み続けた.暗中模索しながら,五里霧中で彷徨する状態で,読み続けた.しかし暗中模索で読むことは,能率の悪いものである.いつまで経っても,前途に光が見えなかった.私はよく絶望的な閉塞感に見舞われたが,それを我慢して,読み続け,考え続けた.

 小島〔丈兒〕さんは私より4年上にすぎなかったから,ご自分で岩石学の研究を始められたころ,私と似た閉塞感をいくらか経験されたに違いない.鈴木 醇や杉 健一の論文を検討して,それらの成因論的な議論に満足されたはずはない.しかし小出 博に対する関係だけは,小島さんと私とではたいへん違っていた.小出 博の大学院在学期間は,小島さんが学生だった時期に重なっていたから,小島さんは勉強を始めたばかりの時に,小出から直接に話を聞かれる機会も多く,小出の神秘的な話術やさまざまな苦心談に巻き込まれたことであろう.そこで小島さんは,たとい鈴木や杉に失望しても,小出の研究のような方向を自分の進むべき道の一つの可能性だと考えられたのは自然なことであった.

〔後略〕


 注☆都城はこの「特別寄稿」のなかで以下の人物をていねいに紹介している.それにもとづいてここでごく簡単に触れておくと:

鈴木 (1896-1970).東大地質学科出身.(旧制)第一高等学校教授.チューリッヒの連邦工科大学に留学後,北海道帝国大学の岩石学の教授,その後応用地質学の講座担任教授に移る.

健一(1901-1948).東京帝国大学理学部地質学科出身.東京高等師範学校教授,のちに九州帝国大学の理学部地質学教室の教授となる.

小出 (1907-1990).東大農学部林学科出身.卒業後大学院に進学し,理学部地質学教室での講義を聴講する.地質調査所勤務を経て,東京農業大学教授となる.

〔「われわれの閉塞感の行方」につづく〕