この記事は桂愛景(けい・よしかげ)氏名義で,「物理学者の社会的責任」サーキュラー『科学・社会・人間』(事務局・白鳥紀一氏)の第11号(1985年1月1日)に掲載されたものです.
唐木田健一
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1.科学者の社会的責任
現代の科学者は,ほとんど例外なく,給与生活者です.つまり,まずダンナがおり,そのダンナの意向を受けることによって雇用され,生活が成立しているわけです.このダンナとその意向は比較的に明確な場合もあればあいまいな場合もあります.前者は,たとえば企業科学者;後者は,たとえば大学科学者です.後者においては自分の給与をあたかもある種の奨学金のように見なしている人もあるぐらいです.しかし,いずれの場合も,各科学者にとってはダンナあるいはその代官が存在し,程度の差はあれ彼(等)によって自己の地位・給与・研究の“資源”を左右されているのです.だから,科学者の社会的責任とは,まずダンナに対する責任です.これを私は科学者の《第一の責任》と呼ぶことにします.かつてある学会の長老が若手科学者に対し,科学者の社会的責任を言う前にりっぱな科学者であれと発言したことがありましたけれど,これは上述の事情を反映したものであり,一面の真理ということができます.
加えて,科学研究は没頭すればする程おもしろいという欠点をもっています.従って,科学者が給与生活者であるという現代の体制は,少なくとも原理的には,ダンナにとっても科学者にとっても実にハッピーです.科学者は自己の責任を果たすことで生計が立ち,地位が確保でき,おまけにおもしろいことができる;ダンナのほうにとってみれば,科学者は進んで自分の意図を実現してくれるというわけです.
しかし何と言ってもダンナの概念はあいまいです.企業科学者にとってすらそうです.彼にとってダンナは直接には上司あるいは社長ということになりますが,究極にはお客様すなわち国民であるわけです.そうすると,身近なダンナの意向に沿った自己の研究が究極のダンナの意向に合致するかどうかを考え,あるいは場合によっては両者の矛盾に悩むこともあります.あるいは,科学者は自分が研究の場で獲得した知識と手法をもって世の中の事態を分析し,それに異議を申し立てるということもあり得ます:科学者の知識と手法はいわゆる普遍性をもっているからです.
科学者のこのような傾向を積極的に受けとめ,それを科学者のもうひとつ別の任務であると考える人々が存在します.この任務を私は科学者の《第二の責任》と呼ぶことにします.本『サーキュラー』で“物理学者の社会的責任”と言う場合,それはこの《第二の責任》に力点がおかれているものと思われます.しかし,この《第二の責任》は科学者=給与生活者の図式からは明らかにはみ出しています.いわば,科学者のブンザイを越えているのです.このように自己の立場をはみ出し,ブンザイを越えようとする人々,これがサルトルの言う知識人[1]なのです.人は単に科学研究をしている限りは知識人ではありません:自己の知識・手法を自己の《第一の責任》の系をはみ出して適用しようとすることにより知識人となるのです.
2.人間の在り方
人間とは本来,何ものでもあらぬものであります.人間は自己を選び・つくることにより何ものかとなります.この選択の過程を総合したものがその人の人柄であり本質です.自己を選び・つくるということは,同時に,世界に対して働きかけることであり,世界をつくることです.人は選ぶことによって世界を引き受け,そしてそれがいかなるものであるかを明らかにします.我々はいままで責任を為すべき任務と考えてきました.しかし,ここにおいてその意味はより一般的かつ具体的となります.すなわち責任とは自己が世界内のある事態・対象のまぎれもない作者(の一人)であることの意識です[2].そして,科学者の《第二の責任》はこれに根拠をもつものであります.
核兵器が人類に脅威を与えていること,これはひとつの事実です.また,自分が素粒子論の研究をしていること,これもひとつの事実です.このふたつの事実(あるいはその他の事実)が結びつけられ,それに基づいて世界に対してさらなる働きかけをするとき,人はそれによりさらに自己をつくることになります.この事実と事実を結ぶものが,ある著作[3]で「理」と呼ばれたもののひとつの《機能》です.「理」は誰もが《有する》ものですが,かといって誰もが自覚的に把握しているというものではありません.
先頃,《新左翼系の》弁護士および冤罪者の支援に活躍した弁護士がカクエイの弁護団グループに加わったということで話題になったことがあります.そして,私の乏しい見聞によれば,非難の声が多数を占めていたようです.御当人たちの弁は,まずカクエイ弁護は何ら弁護士の職務に反することではないこと,それどころか弁護士はいかなる被告人であっても弁護するのが任務であること,またカクエイ弁護は職人としての興味があるということのようでした.つまり,その仕事は“sweetでlovelyでbeautiful”ということなのでしょう.これは弁護士として何ら非難の対象となるものではありません.彼等は弁護士の《第一の責任》の枠内にいるのです.ただし,カクエイは過去も現在も権力者です.彼は裁く側の体制をつくった一人であり彼がたまたま裁かれる側に回っているのは権力内部の矛盾によるものにすぎません.また,世間一般から見て,彼は十分な弁護人を雇用できるだけの金と影響力をもっています.となると事態は実に単純です.すなわち,その弁護士はカクエイ弁護団への参加を選択することにより自己を更新したのであり,彼の過去の諸選択とともに総合された「理」の中で,自己がいかなる人物であるかを世間に周知させたということなのです.そして,一部の人による彼への非難は,単に失望感の表明なのです.
人間の存在構造における責任の概念は,第一次的にはヨノタメ・ヒトノタメに関わるのではありません.それは,たった一度の人生の中で,自己をいかなる人物としてつくるか,あるいはそれと同じことなのですが,いかなる世界をつくるかということに関わるのです.ここにおいて,物理学者(として)の社会的責任などはもはや意味をもちません.そうではなく,物理を選んだ人間が自己の知識と方法を含む「理」に基づき,いかに世界に働きかけるか,すなわちいかに自己をつくるかが問題なのです.
3.物理学者と「理」
科学者の《第二の責任》あるいは知識人としての責任は,上述の議論でも示唆されているように,すぐれて理=論的な問題です[4].そして,私の見解によれば,物理学者は理=論的問題になじみやすい特性をもっているようです.物理学研究ではよく定義された系,極めて一般性のある系について原理的な考察を行います.これは理=論的考え方に関するよき訓練の場です.また私は「理」の変化(“革命”と“革新”)がいかなる過程で生み出されるかの理解を極めて重要と考えていますが,今世紀初頭におけるふたつの種類の物理学革命はそのよきモデルと思われます.現代の物理学者は生れながらそれら革命の洗礼を受けているのです.
本サーキュラーで小田は“何故,特に物理学者には社会的責任があるか”という問題を提起しています[5].これを私は物理学者の自戒と心意気と解します.物理学者であらぬ私にとって興味があるのは小田の提起したものとは別の次元の問題です: “何故特に物理学者が社会的責任を論じ活動するのか”.と申しますのは,少なくとも日本においては,科学の社会的意味・科学者の社会的責任を論じ・闘う人々の中での物理学者の比率が非常に高いように思われるのです.この事実を,たとえば,1960年代末から70年にかけての日本化学会におけるいくつかの個別の動きと比較したとき,私には両者のちがいは歴然としているように思われます.これは私は,部分的には,物理学と化学の学問としての性質のちがい,あるいは現実における学問の進め方のちがいに起因するとみています.
以上の私の議論は,もちろん,物理学者総体を擁護するものでも,あるいは物理学研究を正当化するものもありません.繰り返しになりますが,問題はいかなる人間であることを選択するかということにあるのです.このことは,とりわけ理=論的考察の訓練を積んだ人々にとっては厳しい課題であるはずです.そして,私にとって一部の物理学者の行動の中にその反映が見出されるということなのです.
4.何のために物理を教えるか
私は教育とは第一に,それぞれの対象分野での「理」とその展開の仕方を伝達することにあると考えています.このような教育をとりあえず《一般教育》と呼ぶことにしましょう.ここにおいては,細部の知識・技能はあくまで「理」の展開の仕方を例示する手段にすぎません.そして,物理教育とは物=理〔物(モノ)の理〕を通しての「理」の教育ということになります.一方,生徒・学生がある対象分野を志した(とみなされる)場合,彼等に対して施される教育(《専門教育》)は細部の知識と技能の伝達を主体とします.私は《専門教育》が多くの問題をかかえていることを知っています.しかし,以下では《一般教育》を中心に考察をしたい;というのは《専門教育》においては,一応,その目的(“何のために”)が明確であるからです.すなわちそれは,生徒・学生が給与生活者となったとき,自己の《第一の責任》が果たせるようにするための手段です.
「理」の展開には水平的展開と垂直的展開があります.前者には対象分野内の展開と諸対象分野間の展開がありますし,後者は歴史的過程に関わります.藤田の物理教育プログラムは,私には細部は不明なのですが,物理思想を時代一般の思想にからませ,かつ歴史的な展開をたどっており[6],私にとっては物理を中心とした水平的かつ垂直的な「理」の展開をめざすものとしての関心があります.また,板倉の「仮説実験授業」は生徒なりの「理」をあらかじめ自覚的に適用させて実験結果を予測させ,かつ実験結果によってその「理」を実証させるかあるいは反証させてより一般的な「理」に到達させるという方法です[7].そして,板倉が教育研究者であるとともにすぐれた科学史家であるのは偶然ではありません.
物理教育における「理」の垂直的展開の重要性について少し付け加えておきます.ある物理理論を学んだとき,その論証手続きのひとつひとつは理解できたが全体としてスッキリしないということがあります.あるいは,ある新しい物理量が出現したときその定義を知りその有用性をいくつか示されれば一応納得ということになりますが,やはりモヤモヤが残るということがあります.このような場合の多くは,理論展開あるいは物理量の必要性は理解できたが,その《必然性》が理解できないのだと思われます.すなわち,何故これらの手続きあるいは物理量であって他では不都合なのか? ある理論展開あるいはある物理量の究極の必然性はその現実の歴史にあります.物理教育において歴史をそのまま構成する必要は全く無いと思いますが,それを考慮しておくことは必要でありましょう.それは,たとえ回り道であっても――あるいは回り道であったとしたらなおさら――人類が実際にたどった道なのですから.
5.おわりに
最初に述べましたように,現代の科学者(そして教員も!)は給与生活者であり,給与生活者としての責任と知識人としての責任の矛盾の中におかれています.同じような事情は,実は教育を受ける側にもあります.いまどき教育を立身出世の手段と考えるのは余り現実的ではありませんが,しかし教育が将来ソンをしないための手段であること,あるいは少なくとも社会で広くそのように信じられていることは未だまちがいがないようです.教育を受ける側では,そのような考えに基づく親および教員の《思いやり》と自己独自の好奇心との矛盾の中におかれます.そして,その矛盾のイライラにおいては親とともに教員もまた加害者であります.さらにこのとき,この教員は一体いかなる人物であるかが生徒・学生のまなざしによって凝視されているのだということも留意されなければならない点です.
(了)
[1] J. P. サルトル/岩崎・平岡・古屋訳「知識人の擁護」『シチュアシオンVIII』人文書院(1974)所収.
[2] J. P. サルトル/松浪訳『存在と無 現象学的存在論の試み』(第三分冊)人文書院(1960),273ページ.
[3] C. F. カールソン/桂訳『戯曲アインシュタインの秘密』サイエンスハウス(1982).
[4] 白鳥紀一「“理論”について」『科学朝日』1983年2月号,102ページ.
[5] 小田稔「自然と文明」『科学・社会・人間』第10号(1984年10月1日),2ページ.
[6] 藤田祐幸「近代合理主義の“成り立ち”と“限界”:文科系教養物理の一つの試み」『科学・社会・人間』第10号(1984年10月1日),10ページ.
[7] たとえば,板倉聖宣「仮説実験授業とは何か:そのなりたちと授業運営法」『科学と方法:科学的認識の成立条件』季節社(1972)所収.