唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

科学的探究と風土(2).和辻哲郎『風土』における三つの類型

2022-11-30 | 日記

本記事は「科学的探究と風土(1)」のつづきであり,桂愛景『サルトルの饗宴――サイエンスとメタサイエンス』の第四部D「科学的探究と風土」の内容に基づく.採録にあたっては本ブログ用に編集がなされている.

唐木田健一

     *

(二)科学的探究と風土

(サクマの講演のつづき)

三つの類型

 和辻は風土を三つの類型において考察します[1].そのひとつはモンスーン的風土です.これは,インドおよび中国・日本を含む東アジアの風土であり,暑熱と湿気の結合として特徴づけられます.そして,そこにおける人間の構造は受容的・忍従的であるとされます.第二は沙漠的風土です.これは,アラビア・アフリカ・蒙古等にある特殊な風土であり,乾燥として特徴づけられます.そして,そこにおける人間の構造は対抗的・戦闘的です.類型の第三が牧場的風土です.これはヨーロッパの風土です.以下,私は科学的探究の風土としての牧場的風土に着目し,これを和辻に従って概観してみようと思います[2]

牧場

 ヨーロッパの風土が牧場的であるというのは皆様にとって意外であるかも知れません.そこで,ひとつの比較例として,日本を取り上げてみましょう.日本語においても牧場に対応する単語はあります.しかしそれは,単に,家畜をかこい置くだけの場所を意味するに過ぎません.一方,ヨーロッパにおける牧場は家畜の飼料である草を成育させる土地であり,一般的には草原です.それでは,日本における草原とは何か? それは利用価値のない捨てられた土地のことです.ヨーロッパの草原のような実り豊かなものではありません.つまり,ヨーロッパの牧場をそのまま言い表す日本語の単語はありませんし,日本にはヨーロッパ的意味における牧場はないのです.

 ヨーロッパの風土は湿潤と乾燥の総合ととらえることができます.すなわち,夏の乾燥と冬の湿潤の総合です.これは日本とは実に対照的です.そこでは夏は湿度が高く,冬は低湿です.特に夏の高温多湿は日本の風土を特徴づけます.これが先ほど申し上げたモンスーン的風土における暑熱と湿気の結合という特徴なのです.このような風土では雑草が生育します.雑草とは家畜にとって栄養価のない,しかも繁殖力の極めて旺盛な,従って牧草を駆逐する力をもった種々の草の総称のことです.それは夏草であって,その生育には高温多湿の環境を必要とします.ところが,ヨーロッパにおいては,暑熱と湿気の結合が欠けています.ヨーロッパにおける草は主として冬草であり牧草です.これは冬の湿潤にめぐまれて芽ばえ生育します.かくしてヨーロッパは全土が牧場となります.

 ヨーロッパにおいては日本でおなじみの雑草が無い.――これは和辻にとっては“驚くべき事実”であり,それを最初に指摘した同行の同僚の言葉を“ほとんど啓示に近いものであった”と受けとめています.彼はこれによりヨーロッパ的風土の特徴をつかみ始めたのです.

自然の従順

 日本の伝統的農業労働は米づくりであり,その中心を成す作業として雑草の除去〔田の草取り〕があります.これは暑熱の最中の作業であり,文字通り雑草との闘いなのです.一方,ヨーロッパにおいては雑草はありません.これは雑草との闘いが不要であることを意味します.ヨーロッパにおける農業労働においては自然との闘いという契機が欠けています.土地は,一度開墾されれば,いつでも従順な土地として人間に従っています.ヨーロッパにおいては農業労働はより安易なのです.そして,農業労働が安易であるということは,自然が人間に対して従順であるということに他なりません.

 暑熱と湿気の結合は大雨・洪水・暴風等をもたらします.日本における台風はその典型です.一方,暑熱と湿気が結びつかないと,このような自然の暴威はまれです.たとえば.ヨーロッパにおいては風は一般に極めて弱いものです.このことは樹木の形に表れており,それらは植物学の標本のように端正で規則正しい姿です.特に和辻にとって印象深かったのは,イタリアにおける笠形の松の木と鉛筆のように直立した糸杉であったようです.また,ドイツでは樹木が直立し,かつ幹と幹は互いに平行です.これはドイツの風景が整然とした感じを与えるひとつの理由と思われます.確かに和辻は北フランスにおいて曲がった楊(やなぎ)の木を観察しています.しかし,そこでは居並ぶ楊の木がそろって一方へ曲がっています.それらは曲線でありかつ平行なのです.このことは,風が整然と吹くことを示しています.このように,ヨーロッパにおける樹木の形は日本人にとっては実に合理的であるという感じを与えます.

 日本においては風が強いため,樹木の形は不規則です.松の木といえば幹に必ずうねりがあり,枝は必ず傾いています.日本の庭園においては,檜(ひのき)やひば〔檜葉〕に庭師が手を入れて規則正しい形をつくります.ところがヨーロッパにおいては,そのような規則正しさが自然の木において見られるのです.これらの観察と考察から,和辻は次のような興味深い結論を導出します.すなわち,日本においては合理的であること,あるいは規則正しさは人工的ということに結びつく.一方,ヨーロッパにおいては,合理的は自然的と結びつく.すなわち,自然が暴威をふるわないところでは,自然は合理的な姿に己を現してきます.人は自然の中から比較的容易に規則性を見出すことができます.そして,その規則に従って自然に臨むと自然はますます従順となります.このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探究せしめます.このように,ヨーロッパの自然科学は牧場的風土の産物なのであります.

ギリシア的風土

 牧場的風土の根源はギリシア的風土にあります.それは,明るく陰がないことと特徴づけられます.これは空気の乾燥によるものです.空気に湿気があると晴朗な日でも濃淡陰影を生じます.このような,明るく陰のないギリシア的風土においてはすべてがあらわです.自然の内に“見えざるもの”“神秘的なもの”“非合理なるもの”を求めるという傾向が強まりません.ここにおいては,自然は何事もかくしません.人々は,この何事もかくさぬ自然から観ることを教えられました.

 観ることはギリシアにおけるポリスの形成とも関係づけられます.ポリスの形成とは奴隷がつくり出されて市民が労働から解放されたということです.そこで市民は,労働からの一定の隔たりにおいて,観る立場に立つことができます.

 観るとは純粋に観ることです.手段として観るのならば目的に限定された範囲以上には観る働きは進展しません.純粋に観るとは一定したものを映すことではありません.無限に新しいものを見出していくことです.このことは観ることを競うことに通じます.これにより,芸術的・知的創造が起こってきます.

 観る立場といっても市民は労働を止めてしまったわけではありません.彼らは純粋に人工的な物質の生産を開始したのです.観るとは自然の形を見ることです.彼らは自然の素材に形を印刻する仕事を始めました.このひとつの例はギリシアの瓶の製作です.さらには,金属に形をつけること,あるいは織物を染めることがあります.これにより材料の支配と印刻のための諸手段が発展します.材料とは陶土・銅鉱・鉄鉱,あるいは染料・羊毛です.また,手段とは冶金・染織等です.かくして,ポリスは人工的技術的仕事を中心とし,地中海を支配するに至ります.

 技術とは観る立場の発展であります.それは実用から生まれたものではありません.それは観ることを競うことにより発展したものです.その後多くの技術が発明され,あるものは生活の必要を,また他のものは生の喜びをめざしたものでありましたが,後者は,その知識が有用をめざしていないという理由で,常に前者よりも尊ばれました.これが,最終的には,生の必要や生の喜びをめざさない学問に通じます.ここにおいて技術における観る立場はさらに発展し,真理の《観想》theōria――これはギリシア語で,looking atという意味ですが――に達するのです.

西欧の陰うつ

 西欧の風土も本質的に牧場的です.また自然も南欧と同様,あるいはそれよりも一層従順です.牧場的風土における地方的相違として,西欧はギリシア的明朗に対し西欧の陰うつと呼ぶことのできる特徴があります.

 西欧の陰うつとは直接には日光が乏しいことです.それは特に冬の半年において顕著です.南欧のギリシアにおいては,明るい日光のもと,ものの形が彫刻的に際立っており,個々のものがそれ自身をあらわにします.一方,西欧においては,すべてのものはもうろうとしていて輪かくを明らかにしません.不分明なものをつつむ無限の空間が現れます.そこで,ギリシアが静的・ユークリッド的・彫刻的・儀礼的として特徴づけられるのに対し,西欧は動的・微積分学的・音楽的・意志的であると言われます.これらは,ベートーベンの音楽,レンブラントの絵画,ゲーテの詩,あるいはニュートン物理学,カントの当為哲学,等によって代表されるものです.

牧場的風土に対する日本の風土

 日本はモンスーン的風土の一地方です.そこでは自然が予測できぬものを内に秘めて不規則に現れます.このことはすでに樹木の形の例で申し上げました.牧場的風土であるギリシアにおける作品の統一においては,規則正しい形,比例,等を見ることができます.日本におけるその代わりは,その場におけるフィーリングによる統一なのです.そのような統一からは,ヨーロッパにおけるような学問は発展しませんでした.

 牧場的風土においては自然は従順です.それは人力による支配が比較的に容易です.ヨーロッパは,いわば,全土が牧場なのです.一方,日本においては自然が温順でなく,隙あらば人間の支配を脱しようとします.先程申し上げた雑草との闘いはその一例です.ただし,日本の土地と自然は豊饒であり,そこからはいくらでも恵みを得ることができます.これにより日本ではすぐれた農業技術が獲得されました.しかし,この技術からは自然の認識を取り出すことはできませんでした.そこから生まれたのは理論――theōriaあるいはtheory――ではなく,俳句詩人・芭蕉に代表されるような芸術であったのです.

 風土を無視することは風土を超えることではありません.それはただ,風土的限定の内に無自覚に留まることです.一方,風土的限定を自覚しそれを超えたといっても,風土的特徴が消失するわけではなく,むしろそれにより一層風土的特徴が実現されるのです.この辺の和辻の主張はサルトル氏の『弁証法的理性批判』における必然性の考え方[3]と非常に近いものを感じます.ただし,それについての議論は本シンポジウムの枠を超えるようです.

 以上,忍耐強くお聴き下さったことを感謝します.(拍手)

(サクマの講演終了)


[1] 『風土』第二章「三つの類型」.

[2] 『風土』第二章の三「牧場」.

[3] J.=P. Sartre, “Critique de la raison dialectique, Tome I―Théorie des Ensembles pratiques” (1960). 日本語版『弁証法的理性批判 第一巻 実践的総体の理論』人文書院.第一分冊(竹内芳郎・矢内原伊作訳)1962年,第二分冊(平井啓之・森本和夫訳)1965年,第三分冊(平井啓之・足立和弘訳)1973年.この文献における必然性の考え方をここに略記することはできないが,次の一ヵ所のみ引用しておこう(第一分冊,279-280ページ).

ドップ工場の女工が,養うことの不可能な子供の出生を避けるために堕胎術を利用するとき,彼女は自分に課せられた運命を避けるために自由な決断をなすのである.しかしこの決断自身が客観的状況によって根本的に偽造されている.彼女は彼女自身によって彼女が既にあるところのものを実現する.彼女は自由な母性たることを彼女に拒むところの既に下されている宣告を,彼女自身に反して自らに下すのである.


科学的探究と風土(1).和辻哲郎の『風土』

2022-11-23 | 日記

本記事は,桂愛景『サルトルの饗宴――サイエンスとメタサイエンス』サイエンスハウス(1991)に基づく.この本の内容は,1965年6月におけるシンポジウム,“サルトルの『存在と無』の哲学に基づく科学的理性の批判”の記録〔v頁〕とされている(「サルトルの饗宴.主催者のあいさつ」).以下は本書第四部D「科学的探究と風土」の内容である.採録にあたっては本ブログ用に編集がなされている.

唐木田健一

     *

司会

 先程会場に到着された我々のゲストを御紹介します.東京から現在ヨーロッパに御出張中のケン・サクマ教授です.サクマ教授には,科学的探究に及ぼす風土の影響について御講演いただきます.(拍手)

サクマ

 『サイエンス・トゥデイ』編集部からの御依頼でここに参加しました.御招待いただいたことは光栄ですが,このシンポジウムの趣旨は私の専攻からはほど遠いように思われます.もちろん,日本においても科学に造詣の深い哲学の伝統が無いわけではありません.しかし,私は,残念ながらその系譜には属していないのです.

 私,実は,ヨーロッパを訪問したのはこれが初めてです.そして各地のいろいろな風物を観察しているうちに,あることを想い起しました.今から大分以前のことになりますが,日本の著名な哲学者,和辻哲郎は『風土――人間学的考察』という著書[1]において,風土とそこにおける人間の在り方を論じました.彼は,日本人として世界各地――その中にはもちろんヨーロッパも含まれます――の風土とそこにおける人間を考察しております.彼のヨーロッパ観察は1920年代のことです.従って非常に古いのです.しかし,私はここ2ケ月に渡るヨーロッパ旅行において,しばしば彼の文章のいくつかを思い起こしたのです.そこで,本講演において,私は和辻の『風土』の中からこのシンポジウムの内容に関わると思われることを御紹介しようと考えました.皆様にお気に召していただけるかどうかはわかりませんが,少なくとも科学的探究と風土に関し,皆様にとっては新鮮な視点を提供できるのではないかと思っております.

 

(一)状況としての風土[2]

 風土とは,或る土地の気候・気象・地質・地形・景観等の総称のことです[3].我々は通常,特定の土地に住んでおり,その土地の自然環境にとりかこまれています.我々はその自然環境を自然現象ととらえ,それを科学的に探究することができますし,またそれらの人間に対する影響も考察することができます.しかし,そのような立場は自然環境と人間を共に対象としてしまっております.――主体としての人間には関わりません.それに対し,和辻の言う風土とは主体的な人間存在の契機であり,人間の自己了解の仕方を指します.

 まず,ひとつの例として,気候現象のひとつである寒さというものを考察してみましょう.寒さとは一定温度の空気が我々の感覚器官に作用し,そして我々がそれを一定の心理状態として,すなわち寒さとして,知覚するものと考えられております.しかし,和辻はこのような考え方をはっきりと否定しています.本シンポジウムでもフェヌロン教授が視覚的知覚を例とし,同様な考え方に対する問題点を提起されたとうかがっております〔第一部および第四部A〕[4].そこで,繰り返しになるかも知れないのですが,もう少し和辻をフォローしてみましょう.

 寒さに関するそのような考え方は,まず,一定温度の空気という“外”と感覚器官および心理状態としての“我々”が独立に存在することを前提としています.しかし,寒さを感ずる前に寒気という独立な存在〔オリジナルとしての寒さ!――第一部参照[5]〕を我々はいかにして知るのでしょう.そんなことは不可能です.それに,そのような考え方は,寒さを“我々”の内にあるものとしています.しかし,寒さを感ずるとき,我々は内なる寒さの感覚を感ずるのではありません.寒いのは外気なのです.すなわち,寒さは,我々の対象として,外にあるのです.それは我々の〔客観的〕対象なのです.

 同時に,寒さを感ずるのは我のみでなく我々であります.日本においては,寒さを言い表す言葉は日常の挨拶にも用いられます〔「お寒うございます!」〕.これは我々が共通して寒さを感ずるからこそ成立するのです.もちろん寒さの感じ方は各々異なるでしょう.しかし,各々異なるということは,やはり,我々が寒さを共通で感じるということが前提です.

 次には,風土との連関というものを考慮しなければなりません.我々は寒さをただひとつ個別に感ずるのではありません.寒さとは,具体的には,たとえば寒風であり,その土地の特定の地形・景観との連関において,乾風〔“からっ風”〕であったり,山風〔“山おろし”〕であったりします.

 和辻は,我々は寒さにおいて自己自身を了解していると言います.ただし,寒さの自己了解とは主観に目を向けることではありません.つまり,(サクマ,原稿を取り上げる)

我々が己れを寒さのなかに移し入れ,その移し入れられたる己れをそこにあるものとしてあとから見いだすのではない[6]

それでは自己了解とは何か? (サクマ,再び原稿を取り上げ)寒さにおける自己了解とは,

我々は体を引きしめる,着物を着る,火鉢のそばによる.否,それよりもさらに強い関心をもって子供に着物を着せ,老人を火のそばへ押しやる.あるいは着物や炭を買い得るために労働する.炭屋は山で炭をやき,織物工場は反物を製造する.すなわち,寒さとの「関わり」においては,我々は寒さを防ぐさまざまの手段に個人的・社会的に入り込んで行くのである[7]

すなわち,寒さにおける自己了解とは寒さをのりこえるべく企てを指向することとして現われるのであって,主観の理解のことではありません.

 以上の和辻の主張は,私にとっては,サルトル氏の哲学体系との関わりにおいて興味深いものです.サルトル氏にとって寒さについての定立的意識は自己についての非定立的意識であり,それは自己についての定立的意識――つまり主観についての理解――ではありません(本書第三部におけるサルトルの講演「現象学的存在論の試み」)[8].さらに私は,和辻における“寒さ”あるいは一般に彼の言う風土は,サルトル氏の用語における状況として理解できるものと思います.状況とは企てにおける動機づけとひとつのものであり,それは企てにおいて,その目的の光に照らされた世界の構造のことです.そして,状況についての定立的意識は,同時に,目的を志向する企てとしての自己についての非定立的意識〔動因〕であります(本書第四部Bにおけるサルトルの講演「存在投企としての科学的探究」)[9]

 着物・火鉢・炭やき等は我々のつくり出したものです.

我々は風土において我々自身を見,その自己了解において我々の自由なる形成に向かったのである[10]

そして,ここにおける自己了解とは単に現在の我々だけではなく,祖先以来の了解の堆積でもあります.たとえば,家とは寒さを防ぐためのひとつの手段です.しかし,家は同時に暑さ,湿気,さらには暴風,洪水,地震,火事にも耐えなくてはなりません.木材,紙,泥といった建築材料は湿気を防ぐためにはよい材料です.しかし一方,それらは火事に対しては不都合です.

これらのさまざまの制約がその軽重の関係において秩序づけられつつ,ついにある地方の家屋の様式が作り上げられてくるのである.そうすれば,家を作る仕方の固定は,風土における人間の自己了解の表現にほかならぬであろう[11]

 以上は和辻における風土の基本的な考え方です.先程も申し上げましたが,彼の風土とは状況であると解することができます.我々は,状況とそののりこえの仕方において,対象的(=客観的)に自己の本質を規定されます.この本質は事実性と言われるものです.我々は事実性を非定立的に意識しています.これは我々の自己了解であります.また我々は状況および事実性に条件づけられています.条件づけられているとは決定されているということではありません.我々は“自己了解において我々の自由なる自己形成に向か”うのですから.そして,状況としての風土に条件づけられた家の様式とは,我々の事実性の対象的(=客観的)表現であるということができましょう.

 もうひとつ,手短かにつけ加えていきたいことがあります.それは,風土の自由なのりこえ――すなわち風土からの脱出――が同時に風土的様式の実現になるというこの必然性です.

〔「科学的探究と風土(2)」につづく〕


[1] 和辻哲郎『風土――人間学的考察』岩波書店,1935年.以下,単に『風土』として引用する.

[2] 『風土』第一章の一「風土の現象」に基づく.

[3] 『風土』においては,地質のあとに地味が付け加えられている.地味とは作物栽培における地質の良否の状態のことである.

[4] 本ブログでは,「視覚的知覚に関する考察(1)」以下の記事.

[5] 本ブログでは,「視覚的知覚に関する考察(2)」参照.

[6] 『風土』10ページ.

[7] 『風土』11ページ.

[8] 本ブログ記事としては「“生命の原理”の発現としての背景的意識:サルトルの非定立的意識(あるいは非反省的意識)を《実感》する」参照.

[9] 本ブログ記事としては「“半通約不可能性”における関係(1).サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」および「行動の“動機”“動因”さらに“本能”」参照.

[10] 『風土』12ページ.

[11] 『風土』12-13ページ.


1968年11月「東大・日大・全国学園闘争勝利・全国学生総決起集会」のとき

2022-11-16 | 日記

本記事は,唐木田健一『1968年には何があったのか 東大闘争私史』批評社(2004)の28章にもとづきます.文中の日付はすべて1968年11月を現在時としたものです.

     *

28.「革命の青写真」

11月22日(金)午後2時.

 今朝の新聞は,東大で両派が全国動員により総決起集会を開くことを報じ,両派の激突でまたもや流血の事態が発生することを懸念していた.両派とは全共闘と民青のことである.

 私が安田講堂前に来てからすでに1時間余りが経過していた.広場は学内外から集結した学生たちであふれた.今日は「東大・日大・全国学園闘争勝利・全国学生総決起集会」だった.2時には,日大全共闘のメンバーが到着するはずだったが遅れていた.お茶の水で機動隊の規制に遇っているらしい.

 私は先程支給されたヘルメットを左腕に下げていた.この頃は学内・学外を問わず,うっかりしていると何が飛んでくるかわからない状況だった.身を護る必要を感じ今日はヘルメットを受け入れた.特に,民青が彼らの言う「トロツキスト暴力集団」――つまり全共闘のことであるが――の実力排除を主要任務として活動を開始して以降,学内は剥き出しの暴力がぶつかる不穏な事態となった.

 民青は今日,赤門の近くで全国動員の集会を開いていた.7-8千人の規模のようだった.彼らが拠点にしている教育学部は赤門のすぐ近くにある.この間の日曜日,17日には2千人を越える民青の「外人部隊」〔学外者〕が教育学部に入ったことが確認された.ここは彼らの作戦本部となった.教育学部教授会もそれを事実上認めていると言われていた.

 また,彼らは本郷近辺の旅館を借り切り,常時千人規模の動員が可能な体制を採ったということだ.ある全共闘メンバーは,

 「ヤツらは闘争資金が潤沢でうらやましい」

 と言った.冗談ではないようだった.日本共産党が特定の闘争にこれほどまでに介入するのは多分めずらしいことだった.

 私は講堂前の集会に参加し座り込んでいる学生の中に,予備校の寮で同室だった渡邊君を見つけた.彼は,ヘルメットをかぶり,覆面用のタオルをあごひもにかけていた.私と違ってちゃんとした格好だった.彼とは,互いの進学する学科が決まったあと,駒場寮の彼の部屋で会ったままだった.

 そのとき彼は,物理工学科への進学が決まったと言った.それなら,彼の大学入学前からの希望が叶ったわけだった.お祝いを言おうとしたら,彼は

 「物工ならつぶしがきくだーが」

 と言った.「だーが」は,多分「だろうが」の短縮形であった.私は

 「うん」

 と応えたが,「つぶしがきく」の意味がわからなかった.「つぶす」の語感から,「勢いがある」→「ハブリがよい」というような連想をした.まさか自分のほうがつぶされる意味だとは思わなかった.

 さて,講堂前広場では日大全共闘の到着がアナウンスされた.彼ら約2千人は戦闘的なデモのスタイルだった.全員がヘルメットをかぶり隊列を横に揃え一団となって,頭を下げ腰を落として,

 「弾圧─」

 「粉砕!」

 「闘争─」

 「勝利!」

 の掛け声に合わせながら,堂々と入場した.壮観だった.私たちはみな歓声と拍手で迎えた.

 講堂を背に日大全共闘議長の秋田明大さんが挨拶した.秋田さんには10月4日に逮捕状が出されていた.官憲の包囲の中ここまで来るのは大変だっただろう.

 秋田さんの近くには,この間の理学部の「大衆団交」で教官たちを追及していた大学院生・山本義隆さんがいた.彼はこのところ,「東大全共闘代表」と呼ばれるようになっていた.

 午後8時頃デモに移った.本郷三丁目から竜岡門にかけては多数の機動隊が固めているということだった.私たちの一部の部隊は正門から学外に出て,民青たちのいる赤門のほうに行った.私は銀杏並木を通り総合図書館に向かうグループに入った.総合図書館は,今日の午前中,全共闘により電撃的に封鎖されていた.

 図書館前は,12日〔「全学総決起集会」〕のときと同様,民青の部隊で埋まっていた.また,図書館の両側には封鎖に反対する約千名の教官および《一般》学生がいた.彼らの中にはプラカードを掲げている者もあった.

 テレビ撮影用のライトで《顔見知り》の教授たちの一団が見えた.近くに「理学部教官」という横断幕があった.今日は両派の激突の恐れがあるということで組織的に動員されたのであろう.私たちの掛け声は,場面によって変化した.

 「民青――」

 「粉砕!」

 「闘争――」

 「勝利!」

 「封鎖――」

 「貫徹!」

 「闘争――」

 「勝利!」

 若干の小競り合いは別として,今日は大きな衝突はなかった.デモの最中顔を合わせた同級生の飯田は,「東大・日大両全共闘の連帯を軸に2万もの新左翼諸党派が統一戦線をもって結集したのは画期的だ!」という趣旨を声をはずませながら語った.私は10時前に構内を出た.

 アパートに戻ったが空腹だった.通りに出て屋台のおでん屋に寄った.客は私のほかに二人いた.ラジオが置いてあり東大からの実況中継をしていた.それを聞いていた屋台の主(あるじ)は,

 「こんな学生ども,皆殺しにすればよいのに.ねえ,お客さん」

 と言って私のほうを見た.私は黙っていた.

      *     *     *

 この頃,世間の進歩的な人々は,全共闘が革命の青写真を示さず,現体制の矛盾の指摘ばかりしていると非難をはじめていた.私の見解によれば,非難すべきことかどうかは別として,彼ら文化人たちの指摘している事実自体は正確だった.そして,彼らの思惑とは逆に,私が全共闘に共感しているのは,まさにその点だった.

 青写真とは,めざすべき理想あるいは実現すべき正義のことであろう.現実の状況はその青写真との比較において評価される.私は,サルトルとともに,一般道徳律すなわち絶対的正義の存在を否定する立場から,革命の青写真などナンセンスと思った.そのような正義には根拠がない.それは単に信仰の対象に過ぎない.また,仮にそのような青写真が一定の人々に共有されたとしても,それはいざ具体的場面となると,いかようにも解釈のできるものに変容する.つまり,ほとんど無内容なのだ.たとえば,日共=民青の「大学の民主化」などがまさにそれだった.

 私は,科学において古い理論が破れ,新しい理論が生まれるプロセス――科学の革命――からも学ぶところがあった.ニュートン力学のような基本理論は,実験データによって反証されて新しい理論に変わるのではない.あるいは,古い理論とは関わりなく新しい理論――青写真!――が着想され,それが古い理論を駆逐し確立されていくのでもない.科学革命は,古い理論の中に身を置いた革命家が,その内部矛盾に遭遇し,それをのりこえることによって引き起こされる.

 革命家は例外なく,古い理論に精通し熟達し,それに馴染んだ人だ.彼は何か自己特有の真理基準をもって革命を導くのではない.彼は,試行錯誤で現実の矛盾をのりこえる地平を発見することにより,新しい理論に至る.このプロセスは非論理的な飛躍である.

 だから,私は,頭ごなしに特定の価値観を持ち出すことはせず,大学の体制における現実の矛盾をとらえ指摘し,それをのりこえようとしている全共闘の運動は,私の運動でありまた方法であると思った.

 革命家の遭遇する矛盾は,彼自身が精通し馴染んだ古い体制の矛盾である.だから,その矛盾は決して他人事ではなく,彼〔彼男/彼女〕自身が関与しているものだ.この意味で私は,最近全共闘の人々が主張し出した「自己否定の論理」も,そのまま肯定的に受け入れることができた.

 ただ,注意せねばならない.絶対的真理や絶対的正義は存在しないとして,真理や正義が崩壊してしまったわけではない.それらは,現実の矛盾の中に,未だ存在しないものとして,相対的に姿を現しているのであり,それが私たちを導いているのである.

 私は,個人的な規範として,――たとえば「労働者の解放!」といった――抽象的正義にもとづいては行動しないことを決めていた.すなわち,政治的行動にあたっては,自分にとってのりこえるべき具体的矛盾を必ず確認することにした.その上で,私は,自分が為したことは一生引き受けていく覚悟をした.少なくとも,年を経たあとで,「あれは若気の過ちであった」などとニヤケながらしたり顔で語るようなことは絶対にするまいと思った.そんなことになるぐらいなら《穏健保守》のほうがよっぽどましであった.

(了)


サルトル『実存主義とは何か』から「一般道徳律は存在しない」.1968年のこと

2022-11-09 | 日記

本記事は,唐木田健一『1968年には何があったのか 東大闘争私史』批評社(2004)の11章にもとづきます.文中の日付はすべて1968年8月を現在時としたものです.

     *

11.実存主義

 8月20日(火).

〔前半部省略〕

 私は,最近になって,科学史における基本理論の交替のメカニズムと関連して,道徳についてのサルトルの通俗講演『実存主義とは何か』の断片が気になり始めていた.これは,やはり子供の頃からの疑問である「正義とは何か?」に関わっていた.その講演でサルトルは,「一般道徳律は存在しない」と主張していた.つまり,個別正義を記述する一般法則はないということだ.これは重大だったし私のこれまでの漠然とした思いとも完全に一致していた.

 『実存主義とは何か』は,第二次大戦後間もない1945年10月,サルトルがパリのクラブで行った講演の記録である.ここで彼はまず,「実存主義に向かってなされたいくつかの非難に対して,・・・・・実存主義を擁護したいと思う」と述べる.当時,サルトルらの実存主義は多くの共鳴者を生み出すと同時に,社会の生真面目な人々からは,さまざまな非難を受けていた.サルトルは,次のようなエピソードを紹介する.

 われわれに向けられる本質的な非難は,ご承知のように,人間生活の悪しき面を強調するということである.近ごろ聞いたことであるが,或る婦人は,腹を立てて思わずきたない言葉を口にすると,無礼を詫びてこういうそうである.「私も実存主義者になったようです」と.

 この講演の最初の方でサルトルは,ペーパーナイフはその本質が実存に先立つが,人間は逆にその実存が本質に先立つと述べ,これが実存主義の考え方の特徴であると言う.ペーパーナイフは単に一例として持ち出されだけだ.別に,ボールペンでもレコードでもかまわない.ペーパーナイフは多分当時の書斎におけるありきたりの小道具のひとつだったのだ.

 ペーパーナイフは,まずは職人の頭の中に,ひとつの概念として生まれたものである.職人はその概念にもとづき,一定の製造法を採用して,このペーパーナイフを実際に作った.だから,ペーパーナイフは,ある仕方で作られたものであると同時に,一定の用途をもっている.この物体が何の役に立つのかを知らずにペーパーナイフを作る職人はいない.この意味で,ペーパーナイフに関しては,本質――ペーパーナイフを定義し得るための性質や製法の全体――は,実存――作られた結果として現実にここにあること――に先立つと言える.

 創造者としての神を考えるとき,それは大抵の場合,優れた職人と同一視されるのが普通である.神が人間を創造したときにも,神は自分が何を造るのかを正確に知っていたということが前提だ.この意味では,神の頭における人間の概念は,職人の頭におけるペーパーナイフの概念と何ら変わるところはない.だから,人間は,神の想定した概念を実現する存在ということになる.このように考えるとき,人間は,ペーパーナイフと同様,その本質は実存に先立つ.

 18世紀になると哲学者たちの一部は無神論を採用した.そこでは神の概念は廃棄された.しかし,人間の本質は実存に先立つという考えはそのままだった,とサルトルは言う.すなわち,人間は人間としてあらかじめ定められた本性――人間性――をもっているとされたのだ.

 ところで,サルトルが代表する実存主義は,人間においては実存が本質に先立つと主張する.それは,人間はまず実存し,自己の境遇を受けて自己をつくり,その結果として(――たとえば,「あいつは・・・・・・なヤツだ」といった形で――)定義されるものだということだ.

 この考えにもとづけば,人間は元来,何ものでもない存在である.したがって人間のあるべき姿なるものは一般には存在しない.それは各人が望み・つくるところのものだ.同じことであるが,完全無欠な人間なるものは存在しない.また逆に,欠陥のある人間などというのも存在しない.

 このように,人間にはあらかじめの本性なるものは存在しないのだから,人間が行為し選択するに当たっては,それをガイドする先天的な指標は何も存在しない.あるいは,指標はあったとしても,それは自らが選び取ったものだ.その指標を選び取るに当たっての指標は存在しなかったのだ.

 もし,本質が実存に先立つのなら,私たちは与えられた人間性を頼りに生きることができるが,その道は塞がれている.このやっかいな事態がサルトルの言う人間の自由に関わる.人間は自由でしかない.あるいは,人間は自由であるように拘束されている.人間はすべて,自分の責任で自己をつくるという運命からは逃れられない.

 このようにして,サルトルは,一般道徳律――人間をあるべき姿に導く先天的な指標――は存在しないと結論する.指標があるかのように生活している人もいる.しかし,実際その指標のもつ意味を選び解釈しているのは,その人自身である.サルトルはキルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813~1855)が「アブラハムの不安」と呼んだものを紹介する.あるとき,天使がアブラハムに,彼の息子を犠牲に捧げよと命令した.「汝はアブラハムなり.汝の息子を犠牲とせよ」と告げにきたのが本当に天使であるなら文句はない.しかし,あれは確かに天使なのか? そして,自分は確かにアブラハムなのか? 何がそれを証明するのか? 彼はそれを納得するためのどんな証拠,どんな印も発見できない.ひとつの声が私に語りかけるとして,それを天使の声であると決定するのは,常に私である.

 一般道徳律の存在を否定したとしても,世の中においては価値観に関わる問題は常に存在する.それらは,いかにして調停・裁定ができるのか.これについてサルトルは余り立ち入った議論はしていなかった.次に引用するのがほとんどすべてだ.しかし,これは私にとって大きな示唆となった.

 人々は他者の前で選択し他者の前で自己をつくる.サルトルは,自己や他者の行為に対し,価値的判断ではないかも知れないが,真偽に関する論理的判断はできると言う.それによって,たとえば,私はある人の判断を欺瞞的であると指摘することができるというのだ.しかし,人間は自由である.どうして欺瞞的であってはならないのか? これに対してサルトルは次のように答える.

君が欺瞞的であっていけないという理由は一つもない.だが僕は,君は欺瞞的だ.厳密に一貫した態度こそ誠実な態度だと断言する

ここで,強調は私による.

 一貫した態度とは,矛盾のない態度ということであろう.私は,科学史における基本理論の交替において,理論内部の矛盾が本質的役割を果たしていることを想起した.理論の交替とは,結果的には二つの理論のうちの一方が採用され,他方が廃棄されるということだ.だが,ここでは,外部から何らかの《一般的真理基準》が適用されて一方の理論が選択されるのではない.古い理論が内部矛盾を露呈し言わば自滅することによって新しい理論が導かれるのだ.

 一般道徳律は存在しない.これは,絶対的正義は存在しないということだ.それぞれの価値観はそれぞれの正義を有している.私たちは,ある価値観の尺度をもって別の価値観をはかることはできない.とはいえ,これは価値観に関わる議論ができないということを意味するのではないであろう.それぞれの価値観はそれぞれの正義を有している.したがって,ある価値観を評価するには,その価値観の正義を徹底してその価値観に当てはめてみればよい.これは,その価値観の首尾一貫性――内部矛盾がないか――を評価することだ.これが,「正義とは何か」という長年の疑問に対する自分なりの考察の結論だった.この結論は重要だった.

 この6月17日〔の大河内総長による大学構内への機動隊の導入〕以来,私も,そして多くの同級生たちも,ひとつの「先天的道徳律」にこだわっていた.それは,まさに8月10日付の「〔総長〕告示」に明瞭に記載されていた.すなわち,

 その理由の如何を問わず,不法な実力の行使によって大学の機能を妨げる集団行動が学園にふさわしくない非知性的なふるまいであることは言をまたない

ということだ.「その理由の如何を問わず」とか「言をまたない」というのがまさに先天的道徳律であることを示していた.

 封鎖・占拠した学生の振る舞いは,何か与えられた手続きやルールに沿ったものではない,という意味では明らかに不法だった.これが私たちに全学共闘会議支持をためらわせていた.しかし,一般道徳律は存在しない.問題はその《不法行為》の理由だ.彼らには他に手段が残されていたのだろうか.封鎖・占拠を行ってすら当局はあんなレベルだ.封鎖・占拠という不法手段だったからあんなレベルに留まっているというのでは全くない.封鎖・占拠でもってやっと動き出したのだ.とはいえ,もちろん目的は手段を正当化するわけではない.採用した手段の必要性・必然性は目的に即して正当化されなければならない.

 一般道徳律は存在しない.私は,今度は,「その理由の如何を問わず」とか「言をまたない」と言っている当人たちが,首尾一貫して振る舞っているかどうかをしっかりと問わなければならないと思った.

(了)


サルトルの弁証法 The Dialectic of Jean-Paul Sartre

2022-11-02 | 日記

ここに掲載するのは、唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ』ボイジャープレス(2019)の第九章「サルトルの弁証法的理性」の冒頭部分である。引用にあたっては、本ブログ用に編集がなされている。

     *

「疎外」ということ

最近は「疎外」という表現をほとんど耳にしない。これは、かつては、流行語のようであったものである[1]。社会において疎外という現象が消失したわけではない。概念としての「疎外」は、主としてマルクス主義の影響を通じて、社会に浸透した。ところが、そのマルクス主義が、すっかりすたれてしまった。多分それに伴い、「疎外」という語もすたれてしまったのである。さらに疎外は、消失するどころか、いまやほとんど日常に浸透してしまっている。そのため、議論の対象としての目新しさを失った。目新しさというのは、ある種の人々にとっては、非常に重要な要素である。

辞書的意味によれば、ここでいう「疎外」とは、「人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態」のことである[2]。「疎外」の語は確かにほとんど耳にしないにしても、たとえば「自分探し」などということはしきりといわれている。「自分探し」といっても、それをおこなうのは自分である。すなわち、「いまの自分は本来の自分ではない」という思いが前提になっているのであろう。あるいは、「自分の居場所を見つける」などということもいわれる。ここでも、「自分は本来いるべき場所にいない」のである。

疎外論が盛んであった時代には、「自由な実践」というものが追求されていた。そして、その自由な実践が、自分自身や社会に反するものを生み出してしまうことに関心がもたれていたように思われる。ところが、現在では、「自由な実践」なるものは多くの人々にとってほとんど空語である。人々は、程度の差はあれ、自分の行動が社会的に強いられているのを感じる。そして、少なからぬ人々が、「自分は自分でない」という思いを抱いている、ということなのであろう。

これを社会的な力関係の問題と考える人もいる。すなわち、自分は「弱者」だからこういう思いをするのではないか、ということである。もちろん、力関係はきわめて重要である。また、何らかの事情で「弱者」が「強者」あるいは権力者になったとしたら、その人の目先は大いに変わることであろう。しかし、疎外の興味深いところは(すでによく知られていることであるが)、それは権力者にも起きるということである。それどころか、自分の権力の大きさを自覚すればするほど、権力者のほうが疎外感は大きいということもできる。

 

ヘーゲルとマルクス

「労働者は、彼がより多くの富を生産すればするほど、彼の生産が力と嵩を増せば増すほど、それだけいっそう貧しくなる。労働者はより多く商品を製造すればするほど、彼はそれだけいっそう安い一個の商品となる。事物世界の価値増大に、人間世界の価値下落が直接比例してすすむ」(下線は原文における傍点)[3]。マルクス(1818-1883)は、この「国民経済上の現在の事実」から出発して、「疎外された労働」を論じた。この「疎外」という概念は、ヘーゲルから借用されたものである。ヘーゲルは、精神(意識)が自己にとって他者となり、自己自身の対象となることを「疎外」と呼んだ[4]。これは意識の弁証法的運動によるものである。

マルクスの記述したこの事実は、現在の日本社会においては、文字通りかつ直接的には見られないのかも知れない。しかしそれは、現在の私たちの周辺でも、さまざまに姿を変えた形で、見出すことができるであろう。

ところで、ヘーゲルにおいては、弁証法は思考(知、意識、精神)に関わるものであった。彼が取り上げたソクラテスの弁証法も、そこにおいて矛盾が暴かれるのは、ソフィストたちの思考である(「ヘーゲル弁証法のエッセンス」)。また、「理論変化における矛盾の例:20世紀物理学革命と“弁証法”」では、科学革命の過程における弁証法を紹介したが、それは理論、すなわち探究者の思考に関わるものである。他方、マルクスが記述したのは、明らかに思考対象(存在)に関わる出来事であって、思考に生じた矛盾なのではない。

ヘーゲルにおける思考対象は、「知」(意識に対する或るものの存在)としても、また「真」(存在自体)としても、意識に属するものであった。これが、ヘーゲル哲学が「観念論」と呼ばれる理由である(☆)。他方、マルクスの弁証法は対象(物)に関わるものであり、「唯物弁証法」として知られるものである。そうであるなら、それは思考とはいかに関わるのか。すなわち、その真理性はいかにして認識可能なのであろうか。

☆マルクス主義においては「観念論」はある種の非難・軽蔑のニュアンスを含むようであるが、ここではそのような意味はもたせていない。

弁証法が対象に関する法則であるなら、それは社会科学や自然科学における法則と同じ種類のものなのであろうか。すなわちそれは、経験によって検証または反証されうる性質のものなのであろうか。あるいは弁証法は、かつて一部の人たちが強弁したように、社会科学や自然科学の法則を越えた普遍的な法則なのであろうか。そうであるというなら、その根拠は何なのか。これらをはじめとする諸問題を扱ったのが、サルトルの『弁証法的理性批判』[5]である。

 

全体化作用

サルトルによれば、「弁証法とはまず、自己形成のさ中にある統一体の現実の運動」にほかならない[6]。あるいは、「弁証法とは、全体化しつつある多数の個別者によっておこなわれる具体的な全体化諸作用の全体化」のことである[7]。これらから、全体化というのは、「多様の総合的統一」を追求する運動のことであることがわかる(「新理論の形成:首尾一貫性の追求,欠如,矛盾,そして弁証法」)。そして、それは運動なのであるから、進行中の作用である。全体化には絶え間がなく、個別の全体化はさらなる全体化の運動へと統合される(☆)。

☆全体化には「行動の構造」(「サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」)が直接に関わっている。全体化は実践であり、目的(上層)に向かっての与件(下層)の統合である。そして、与件とは、一般に多様なものである。この多様はまた、ポラニーのいわゆる「諸細目」(「マイケル・ポラニーの暗黙知」)にあたる。全体化(「包括的存在」)においてこそ、多様はその全体としての意味を与えられる。

ヘーゲルによれば、「真理は全体であり、それはみずからの展開を通じて、みずからを完成する」(「ヘーゲル弁証法のエッセンス」)。また、サルトルにとっても「真理とは成りつつあるものであり、それは現に在り、将来成り了えてしまう筈のものである。それはいわば、たえず全体化されつつある全体化である」(下線は原文における傍点)[8]。この点において、サルトルはヘーゲルにしたがっているようにみえる。

しかし、サルトルにとっての弁証法は、思考の法則であるとともに、対象(存在)の法則である。そして、(マルクスと同様)対象は思考(知、認識、意識)に還元し尽くされないことを主張する[9]。すなわち、観念論は否定される。そうすると、ここに一つの問題が生じる。

思考とは、対象についての思考である。したがって、思考と対象は相対するものであって、別ものである。対象を思考に還元することができないのと同様、思考を対象に還元することもできない。そこで、対象の運動と思考の運動とを合致させることが必要になるが、それを思考に許すものは何もない。また予定調和を期待することもできない。それでは、対象と思考の弁証法は、いかにして一致させることができるのか。「思考は対象についての思考である」という理由で、思考に関する法則を対象に関する法則に合わせるのであろうか。その場合、対象に関する法則は、「そういうもの」として思考に与えられるだけであろう。思考の弁証法的運動としてそれを了解することはできない[10](「サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」)。

 

全体性と全体化

探究に先立ち、全体性の観念と全体化の観念とを区別しておく必要がある[11]。全体性は諸部分から構成され、諸部分との関係、あるいは諸部分間の関係との関係において姿を現すものである。たとえば、シンフォニーというもの、絵画というものがそうである。全体性は、過去の実践の残留物であり、惰性的な性格を有する(☆1)。これに対し、全体化は進行中の統一化作用である。それは進行中なのであって、停止すれば全体性に戻ってしまう。一つの住居の総合的統一化作用とは、単にそれを生産する実践だけではなく、そこに住まう行為でもある。住居が住居だけに還元されれば、それは多様な惰性に戻ってしまう(☆2)。

☆1「実践」は「行動」と同義である。サルトルは投企を論ずるとき、『方法の問題』では主として「行動」という表現を用いているが、『弁証法的理性批判』では主として「実践」が用いられ、「行動」はその補助として、たとえば「実践の行動主体」というように用いられている。なお、「実践」と対照されるのは「惰性」である。惰性とは物質の法則にしたがう性質のことである。他方、実践は人間の自由にもとづく。「実践」と「惰性」は重要な対である。

☆2同様にして、シンフォニーというもの、絵画というものは確かに全体性であるが、それらを制作する行為はもちろん、それらを鑑賞する行為も、全体化作用である。

 

対象の弁証法と思考の弁証法の不可分性

弁証法は全体化の運動である。したがってそれは、存在論的見地からは、対象として進行中の全体化作用そのもののことであり、また認識論的見地からは、その全体化作用の一契機をなす思考(すなわち、私)の全体化の歩みのことである。すなわち、全体化作用は、それ自身のうちに、自己の反省的な再全体化作用を、総過程中の一全体化過程として、不可欠の一構造として、含んでいるのである[12]。これが、対象の弁証法と思考の弁証法とが不可分である理由である。

ここで「反省的な再全体化作用」とは、全体化の進行具合をあらためて振り返ってみるということである。この振り返り(私による反省)は実践に影響を与え、その結果として全体化運動にも作用する。すなわち、ここにおける思考(認識)は、対象としての全体化作用を観照しているのではなく、その中に巻き込まれているのである。なお、「全体化作用の一契機」における「契機」とは、「全体を構成するための不可欠の要素」を意味する。

(この項終了)


[1] たとえば、松浪信三郎編『人間疎外』至文堂(1971)。

[2] 『デジタル大辞泉』小学館(CASIO XD-GW9600)。ここに引用したのは、記載されている三つの項目のうちの二番目である。三番目の項目は「⇒自己疎外」となっている。

[3] カール・マルクス「疎外された労働」、藤野渉訳『経済学・哲学手稿』大月書店(1963)から引用。この論文を含むマルクスの「第一手稿」は1844年の執筆である。

[4] 『精神現象学』(ラッソン編第三版)、p.32。ここには「精神の無媒介な定在つまり意識」という記述がある。これは「精神」と「意識」の関係を表す。

[5] J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique, Tome I―Théorie des Ensembles pratiques” (1960). 日本語版は『弁証法的理性批判』人文書院(I竹内芳郎・矢内原伊作訳1962、II平井啓之・森本和夫訳1965、III平井啓之・足立和弘訳1973)。本章では主として日本語版のIを参照した。以下で本書を引用する際は『弁証法的理性批判I』と記し、そのページを示す。

[6] J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)/平井啓之訳『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)、p.79。以下で本書を引用する際は『方法の問題』と記し、そのページを示す。

[7] 『弁証法的理性批判I』、p.34。

[8] 『方法の問題』、p.38。

[9] 『弁証法的理性批判I』、p.16。

[10] 『弁証法的理性批判I』、p.18。

[11] 『弁証法的理性批判I』、pp.44-45。

[12] 『弁証法的理性批判I』、p.46。