ここに紹介するのは,都城秋穂「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」〔小島丈兒先生追悼文集刊行会世話人編『小島丈兒先生追悼文集』(非売品,2007年)における特別寄稿,pp.3-53〕のうちの二つの部分(pp.31-34,pp.39-41)からの抜粋であり,本記事はその前部分である.後の部分「われわれの閉塞感の行方」はこのあと別に掲載する.文中の〔 〕は私が挿入したものである.なお,この「追悼文集」の対象である小島丈兒(1916-2006)は東京帝国大学理学部地質学科出身であり,広島大学理学部教授を務めた.
タイトルには「学問的低さ」との表現があるが,これは地質学界だけの問題でもまた都城らの世代だけの問題でもないと私は思う.
著者・都城については本ブログ記事「都城秋穂『科学革命とは何か』の紹介」,「無機化学者・斎藤信房と地質学者・都城秋穂」,および「日本の地質学界におけるプレートテクトニクス受容過程の理論科学的考察」の後半部参照.
唐木田健一
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都城秋穂(ニューヨーク州立大学名誉教授)「日本地質学史のなかにおける小島丈兒氏」から
日本の地質学界の学問的低さと,私たちの世代の閉塞感
私は上に,1930年代の日本の変成岩や花崗岩の研究の方面で広く指導者(あるいは模範)と見られてきた鈴木 醇,杉 健一,小出 博という三人の岩石学者のことを書いた〔文末注☆〕.彼らは日本の変成岩地域を研究し,その結果は,日本の地質学界の代表的研究とみられ,彼らは一般に日本の岩石学の指導者とみられていた.しかし,彼らの成因論的な議論の内容を,ちょっと批判的に検討してみると,どれ一つとして,検討に耐えるものではなかった.彼らの成因論は,まるで論理になっていなかった.それらは如何なる学説をも証明する力がなく,如何なる学説をも否定する力がなく,議論として無意味であった.
私は1943年の秋,大学院に入って,朝鮮中部のアルカリ深成岩の研究を始めた.しかし,研究をやり始めるとすぐに,それが火成岩とは思われなくなった.それは変成岩なのかもしれないと思ったが,私も,私の周りにいた誰も,変成岩の知識がほとんどなくて,私の研究は行き詰った.困惑しているうちに,私の大学院の期間は終わった.それは1945年の秋で,太平洋戦争が敗戦で終わったのと,ほとんど同時であった.
1946年以降私は,変成作用をもっとよく理解するために,自分で変成岩の研究をしようと思うようになった.そこで私は,変成岩の研究をする上の自分の研究方針を見出すための参考資料として,1930年代の日本のそれらの岩石学者たちの研究を批判的に検討した.そしてすぐに,上に述べたように彼らの成因論的研究が,何物をも証明しないし,何物をも否定しないので,すべて無意味であることに気がついた.彼らは,そのころ世界的に広く知られていた何かの学説を日本に輸入して,日本の変成岩を説明しようとしたのであって,世界的に見て新しい学説を立てるとか,新しい見地を開くとかいうようなことは,全く考えていなかった.当時の日本の地質学も,そのなかの岩石学も,世界的に見ると学問的水準が低くて,本当に新しい学問をつくるような研究をすることを考えようとする水準に達していなかったのである.しかしそのように,外国の出来合いの学説を輸入することは,私にはあまり魅力的には感じられなかった.輸入ではなくて,何か世界的に見ても本当に新しいものを自分で作りたいと思った.しかし,それではどんな方針で,どうしたらよいのかということになると,私は見当もつかなかった.研究方針が立たなくて,行き詰まった.このように,研究方針が立たなくて,行き詰まって,動きようのない状態からくる焦燥感のことを,私は本稿では簡単のために閉塞感とよぶことにしよう.
1946年から,私と石岡孝吉さんが東大の岩石学の助手になった.ふたりとも,これから何をどう研究したらよいかを考えては,閉塞感に悩んでいた.岩石学は「何物をも証明しないし,何物をも否定しない」というのは,そのころの石岡さんが放った名言であったが,私もまったく同感であった.日本には,指導者も模範もいないと思った.ふたりとも,日本の地質学界は学問的に低すぎて,その評価は当てにならないことを痛感した.この上は,欧米の論文をできるだけ広く読んで,できるだけ多くの見方や考え方を知り,それらを批判的に検討して,自分の探究の方針を自分で立てるよりほかはないと思った.もちろん欧米にも,つまらない研究が多いに違いないが,それでもたくさんの研究のなかには,稀に何か新しい見解の出発点になるような事実か発想があるかもしれない.そうでないまでも,世界でこれまで何がどんなに論じられたか,何が論じられなかったかを知ることは,われわれの考え方を有効に進めるために望ましいことだと思った.そこでふたりは,毎日毎日,朝から晩まで,欧米のめぼしい論文を見付けては読み続けた.暗中模索しながら,五里霧中で彷徨する状態で,読み続けた.しかし暗中模索で読むことは,能率の悪いものである.いつまで経っても,前途に光が見えなかった.私はよく絶望的な閉塞感に見舞われたが,それを我慢して,読み続け,考え続けた.
小島〔丈兒〕さんは私より4年上にすぎなかったから,ご自分で岩石学の研究を始められたころ,私と似た閉塞感をいくらか経験されたに違いない.鈴木 醇や杉 健一の論文を検討して,それらの成因論的な議論に満足されたはずはない.しかし小出 博に対する関係だけは,小島さんと私とではたいへん違っていた.小出 博の大学院在学期間は,小島さんが学生だった時期に重なっていたから,小島さんは勉強を始めたばかりの時に,小出から直接に話を聞かれる機会も多く,小出の神秘的な話術やさまざまな苦心談に巻き込まれたことであろう.そこで小島さんは,たとい鈴木や杉に失望しても,小出の研究のような方向を自分の進むべき道の一つの可能性だと考えられたのは自然なことであった.
〔後略〕
注☆都城はこの「特別寄稿」のなかで以下の人物をていねいに紹介している.それにもとづいてここでごく簡単に触れておくと:
鈴木 醇(1896-1970).東大地質学科出身.(旧制)第一高等学校教授.チューリッヒの連邦工科大学に留学後,北海道帝国大学の岩石学の教授,その後応用地質学の講座担任教授に移る.
杉 健一(1901-1948).東京帝国大学理学部地質学科出身.東京高等師範学校教授,のちに九州帝国大学の理学部地質学教室の教授となる.
小出 博(1907-1990).東大農学部林学科出身.卒業後大学院に進学し,理学部地質学教室での講義を聴講する.地質調査所勤務を経て,東京農業大学教授となる.
〔「われわれの閉塞感の行方」につづく〕
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