ST氏からのメールの一部
〔前略〕
先日NHKの衛星放送を眺めていたら米国発の番組で,DNAの構造を発見したワトソン(とクリック)の成果は,さる女性研究者のデータを盗んだ結果であるという内容のものでした.あまり昔のことではないので当事者の多くは存命中で多くの証言が盛り込まれていました.ワトソンもまだ生きているそうですが,この番組の取材を拒否したそうです.私は不勉強でこのことを全く知らなかったのですが,関係者の間では有名な話なのだそうですね.詳しい話をご存知でしたら教えて下さい.
Kからの返答
ワトソンの『二重らせん』はお読みになりましたか.原書[1]は私が学部生のときに出版されて,その後日本語版[2]が出ています.私はまず日本語版を読みました.事情をよく知らなければ大変に面白い内容です.原書には数年前に初めてペーパーバックで接しましたが,あのお調子者のワトソンにしては,しっかりした英文でした.
問題の件については,私は若干の論文に目を通しています.また,単行本としてはアン・セイヤー『ロザリンド・フランクリンとDNA:ぬすまれた栄光』[3]を読みました.経過と内容を整理・精査してみようと思っていていまだそのままです.
ロザリンド・フランクリンはDNAのX線解析をしていた研究者で,『二重らせん』ではモーリス・ウィルキンスの「助手」とされています〔22頁〕.彼女はウィルキンスに逆らい,またワトソンたちを敵視する愛想の悪い恐ろしい女として描かれています.(ただし,本の最後のほうでは若干ニュアンスの異なった表現となっています.)この本は,多分原著が刊行されてすぐのことと思いますが,F教授が読んで彼の講義時間に紹介してくれました.彼は,「フランクリンはどんな女かと思って読み進んでいたら写真があって,知性的な美人なので予想外でびっくりした」という趣旨を語ったと記憶します.
問題は,ワトソンの本自体が明らかにしていますが,DNAの構造を探究するにあたって,フランクリン(およびウィルキンス)のX線写真がつねにガイドの役割を果たしたということです.それはそうで,何も手がかりがなければ,構造モデルなど作れません.ワトソンとクリックは,とくにフランクリンに関しては,彼女の知らぬうちに,いわばunfairな(すなわち汚い)手段で,この写真を入手し参照しました〔ワトソンの本178-179頁,193-194頁〕.X線写真だけでフランクリンが独自にDNAの構造を発見できたとは思いませんが,それはきわめて重要な要素であったことは明らかです.実際,ウィルキンスはワトソン-クリックとともにノーベル賞を受けています.また,ワトソン-クリックの有名な論文[4]では,ウィルキンスとフランクリンに対し,私からみたらかなり微妙な表現で,謝意を記しています(注[4]に引用).
なお,セイヤー[3]によれば,フランクリンとウィルキンスはともに,キングズ・カレッジ・ロンドンでランドル教授の研究室の所属でした.ここでの彼らは同格であり,それぞれが研究グループのリーダーでした.「彼女は決して助手ではなかったし,助手として迎えられたのでもなかったのだ」とセイヤーは書いています(同書12頁).
ノーベル賞受賞の時期(1962年)にはフランクリンはすでにガンで亡くなっていました.また健在だったとして,受賞者は3人以内に限定されていますから,どうなったかはわかりません.まあ,こういう不運は人生につきものと言えるのかも知れません.
私が彼女を非常に気の毒に思いワトソンを許せないのは,DNAの構造モデルをワトソンたちが初めてフランクリンに見せたとき,「意外にも彼女はただちにその正しさを認めた」との趣旨をワトソンが書いていることです〔223頁〕.これは事実です.ワトソンの本を読む限りは,「さすがの彼女もこのモデルの美しさには説得されたのだ」と受けとめられます.また,「彼女は実は率直な人物だった」ということも言いたかったのかも知れません.しかし,フランクリンはこのとき,ワトソンたちが自分のX線データについて,《非公式》に通じていたことを知りませんでした.彼女は提示されたモデルが自分のデータとよく一致することを直ちに理解し,したがってワトソン-クリックが考えた以上に,そのモデルのすばらしさを認識できたのだと思われます.
(2006年10月13日)
*
本ブログ記事のための注
[1]James D. Watson, The Double Helix, Atheneum Publishers (1968).
[2]ジェームス・D・ワトソン/江上不二夫・中村桂子訳『二重らせん』タイム ライフ(1968).文中の〔〇〇頁〕はこの日本語版のものであり,本ブログ記事のために挿入した.
[3]Anne Sayre, Rosalind Franklin & DNA (1975)/深町真理子訳,草思社(1979).
[4]J. D. Watson and F. H. C. Crick, “Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid”, Nature, April 25, 1953, pp.737-738. この論文には次の謝辞が含まれている:We have also been stimulated by a knowledge of the general nature of the unpublished experimental results and ideas of Dr. M. H. F. Wilkins, Dr. R. E. Franklin and their co-workers at King’s College, London.
2024年7月20日における追記
X線のデータとDNAの構造との関係は,私が本ブログでしばしば言及する「半通約不可能性の関係」(「のりこえの構造」あるいは「還元不可能な層構造」)にあたるものである(☆).すなわち,
A:X線のデータ
B:DNAの構造
とすると,AはBへの飛躍のためのベースとなる.すなわち,AはBへの根拠を構成する.しかしながら,AからBを演繹することはできない.すなわち,AからBの方向には論理的なギャップが存在する.しかし,Aの意味はBにおいて理解できる.
もとに戻すと,X線のデータだけからはDNAの構造を決定することはできない.しかし逆に,DNAの構造からX線のデータは解釈できるのである.他方,決定されたDNAの構造の直接的な根拠はX線のデータであることにも注意が必要である.すなわち,事態はそんな単純ではないのである.
☆本ブログ記事「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」の「5.理論AおよびBの関係:“半通約不可能性”」およびそこでのリンク参照.
なお,ワトソンがフランクリンをウィルキンスの「助手」として扱ったことに関連しては,本ブログ記事「核分裂の発見者リーゼ・マイトナーが“共同研究者の弟子の若い女物理学者”として描かれること」参照.
唐木田健一
まあ近未来は エネルギーがただに 次に貨幣が不要になり
皆で 共同で何かのバランス価値の査定をすることになるでしょう