1.はじめに
ここでは,《構造主義的マルクス主義者》アルチュセールがバシュラール(Gaston Bachelard, 1884-1962)から借用し展開した概念である「認識論的断絶」を取り上げる.アルチュセールについては,私は別の場所[1]で,彼の『甦るマルクス』[2]を中心に考察したことがある.また本ブログでは,「アルチュセール『資本論を読む』と“理論変化”の問題」を扱った.そこで,ここでは,それらとは観点を変え,今村仁司[3]を通してアルチュセールを《読みながら》,マルクス(Karl Marx, 1818-1883)における新しい思想の形成を観察する.私がアルチュセールに着目するのは,彼の記述するマルクスによる理論革命が,私が科学史において見出した基本理論の変化(科学革命)と正確に対応するからである.
2.連続的観点
マルクスは『剰余価値学説史』(遺稿,1862執筆,出版は1905-10)や『資本論』(第1巻出版は1867)の中でスミス(Adam Smith, 1723-1790)やリカードゥ(David Ricardo, 1772-1823)の古典派経済学を二つの点で高く評価している.一つは,古典派が経済学の基本概念,すなわち,価値・価格・利潤・等を分離し分析したことである.他方は,経済学の方法に関わる.古典派は現象の本質への還元,そしてその本質の再結合,すなわち現在「還元-総合」とか「下向-上向」とかいう名で知られている方法を確立したのである.マルクスが古典派をこう評価しているからということで,彼を古典派の継承者とする見方は広く受け入れられてきた.また,マルクスが経済学の基礎とした「価値-剰余価値」の概念はすでに古典派の中にあったと解釈することができる.また,「下向-上向」は彼が主著『資本論』で駆使した方法である.マルクスは自己の理論的対象も,そして方法も,古典派から継承したのである〔10-11頁〕.
一方,マルクスは古典派を批判してもいる.それによれば,古典派の経済学的カテゴリーは「非歴史的」,「永遠的」,「固定的」,「抽象的」であるとされる.となると,マルクスの古典派に対する特徴は,「歴史的」,「一時的」,「流動的」,「具体的」といった用語で表現できるかも知れない.この種の解釈を徹底したのが《急進的歴史主義》に属するマルクス主義者たちであった.もし,マルクスの古典派に対する特徴が経済学的カテゴリーの歴史的性格にあるとすれば,マルクスは古典派を「相対化,一時化,流動化,要するに歴史化」したのであり,マルクスはいわば「歴史化されたリカードゥ」なのである.この歴史化の手段として用いられたのが弁証法であり,マルクスはこれをヘーゲルから借用し古典派経済学に適用したのである〔14-15頁〕.このように見ると,歴史的にはマルクスは古典派経済学の完成者として,その連続線上に位置づけることができる.マルクス自身も古典派やヘーゲルとの連続性を強調しているようにみえる〔19頁〕.
しかしながら,アルチュセールはこのような連続観を拒否する.彼によれば,マルクスは古典派経済学やヘーゲル弁証法と断絶したところで,マルクス独自の発見=理論的生産を成し遂げたのである.それではマルクスの新しさとはいかなるものか? それはどのようにして生まれたのか? またそれは連続観を裏づけるようにみえる諸要素とはいかなる関係にあるのか? これらがここにおけるテーマとなる.
3.認識論的断絶
問題設定
アルチュセールによれば,マルクスは理論革命を引き起したのである.それは古い理論からの新しい理論の分離・切断であった.ここでいう革命は何ら比喩ではなく,まさに政治・社会史における革命と同じ意味をもつ.それは現実的な質的飛躍であり転換である〔24頁〕.アルチュセールはこれを「認識論的断絶」と呼ぶ.
認識論的断絶とは「問題設定」の変更のことである.「問題設定」とは,アルチュセールのキーワードの一つで,理論におけるあらゆる問題提起の形態を条件づける「地盤」のことを意味する.人はこの中でのみ問題を提起することができる〔72頁〕.それは歴史の特定の時点で一般的に必要とされる論証の形式を定め,科学的・理論的妥当性のあり方の規範を与える〔83-84頁〕.理論家の思考または理論的な眼(まなざし)はこれによって決定されていて,そこに入り得るものだけを《認識》し《見る》ことができる.また,これは意識的な層と無意識的な層の複合体であるから,理論家は常に自分の問題設定を完全に把握しているわけではない〔102-103頁〕.
理論的問題設定の革命〔変更〕は同時に理論の対象設定の革命〔変更〕でもある.認識論的断絶の過程では,生まれたての新しい対象はまだ古い対象と一定の関係を保ち続けることもあるし,またそこに古い対象に固有の諸要素を認めることもできる.しかし,この残存する諸要素は,それ自体で意味を持ち続けるのではなく,対象の新しい構造によって特定の方向づけを与えられているか,あるいは与えられつつある.理論革命の前と後に同じ要素が存在しているとしても,両者の同一性または類似性は外観上のことでしかなく,それらの意味と体系上の機能は根本的に異なるのである〔24-25頁〕.
断絶の前後の関係
このような認識論的断絶を経たあと,人は古い立場の理論をいかに「読む」ことができるのか? 一つのやり方は,新しい立場を基準として古い理論を読むことである.この場合には,古い立場が見たものと見なかったもの,失敗したことと成功したことなどのリストが作成できる.古い理論の見なかったものは根本的な「不在」,つまり「見る」行為の不在,不注意として指摘されるが,その理由は明示されない.これは,経験主義の認識論の特徴であり,「見たもの」と「見なかったもの」(「見誤り」)を分断し,両者の「結合」の問題を見逃してしまう.他方,第二の読み方は,古い理論それ自体の中で「見たもの」と「見なかったもの」を比較し,「見たもの」と「見なかったもの」との関係を「見たもの」―古い理論のテキスト―の中で解明することである〔70-71頁〕.アルチュセールはこの第二の読み方を「徴候的読み方」と名づける〔74頁〕.
与えられた理論的問題設定の中に位置づけられるすべての対象は,その理論を共有している人にとって,見ることができるものである.したがって,見えている対象が見せているものは,理論的問題設定の領域そのものである.「見えるもの」をこのように考えると,「見えないもの」は「見えるもの」の裏,すなわち理論的問題設定によって可視性の世界から排除されたものということになる.一定の理論領域の中に問題や対象が現存していても,理論的問題設定によって理論の対象であることを禁止され抑圧されている限り,それらは見ることができない.こうして,「見えるもの」の場合と同じく,「見えないもの」の存在も,理論的問題設定と対象との関係の結果であると考えることができる.「見えるもの」の領域,すなわち理論的問題設定は,自己自身の内部で自己から排除するもの―「見えないもの」―によって全面的に特徴づけられているのである〔72-73頁〕.
方法
そこで,先に述べた「徴候的読み方」が可能であるためには,私たちは「見えないもの」を見ることができるのでなければならない.このことは理論的問題設定の転換―理論革命―によって初めて可能となる.ただし,繰り返すが,それは新しい問題設定を基準として古い問題設定を評価することではない.それは,新しい問題設定を背景とし,古い問題設定それ自体の中で,それが「見たもの」を通じ,「見なかったもの」を明らかにしていくことである.
認識論的断絶の過程にある革命家は,まだ自己の新しい理論体系を確立したわけではないし,また必ずしも自己の新しい問題設定を十分自覚的に把握しているわけでもない.彼/彼女は,古い理論の枠組みの中で,入手可能なあらゆる手段を武器とし,古い理論の論理・概念を徹底し極限まで押し進める〔30頁〕.その極限が古い理論固有の問題設定なのであり,彼/彼女はそれを明らかにし,古い理論における概念の欠如―「見えなかったもの」―を見出すことによって,古い理論にとっての「危機的(批判的)」な新問題を指示する〔72頁〕.そして,これこそがまさに,私が着目している方法なのである[4].
「徴候的読み方」は,革命家が自分の相手の理論に接する仕方であるし,また私たちがその革命家の論述を理解するに当たって適用すべき方法でもある.私たちは,マルクスの『経済学批判序説』(1857執筆)を一つの典型的対象とみなし,「徴候的読み方」を試みることができる〔29頁〕.
(次の記事に続く)
唐木田健一
[1] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),4章.
[2] L. Althusser, "Pour Marx" (1966)/河野健二・田村俶訳『甦るマルクス』人文書院(1968).
[3] 今村仁司『〈新版〉歴史と認識─アルチュセールを読む』新評論(1986).以下で本書を引用する際は,本文中に引用ページを〔〇〇頁〕として示す.
[4] 科学史における対応する場面としては,本ブログ記事「新理論の形成:首尾一貫性の追求,欠如,矛盾,そして弁証法」参照.また,『資本論』における「欠如」の発見については,先に本文で引用した本ブログ記事「アルチュセール『資本論を読む』と“理論変化”の問題」もみよ.