プレートテクトニクス
プレートテクトニクスとは,地球表面を覆う厚さ100 km程度の十数枚のプレート(板状の岩)の運動によって,地震や火山,造山運動などの地質現象を説明する理論である.1960年代後半に出現し,欧米では70年代初めには多くの地質学者・地球物理学者に受け入れられて,地球科学の支配的理論となった〔i頁〕[1].
日本でも,地球物理学分野では,70年代初めに受け入れられた.しかし,地質学分野では根強い抵抗があって,地質学者の多くがプレートテクトニクスとそれにもとづく日本列島論を受け入れるようになったのは80年代半ばを過ぎてからのことであった.欧米に対して10年以上の遅れである〔i頁〕.泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容』は,地質学界での受容に時間を要したのはなぜだったのかを明らかにしようとするものである.
佐川造山輪廻説
日本列島の地質の発達史を日本人が初めて体系的に論じたのは,東京帝大・小林貞一の「佐川造山輪廻(りんね)」説(1941年)であった(「佐川」は高知県中西部の地名である).これによれば,「地向斜」(堆積物や火山噴出物が厚く堆積した地域)が,何らかの力によって何回もの地殻変動を経験し,順次陸になり,ついには造山帯になる(「山化」).造山帯は浸食によってやがて解体の時期に入る(「反山化」).これらの各時期には特有な火山活動が起き,変成帯(変成岩の配列しているところ)が形成される.そして,こうした一連の過程は繰り返し起きる.これが「造山輪廻」である.小林はこの考えにもとづき,日本列島の発生から現在に至るまでの地質発達史を細部にわたって論じた〔69頁〕.
小林の「佐川造山輪廻」説は戦前の日本の地質学を代表する業績とされるが,それは同時に,日本の地質学の特徴とその限界をも代表していた.1つは,「地向斜論」という外国でできあがった学説を基本にすえて議論を展開していることである.もう1つは,何よりも日本列島の成り立ちを明らかにすることに注力された点である.その視野は日本列島に限られて地球レベルに広がることはなく,きわめて地域主義的なものであった〔70頁〕.
地学団体研究会(地団研)
戦後日本の地質学界に支配的な影響を及ぼしたのは,「地学の団体研究」と「学会の民主化」を掲げて活動した地学団体研究会(「地団研」)という集団であった.地団研は「団体研究法」と「地質学は地球の発展の法則を探究する歴史科学である」との考えを中心に独自の学風をつくり上げ,戦後民主主義運動の流れを背景として,日本の地質学界を事実上支配するに至った〔81頁〕.その支配は,さまざまな人事や科学研究費の配分などを通じての強力なものであった〔3.5節〕.
「団体研究」というのは,研究費などの研究条件が悪くても,全員が意思統一して協同で研究すれば大きな成果が導かれるという考えにもとづくものである.ここでは,討議が重視されたが,同時に,選んだリーダーの指揮には絶対服従することが強調された〔94頁〕.
地団研の指導者として知られたのは井尻正二である.彼は東京帝大の地質学科出身であるが,大学院での研究テーマをめぐって指導教官の小林貞一(既出)と対立し大学院を中退した.そのあとは,主任教授の紹介で,東京科学博物館の勤務となった〔91頁〕.
地団研ではスターリン主義的な「弁証法的唯物論」が信奉され,そこでは「理論」よりも「実践」が重視された〔84頁〕.そして,「実践」とは野外調査のことであった〔97頁〕.また,ものの発展の原因を外力に求めることをせず,ものの「自己運動」ととらえる立場が主張された〔125頁〕.さらに,地団研のいう「歴史科学」(既出)においては,「現象,または法則は,現在および未来においてそのまま繰り返されるとは認められないのが通則である」として,自然法則の歴史不変性が否定された〔127頁〕.また地団研では,「輸入地学との対決」も重要なスローガンであった〔141,199頁〕.
地向斜造山論
地団研のいう「学会の民主化」は従来の学説を批判・再検討するという活動になり,そこで批判の対象となったのが小林貞一の「佐川造山輪廻」説であった.とはいえ,地団研の批判も,同じく地向斜論の枠組みから出発していた.ただ,造山運動の原因が地向斜自体の中に備わっている(すなわち,自己運動)とするのが独自の点であった.この説は「地向斜造山論」と呼ばれる.この説が誕生する契機になったと考えられるのは,北大などの研究グループによる日高山脈の調査・研究であった〔156頁〕.
この研究をもとに,地向斜の中軸部の深部に花崗岩が貫入すると,それによってできた混成岩や花崗岩は密度が地向斜物質より小さいために,浮力によって周辺の岩石を押し分けるような形で上昇し,これによって山脈も盛り上がるとの考えが展開された〔157頁〕.
プレートテクトニクスの初期の受けとめ
日本の地質学分野でプレートテクトニクスが知られるようになったのはそんなに遅い時期ではない.しかし,プレートテクトニクスにもとづく日本列島論は,あまり大きな関心を呼ばなかった.その多くが,これまでの「地向斜造山論」のもとで集められた既存の地質データを再解釈したものにすぎなかったからである.したがって,従来の日本列島論との違いは,ともすれば「解釈の違い」と理解される余地が大きかった〔181頁〕.
また,プレートテクトニクスは,地団研のいわゆる「歴史科学」や「弁証法的唯物論」とは無関係という意味で,批判の対象となった.たとえば,地向斜の自己運動によって山脈が形成されるという「地向斜造山論」に対し,プレートテクトニクスはプレートの運動という外力で造山運動を説明しようとする「機械論」であるなどとされた〔183,185頁〕.加えて,プレートテクトニクスでは自然法則の歴史不変性を前提としており,地団研のいう「歴史科学」すなわち「歴史法則主義」に対し,「現在主義」といわれた〔129,181頁〕.
プレートテクトニクスはまた「外国産」の理論である.「輸入地学との対決」を掲げる地団研はもちろんであるが,それと対立する「佐川造山輪廻」を主張する側でも,プレートテクトニクスという「世界でのはやりの学説をむりやりに日本にあてはめようとする考え方の流行に対する反発」があった〔191頁〕.
「付加体」
プレートテクトニクスの考えの基本になった海洋底拡大説では,中央海嶺で誕生した新しい海底(海洋底プレート)は,マントル対流によって海溝へと運ばれ,そこで沈み込んでいく.この沈み込んでいく海底の上には,移動中に降り積もった生物の遺骸や大陸から運ばれてきた塵などが堆積している.海洋底拡大説を唱えたヘスやディーツは,この堆積物は大陸に付け加わると考えた〔201頁〕.実際,海溝の陸側斜面ではプレートの沈み込みによって付加体が生じており,過去の付加体と見られる地質体が陸上にも存在することが,プレートテクトニクスの成立直後から認識されていた〔203頁〕.
「日本列島=付加体」説
日本列島の地質構造の細部を付加体概念を使って最初に説明しようと試みたのは,九大の勘米良亀齢(かんめらかめとし)であった.勘米良らは宮崎県北部の四万十(しまんと)帯を調査した.四万十帯とは,南西諸島から西南日本の太平洋岸,さらに関東地方にかけて長さ1300 km,幅最大100 kmにわたって分布する地層のことである.勘米良は1976年,初めて「四万十帯=付加体」説を発表した.用語“accretionary prism”を「付加体」と訳したのも勘米良であった〔204-205頁〕.
この勘米良の見解には当初反対が強かった.しかし,他の研究グループからも「四万十帯=付加体」説を支持する結果が発表されるようになった.高知大学の波田重熙と鈴木堯士および同じく高知大学の平朝彦・甲藤次郎らのグループである〔206-207頁〕.こうして勘米良や平は,「日本列島の大部分はジュラ紀以降のプレートの沈み込みによってできた付加体である」と主張するようになった〔210頁〕.
「地向斜造山論」に関わる問題の顕在化
1970年代半ばになると,「地向斜造山論」の主張には無視できない問題が顕在化してきた.その1つは,60年代末以降,古生代にできた地向斜の堆積物と考えられてきた地層の中から,中生代の三畳紀のものと見られるコノドントや二枚貝の化石がぞくぞくと見付かってきたことである.コノドントはカンブリア紀から三畳紀まで約4億年にわたって繁栄した原索動物の体の一部で大きさは0.2~0.5 mmである.これは,戦後,地層の年代を決める上で重要な微化石として世界的に注目されるようになった〔186頁〕.
激しい論争のあと結局,地層は三畳紀のものということで決着した.これは「地向斜造山論」の主張を危うくするものであった〔187頁〕.
日本列島の古生代にできたと考えられてきた地層から三畳紀(中生代)のコノドント化石が見付かったという報告は1970年代後半になって急増した〔210頁〕.これまで古生代と考えられていた地層から中生代の化石が見付かる.逆に比較的新しい時代と考えられていた地層から古い時代の化石が見付かる.しかも,古い時代の化石と新しい時代の化石が同じ地層の中に同居する.これまでの日本列島の中生代・古生代の地史のとらえ方,すなわち地向斜造山論に対して重大な問題が提起された.地向斜で形成されたと考えられてきた地層の形成の仕方と,その形成年代の再検討が迫られたのである〔211頁〕.
放散虫化石
コノドントは三畳紀を最後に絶滅したため,それ以降の地層からは見付からない.このため,三畳紀以降のジュラ紀や白亜紀までも調べられる微化石として脚光を浴びたのが放散虫であった〔211頁〕.放散虫は,直径0.2 mm程度の外洋性浮遊プランクトンの1種である.古生代から現世まで,すべての地質時代に生きており,広い地域からその化石が産出される.そのため,年代を推定する化石としての価値が高かった.この微化石を硬い岩石から分離・抽出・同定する技術が進展したのである〔212頁〕.
「日本列島=付加体」説の受容
放散虫化石の研究はブームとなった.これにより多くの地質体が調査され,それらの特徴は四万十帯(既出)と共通しており,プレートの沈み込みに伴ってできた付加体であるとの認識が広がった.こうして,1990年代初めまでには,日本列島の大部分はアジア大陸の縁辺に次々に付け加わった付加体と,プレートの沈み込みによって生じた火成岩(主に花崗岩)でできており,約2000万年前に日本海が誕生して大陸から切り離され,現在の日本列島ができたという歴史が描かれるようになった.この新しい歴史像は,これまでの「地向斜造山論」や「佐川造山輪廻」説などとは根本的に異なるもので,地質学界では「放散虫革命」などと呼ばれることも多い〔213-215頁〕.
まだ課題は残っているにしても,「日本列島=付加体」説をめぐる議論は1990年代初めには収束した.「地向斜造山論」を捨てプレートテクトニクスを受け入れることを明らかにする研究者が続出した〔220頁〕.「日本列島=付加体」説とプレートテクトニクスがほとんど同時に受け入れられたことは,明治以降の日本の地質学が地域主義的な性格を強く帯びていたことの現われでもあった〔222頁〕.
その後のこと
地団研もプレートテクトニクスを受け入れた.1986年の札幌総会ではプレートテクトニクスを初めて肯定的に取り上げたシンポジウムを開催した.地団研が1986年から92年にかけて出版した『日本の地質』全9巻も,1989年以降に出版された4巻では,「地向斜造山論」にもとづく解釈は歴史的な記述以外には見られなくなった〔221-222頁〕.この転向について地団研内部ではかなりの論争はあったようである.しかしながら,組織としての明確な自己批判・総括はなされなかったようにみえる〔239-240頁〕.
東大の地質学教室では,岩石学講座の久城育夫らは早い時期にプレートテクトニクスを受け入れていたが,地質学講座の木村敏雄らは小林貞一の「佐川造山輪廻」を継承・発展させることを自己の使命とし,それと対立するプレートテクトニクスにもとづく日本列島論やその研究を否定し続けた.弟子がプレートテクトニクスに転向しようとすると,強圧的に押さえつけたと言われている.木村の在職中は東大地学科ではプレートテクトニクスに関する講義はなく,それが履修科目に登場するのは1986年からであった.木村は1982年に定年退官したが,後任は長らく空席になっていた.木村の弟子たちの中にはプレートテクトニクスにもとづく地質学を講じるのに適切な人物が見付からなかったからである.教授が決まったのは1998年のことであり,後任は北大の出身者であった〔233-234頁〕.
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ここに紹介した泊次郎によるプレートテクトニクス受容の過程は非常に興味深いものである.これについては,このあと本ブログにおいて,私の理論科学的立場から考察を加える予定である.
〔→「日本の地質学界におけるプレートテクトニクス受容過程の理論科学的考察」〕
唐木田健一
[1] 〔 〕内は泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容 戦後日本の地球科学史』東京大学出版会(2008)におけるページを示す.
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