唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

従一位大勲位・・・

2022-07-27 | 日記

殺害された安倍晋三・元首相に7月11日「従一位大勲位菊花大綬章並びに頸飾」を授与する旨の閣議決定がなされたとのことである.いつもながらの自民党によるお手盛り処置である.

叙勲については毎年恒例の季節的行事として白昼堂々と行われているから,それなりに世間ではなじみのあるものであろう.私はこの制度の維持にどの程度の税金が投入されているのか知らないので,ここでとくに金(かね)について議論するつもりはない.しかし,いまだこのような,人を等級づける[1]無礼かつ差別的な制度があることに,あらためて怒りを覚える.

叙勲者については,マスコミがいつも紙面を割いてリストを掲載している.リスト掲載まではまあ仕方ないとして,このような差別的制度について批判的なコメントが付されることは(少なくとも最近は)ほとんどない.叙勲者の「喜びの声」があるだけである.これでは,公的な会合において差別的な発言をしている人物に何の異議も申し立てず,それをお追従(ついしょう)笑いとともに聞き逃している連中と何ら変わるところがない.マスコミは日頃の声が大きいだけに,その罪も大きい.

叙勲者のほうも相当に恥知らずのように思われる.中には通常の意味で「知的職務」に携わっていると分類される人々も少なくないが,このような差別的な制度に何の感慨もないのであろうか[2]

     *

最近,是枝裕和『雲は答えなかった』を読み直した.そこには,亡くなった山内豊徳さんに「正四位勲三等旭日中綬章」が授与されたとの記述があり,いまだ位階のような制度が生きていることを思い知った.実はこのときたまたま並行して,「元禄の赤穂事件」に関する文献に目を通しており,浅野長矩が従五位下(内匠頭)また吉良義央は従四位上(上野介兼左近衛権少将)であること[3]を記憶していたので,正四位の山内さん(環境庁企画調整局長)は「偉かったのであるなあ」と感じ入ったのであった.それはそうであろう.(たとえば)江戸時代では大名の数は数百,旗本の数は数千,また公家の数は百程度であったのだから,いまの中央官庁のトップに近い地位というのは,当時の宮廷制度に換算すれば(あるいはとくに換算しなくても),当然高位高官となるのであろう.

このような位階制度を維持し,その中に自己を位置づけたいとねがう人は,歴史上の人物とひき比べることによって,自己の出世具合をしみじみと噛み締めたいのであろう.いずれにせよ,このような差別的制度の中で嬉々としているような人には,差別批判などする資格はない.

唐木田健一


[1] 現行制度では大勲位を最高とし,勲一等から勲八等までの区分がなされている.

[2] 関連しては,本ブログ記事「ノーベル賞,文化勲章,文化功労者」も御覧下さい.

[3] 現行制度では,「上」「下」の区分(たとえば,従四位「上」とか従五位「下」)はない.また,叙位の対象者は故人のみとされている.ついでながら,勲位(勲等)は律令制において定められたが,その後は平安時代から江戸時代まで長期に渡って事実上消滅していたようである(ウィキペディア「勲等」の項).だから,自己主張として重要なのは,位階(たとえば,従四位上)と官名(たとえば,上野介)であった.


日本社会の反倫理性と科学論の問題

2022-07-20 | 日記

この記事は,「物理学者の社会的責任」サーキュラー『科学・社会・人間』2000年3号(通算73号),3-6頁に掲載されたものです.関連しては,唐木田健一『科学・技術倫理とその方法』緑風出版(2021)もお目通し下さい〔「『科学・技術倫理とその方法』の目次」〕.

唐木田健一

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1.「倫=理」

 私はかつて,科学における理論の「発展」の考察と関連して,「倫=理」なる考え方を提唱した[1].この若干奇妙な表記は和辻哲郎の議論[2]をベースとしたもので,「倫理とは人間関係〔倫〕におけるコトワリ〔理〕である」ということを強調したものであった.

 この考えの特徴は,先ずあらゆる先天的な道徳律を排除することにある.それをここでは「相対主義の原則」と呼ぶことにしよう.そして,検討対象となる倫理的主張の背景にある「理」に着目し,それが(a)事実と対応しているか,(b)首尾一貫しているか,(c)一般性を有しているか,を検討するというものである.この三つの項目のうち,首尾一貫性の追求が多分最も基本的であろう.すでに本サーキュラーで議論したが[3],「理」の一般性は首尾一貫性の追求の結果として獲得できるし,また事実との対応は首尾一貫性の特殊な側面である.

 この方法では,「相対主義の原則」のもと,「理」を検討する側は特定の価値観を前提とすることはしない.むしろ,検討対象における価値観を徹底してそれ自身に適用することによって,その首尾一貫性を検討するものである.私はこの方法が有効であることは経験的によく承知していた.しかし,先の著作〔文献[1]〕ではそれらの具体例は「ノウハウの問題」として深く立ち入ることはせず,一例として,相手の「理」からその否定を導き出す「ソクラテスの方法」に触れたのみであった.

 私が考えていた「倫=理」的方法を初めて具体的に記述したのは柴谷篤弘である[4].彼は,検討対象である相手の思想にかりそめに入り込み,その首尾一貫性を追求する方法を提起して,それを「ネオ・アナーキズム」と呼んだ.彼は,そのような方法を自覚的に実践している例として,大西巨人の小説『神聖喜劇』[5]の主人公に着目した.柴谷の「ネオ・アナーキズム」は,私の考える「倫=理」とそのまま重なるものであった.

 

2.時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合

 「倫=理」においては,すでに述べたように,「理」の一貫性〔以下では「整合(性)」と表現することもある〕の追求が本質である.それについて,私は,時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合に分けて議論するのが有用であると考えている.両者はしばしば両立しないことがあるからである.たとえば,ある時間軸断面においてはリソースを消費し尽くしたいのだが,時間軸に沿っての整合を考慮すれば押さえなければならないといった事態が発生する.

 時間軸断面での整合の追求は,人間であっても組織であっても,その場その場のいわば生命活動の基本に関わる.一方,時間軸に沿っての整合の追求は,人間でいえば,生命体の維持とともに,その「人柄」といったものに関わるものである.

 竹中治夫はかつて,企業経営に関し,時間軸断面での整合を図るのがミドルマネージメントの役割〔管理〕であり,時間軸に沿っての整合を図るのがトップマネージメントの役割〔経営〕であると指摘した[6].これは,時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合の違いを考察する上で極めて示唆的であると思われる.

 この観点において,私が以前から気になっているのは,日本人および日本社会は,時間軸断面での整合の追求には概して必死となるが,時間軸に沿っての整合の追求はなおざりにされがちであるという事実である.私はもちろん,日本社会の特徴を議論できるほど他国の事情に通じているわけではない.しかし,私のこの指摘は,少なくともアジア近隣諸国(韓国,朝鮮,中国,など)や西欧・北米大陸の諸国家と比較した場合,明らかなことのように思われる.私はこの事態を極めて反「倫=理」的であると考えている.これによってまさに,日本は「国柄」を損ねているのである.

 日本社会はこれまで,大小の変化に直面したとき,それまでの行きがかりをあっさりと《水に流し》,新しい事態に対処していくのが通例であったようにみえる.近い過去での大きな変化の場合に着目してみると,先ずは明治維新があろう.ここでは,「鎖国攘夷」から「開国開化」に変わっている.あるいは,先頃の敗戦においては,それまでの「鬼畜米英打倒」から,民主主義の宗主国である米国に学び国を守っていただくという方針に転身した.このようなことは,社会における主役が変わったということであるなら,他からも理解可能であろう.わかりにくいのは,内部的に派閥抗争はあったにせよ,継続した支配階層の人々による豹変であったという点である.

 とにかく,私たちの社会は,これまでは主としてこのような仕方で変化に対処してきた.80年代の技術革新における日本の《成功》の要因のひとつも,古いものをあっさりと捨て去り,どんどん新しいものを取り入れたことにあるとされている.たとえば,欧州などでは,工場における自動化ライン(ロボット)の導入には比較的に大きな抵抗があったようである.

 とはいえ,ここでは細かな議論は避けるが,一般に,時間軸断面での整合を図るには,時間軸に沿っての整合の問題が深く絡んでくるのである.しかし,時間軸に沿っての整合とほとんど関わりなく時間軸断面での整合が図られるというのは,実は次のような手法によっているのである.すなわち,その時その時の流れを観察し,力の強いもの・ハブリのよいものに全体を合わせ込むというものである.

 それにしても,時間軸に沿っての整合をなおざりにすると,特に他の社会との関係において,さまざまな不具合に直面するであろう.その場合,ツケは,お得意の時間軸断面での整合の問題として処理することになる.すなわち,提起された問題にその場その場で手当てしていくのである.

 たとえば,日本は戦後の長期に渡って戦争責任の問題を曖昧にしてきた.いまだ南京大虐殺はなかったとか,従軍慰安婦はいなかったとかいう主張の人々が日本社会の中枢で重宝がられているという状態である.このような戦争責任の問題に対し他国から批判が出ると,その都度その場が収まる程度に譲歩し相手の言い分を認めるということで対処してきた.外圧としての相手の出方によって右往左往し,しかも相手の腕力の違いで右往左往の仕方が大きく変化する――こんな状態では「国柄」を損ねるのも当然のことであろう.

 日本社会が時間軸に沿っての整合に冷淡なことは,たとえば「それはもう古い」というお馴染みな日本語表現の効果を考えてみればわかる.「古い」ということは,誤っているということですらない.それはもう無用で関わりがないという意味なのである.また,時間軸に沿っての整合に冷淡であるということは,いわゆる社会的な忘却が激しいということである.「反動」とは過激な保守派のことであるが,世の中全体が保守化してくると,反動は現行秩序からの《変化》として,自己を「革新」と位置づけることができる.先の大戦中における「革新官僚」(岸信介はそのひとり)はその一例である.最近,土井たか子が「日本では一貫した主張をしていると古くさいとされる」という趣旨の発言をして嘆いていたが,これこそが日本社会の反「倫=理」性の特徴なのである.

 

3.断絶かつ継続

 時間軸に沿っての整合を図ることは,一般には現状を墨守することではない.まるで逆であって,現状とは通常矛盾を含むものであるから,整合を図るためには常にそれをのりこえ変革していくことが要求される.たとえば,先に引用した竹中によれば,企業経営がまさにそうである.

 一例を考察しよう.私が過去に過ちを犯し,いまその誤りを深く反省しているものとする.その場合,私は,先ずはその過去の出来事をはっきりと否定する――すなわちそれとの断絶を宣言し証明するのでなければならない.いまの私はすでにあのときの私ではないのである.しかし,私は同時に,その出来事ははっきりと私に関わること,すなわちそれと私との継続性を認めるのでなければならない.それは私の過ちなのである.このように,時間軸に沿っての整合に関しては,断絶と継続が同時に関わっている.これは,サルトルによれば,人間の「過去」というものの存在構造の本質である[7].「私が私の過去を否定できるのはそれは私の過去であるからであるし,私が私の過去であるのは私が不断ののりこえとして,もはや私の過去であらぬからである」(サルトル).

 ここで想起されるのは,いわゆる「パラダイム転換」における「通約不可能性」なる概念である.これは,ある理論が別の理論へと転換したとき〔これはまさに時間軸に沿っての出来事である〕,この二つの理論の間は断絶していると主張するものである.この種の科学論が社会に蔓延することによって,科学における「進歩」の概念が否定され,科学は宗教にも似たある種の信条システムであるかのような議論が罷り通るようになった.しかしながら,それは素朴な誤りであって,私がすでに明らかにしたように[8],二つの《パラダイム》の間は断絶かつ継続〔すなわち,「のりこえ」あるいは「半通約不可能性」〕の関係にあるのである.

 私は,現在蔓延しているこの奇態な科学論は,「真理」を否定することによって人々の学問離れを引き起こし,また教育の荒廃を招くという犯罪的な役割を果たしていると考えているが[9],それと同時に,特にそれが日本社会に与える倫理的影響も真剣に考慮しなければならないと思う.それは,時間軸に沿っての整合の問題をますます蔑ろにし,社会の反動化に奉仕するのである.また,この科学論は,唱導者たちの《主観的》意図は別として――あるいはひょっとして全然別でないのかも知れないが,社会の保守化・反動化の産物であるという側面にも留意が必要であろう.

 

4.いまの動き

 時間軸に沿っての整合を蔑ろにしても存続可能な社会とは,単に理論上のことではあるが,次のような条件を満たすものであろう.すなわち,

(a)他の社会からは孤立していて比較的に接触が少なく,

(b)天変地異などを除いては変化は比較的に緩やかであって,また

(c)大小の変化に直面した場合もお手本が存在する

というものである.

 これまでの日本社会がこの条件を満たしていたかどうかはここでは議論しない.しかし,少なくとも現在の環境がこのような条件から大きく離れつつあることは明らかである.それにも関わらず,日本社会が相変わらずの「倫=理」的態度を保持していくなら,それはその「国柄」を損ね続ける以外にない.それは,経済的にも国防上でも,回復困難な事態をもたらすことになろう.

(2000.03.17)


[1] C.F.カールソン/桂愛景訳『戯曲アインシュタインの秘密』サイエンスハウス(1982),第二幕.

[2] 和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波書店(1934),第一章の一.

[3] 桂愛景「『ニューサイエンス』と倫=理」『科学・社会・人間』33号(1990),10-19頁.〔また,『科学・技術倫理とその方法』4章の2.〕

[4] 柴谷篤弘『私にとって科学批判とは何か』サイエンスハウス(1084),第一章および二章.〔また,『科学・技術倫理とその方法』2章の5.〕

[5] 大西巨人『神聖喜劇』筑摩書房(1991-1992).最初の刊行は1978-1980年,光文社.

[6] 竹中治夫「すべての開発に相補性をもったマネジメントを」『JMAジャーナル』1985年12月号,19-23頁.

[7] 桂愛景『サルトルの饗宴』サイエンスハウス(1991),第三部の(六).

[8] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),3章.本ブログ記事では,「半通約不可能性の関係(1)(2)(3)」などを参照せよ.

[9] 唐木田健一「創造性論議の落とし穴」『分数ができない大学生』東洋経済新報社(1999),2章.本ブログ記事では,「科学史における理論変化の問題(1)(2)」参照.


1968年10月の東大理学部「大衆団交」のこと

2022-07-13 | 日記

本記事は,唐木田健一『1968年には何があったのか 東大闘争私史』批評社(2004)の22章にもとづきます.

     *

22.大衆団交

10月28日(月)

 きょう理学部の「大衆団交」が開催された.会場はおなじみの化学教室の講堂だった.理学部の各学科から教官や学生・大学院生たちが集まった.ただ,理学部の教官たち(に限ったことではないけれど)には明らかに問題解決のための直接的な当事者能力はなかった.そんなことは我々にもわかっていたから,あまり激しい事態には至らなかった.

 教官の側は,主に,物理学科の野上燿三教授が前面に出て答えていた.彼は,総長の「八・一〇告示」に基づく,医学部処分「再審査委員会」の理学部の委員だった.

 一番長く教官の《追及》に立ったのは,カーディガンを羽織った,あごひげを生やした長身の人だった.多分大学院生だろう.声が少し甲高い感じがした.発言内容は厳しかったが,言葉づかいは

「先生がたは・・・・・,また先生がたは・・・・・」

といった調子で丁寧だった.

 野上教授は,再審査委員会がもうじき,11名の学生は懲戒処分に該当しないという中間報告を出すだろうと言った.そして,その中間報告が最終報告になるであろうとも付け加えた.彼の答えは淡々としており,事務的といってもよいような雰囲気だったが,不誠実な印象はなかった.

 この野上教授は確か,教養学部長・野上茂吉郎教授の弟さんで,野上弥生子・豊一郎御夫妻の息子さんだった.弥生子先生は,もう80歳を超えているはずであるが,お元気のようだ.私はごく最近彼女の『秀吉と利休』(1964)を面白く読んだ.

 私は,この大衆団交の席上,あらぬことを思い出していた.

     *     *     *

 夏目漱石夫人・鏡子は『漱石の思ひ出』という貴重な記録を残している.これは松岡譲の筆録によるものだ.松岡は漱石の弟子で,漱石夫妻の長女・筆子の夫である.

 この本に,次の興味深い記述がある.時は1907年(明治40年),漱石は41歳.この年の4月,彼は一切の教職を辞し,朝日新聞に入社するのであるが,それに先立ち,彼は親しい友人たちと京大阪に遊んだ.

 この関西旅行の留守中,女ばかりで,私達が淋しいだろうというわけで,鈴木さん野上さん小宮さんのお三人が交わる交わる泊まりにきて下さいました.そうして夕方になると,もう京都から帰る頃だがなあと停車場まで迎えに出て,今日もだめだ,今日もだめだといったわけで,遅くなって帰っていらっしゃるのです.

 こういうある日のことでした.鈴木さんと小宮さんとがよって,

「野上の奴,あの若い女を自分の妹だ妹だと言ってるが,本当に妹なのかしら」

「こんだも先生に妹が京人形を買ってきてくれといっていたとか頼んでいたよ」

 という話です.そこへ噂の主の野上さんが入って来られました.

「君あれは本当に君の妹かい」

「だって顔立ちが似てるだろう」と問われる方はなれたものです.

「じゃそんならそれで,こっちにも積りがあるから」

 とか何とかおどし文句を二人がならべるのですが,どうも気にかかって仕方がなかったとみえ,とど様子を見に行こうということになって,貴様行って見てこいというわけで,小宮さんが翌日あちらに出かけます.

 さて使者の役目を仰せつかって屋形に乗り込んでみはみたものの,その頃はうぶな学生さんのことですから蔭弁慶はきめ込んでるものの,若い女の前に出ては,ただ一途にきまりが悪く,ぼうっと顔が真赤にほてってきて,問題の婦人はすぐと前に鎮座ましますのだけれども,とても顔を立てなおして眺めるどころの話じゃありません.まるで見に行ったのか見られに行ったのかさっぱりわからないで,庭先ばかり見てかえったというわけ.帰ってくると鈴木さんが,

「おい,どんな顔をしていた! 野上に似ていたかい」と勢い込んでたずねます.片方はしょげかえって,

「何でも額のところが三角で,ゼムの広告見たいな形をしておった」とばかりで,それ以上何も答えることができません.

「だから貴様はだめだというんだ」

 そんなら自分で行ってみとどけて来たらよさそうなもんですが,そこは鈴木さんの鈴木さんたるゆえんで,こういって大名威張りをしていました.

 一体野上さんのいわゆる妹さん問題は,若い人達ばかりの間だったものですから,当時ずいぶん騒がれたものです.最初寺田さんが原町に下宿しておられた頃,すぐ隣りの部屋かに一高の学生がいる,そこへ姿を見たことはないけれども,若い女持ちの洋傘や沓をもって訪ねてくるものがある,一高の生徒の分際で若い女と交際したりして怪しからんなどと気にしてられたものですが,それがどうやらそれらしいというのですから,なかなか因縁も深いわけです.

 そうこうしているうちに,毎晩毎晩迎えに出ているときはかえらず,ひょっくり十二日の正午頃に帰って参りました.いろいろお土産物などを買ってきて,大層上機嫌でありました.例えば鈴木さんには盃,野上さんのいわゆる妹さんには頼まれた京人形など,そのほかいろいろお土産を買って参りました.

 後で野上さんが言いにくそうに実は細君だと白状してられたことがありますが,今から考えてみると何だか可愛らしい気がして罪のない話ではありませんか.そのいわゆる顔の似ているという妹御さんなるものが今のやえ子さんであるのは申すまでもありません.〔引用の際,仮名づかいおよび漢字の字体を変更〕

 文中の「鈴木さん」は鈴木三重吉(当時25歳),のちに児童文学者となり雑誌『青い鳥』を主宰した.「小宮さん」は小宮豊隆(当時23歳),のちにドイツ文学者となった.彼は岩波書店版漱石全集の編集に尽力し,また彼の執筆した『夏目漱石』は後世多大な影響力をもった.野上豊一郎(当時24歳)はのちに英文学者となり,また能楽の研究でも知られた.

「寺田さん」は寺田寅彦(当時29歳),物理学者である.私は,彼を多数の随筆の著者として知っているので,もっと《話のわかる》人かと思っていたが,「一高の生徒の分際で若い女と交際したりして怪しからん」というのは若干イメージを傷つけるものであった.下宿の入口に女物のこうもりや靴がそっと置いてある場面などなかなかすてきではないか.

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 大衆団交のとき発言していたあごひげの人は,やはり大学院生だった.物理学専門課程博士課程3年(最終学年)の山本義隆さんという人だった.素粒子論専攻で将来を嘱望されているとのこと.彼はいま理学部ばかりでなく,全共闘においてもリーダー的役割を果たしているらしい.

「後楽」で夕食.置かれていたある新聞の「三面記事」の顔写真にかすかに見覚えがあった.数カ月前の夜,団子坂を上っているとき私を睨みつけ,私の背後につるはしを振り下ろした男だった.男は交通事故で亡くなっていた.

 記事によると,数日前の夕方,男は都内P大学の学生控室のロッカーを物色中,学生に見つかって追いかけられ,逃走中に車に撥ねられて即死した.身元はしばらくわからなかったが,所持品などの調査の結果,住所不定・無職T(26)と判明した.彼は主として大学を対象として空き巣を働いていた.また,ときどきは労務者として飯場に泊まり込んでいたらしい.仕事場で一緒だった人の話では,彼はしきりと「学生が憎い」と言っていたそうだ.

 彼は盗み先のリストを持っており,その中には東大も含まれていた.そういわれれば,私は本郷に来てまだ間もない頃,ロッカーに入れておいた上着を盗まれたことがあった.その数日後事務室から連絡があって,上着は理学部1号館のトイレに捨てられて(!)いたということだった.名前の刺繍から私の物とわかったのだ.

 話によれば,財布など貴重品を抜き取ったあと,上着などはその辺に捨てられてしまうものらしい.幸い私の上着のポケットに貴重品などはなく,上着そのものが私にとっての貴重品だった.若干気分が悪いことを除けば,ほとんど実害はなしで済んだ.これは,ひょっとして彼の仕業? いずれにせよ,少なくとも団子坂でなぜか彼に憎まれたらしいことは,私にはとても不愉快だった.

(了)


歴史学者・竹内誠,徳川義親侯爵,そして来日したアインシュタイン

2022-07-06 | 日記

2020年の死亡記事:

竹内 誠氏(たけうちまこと,江戸東京博物館名誉館長,東京学芸大学名誉教授).9月6日,呼吸不全のため死去,86歳.東京都出身.日本近世史や江戸文化史が専門.東京学芸大学教授を経て,1998年から2016年まで江戸東京博物館館長.徳川林政史研究所所長も務めた.

     *

2018年7月4日,竹内誠さんに招かれ徳川林政史研究所(東京都豊島区目白)を訪問した.ここは尾張徳川家19代当主の元侯爵・徳川義親氏(1886-1976)が設立したもので,折に触れむかしから話は聞いていたが,実際に訪れたのは初めてであった.

竹内さんと徳川氏およびこの研究所との関わりは竹内さんの大学院修了直後(あるいはそれ以前)にまでさかのぼる長期のもので,徳川氏についての個人的エピソードもいくつか伺っている.竹内さんは大病を克服されたあととのことであったが,私が知る普段通りにお元気であった.

このあと新宿で食事をよばれたが,相変わらず講演活動や原稿執筆で御多忙の様子であった.私は大むかし竹内さんから贈られた『三省堂日本史小辞典』(井上光貞監修,1965)[1]に彼が書いてくれた献辞を思い出した.それには私の名前とともに,「健康第一」とあった(当時私は「受験生」であった).私はいまこそ「健康第一」を竹内さんにお返ししたいと思った.

次の文章は,私が翌日に書いた私信である.

     *

竹内誠様

昨日は楽しい時間をいただき,また大変ごちそうになりました.ありがとうございます.関連して以下の御連絡をいたします.

昨日研究所で拝見した『アインシュタイン 日本で相対論を語る』[2]はやはり私も所有しておりました.この本の「解説」の佐藤文隆は,若いころアインシュタインの重力方程式の解の一つを見つけたことで知られています.また岩波『科学』(1989年2月号)で,私の本(1988年サイエンスハウス刊行)[3]の書評をしてくれました(この本は2012年にちくま学芸文庫[4]に入っています).

ちょっと思いついて,アインシュタインの日本訪問中[5]に生じた騒ぎを描いた金子務さんの『アインシュタイン・ショック』(全2巻)[6]の索引で,「徳川義親」の項を調べてみました.そうしますと非常に多数の記述があり[7],しかも実に興味深いものが含まれますので,取り敢えず本文のコピーを同封してお目にかけることにしました.比較的に厚い本を手元のプリンターでコピーしたのでお見苦しいところはありますが,必要な部分はお読み取りいただけると思います.

この本はこれまで数度ていねいに通読していますが,徳川義親候がこれだけ触れられていることには気づきませんでした.著者の金子さんは,中央公論社『自然』の編集長のとき,同誌において私の最初の本(ペンネームで1982年サイエンスハウス刊行)[8]の書評を扱ってくれました.以来ひいきにしてもらっています.

2018年7月5日

唐木田健一


以下の脚注は本ブログ用に作成した:

[1] 竹内さんは18人いる執筆者の一人で,所属は「徳川林政史研究所」とあった.執筆者(「五十音順」)のトップは「網野義彦(北園高校)」であったが,この人は多分,のちのベストセラー『日本の歴史をよみなおす』ちくま学芸文庫(2005)の著者であろう.

[2] 杉本賢治編訳,講談社,2001年.この本の46ページには「11月27日 徳川家の晩餐会」というタイトルで,徳川家の日記の写真およびその内容の紹介がなされている.巻末の「写真・資料協力」の中に徳川黎明会(林政史研究所の上部機関)がリストされているので,この本は刊行後版元から贈呈されたものであろう.下の注7も参照.

[3] 『基礎からの相対性理論 原論文を理解するために』.

[4] 『原論文で学ぶ アインシュタインの相対性理論』.

[5] 1922年.

[6] 河出書房新社,1981年,新装版1991年.今回私が直接に参照したのは新装版である.なお.この本は現在,「岩波現代文庫」(2005年)に採録されているとのことである.

[7] 索引に書かれたページで述べ10か所にわたる(この注における以下の記述はすべて本書にもとづく).アインシュタイン夫妻は,1922年11月17日午後3時,日本郵船の「北野丸」で神戸港に到着した.それに先立つ11月12日の夜,船中で「1921年度ノーベル物理学賞受賞」の電報を受けている.徳川義親夫妻はたまたま「北野丸」でアインシュタインと同乗した.彼らは「一年にわたりヨーロッパ各地を漫遊し植物園やオペラを見てきた」とのことであった.徳川侯は『報知新聞』に1922年11月19日~21日の三回連載で「船中の相対博士」という記事を寄稿している.アインシュタインとは船内で親しい交流があり,また日本到着後の11月27日には目白の自宅(私が竹内さんに招かれて訪問した徳川林政史研究所のあるところ!)に彼を招いて晩餐会を開いた.そのずっとあとのことになるが,徳川氏は敗戦後すぐの1945年9月,アインシュタインの思想に共鳴する財団法人「世界恒久平和研究所」の設立にも関わった.

[8] 『戯曲 アインシュタインの秘密』.