この記事は,「物理学者の社会的責任」サーキュラー『科学・社会・人間』2000年3号(通算73号),3-6頁に掲載されたものです.関連しては,唐木田健一『科学・技術倫理とその方法』緑風出版(2021)もお目通し下さい〔「『科学・技術倫理とその方法』の目次」〕.
唐木田健一
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1.「倫=理」
私はかつて,科学における理論の「発展」の考察と関連して,「倫=理」なる考え方を提唱した[1].この若干奇妙な表記は和辻哲郎の議論[2]をベースとしたもので,「倫理とは人間関係〔倫〕におけるコトワリ〔理〕である」ということを強調したものであった.
この考えの特徴は,先ずあらゆる先天的な道徳律を排除することにある.それをここでは「相対主義の原則」と呼ぶことにしよう.そして,検討対象となる倫理的主張の背景にある「理」に着目し,それが(a)事実と対応しているか,(b)首尾一貫しているか,(c)一般性を有しているか,を検討するというものである.この三つの項目のうち,首尾一貫性の追求が多分最も基本的であろう.すでに本サーキュラーで議論したが[3],「理」の一般性は首尾一貫性の追求の結果として獲得できるし,また事実との対応は首尾一貫性の特殊な側面である.
この方法では,「相対主義の原則」のもと,「理」を検討する側は特定の価値観を前提とすることはしない.むしろ,検討対象における価値観を徹底してそれ自身に適用することによって,その首尾一貫性を検討するものである.私はこの方法が有効であることは経験的によく承知していた.しかし,先の著作〔文献[1]〕ではそれらの具体例は「ノウハウの問題」として深く立ち入ることはせず,一例として,相手の「理」からその否定を導き出す「ソクラテスの方法」に触れたのみであった.
私が考えていた「倫=理」的方法を初めて具体的に記述したのは柴谷篤弘である[4].彼は,検討対象である相手の思想にかりそめに入り込み,その首尾一貫性を追求する方法を提起して,それを「ネオ・アナーキズム」と呼んだ.彼は,そのような方法を自覚的に実践している例として,大西巨人の小説『神聖喜劇』[5]の主人公に着目した.柴谷の「ネオ・アナーキズム」は,私の考える「倫=理」とそのまま重なるものであった.
2.時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合
「倫=理」においては,すでに述べたように,「理」の一貫性〔以下では「整合(性)」と表現することもある〕の追求が本質である.それについて,私は,時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合に分けて議論するのが有用であると考えている.両者はしばしば両立しないことがあるからである.たとえば,ある時間軸断面においてはリソースを消費し尽くしたいのだが,時間軸に沿っての整合を考慮すれば押さえなければならないといった事態が発生する.
時間軸断面での整合の追求は,人間であっても組織であっても,その場その場のいわば生命活動の基本に関わる.一方,時間軸に沿っての整合の追求は,人間でいえば,生命体の維持とともに,その「人柄」といったものに関わるものである.
竹中治夫はかつて,企業経営に関し,時間軸断面での整合を図るのがミドルマネージメントの役割〔管理〕であり,時間軸に沿っての整合を図るのがトップマネージメントの役割〔経営〕であると指摘した[6].これは,時間軸に沿っての整合と時間軸断面での整合の違いを考察する上で極めて示唆的であると思われる.
この観点において,私が以前から気になっているのは,日本人および日本社会は,時間軸断面での整合の追求には概して必死となるが,時間軸に沿っての整合の追求はなおざりにされがちであるという事実である.私はもちろん,日本社会の特徴を議論できるほど他国の事情に通じているわけではない.しかし,私のこの指摘は,少なくともアジア近隣諸国(韓国,朝鮮,中国,など)や西欧・北米大陸の諸国家と比較した場合,明らかなことのように思われる.私はこの事態を極めて反「倫=理」的であると考えている.これによってまさに,日本は「国柄」を損ねているのである.
日本社会はこれまで,大小の変化に直面したとき,それまでの行きがかりをあっさりと《水に流し》,新しい事態に対処していくのが通例であったようにみえる.近い過去での大きな変化の場合に着目してみると,先ずは明治維新があろう.ここでは,「鎖国攘夷」から「開国開化」に変わっている.あるいは,先頃の敗戦においては,それまでの「鬼畜米英打倒」から,民主主義の宗主国である米国に学び国を守っていただくという方針に転身した.このようなことは,社会における主役が変わったということであるなら,他からも理解可能であろう.わかりにくいのは,内部的に派閥抗争はあったにせよ,継続した支配階層の人々による豹変であったという点である.
とにかく,私たちの社会は,これまでは主としてこのような仕方で変化に対処してきた.80年代の技術革新における日本の《成功》の要因のひとつも,古いものをあっさりと捨て去り,どんどん新しいものを取り入れたことにあるとされている.たとえば,欧州などでは,工場における自動化ライン(ロボット)の導入には比較的に大きな抵抗があったようである.
とはいえ,ここでは細かな議論は避けるが,一般に,時間軸断面での整合を図るには,時間軸に沿っての整合の問題が深く絡んでくるのである.しかし,時間軸に沿っての整合とほとんど関わりなく時間軸断面での整合が図られるというのは,実は次のような手法によっているのである.すなわち,その時その時の流れを観察し,力の強いもの・ハブリのよいものに全体を合わせ込むというものである.
それにしても,時間軸に沿っての整合をなおざりにすると,特に他の社会との関係において,さまざまな不具合に直面するであろう.その場合,ツケは,お得意の時間軸断面での整合の問題として処理することになる.すなわち,提起された問題にその場その場で手当てしていくのである.
たとえば,日本は戦後の長期に渡って戦争責任の問題を曖昧にしてきた.いまだ南京大虐殺はなかったとか,従軍慰安婦はいなかったとかいう主張の人々が日本社会の中枢で重宝がられているという状態である.このような戦争責任の問題に対し他国から批判が出ると,その都度その場が収まる程度に譲歩し相手の言い分を認めるということで対処してきた.外圧としての相手の出方によって右往左往し,しかも相手の腕力の違いで右往左往の仕方が大きく変化する――こんな状態では「国柄」を損ねるのも当然のことであろう.
日本社会が時間軸に沿っての整合に冷淡なことは,たとえば「それはもう古い」というお馴染みな日本語表現の効果を考えてみればわかる.「古い」ということは,誤っているということですらない.それはもう無用で関わりがないという意味なのである.また,時間軸に沿っての整合に冷淡であるということは,いわゆる社会的な忘却が激しいということである.「反動」とは過激な保守派のことであるが,世の中全体が保守化してくると,反動は現行秩序からの《変化》として,自己を「革新」と位置づけることができる.先の大戦中における「革新官僚」(岸信介はそのひとり)はその一例である.最近,土井たか子が「日本では一貫した主張をしていると古くさいとされる」という趣旨の発言をして嘆いていたが,これこそが日本社会の反「倫=理」性の特徴なのである.
3.断絶かつ継続
時間軸に沿っての整合を図ることは,一般には現状を墨守することではない.まるで逆であって,現状とは通常矛盾を含むものであるから,整合を図るためには常にそれをのりこえ変革していくことが要求される.たとえば,先に引用した竹中によれば,企業経営がまさにそうである.
一例を考察しよう.私が過去に過ちを犯し,いまその誤りを深く反省しているものとする.その場合,私は,先ずはその過去の出来事をはっきりと否定する――すなわちそれとの断絶を宣言し証明するのでなければならない.いまの私はすでにあのときの私ではないのである.しかし,私は同時に,その出来事ははっきりと私に関わること,すなわちそれと私との継続性を認めるのでなければならない.それは私の過ちなのである.このように,時間軸に沿っての整合に関しては,断絶と継続が同時に関わっている.これは,サルトルによれば,人間の「過去」というものの存在構造の本質である[7].「私が私の過去を否定できるのはそれは私の過去であるからであるし,私が私の過去であるのは私が不断ののりこえとして,もはや私の過去であらぬからである」(サルトル).
ここで想起されるのは,いわゆる「パラダイム転換」における「通約不可能性」なる概念である.これは,ある理論が別の理論へと転換したとき〔これはまさに時間軸に沿っての出来事である〕,この二つの理論の間は断絶していると主張するものである.この種の科学論が社会に蔓延することによって,科学における「進歩」の概念が否定され,科学は宗教にも似たある種の信条システムであるかのような議論が罷り通るようになった.しかしながら,それは素朴な誤りであって,私がすでに明らかにしたように[8],二つの《パラダイム》の間は断絶かつ継続〔すなわち,「のりこえ」あるいは「半通約不可能性」〕の関係にあるのである.
私は,現在蔓延しているこの奇態な科学論は,「真理」を否定することによって人々の学問離れを引き起こし,また教育の荒廃を招くという犯罪的な役割を果たしていると考えているが[9],それと同時に,特にそれが日本社会に与える倫理的影響も真剣に考慮しなければならないと思う.それは,時間軸に沿っての整合の問題をますます蔑ろにし,社会の反動化に奉仕するのである.また,この科学論は,唱導者たちの《主観的》意図は別として――あるいはひょっとして全然別でないのかも知れないが,社会の保守化・反動化の産物であるという側面にも留意が必要であろう.
4.いまの動き
時間軸に沿っての整合を蔑ろにしても存続可能な社会とは,単に理論上のことではあるが,次のような条件を満たすものであろう.すなわち,
(a)他の社会からは孤立していて比較的に接触が少なく,
(b)天変地異などを除いては変化は比較的に緩やかであって,また
(c)大小の変化に直面した場合もお手本が存在する
というものである.
これまでの日本社会がこの条件を満たしていたかどうかはここでは議論しない.しかし,少なくとも現在の環境がこのような条件から大きく離れつつあることは明らかである.それにも関わらず,日本社会が相変わらずの「倫=理」的態度を保持していくなら,それはその「国柄」を損ね続ける以外にない.それは,経済的にも国防上でも,回復困難な事態をもたらすことになろう.
(2000.03.17)
[1] C.F.カールソン/桂愛景訳『戯曲アインシュタインの秘密』サイエンスハウス(1982),第二幕.
[2] 和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波書店(1934),第一章の一.
[3] 桂愛景「『ニューサイエンス』と倫=理」『科学・社会・人間』33号(1990),10-19頁.〔また,『科学・技術倫理とその方法』4章の2.〕
[4] 柴谷篤弘『私にとって科学批判とは何か』サイエンスハウス(1084),第一章および二章.〔また,『科学・技術倫理とその方法』2章の5.〕
[5] 大西巨人『神聖喜劇』筑摩書房(1991-1992).最初の刊行は1978-1980年,光文社.
[6] 竹中治夫「すべての開発に相補性をもったマネジメントを」『JMAジャーナル』1985年12月号,19-23頁.
[7] 桂愛景『サルトルの饗宴』サイエンスハウス(1991),第三部の(六).
[8] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),3章.本ブログ記事では,「半通約不可能性の関係(1),(2),(3)」などを参照せよ.
[9] 唐木田健一「創造性論議の落とし穴」『分数ができない大学生』東洋経済新報社(1999),2章.本ブログ記事では,「科学史における理論変化の問題(1),(2)」参照.