唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

有吉佐和子『華岡青洲の妻』(1967)より

2024-04-24 | 日記

 華岡家の於継(おつぎ)が,妹背家の娘・加惠(かえ)を子息・震(ふるう;青洲の名)の嫁に迎えたいと加惠の父・佐治兵衛を相手にその理由を述べる.妹背家は当地の名家であるが,他方の華岡は「出入りの貧乏医者」に過ぎない.佐治兵衛は苦笑するしかなかった.

 有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』は,「加惠は八歳のとき初めて於継を見た」という文章ではじまっている.加惠は子どものころから,ひそかに於継に憧れていたのである.

 以下に引用する文章には,著者・有吉佐和子の人生に対する覚悟が感じられる.

唐木田健一

     *

『華岡青洲の妻』三章より

 於継は続けた.

「名手(なて)本陣妹背家と手前どもでは家の比較もならず,途方もないことを不躾(ぶしつけ)にとお思いになるやも知れませんが,何とぞ加惠さんには,威風既に備わった大家(たいけ)に嫁して事なき生涯を送るか,陋屋(ろうおく)を興して城を築く気構えで生きるか,その何(いず)れを選ばれるか考えて頂かしてと私が申していたとお伝え下さいまし.お堅い御家風の中でまめやかにお育ちと伺うております加惠さんを,震の嫁にはこのひとよりないと見込んで伺いましたのでございますによって」〔新潮文庫版(1970),pp.19-20〕

     *

華岡青洲(1760-1835)

 紀伊国平山村の生まれ.1804年世界最初の全身麻酔手術に成功した.合州国ウィリアム・モートンのジエチルエーテルを用いた麻酔手術(1846年)よりも40年以上も前のことであった.麻酔薬(「通仙散」)の完成にあったっては,母・於継と妻・加惠が実験台となることを申し出て,その犠牲(母の死と妻の失明)があったと伝えられている.


「パラダイム転換」という思考からの転換の必要について

2024-04-17 | 日記

 本記事は,唐木田健一「“パラダイム転換”からの転換の必要について」『化学史研究』28 (2001),171-174頁にもとづく.

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1.「理論変化」という枠組みの問題

 ある読者の指摘によれば,先の『化学史研究』における小論[1]で私は,物理学の基本理論がすべて内部矛盾によって変化するかのような議論をした.これは私が,昨今流行の科学論を批判するため,「理論変化」(あるいは,「パラダイム転換」)という枠組みを採用して考察を展開したため引き起こした誤解である.この「理論変化」という枠組みは,科学の歴史において実際に生じたことを細部まで大切にし一貫して記録しようとするとき,きわめて不都合・不適切なのである.本稿ではこの点について述べたい.

 ところで,先の小論の該部分における私の主張のポイントは,

(a)矛盾する実験事実が出ても微動だにしないような信頼度の高い理論が

(b)一部科学論者が「通約不可能」と呼ぶような関係にある別の理論へと転換する場合

は,古い理論内部における矛盾がその転換の原動力になるということであった.

 私がこのようなケースを考察したのは,最高に変化を被りにくいと思われる理論が歴史的にいかに変化したかを考察すれば,理論変化の本質を知ることができるのではないかと期待してのことであった.

 しかし,私の考察したこのようなケースは,科学史においては,きわめて稀な事態である.実際,ひとつの理論の成立を考察しようとするとき,理論変化という図式は,史的考察のベースとして,著しく一般性に欠けるのである.

 理論変化によってある理論〔B〕が生じたという場合,それに先立ってその理論と同様な規模と対象領域をもったもうひとつ別の理論〔A〕の存在が想定されるであろう.すなわち,理論変化「A→B」である.この典型には「コペルニクス的転換」,すなわち「プトレマイオス天動説→コペルニクス地動説」がある.ほかの例としては,「ニュートン力学→特殊相対性理論」および「ニュートン力学→量子力学」をあげることができるであろう.後者の二つは私も先の小論で扱った.

 しかしながら,ここで注意すべきは,特殊相対性理論の形成には,ニュートン力学だけでなく,マクスウェル電磁気学が深く関わっていたという事実である.アインシュタインの原論文は「I.運動学の部」と「II.電気力学の部」の二部構成からなるが,その第II部はアインシュタインのいう「マクスウェル-ヘルツ方程式」の展開で埋め尽くされている[2]

 また,量子力学の形成においては,熱力学や統計力学,波動理論,電磁気学,などが関与している.そもそも,量子力学形成の発端となった黒体輻射現象は,ニュートン力学のみで扱える対象などではない.

 だから,特殊相対性理論や量子力学の形成の場合,「理論変化」というのは,単に結果としてそのようにまとめられるということに過ぎない.歴史を動的に考察すれば,それら二つの理論の形成に関与した主要理論は,ニュートン力学だけではないのである.私が「古い理論内部における矛盾」といった場合の「古い理論」の範囲の設定には,まさに発見者を際立たせる独自な着眼が関わっているのである[3]

 都城秋穂はその著書『科学革命とは何か』のなかで,プレートテクトニクス理論に先立っては(都城のいわゆる厳密な意味での)パラダイムは存在しなかったと指摘している[4].すなわち,プレートテクトニクス革命はパラダイム転換ではなかったというのが都城の結論である.同様なことは,他の多くの理論の形成にも当てはまる.たとえば,ニュートン力学は何から変化したものか? ドルトン原子論は? ダーウィン進化論は? いずれの問いもほとんど意味をなさぬであろう.

 このように,「理論変化」という図式は,特別な場合にしか成立しない.今後はそんな枠組みからは解放され,「新理論の形成」としてもっと生き生きと考察がなされるべきである.新理論の形成がパラダイム転換で,それは合理的には説明ができず,両パラダイムは通約不可能である,などというばかげた主張にはもう静かに退場を願いたい.

 

2.理論形成の要因――首尾一貫性の追求

 新理論の形成においては,既存の諸理論・諸概念・諸法則・諸事実における「首尾一貫性」(“consistency”,「一致」)の追求が重要である.一般相対性理論は,慣性質量と重力質量の一致を前提として誕生した[5].ニュートン力学やドルトン原子論は,それまでに蓄積された諸法則・諸事実を一貫して統一する理論として提起された.プレートテクトニクス理論も同様である.それらは,「一般化」を中心とした理論形成である.すなわち,それまで独立とみられていた諸要素がより広い枠組みのなかに系統的に位置づけられるものである.

 さまざまな要素からなる対象において首尾一貫性を追求すれば,「欠如」あるいは「矛盾」(という《対象の否定性》)が浮かび上がってくることもある[6].欠如とは元来存在しないものである.(それは単に欠けているのである.) 欠如はある一貫した枠組みのなかでのみ明らかとなる.(ジグソーパズルにおいて,欠けている破片は,他の多くの諸破片が秩序立てられたとき明確となるように.) メンデレーフは元素の周期律という秩序を仮定し,そのなかで欠けている要素を見出して,新元素の存在を予言した.

 矛盾も欠如と同様である.どんな矛によっても破れない盾と,どんな盾をも突き通す矛は,それぞれ単独では存在し得る.両者がひとつの枠組みのなかで一貫して考察されたとき,矛盾となるのである.矛盾が理論形成に重要な役割を果たすことは,先の小論を含め,私はすでにいろいろな場所で論じた[7]

 

3.理論間の関係――「革新」と「革命」

 よく議論されるように,特殊相対性理論の方程式では→∞の極限でニュートン力学の式が導出されるし,量子力学ではWKB近似といわれる操作により,h→0の極限でニュートン力学との対応が得られる.これは,物理学の常識にしたがえば,特殊相対性理論と量子力学は,その極限においてニュートン力学を含むことを意味する.

 ところで,「その極限において含む」ということは,現実には含んでいないということである.これは,特殊相対性理論および量子力学とニュートン力学との間の自然観の断絶といわれるものを表現する.このような断絶を含む理論形成を,私は「革命」と呼んだ.コペルニクス的転換にも明らかな自然観の断絶が含まれており,したがってそれは「革命」に分類することができる.

 一方,一般相対性理論においては,リーマン・クリストッフェルのテンソルKkji hを零,すなわち基本計量テンソルgjiの値がすべて定数となるような座標系とすれば,特殊相対性理論のケースとなる.そこに極限操作はない.これは,一般相対性理論が特殊相対性理論をそのまま含むことを意味する.両者の間に自然観の断絶はなく,一方において他方が(文字通り)一般化されているのである.私は,このような理論形成を「革新」と呼んだ[8].一般化による理論の形成はすべて「革新」に分類される.したがって,この用語法によれば,ニュートン力学やドルトン原子論,プレートテクトニクス理論の形成もすべて革新である.

 革新においては,新理論に先立つ諸理論・諸概念・諸法則・諸事実のうち,あるものは新理論にそのまま位置づけられるし,別のものは修正されることによって受け入れられ,さらにあるものは否定されることになる.これらの錯綜する関係を,単に「理論変化」とか「通約不可能性」などの概念で括ってしまう危険は明らかであろう.

 革命によって隔てられた理論AとBにおいては,AからBへの断絶はあるが,BによってAは理解できる.この二つの水準AとBの関係を,私は「のりこえの構造」あるいは「半通約不可能性」と呼んだ[9]

 一般化による理論形成(「革新」)においても,この構造は成立している.この場合,既存の諸理論・諸概念・諸法則・諸事実が水準A,そして新しい理論は水準Bを構成する.AはBの母体であるが,AからBが演繹されるわけではないし,BをAに還元することもできない.ただし,Aを構成する諸要素の意味は,Bによって理解できる.たとえば,ケプラーの諸法則の意味はニュートン力学によって理解できるし,質量保存の法則や定比例の法則(あるいは倍数比例の法則)はドルトン原子論によって自明なものとして受け入れられることができる.

 枠組みの異なる二つの理論の間が通約不可能であるという主張は,通俗的な科学論においては重要な教義であったが,すでにその破綻は明らかであろう.ただし,ここでは,次の点を指摘しておきたい.問題は,この概念が,結構一部の科学者たちに受け入れられているという事実である.それら科学者たちは,通約不可能性をある種の経験的事実の表明と受け取っているようである.枠組みの異なった理論・思想の間で言葉が通じにくいということなら,別に一部科学論者などから教えてもらう必要はない.日常実によく経験する事実である.通約不可能性は経験的事実ではなく,一部科学論者たちによって,原理の問題として主張されたのである.この点,妙な思考スタイルが流行らぬよう,現場ではもっと注意が必要である.

 

4.科学論と倫理

 枠組みの異なった思考の間でのコミュニケーションにおいて重要なのは,相手の思考の枠組みに入り,その首尾一貫性を追求することによって内部矛盾がないかを検討することである.これは,私がかつて「倫=理」と記述し[10],柴谷篤弘が「ネオ・アナーキズム」と呼んだ[11]方法である.通約不可能性なる概念が含む倫理的問題は,このようなコミュニケーションの努力を頭からあっさりと否定してしまうことにある[12]

 首尾一貫性の追求こそがポイントである.ニュートン力学のような強力無比な理論が他の理論に取って替わられるのも,その内部矛盾の顕在化による.理論における内部矛盾の存在は,その理論により深くコミットした人にとってより深刻なものであり,これが新理論形成の原動力となるのである.

唐木田健一


 

[1] 唐木田健一「理論評価におけるいわゆる“社会的要因”の関与について」『化学史研究』2000,169-175頁.本ブログ記事では「“社会構築主義”的問題:理論評価に対する“社会的要因”の関与について」.

[2] A. Einstein, ‘Zur Elektrodynamik bewegter Körper’, Annalen der Physik, 17 (1905), pp.891-921. 桂愛景『基礎からの相対性理論』サイエンスハウス(1988).唐木田健一『原論文で学ぶ アインシュタインの相対性理論』ちくま学芸文庫(2012).

[3] 唐木田健一「科学史におけるのりこえの視点」『化学史研究』1988,185-190頁.唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995).本ブログ記事では「理論変化に関わる矛盾の例」.

[4] 都城秋穂『科学革命とは何か』岩波書店(1998).本ブログ記事では「都城秋穂『科学革命とは何か』の紹介」.

[5] 唐木田健一「定量的科学におけるあいまいさについての考察」『化学史研究』1989,49-53頁.本ブログ記事では「定量的科学におけるあいまいさについての考察」.

[6] 桂愛景『サルトルの饗宴』サイエンスハウス(1991).本ブログ記事では「新理論の形成:首尾一貫性,欠如,矛盾,そして弁証法」.

[7] 本ブログ記事では,たとえば「基本理論は自滅することによって完成を迎える(1).理論の内部矛盾の発見とその先鋭化」「基本理論は自滅することによって完成を迎える(2).新理論は内部矛盾ののりこえによって誕生する」.

[8] 「革命」と「革新」については,注7の文献「基本理論は自滅することによって完成を迎える(2).新理論は内部矛盾ののりこえによって誕生する」の最終節参照.この文献の出所は,唐木田健一「理論の発展と完成としての自滅の過程」『科学基礎論研究』16 (1983),17-21頁.

[9] たとえば,本ブログ記事「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的-動的見解”に答える」.

[10] たとえば,本ブログ記事「日本社会の反倫理性と科学論の問題」.

[11] 柴谷篤弘『私にとって科学批判とは何か』サイエンスハウス(1984).

[12] 唐木田健一「創造性論議の落とし穴」『分数ができない大学生』東洋経済新報社(1999),2章.本ブログ記事では「創造を阻むもの」.


核分裂の発見者リーゼ・マイトナーが「共同研究者の弟子の若い女物理学者」として描かれること

2024-04-10 | 日記

 私は先に「アインシュタインの公式E=mc2を“逆向き”に使うこと」という記事で,ピエール・ブールの小説「E=mc2[1]を紹介した.そこでは,私の立場から若干の注釈を加えたが,ここにもう一つ追加しておきたい.

 この小説には,危うくゲシュタポから逃れたエルザ・シュミットという「ドイツの若い女物理学者」が登場する〔221頁〕.彼女は重要な報告書を保持しており,それは「彼女のもとの先生でドイツ最大の実験科学者の一人オットー・ハーンの行った研究を要約していた」〔223頁〕.これは実在の物理学者リーゼ・マイトナーをモデルとしたものであるように思われる.

 マイトナーは,ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所でハーンと共同で実験を行っていた.この実験はフェルミが創始したもので,ウラン(原子番号92)に中性子を照射することによって,ウランよりも原子番号の大きい人工元素(超ウラン元素)の生成をめざすものであった.物理学者のマイトナーはこの実験に魅了され,化学者の力が必要ということで,ハーンを説得して協同研究をはじめたのである.マイトナーはオーストリア出身のユダヤ人で,ついでながら年齢はハーンと同じ(細かくは数か月年長)であった.

 1938年3月,ナチス・ドイツはオーストリアを併合した.これによりマイトナーは,「ドイツのユダヤ人」ということになった.この状況変化により,彼女はナチス党員らによる攻撃の対象となった.自分の将来を案じたマイトナーは,ドイツからスウェーデンへと逃亡・亡命した.

 1938年12月,ベルリンのハーンから彼女へ,奇妙な実験結果についての知らせがあった.それによれば,めざした超ウラン元素の生成はみられず,それどころか原子番号56のバリウムが検出されたというのである.ハーンはこの結果に懐疑的で,ウランが破裂しバリウムができるなどということが起り得るのかどうか,彼女に見解を求めてきた.

 マイトナーは,たまたまクリスマス休暇でデンマークのニールス・ボーアの研究所からやってきた甥の物理学者オットー=ロベルト・フリッシュとともに,電荷を帯びた液滴モデルを使って計算を進めた.この液滴は外部からエネルギーを与えると振動し不安定になる.液滴の表面張力は液滴の形を保とうとするが,電気的斥力が液滴の表面張力に打ち勝ち,液滴は二つに破裂する.計算によれば,このとき二つの液滴は2億電子ボルトという途方もないエネルギーで飛び散ることになる.このエネルギーは何に由来するのか.マイトナーたちの考えによれば,破裂で生じた二つの部分の質量の合計は,もとのウラン元素の質量よりも小さいはずである.公式E=mc2でその質量減少分に対応するエネルギーを評価すると,陽子の質量の五分の一程度の減少で2億電子ボルトに相当することがわかった.

 1939年1月1日,マイトナーはベルリンのハーンに手紙を書き,「非常に重い原子核が破裂することは,エネルギー論的にはあり得る」という趣旨を知らせた.また,マイトナーとフリッシュは相談して,核反応における「破裂(split, splitting)」を「分裂(fission)」と呼ぶことにした.それは細胞分裂との類似にもとづくものであった.

     *

 このように,マイトナーはレッキとした核分裂の発見者(の一人)である.しかし,この業績では,1944年にハーンがノーベル化学賞を単独受賞しただけであった.また彼は,共同研究者としても,彼女の名を一言も出さなかったと言われている.さらに,それ以前に,マイトナーはハーンとは常に対等の共同研究者であったのにも関わらず,社会的にはハーンの協力者と見られており,それがのちまでつづいたようである.ピエール・ブールによる「ハーンの弟子で若い女物理学者」というエルザ・シュミットの人物造形は,この延長にあるのであろう.

 「小説中の人物造形にカタイことを言うな」との意見があるかも知れない.しかし,(すでに前の記事に書いたが)物語の進行とまったく関わりがないのであれば,史実に忠実であるほうが読者の興味を引くであろうし,史実について不当な誤解を広めずにすむであろう.史実にしたがって,「ハーンの共同研究者でノーベル賞候補ともなっている女物理学者」ではなぜまずいのか.このほうがよほど物語の迫力が増すように思われる.なお,マイトナーは,核分裂の発見以前にも,(他の業績によって)複数のノーベル賞受賞者(マックス・プランク,マックス・フォン・ラウエ,ら)からノーベル賞候補に推薦されていたのである[2]

唐木田健一


[1] Pierre Boulle, CONTES DE L’ABSURDE (1963)/大久保和郎訳『E=mc2』早川書房(1968).ここには,「E=mc2」を含む7つの短編が収められている.なお,以下の本文に〔○○頁〕という挿入があるが,これはこの日本語版でのページを示すものである.

[2] 本稿におけるマイトナーの記述については次の文献を参照した.Charlotte Kerner: Lise, Atomphysikerin (1986)/平野卿子訳『核分裂を発見した人 リーゼ・マイトナーの生涯』晶文社(1990).


アインシュタインの公式E=mc2を「逆向き」に使うこと.『猿の惑星』原作者・ピエール・ブールの場合

2024-04-03 | 日記

 「戦場にかける橋」や「猿の惑星」の原作者として知られるピエール・ブールは,「E=mc2」というタイトルの小説を書いている.私は学生時代,タイトルにひかれてこの本[1]を入手し一読した.同じような時期だったと思うが,たまたま映画「猿の惑星」も見た.両者が同じ原作者によるものであることは,だいぶあとになって気づいた.

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 アインシュタインが導出した有名な公式E=mc2は,エネルギー(E)と質量(m)の等価性を表わす.ただし,その換算係数は光速度の二乗(c2)という大きな数なので,ごく微量な質量が莫大な量のエネルギーに対応することになる.

 この式がいかに魅力的なものであるかは,小説「E=mc2」の冒頭に,著者の観点から,「理念」と称して滔々と述べられている.しかしながら(著者によれば),その理論(相対性理論)はごく小さな規模でしか知られていない.この真理を民衆のものとするには,目に見える形での検証が必要である.本編の主人公,イタリア人エンリコ・ルケージは,この式にしたがい,エネルギーをもとにして物質を創造することを考えた. E=mc2に関わる彼の研究は国際的な評価を受け,1938年11月にはノーベル賞授与の連絡があった.

 たとえ微量なものとはいえ,物質を創造するには莫大なエネルギーが必要である.それをどこで見つけるのか.ルケージが着目したのは宇宙からの放射線であった.それは我々に降り注いでいるのだから手の届くところにある.そして,その源泉は無尽蔵である.とはいえ,それを実現するには,非常に金のかかる重大な組織化が必要である.現在ドイツでは,相対性理論の信奉者には弾圧が加えられている.アインシュタインはとっくのむかしに故国を去らなければならなかった.イタリアでも同様なことがもうじきはじまるであろう.ルケージは計画が実現可能な国としてアメリカを選んだ.アインシュタインはすでにアメリカに住みついていた.

     *

 合衆国大統領と会見したアインシュタインは,彼が先に送った手紙の内容について大統領に確認を求められた.その手紙によれば,

「・・・・・・世界各国において最近完遂された業績の結果私は,E=mc2の原理は実際的適用を可能にすると思うようになりました.

 特に,最近ルケージ教授によって行われた研究の成果は,私に草稿のまま提出されて来ましたが,いわゆる『宇宙』線という形で宇宙に散乱したまま空しく放置されているエネルギーの一部が凝縮されて,ウランのような重金属に転化され得るということが,この研究の結果としてあらわれて来ます.この実験は動かすことのできない理論的意味があるものですが,人間にとって今世紀の他の諸発見とはまったく比較にならない重要な進歩をなすことになるでしょう・・・・・・」〔224-225頁〕

(中略)「結論として,秘密に通じている数少い幾人かの物理学者と私は,ルケージの事業に関心を持って,これを他のあらゆる国家計画に優先させ,研究者たちに彼らの必要とする多額の予算を与えられるよう,合衆国大統領に切におすすめします」〔225頁〕

 これに対して大統領は,世界中で戦争資材,陸海空の武器が問題になっていて,国内でも軍部からの予算の要求が絶えないこの時期に,理論的意義は大いにあるのかも知れないが,直接の効用が乏しい事業が提案されているということにアインシュタインの注意を向けさせる.しかしアインシュタインは,暴力は暴力を呼ぶだけであり,反対に現在のさまざまの錯乱の中で利欲を離れた事業の模範を示すことこそ,世界の人々に尊敬の念を起こさせ,壊滅への宿命的な道程であるあの狂気の諸国の軍備競争を集結させ得ると訴えるのである.

 しかし,このあとの大統領の発言は,アインシュタインをぎょっとさせる.大統領は秘密厳守を約束させた上で参謀総長にアインシュタインの手紙を見せたというのだ.そしてそのときの総長の反応によれば,もし学者たちが正しくて,E=mc2が成立しているとすれば,物質の一小片が巨大な量のエネルギーを潜勢状態で内に含んでいるように思われる.「学者たちには,非常に短い時間の間に力を爆発させるようにして物質を破壊することを命じて下さい」.大統領はアインシュタインに言う.「このことがあなたの頭に浮かばなかったことに私は驚かされたのです」.アインシュタインは当惑した.彼はそんなことを考えても見なかったのである.

 大統領は参謀総長の示唆が実現可能かどうかをアインシュタインに尋ねた.アインシュタインは,物質からエネルギーへの転換がまったく可能であるばかりか,反対の変換よりも多分はるかにやさしいであろうことをすぐに見抜いた.もちろん,嘘をつくことはたまらなくいやだった.しかし,彼の人間としての品位が学者としての良心に勝った.彼は,参謀総長の提案は実現不可能であり,物理学の法則に反する,と断言したのである.

 彼だけでなく,E=mc2を実践の領域へ移すことに専念していたヨーロッパのすべての学者も,そんな適用は予想していなかった.破壊という観念に対する本能的嫌悪が,彼らの明敏な視野をこのときだけ限定したのである.それでも,大統領は疑念を解いていなかった.彼は,相対論物理学が戦争能力にどのように寄与し得るかという点について,その後も泰斗たちの意見を求めた.しかし,誰もがアインシュタインと同じ意味の返事を繰り返した.

 大統領を最終的に説得したのはアメリカの物理学者オルメイヤーだった.彼は科学的業績にすぐれるばかりでなく,いくつかの点で非常にアメリカ的で,財政の問題に関心をもつほどまでに現実主義のしみ込んだ一流の組織者であった.彼は,アインシュタインらの懸念をよそに,大統領からの召喚において,アインシュタインと同じ返答をしたのである.大統領はオルメイヤーに全幅の支持を与え,ルケージの提案する事業に,戦争予算の重大部分を振り向けることにした.オルメイヤーはニュー・メキシコ州ロス・アラモスの台地に研究センターをつくり,科学界の知名の士を集めて,ルケージの提案する装置の開発をはじめた.

 ルケージは,まずはウラン原子1個の生成に成功した.原子の存在は,ウィルスンの霧箱の拡大写真が映写されるスクリーンによって確認された.ルケージの理論と計算によれば,連鎖反応が生じ,最初に創造された原子から二つの原子が生まれ,この二つから四つが生まれ,これが継続するはずであった.

     *

 ルケージの装置は完成した.この装置の効果は,重要な都市の上空で顕示される必要があった.その場所と時刻は,大統領をはじめとして,学者や軍人,そして政府部内の人々,が出席する会議で検討された.場所は,「このときなお科学とE=mc2と闘っている唯一の国である日本」となった.日本における公開の証明によって血なまぐさい戦争の即時停止をもたらし,以てこの公式の超人的力を立証できるであろう.都市としては,アインシュタインの提案により,ヒロシマとなった.ここはかつて彼が訪問し,温かい歓迎を受けたところであった.時刻は正午と決まった.「この時刻が日本の民衆が一番街路に多く出ているとき」だからである.

 なお,政府部内の人々や軍人たちのほとんどは,物理学者たちと同じ楽観論をもってはいなかった.予備的実験に立ち会った軍人によれば,空に何かがきらめくのを見た.それがつくり出されたウランであるといって,白いほこりの粒のようなもののいくつかを彼の掌に乗せてくれたという.しかし,この夢想家たちが相手では何一つ確信はもてなかった.

 オルメイヤーやルケージがヒロシマ上空で立ち会うなか,装置は作動を開始した.しかしこのとき,科学者たちの予想もしなかった悲劇が発生するのである.

     *    *     *

 以上が,ピエール・ブールの小説「E=mc2」のあらすじである.この小説では,ムッソリーニやヒットラーとともに,アインシュタインやオットー・ハーン(ウランの核分裂の発見者の一人,上のあらすじでは省略)が実名で登場するし,またエンリコ・フェルミを思い起こさせる人物(→ルケージ)やロバート・オッペンハイマー(→オルメイヤー),さらにはニールス・ボーア(→スボルグ教授,上のあらすじでは省略)までが登場する.

 原爆の開発は微量の質量を莫大なエネルギーに変換するものであるから,E=mc2におけるm→Eと表すことができる.他方,この小説はE→m,したがって逆向きの「マンハッタン計画」として読むことができるであろう.しかしながら,私としては,ここに若干の注釈を加えておきたいと思う.以下では,上のあらすじには触れられていない部分も関わることを,あらかじめお断りしておく.

     *

連鎖反応

 アインシュタインをはじめとする科学者たちをどう性格づけるかは物語の都合によるであろう.したがって,たとえば,アインシュタインがE=mc2の爆弾への適用を考えもしなかったというのは,一応はおもしろい設定として受け入れることができる.

 他方,ルケージの発見とされる連鎖反応は,この事業の核となる現象であり,開発された装置において実用される重要技術である.それにも関わらず,物語上,科学者たちはその本質をまったく把握していなかったことになる.彼らが優れた科学者であることは小説のなかで強調されているのである.

 もちろん,「優れた科学者でも専門外のことについては間抜けな判断をすることがある」ということはしばしば言われる.しかしここでの場合,問題は専門中の専門,すなわち事業の目的に直接関係することである.これは何かのアイロニーなのであろうか.また,そんなことは別としても,素朴な読者にも物語のオチが途中でバレてしまうという事態は,著者にとって不都合ではないだろうか.

1919年の「天文学的実験的観察」

 この小説中では,E=mc2の検証として,1919年のイギリスの天文学者たちによる観測について(2箇所にわたって)触れている〔193頁,213頁〕.これは世界的に大変有名な観測であるが,一般相対性理論の検証に関わるものである.他方,E=mc2は特殊相対性理論から導出されたものである.形式的には特殊相対性理論は一般相対性理論に包含されるが,理論的には両者はまったく独立である.したがって,1919年の「天文学的実験的観察」〔213頁〕は,E=mc2とは何の関わりもない.

 こんな「上げ足取り」のような指摘はしたくもないが,小説中で歴史的事件に触れる場合,物語の進行ととくに関わりがなければ,史実に忠実であるほうが読者の興味を引くであろうし,史実に関して妙な誤解を広めずにすむであろう.また,ついでながら,この天文学的観察に関連して,「アインシュタインは実験による確認など軽蔑する」と書かれているが〔193頁〕,この天文学的観察は,史実としては,アインシュタインが自分の論文で提案したものである[2]

古典物理学は誤っていたのか?

 ルケージは物理学を初めて志して,古典物理学の基礎を学んでいるとき,同時にそれらの観念の誤りを見抜いてそれを証明した,ということになっている〔211頁〕.これはルケージが「天才的な学者たること」を示す一つの取るに足らないエピソードではある.しかしこれは,本ブログにおける私としては,見過ごすことのできぬものである.

 まず,こんなことはあり得ない.なぜなら,古典物理学(たとえばニュートン力学)は「誤って」などいないからである.古典物理学はいまでも,(科学史ではなく)物理学の授業において,しっかりと教育されている.誤っているものをなぜ生徒・学生に教えなければならないのか[3]

 相対性理論や量子力学の出現によって私たちが学んだことは,「ニュートン力学は誤っていた」ということではなく,「ニュートン力学はどのように正しかったか」ということである.このことは,私が本ブログでしばしば取り上げる「理論変化」[4]に関わる重大事項である.

     *

 公式E=mc2を初めて導出した1905年のアインシュタインの論文の末尾部分には次の文章がある[5]

 エネルギー含量が大きく変化するような物質(たとえばラジウム塩)においてこの理論の試験に成功することはあり得ないことではない.

これは,放出されるエネルギーから物質の重量減少を算出すれば,公式の検証ができるのではないかという提案である.アインシュタインはもちろん,自分の理論の検証には多大な関心をもっていたし,(ここでの例に限らないが)その提案内容は彼が物理学の広い領域にわたって深い知識を有していることを示すものであった.

唐木田健一


[1] Pierre Boulle, CONTES DE L’ABSURDE (1963)/大久保和郎訳『E=mc2』早川書房(1968).ここには,「E=mc2」を含む7つの短編が収められている.なお,以下の本文の一部に〔○○頁〕という挿入があるが,これはこの日本語版でのページを示すものである.

[2] 本ブログ記事「一般相対性理論以前でも光線の湾曲は予測できた!?」.

[3] 本ブログ記事「“単称言明”はいかにして“普遍言明”となるのか.カール・ポパー“反証主義”の浅はかさについて」.

[4] たとえば,本ブログ記事「科学史における理論変化の問題(2):基本理論の創造」,「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」,等.

[5] 唐木田健一『原論文で学ぶ アインシュタインの相対性理論』ちくま学芸文庫(2012),p. 303.