唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

新潟水俣病に関する西村肇の「昭和電工論文」解析

2021-09-29 | 日記

10月4日付で刊行される私の『科学・技術倫理とその方法』緑風出版(すでに書店では扱っていただいています)の3章2では,西村肇氏の(熊本)水俣病の原因究明について紹介しました〔『科学技術倫理とその方法』の「目次」〕.ここではその「補遺」として,同じ西村氏による新潟水俣病に関する仕事を紹介します.これは,湘南科学史懇話会(猪野修治氏主宰)での私の講演の一部にもとづきます.講演の全体は,「異なった価値観の間におけるコミュニケーションの方法」『湘南科学史懇話会通信』第10号,2004年1月,36~54ページに採録されています.

唐木田健一

     *

 個別事例の最後として,西村肇による昭和電工論文の解析を紹介します.西村さんは,東大工学部の教授で,93年の定年退職後は「研究工房シンセシス」を主宰しています.きょうお話しするのは,新潟水俣病に関するごく最近の仕事です.しかし,西村さんは熊本水俣病―水俣の水俣病―についても仕事をしていて,御存知のかたはそちらと混同する恐れがありますので,まずは西村さんの熊本水俣病の研究に触れておきます.

 熊本水俣病については,西村さんは共著あるいは単独でいくつか論文を発表していますが,最終的には岡本達明さんとの共著による『水俣病の科学』[1]という単行本がまとめられました.この岡本さんというのもスゴイ人で,彼は東大法学部を卒業してチッソに入ったのですが,いわゆる「学校出」で第一組合に残留した唯一の人だったそうです.彼はその委員長としてチッソと闘いました.

 熊本水俣病に関する西村さんたちの仕事は,「なぜあの時期にあの地で水俣病が発生したのか」を解明したものです.そう,そんなことが最近まで謎であったのです.原因とされるアセトアルデヒドの製造工程―簡単に言うと,水(H2O)のなかにアセチレン(C2H2)のガスをブクブクと通し,アセチレンを水と反応させてアセトアルデヒド(CH3CHO)を製造するもので,その反応の触媒として水銀を用いる方式―は戦前から採用されていたものです.「奇病」が発生したとされるのは1953年ごろです.工場側の要因としては生産量の増大が考えられますが,実はこの時期はやっと1940年ぐらいのレベルを回復しつつあるところでした.だから,53年ごろの生産量で惨劇が生じるなら,水俣病はすでに戦中に発生していてもよいはずでした.

 また,同様のアセトアルデヒド製造方式は,「奇病」発生の当時,国内では7社,国外でも20の工場において採用されていました.しかし,これだけの病状を引き起こしたのはチッソ水俣工場だけです.確かに昭和電工も―すぐこのあとお話しするように―新潟水俣病を引き起こしましたが,規模は水俣ほど著しいものではありませんでした.だから,「なぜあの時期にあの地で発生したのか」は謎だったのです.西村さんたちは,20年の歳月をかけ,それを解きました.結果は先に紹介した本を参照していただくとして,ここでは新潟水俣病に関する西村さんの仕事[2]のほうをお話しします.きょうこれまでに私が述べてきた「方法」と密接に関わるのです.

 まずは,西村さん自身の記述による事件の概要です.

 新潟水俣病事件とは,1960年代,新潟県下阿賀野川下流流域に居住する漁民に集中的に起こったメチル水銀中毒事件です.その原因については,患者は上流にある昭和電工鹿瀬(かのせ)工場の廃液が原因であると主張しましたが,昭和電工はそれを否定しましたので,患者側は裁判を提起しました(1967年6月).我が国初の公害裁判(民事)です.ここで患者側は工場廃液説を主張し,昭和電工側は農薬説を主張して,激しい争いとなりましたが,1971年9月,新潟地裁は患者側全面勝訴の判決を下しました.昭和電工側は判決前に控訴を断念していましたので,昭和電工側の民事責任は確定しました.昭和電工の刑事責任についても検討されましたが,警察は因果関係の立証は不可能と結論し,刑事訴追は行われませんでした.その後,未認定患者が国と昭和電工を相手取り,損害賠償を求める第二次訴訟を起こし(1982年6月),長期裁判となりましたが,1995年,政府は未認定患者救済のため,因果関係は争わないことを基本とする調停案を呈示し,患者側(共闘会議)と昭和電工はこれに合意し,永年の争いに一応の決着がつけられました.

このように,事件の科学的因果関係は依然不明瞭なままだったのです.

 問題のアセトアルデヒド製造工程でメチル水銀が生成したことを実証あるいは否定できれば決定的なのですが,その可能性は昭電によって完全に断たれてしまいました.

 昭和電工の場合は〔チッソとは〕様子はまったく違っていました.鹿瀬のプラントは1965年1月ほとんど極秘のうちに操業停止し,ただちにプラントを完全解体し,廃棄してしまいました.さらに徹底していたのは文書の廃棄です.操業マニュアル,操業日誌は無論のこと,関連文書はすべてあとかたもなく廃棄されました.驚くべきは関連するプロセスのフローシートが全部廃棄されたことです.もちろんすべて作業は極秘のうちになされましたから,いつどのように廃棄されたのかは知りようがありませんが,患者側が裁判でメチル水銀の生成,排出を立証するためにプロセス内部資料を求めたときは何一つ残っていませんでした.

 チッソも関連資料を意図的に廃棄しようとした点には変わりありませんが,その徹底性,迅速性では昭和電工には雲泥の差をつけられました.1972年刑事訴追のための検事の立ち入り捜査の際にも,まだ大量の関連文書が残っていて押収されているからです.さすがに操業日誌のような重要なものは廃棄されていましたが,その一部は疑問を抱いた人の手で極秘のうちに廃棄をまぬがれました.それらが後年,筆者らによる水俣病発生原因の科学的解明を可能にしたのです.昭和電工には,このように会社のやり方に疑問をもって一身の危険をおかしても,大切な資料を隠匿保全しようとした人はいませんでした.(〔 〕内の挿入は引用者による)

 証拠の徹底廃棄をした昭電の側は,メチル水銀を排出しなかったという証明をするため,模型プラントをつくり実験して,その結果を『工業化学雑誌』1971年2月号に発表しました.これは日本化学会の日本語雑誌です.その結論は,メチル水銀は反応器内で生成することはなく,また反応器外に一切出ていないというものでした.

 西村さんは発表当時からこの論文の内容を把握しようとつとめたようです.しかし,不明のことが多過ぎました.結論を導くのに必要な最低限の前提や実験条件の記述が省略されていたからです.論文のデータによれば,反応器の内部でメチル水銀は生成しているのです.それがなぜ生成しないという結論になるかといえば,メチル水銀は生成もするが分解もしている.反応器内でのメチル水銀濃度が低いときは生成であり,濃度が上がっていくと分解に変わる.そして,時間経過によってメチル水銀の生成と分解の速度が等しくなる「平衡」に達し,正味の生成はなくなるというのです.そして,系が「平衡」に達する《理由》も論じられています.

 西村さんは一時,この論文のデータ全体が信頼に値するものではないのではないかと考えたようです.たとえば,論文に与えられている数値から,メチル水銀濃度の初期値を計算し,それを論文の図の時間ゼロのところにプロットしても,その後のデータの傾向とは合いません.(論文では,反応器内のメチル水銀濃度の初期値をいくつかに変化させ,アセトアルデヒド合成反応の時間経過によってそれがどう変化するかを測定しています.)西村さんがプロットすると,彼の計算した初期値は図のなかの他のデータから外挿・予測される位置よりも高くなるのです.すると,反応時間の経過でメチル水銀が生成しているように見えるデータも,もしかしたら誤差の範囲なのかも知れない・・・・・.

 行き詰まりを打開してくれたのは患者側弁護団の中心だった坂東克彦が公刊した新潟水俣病の膨大な訴訟記録[3]です.そこには,昭電論文の著者のひとりによる証言が含まれていました.実験データは論文と同じであり,また実験条件についての肝心な点も論文以上のことは何も言っていませんでしたが,実験装置の図面を示し,実験データの解析についての考え方を述べていたので,論文内容の全面的な検討が可能となったのです.なお,この坂東史料の全体は35ミリマイクロフィルム75リールで,B5判書籍に換算して6万頁に相当するそうです.解説と検索用のCDROMが付いて280万円とのことです.

 昭電論文における秩序が明確な姿を現したのは,裁判史料の図面から,反応器の容積が西村さんが想定していた1リットルではなく,実は1.2リットルであると推定できたときのことだったそうです.これにより,初期値を計算し直してグラフ上にプロットすると以降の測定値とよく合い,またこれによって測定値全体も異常ではないことが確認できた.裁判記録の引用によれば,昭電論文の著者のひとりも,1リットルと思い違いしていたようです.これにより,昭電論文におけるメチル水銀生成のデータは信頼できることがわかりました.それでは,生成と分解が「平衡」に達するので正味の生成はないという主張のほうは?

 西村さんは,すでに熊本水俣病の仕事において,メチル水銀生成反応機構の全体を明らかにしていました(『水俣病の科学』).それによれば,メチル水銀は系内で分解することはない.これには量子化学的研究の裏付けもある.それでは,実際は何が起きたのか.メチル水銀は系内で分解していたのではなく,系外へ漏れていたのです.西村さんが着目したのは「飛沫同伴」という現象です.これは,気泡が反応器内の液体を吹き抜けるとき,液表面で気泡がつぶれる際に必ずごく小さな液滴が生成し,これがガスによって運ばれて系外に出てしまうものです.この液滴にメチル水銀が含まれていたのです.これは液面から出口までに十分な距離をとれば防ぐことができますが―ということはメチル水銀は系外に漏れることなく系内にしっかりと蓄積するはずだったのですが―小型の実験装置だったのでそうはならなかったのです.

 このように全貌を把握したうえで,西村さんは昭電論文のデータから,昭電での実際のメチル水銀生成量を推定・算出しました.それによると,鹿瀬工場によるメチル水銀の生成量は年間50キログラムでした.チッソ水俣では,事件発生時の1953年の排出量は年間40キログラムでしたから,それとほぼ同量ということになります.

 西村さんはこの仕事を,メチル水銀生成の「逆証明」と呼んでいます.すなわち,相手の実験データにおいて首尾一貫性を追求し,欠けているものを見出し,不整合(矛盾)を解決して,相手とは逆の結論を導き出したということです.

☆本件に関連しては,私のブログ記事「1968年の一学生がみた水俣病」も参照して下さい.


[1] 西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(2001).

[2] 西村肇「昭和電工鹿瀬工場は大量のメチル水銀を生成していた」『現代化学』2003年3月号13-17頁(上)および4月号13-20頁(下).また,西村「栗原氏の主張を読んで」『現代化学』2003年8月号62-63頁も参照せよ.

[3] 橋本道夫・平野孝監修/坂東克彦・平野孝編集『坂東克彦史料・戦後日本公害事件史料集成』(Ⅰ.新潟水俣病裁判第1次訴訟記録)柏書房(2003).


この反倫理的社会においていま必要なこと(1):唐木田健一『科学・技術倫理とその方法』緑風出版(2021)の「はじめに」

2021-09-25 | 日記

 「コンプライアンス(compliance)」ということがいわれ始めてすでに久しい.多くの組織では「行動規範」(あるいはその類似物)が制定され,さらには関連する諸規定の制定・整備がなされているようです.また,それと並行して,各種専門職の団体が会員に向けての「倫理規範」を定め,公表しています.しかしながら,いまだ《不祥事》はあとを絶たない―どころか,これまで比較的には堅実と思われてきた伝統ある企業の製造現場においても長期にわたる不正が明らかにされています.さらに国会では,首相の非行を糊塗するために,「高給」官僚が虚偽答弁を繰り返し,また証拠となるドキュメントが公然と隠蔽・改竄・廃棄されるという事態に至っています.これは,コンプライアンスや倫理規範のさらなる教育と徹底が求められているということなのでしょうか.

 いま規範といわれているものはルールです.たとえば,(化学者は)「論文に記載するデータの偽造,ねつ造や他の著者の文献からの盗用を行ってはならない」といったものの集合です.組織の中でこれに反対する人はいないでしょう.また,単に「反対ではない」というだけでなく,そんなことは教えられるまでもなく,もとより承知していることです.だから,本質的な問題は,ルールを制定したり,それを教育することではない.確かに,ルールを制定しておけば,その違反者を躊躇なく処分できるというメリットはあります.しかし,倫理規範にどのように規定されていようがいなかろうが,科学者や技術者の学会において,ある会員の発表したデータが偽造や盗用であることが認定されたとすれば,それ自体が最高の処罰であるはずです.しかし現在の諸学会では,そのようなことは《注意深く》避けられています.

 また現在の社会ではおどろくほど相対主義が浸透しています.そのため,刑事事件となって逮捕でもされれば別でしょうが,そうでなければ自己を含め「各人は各人の利害に沿って振る舞うもの」との悟り風態度で,相当な非行にも目をつぶってしまう人が少なくありません.これが不祥事と呼ばれる犯罪の再生産を加速します.あるいは,社会的に意見の対立が存在する場合,《絶対的》価値基準が存在しないという理由でその対立を調停不可能とみなし,そこから身を遠ざける人も少なくありません.この行為は現に力の強い側に有利に作用します.

 したがって,必要なのは,共通の価値基準が存在しない場合いかに判断すべきかの方法であり、従来の倫理教育および管理者教育にはこれが決定的に欠落していたのです.これは,仮に古典的な概念と用語を採用するなら,「何が善か」を追求するための方法であり,これが本書の全体において提起されるものです.あらかじめお断りしておけば,これは相対主義に対して絶対主義をもち出すものではなく,逆にいわば,相対主義を徹底するものです.

 現状では,行動規範や倫理規範を制定する側は,ある種の社会的体裁を整えることが主たる目的となってしまっているようにみえます.たとえば,諸学会共催のシンポジウム「科学者・技術者の倫理と社会的責任を考える」(2005年3月28日)の広報パンフレットには,「科学者・技術者のコミュニティである学協会は,・・・・・『行動規範』『科学者・技術者倫理』の確立が社会から受容される必要条件になっている」〔「・・・・・」は引用者による省略〕と書かれています.すなわち,規範や指針の制定の動機が内発的なものというより,「社会的ニーズ」(!)にあったことが率直に吐露されています.このことは,学会のみでなく,科学者や技術者が勤務する諸組織においても同様です.コンプライアンス研修や倫理教育を受ける側の多くにとって,それは単に受講実績を得るための義務的手段であるかのようです.このようなおざなりな現状を根本的に変えない限り,事態はますます悪化するばかりです.

 本書〔「目次」〕が提起する方法は,組織の中で仕事をする専門職および指導者・管理者に対し,価値に関わる問題を評価するための明確なガイドを提供します.そしてこの方法は,実は,科学や技術分野におけるさまざまな探究活動においてブレークスルーbreakthroughを見出すための方法でもある[1]のです.

 本書では,「倫理」は人間関係(「倫」)におけるコトワリ(「理」)という意味で使用されます.すなわちそれはコトワリ(倫「理」)なのであって,著者のいわゆる「広義の理論研究」[2]の一環を構成します.


[1] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),『アインシュタインの物理学革命―理論はいかにして生まれたのか』日本評論社(2018).

[2] 唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ―知の総合と生命』ボイジャー・プレス(2018),「はじめに」.


ジェーン・オースチン『自負と偏見』と資本主義の倫理

2021-09-15 | 日記

この文章は2001年4月に作成したものですが,ごく私的な場面を除いて,これまで未公開でした.ここに初めて発表します.

唐木田健一

 

資本主義の倫理

 さきの新聞紙上での論説で岩井克人氏(以下,敬称略)は,資本主義の「論理」を「売れなければならない」と規定し,それに対する資本主義の「倫理」として「売れればよいというものではない」という議論を展開した[1].もちろん,「売れればよいというものではない」というのは決して目新しい主張ではない.しかし,日々「売れなければならない」という脅迫のなかにいて,それを不快・苦痛に感じていた私にとってはきわめて新鮮であり,なぜか突然イエスの「山上の垂訓」を思い起こしたほどであった[2]

 これに関連して,岩井が言及したのは,ジェーン・オースチンの小説『自負と偏見』である[3].岩井によれば,この小説は,「売れなければならない」という“結婚市場の中で,さまざまな娘たちがそれぞれどのように自分たちを「売って」いくかを描いた”ものである.「女主人公」の名はエリザベス・ベネットといって,彼女は「売れなければならない」自分を「売らない」ということで,最後には,“古い家柄と大きな財産と優れた容姿をもつまさに最高の結婚相手”であるミスター・ダーシーと結ばれるというのである.私にとってオースチンは,漱石の『文学論』[4]で,かすかではあるが肯定的な記憶がある.私はますます,岩井の論法にひかれた.

 ところで,エリザベスが最初に拒否するのはコリンズ牧師からの求婚である.そして,岩井によれば,

俗物中の俗物でありながら,大きな財産があるわけでもないコリンズ牧師─彼の求婚を断るのは当然の決断です.彼との結婚は,売れ残りにならないための代償としてはあまりにも大きすぎます.

ここで,私はよくわからなくなってきた.これは,「売らない」ということではなく,要するに,単に「安売りはしない」ということではないのか.「安売りはしない」ということなら,資本主義においてごくありきたりな「論理」であり,手管である.そんなものなら「倫理」の名に値しない.私はともかく,オースチンを読まなければと思った.

『自負と偏見』を読む

 さまざまな事情で,読み始めるまでにはだいぶ時間がかかったが,以降は大変軽快かつ面白く読了することができた.結果として,私の結論は明確となった.『自負と偏見』の世界を岩井の論法にあてはめるなら,「売れなければならない」という論理における倫理は,「売ってはならない」である.これを仮に資本主義にあてはめれば,資本主義社会の倫理は,資本主義を否定することである.「売れればよいというものではない」などといった気楽でありきたりなものではない.

 岩井は,新聞紙上では「東大教授」としかなかったが,彼と柄谷行人との対談の記憶をたどれば,確か経済学者のはずである.世の経済がこれほど人々を圧迫し,不安に落とし入れ,またさまざまな文物を破壊しつつあるとき,「経済学者がこんな能天気な主張をばらまいていていいのか!」というのが,私が岩井を通じてオースチンから学んだ結論であった.

 また,実際に『自負と偏見』を読んでみて,岩井の論説のなかには看過しがたい部分がいくつか存在することに気がついた.たとえば,上に引用した部分である.“・・・・・.彼との結婚は,売れ残りにならないための代償としてはあまりに大きすぎます”とあれば,主人公エリザベスがそのような《計算》を行ったか,あるいは作中でそのように扱われていたかのような印象を与える.作中では,たとえばミセス・ベネット(エリザベスの母親)の見解によれば,コリンズとの結婚は,明らかに財産上の利益をもたらすものであった.また,コリンズにもその自信があったからこそ,ベネット家を訪問したのであった.一方,エリザベス自身はといえば,そのような《計算》とは全く無縁なのであって,彼女がコリンズを拒否したのは,彼がどうしようもない「俗物」で「バカ」だったからである.

 あるいは,岩井は,エリザベスがダーシーとの結婚を断ったのは,“「売れなければならない」娘ならば誰しも狂喜して自分を「売る」だろう.彼がそう決めてかかっているがゆえ”であるとしているが,これも全く正しくない.確かに,ダーシーに求婚されている最中,エリザベスは彼が「絶対成功に自信をもっているらしい様子」を「一目で見てと」って,怒りをあおられてはいるが,それが拒絶の理由などではない.彼女は,そんなこと以前に彼が嫌いだったのであり,それは彼の「社交上の振舞い」の問題もあるが,それ以上に,彼女の側に彼に対する大きな誤解があったからである.物語は,その誤解を解いていくプロセスを軸に展開するのである.

 何かいろいろな《計算》をしているのはエリザベスではない.岩井自身である.私には,彼の読み方が,きわめて《資本主義的》であるようにみえる.

引用の問題

 岩井はこの作が,“長い間「女性向け」の娯楽小説として軽んじられてき”たという.そして,その文脈のなかで引用するのが,新潮社文庫版(脚注3)における「解説」である.岩井は名をあげていないが,解説はこの版の訳者である中野好夫氏によるものである.

「彼女の小説は人をたのしませる文学であって,人生いかに生くべきかだとか,人間心理の深淵を探るとかいった深刻な問題と対決した文学ではない.そういう意味では『偉大』な文学ではなかったかもしれぬ.」

 この新潮社版の「解説」が書かれてから四十年.今,『高慢と偏見』が「偉大」な世界文学の一つであることを否定する人は少数でしょう.

これでは,「解説」の著者が,この小説の偉大さを否定したかのごとくである.

 ここに引用されている中野好夫の文章は,実際は,次のような構造の一部なのである.すなわち,中野はオースチン文学の魅力をさまざま語ったあと,「もっともこう言ったからといって,オースチン文学が完全無欠などと言っているのではない.」として,上に岩井が引用した部分を書いた.そして,中野はさらに文章を続け,「だが,忘れてならないことは,オースチンの書いていたころは,近代小説というものが生まれて,まだせいぜい半世紀とちょっとしか経っていない時で,そのころの小説は,大きく言ってすべて娯楽文学だったのである.(後略)」として,上の仮想的な《貶め》からオースチンを擁護しているのである.

 繰り返すと,上に岩井が引用した文章は,それを挟んでいる「もっともこう言ったからといって,・・・・・」と「だが,・・・・・」が消されてしまっているのである.中野は上の文章を自ら否定するために書いたのであり,岩井はその部分だけを切り出し,解説者・中野の意見であるかのように提示したのである.このような引用の仕方は,ある種の世界では,通例のこととして珍しくはないのかも知れないが,それにしてもここで出会うとは私には大変な驚きである.

「女性向け」

 先に触れたが,岩井はこの小説が「女性向け」である(として軽んじられてきた)ことをしきりと強調する.私には知識がないので,これについて立ち入った議論をする気はないが,「四十年」前の中野においても,100年前の漱石(脚注4)においても,そんな扱いの気配はまるでない.また,中野によれば,オースチンの当時の《摂政殿下》(のちのジョージ四世)も彼女の愛読者だったということである.だから私は,岩井が何ゆえこの小説の「女性性」に触れ,同時にそれに対応して彼がこの小説への共感を表明するに,“私のような男性までもが”とか“私のような男性の読者も”といってことさらに「性」の問題に言及する理由がまるで理解できない.岩井は何か根本的な思い違いをしているのではないか.私には岩井教授とコリンズ牧師のイメージが何故かダブってくるように感じられ,大いに困惑する.

                                                                  (2001.04.22)


[1] 岩井克人「小説『高慢と偏見』」朝日新聞「思潮21」2001年2月2日夕刊.

[2] 私は以前,荒井献の分析にもとづいて,イエスの「山上の垂訓」における逆説を考察したことがある.唐木田『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),5章.

[3] 私は,中野好夫訳『自負と偏見』新潮社文庫(1997)を参照した.岩井もこの版の「解説」に言及している.なお,岩井は,この本の表題を,“『自負と偏見』とも訳され”るとしながら,一貫して『高慢と偏見』と表現している.

[4] 夏目漱石『文学論(二)』講談社学術文庫,217-230ページ(1979).漱石の「序」の日付は明治39年(1906年)11月である.


嶋橋美智子著『息子はなぜ白血病で死んだのか』技術と人間(1999)の紹介

2021-09-08 | 日記

ここに掲載するのは,『化学史研究』28(2001),107-108頁に発表されたものです.

     *

 本書の著者・嶋橋美智子の「息子」は,嶋橋伸之さんである.彼はなぜ白血病で死んだのか? 中部電力浜岡原子力発電所における被曝労働のためである.

 本書は,息子・伸之さんの生い立ち,就職,闘病,そしてその死が労働災害によるものではないかとの疑問のもと,多くの人々の協力と支援を得て労災申請を行い,それが認定されるまでの記録である.伸之さんが亡くなったのは91年10月(享年29歳),そして労災申請が認定されたのは94年7月であった.

 ところで,いまだ我々の記憶に新しいあのJCOの臨界事故が起きたのは99年9月のことである.同年12月,その被災者の1人が全身に浴びた放射能のため亡くなったとき,大新聞をはじめとするマスコミの多くは,それを「原子力開発に関わる国内初の死者」として報道した.

 私が本書の存在を自覚したのは,2000年3月の『科学・社会・人間』(72号,46-47頁)における勝木渥の紹介がきっかけである.勝木は,JCO事故の報道におけるマスコミが嶋橋伸之さんの死を無視することによって,いまだその直接的因果関係を認めず謝罪もしない中部電力と同じ側に立っていることに強い怒りを表明したのである.

 81年3月,伸之さんは横須賀市の工業高校を卒業して協立プラントコンストラクトに入社した.この会社は,中部電力の保守・定期検査作業を請け負っている中部火力工事の孫請け会社で,中部プラントサービスの下請け会社である.配属されたのは新設の原発部門であった.「浜岡原発に研修」という辞令で静岡県浜岡町に赴任した.著者(=母親)としてはあとになって知ることになるのであるが,伸之さんは「核計装」の班に所属し,原発炉心の燃料の間に挿入されている中性子の量を計測する装置,「インコア・モニター」の保守・点検・管理が仕事だった.著者は息子を,「未来のエネルギー,科学の先端を行く原子力発電所」に就職させたことを喜んだ.

 89年9月,伸之さんは風邪のような症状が続いたため町立浜岡総合病院を訪れたが,検査の結果ここでは治療ができないということで,浜松医大付属病院を紹介された.そこで両親は初めて,息子が慢性骨髄性白血病であることを告知される.闘病の末亡くなったのはその約2年のちの91年10月であった.

 著者は当時,息子が被曝労働に従事していたということは知らなかった.ただ,原発ということでチェルノブイリ事故(86年4月)のことを思い,息子の死も原発に関係するのではないかと考えた.しかし,それにしては,会社からの謝罪は全くなかった.91年12月に会社との間で3000万円の弔慰金に関する覚書が締結され,そこでは(1)労災が認められた場合はその分の金は返還すること,および(2)以後息子の死亡については一切異議を述べず請求もしない,という趣旨が記されていた.労災申請には会社は否定的であった.

 92年3月になって,机のなかに遺されたものとして,他の私物とともに作業ノートと放射線管理手帳が会社から返還されてきた.放射線管理手帳は,会社側に対し,早期の返還を督促していたものであった.この手帳の「注意」には,「会社を退職する場合は,事業者から,この手帳をすみやかに受取り,保管して下さい」と書かれていた.〔なお,放射線管理手帳に関する重大な法的実態については,藤田祐幸『科学・社会・人間』69号,27-36頁(99年8月)が明らかしている.〕

 手帳は新旧2冊あった.古いほうには34カ所の訂正印が押してあり,そのうちの28カ所について備考欄に訂正の内容が記入されていた.新しいほうの備考欄には訂正の内容が注1から注7まで記入されていたが,その7カ所の訂正は本人が死亡した翌日付になっていた.また,放射線管理手帳には教育欄があって安全教育を受けた記録が残っていたが,「ご丁寧にも」入院中の91年5月と6月にも受講したことになっていた.さすがにこれは,誤記入ということで訂正されていた.手帳は真っ赤な訂正印だらけであった.

 手帳には健康診断の欄もあった.88年6月における定期検診の結果は,白血球数が1万3800,その後の11月の定期検診でも9500となっていた.ともに「異常なし」と記載されていた.白血球数の正常値は4000~8000とされている.また伸之さんの入社早々の数値は3000~4000の程度であった.明らかな異常である.著者は,このとき異常に気がついていれば,息子は助かったかも知れないと考える.

 著者は,伸之さんの「入院した翌年だったように思」うと書いているから91年のことと思われるが,原発における労働を扱ったテレビの番組を見,テレビ局に問い合わせることによって「被曝労働者救済センター」の平井憲夫を知った.放射線管理手帳の早期返還を会社に催促したことなどは,彼の助言によるものだったそうである.92年7月には平井の紹介で,物理学者・藤田祐幸と出会う.藤田らが伸之さんの作業ノートと放射線管理手帳を解読し,労災申請のための武器としたのである.さらに藤田の縁で,弁護士・海渡雄一らが支援に加わった.

 書類が整い,いよいよ日本で初めての原発労災申請をしようという矢先,労働省が唐突に,東京電力福島第一原発で最初の労災が認められているということを発表した.著者は,これは「最初の労災」という自分たちの意気込みを砕こうとした行為であろうと考えた.また,その最初の労災については,実名が公表されていなかった.

 著者らの労災申請は93年5月6日に磐田労働基準監督署に提出され,翌94年7月27日に認定された.これは著者らの予想を越える早さだった.もっとも,すでに弁護士が労災申請にあたって明らかにしていた通り,伸之さんの被曝量等は,白血病が業務上の疾病として扱われる法的基準をすべて完全に満たしていたのである.ただし,中部電力は,「労災は労働者救済という観点に基づいて認定されることがある」という趣旨の理由で,被曝と病気との間の直接的な因果関係を否定し,謝罪を拒否し続けている.

 原発といえば,しばしば《クリーン》で静寂な制御室の映像が紹介される.そこにいるのは電力会社の社員である.労災認定を得る活動のなかで,著者は原発が非常に多数の下請け労働者の被曝作業によって支えられているという現実を認識していく.本書における著者の最大のメッセージは,「人が命を削らなければ動かないような原発はいりません」ということであろう.また,先ほど触れた勝木は,著者・嶋橋のこのメッセージを受け,さらに次のように書いている;「原子力発電に支えられる社会は,その本性において,根本的に非人道的である.」

                                                                (唐木田健一)


ニーチェ=ハイデッガーの「力への意志」と正義

2021-09-01 | 日記

ここに掲載する内容は,唐木田健一「“力への意志”と生命論」『化学史研究』38 (2011), pp.200-209〔および唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ』五章〕の結論に関わる部分を抽出し、再編集したものです.

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1.はじめに

 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は彼の主著を計画し,そこにおいて「力への意志」を論じた[1].私はこれまで,科学における理論の生成過程について考察し[2],またその理論的延長[3]において『生命論』[4]をまとめたが,最近,「力への意志」と私の「生命論」との枠組みの本質的共通性,またその共通性にもとづいて浮かび上がる「力への意志」における欠如部分について関心をもったので,ここにそれらを論じてみたい.この欠如部分は,あとで触れるが,科学史におけるいわゆる「パラダイム論」が内包する欠陥にも関わるものである.

 ところで,『力への意志』は,ニーチェの《著書》ではない.ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889-1976)の『ニーチェ』[5]によれば,ニーチェは確かにこの表題の著作を計画し,しかもそれを彼の哲学的《本堂》に位置づけ,《ツァラトゥストラ》(☆)はその《柱廊》にすぎないと考えていた〔『ニーチェⅠ』16, 25-27頁〕.しかしニーチェは,その著作をついに生み出すことができず,結局,主表題(「力への意志」)もろとも,計画を放棄したのである〔『ニーチェⅠ』490頁〕.

☆『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883-85).ニーチェの哲学的散文詩4部作.主著とされることが多い.

 ニーチェがさまざまな草稿において書き留めておいたものの一部が,それもあちこち恣意的に偶然的に抜粋された一部分だけが,ニーチェの死後に継ぎ合わされ,「力への意志」という表題で知られる書物となった〔『ニーチェⅡ』278頁〕.ハイデッガーによれば,「この《書物》のなかで公表されているものは,たしかにすべてニーチェの草稿ではあるが,しかし,彼自身は決してそのようには思索しなかったのである」〔『ニーチェⅡ』279頁〕(引用文中の下線は原文における傍点,以下同様).本小論で私が依拠するのは,したがって,ハイデッガーによる透徹したニーチェ解釈である.ハイデッガーによるニーチェ解釈は,理解が困難な「永遠なる回帰」の思想を含め,ニーチェの「力への意志」がめざしたものを整合的に明らかにした,おそらく唯一の試みである.

 

2.力への意志

本節は以下の諸項目についてハイデッガー『ニーチェ』にもとづきその内容をまとめたものであるが,その詳細は省略する:

Principium,原理あるいは始まり/感情/身体/論理的根本感情/遠近法/価値/認識/真理/矛盾律/正義/永遠なる回帰

 

3.「生命論」との対応

本節は唐木田『生命論』にもとづき,以下の諸項目について前節にまとめたハイデッガー『ニーチェ』との対応を示したものであるが,その詳細は省略する.( )内は対応する前節の項目である:

生命の原理(←Principium,原理あるいは始まり)/背景的意識(←感情)/身体(←身体)/理性と感情(←論理的根本感情)/諸要素の統合(←遠近法)/価値の由来(←価値)/科学的探究(←認識)/真理(←真理)/首尾一貫性の追求(←矛盾律)/倫理(←正義)/時間軸上での首尾一貫性(←永遠なる回帰)

 

4.「力への意志」との対決

 ハイデッガーは,ニーチェ的意味の正義について,次のように書いている:

この新たな正義は,能動的なものであり,とりわけ《攻撃的》である.それは,何を正当とし何を不当とすべきかを,自分の力にもとづいて初めて定立するのである.

 たとえば,いまイギリス軍が,オラン港に停泊中のフランス艦隊を壊滅させたということは,彼らの力の立場からすればまったく《正当な》行動である.なぜなら,《正当》と呼ばれるのは,力の昂揚に利するものだけだからである.ということは,とりもなおさず,わが方ではこの行動を正当視することは到底できないし,また許されはしない,ということでもある.形而上学的に考えれば,いかなる力にも各自の権利がある.そして,無力に陥ることによってのみ,それぞれの力は不当になるのである.だが,いかなる力の形而上学的戦術にも属していることであるが,これらの力は敵対勢力のすべての行動を決してその相手方の固有の力の観点のもとで見ることができず,むしろ敵方の行動を或る普遍的な人類の道徳という尺度で無理にも裁くものであるが,その道徳はただ宣伝価値をもつにすぎない〔Ⅱ462頁〕.

ハイデッガーは,この例(☆)をもって考察を続けている.私は,これを危うい事態であると考える.これは,かつて科学史において議論となった,競合する「パラダイム」間の関係―すなわち「通約不可能性」なる概念が抱える問題と同じである.

☆ここでハイデッガーが言及しているのは,1940年7月の「オラン港事件」のことと思われる.オランはアルジェリアの主要港の一つで,ここは当時フランスの植民地であった.第二次大戦中の40年6月,フランスはドイツに降伏して親独政権が成立した.そこでイギリスは,フランス海軍の艦隊がドイツの手に渡ることをおそれ,オラン港を攻撃して艦隊を壊滅させた.

 ハイデッガー『ニーチェ』の初版刊行は1961年であるが,本小論で対象とした内容が実際に講義されたのは1936~40年の頃であった.振り返れば,この時期は,ドイツにとってもハイデッガーにとっても(そして当時すでに故人となっていたニーチェにとってすらも)危うい時代であった.それは現在にまで尾を引いている.この危うさはのりこえられなければならない.

 国家間の敵対的衝突にまで飛躍しなくても,価値観の違いによる軋轢はわれわれの日常においてめずらしいものではない.ハイデッガー自身は十分に承知していたことであるが〔『ニーチェⅡ』134-135頁〕,人間はまず個人として存在し,ついで人間関係に入るといったものではない.いわばあらかじめ人間関係に放り込まれているのである〔『生命論』67頁〕.したがって,人間関係は個人が生き抜く上において致命的に重要である.ニーチェ=ハイデッガーによれば,正義とは,人間が混沌との間に形成するあらゆる種類の調和の必然性と可能性の根拠である〔『ニーチェⅡ』219頁〕.ここでの「混沌」には,人間関係も含まれる.これを無視して「いかなる力にも各自の権利がある」〔上述〕などというから,危うい事態となるのである.「各自の権利」には「他者の権利」も関わってくる.そうでないとしたら,倫理(すなわち,人間関係における条理〔『生命論』68頁〕)など無用である.

 一般に社会においては,自分と《同一の価値観》の他者などおそらくは存在しない.それにも関わらず,われわれは日常生活においてほとんど倫理など意識しないですむのは,すでに倫理を身につけ,それが「背景的意識」としてわれわれを導いているからである〔『生命論』71頁〕.しかしそれでも社会では,他者の価値観との衝突はある.その場合には,倫理はできるかぎり対象的かつ自覚的に検討されなければならない.

 倫理的問題の検討法についてはすでに他の個所〔『生命論』78-92頁〕で論じたので,ここでは概要のみ述べる.他者の行為や主張を《或る普遍的な人類の道徳》や自分の価値観で裁いても,それはハイデッガーのいうように,ただの宣伝活動にすぎないであろう.他方,他者の行為や主張が,他者自身の価値基準において首尾一貫しているかどうか―それが条理に適っているかどうか―を徹底して検討することは倫理的に意義がある.これは,相手の主張を検討するということで,こちら側からの一方向的な行為に思われるかも知れないが,そうではない.相手の主張の首尾一貫性を検討するということは,同時に自分の倫理が試されることである.この検討の過程で,自分の倫理における矛盾が顕在化することもある.この作業は相互的である.

 各人の倫理は,その生まれ育った社会の価値観を色濃く反映する.各人の倫理とは,各人が自己の境遇を通してつくり上げたその社会の価値観のことである〔『生命論』70頁〕.したがって,上に述べた倫理的問題の検討は,各人の倫理の首尾一貫性を追求するとともに,社会の価値観の首尾一貫性を自覚的に追求することに対応する.その追求の過程において,私たちが暫定的に目にすることのできるものが,たとえば「欧州連合(EU)」の創設であり,その運営のための苦闘なのである.

 

5.おわりに

 「《生》という言葉と概念の意義は,ニーチェにおいては不安定である.彼はこの言葉で,あるときには存在者の全体を指し,あるときにはただ生けるもの(植物,動物,人間)を指し,あるときにはもっぱら人間の生を指している」とハイデッガーは指摘し,彼自身は「生と生けるものとに関する論究を,さし当たって,あくまで人間に限定」した〔『ニーチェⅡ』130頁〕.議論のための限定には何も問題はない.ただし,限定することによって,力への意志の他生物への適用が保留されるようであるなら,それはニーチェの意図に反するであろう.

 ニーチェにとっては,存在者の全体が生であり,生の本質は力への意志である.そして「力への意志こそ,無機的世界をも導くものであり,あるいはむしろ,無機的世界は存在しない・・・・・」〔『ニーチェⅡ』225頁〕.しかしそれなら,無機的世界は存在するのか,それともしないのか.

 力への意志は無機的世界を導くのかも知れないが,無機的世界の法則は,力への意志とは独立である.逆に,力への意志は具体的には生物として存在するのであって,生「物」は無機的世界の法則の支配下にある.

 このような曖昧さおよび混乱を除去するには,「力への意志」と「無機的世界」とを明確に分け,「力への意志」は「無機的世界」を活用することによって生きそして生き続けることをめざす,とするのが理に適っている.そしてこれは,私が『生命論』においてすでに提案したものである.

以上


[1] F. Nietzsche, Der Wille zur Macht (1906)/原佑訳『権力への意志』(上,下)筑摩書房(1993).本小論では,文献5における日本語訳にしたがい,「権力への意志」ではなく「力への意志」という表現を採用する.また,そのほうが,本小論で示されるように,その内容に即している.

[2] 唐木田健一「トーマス・クーンの『コペルニクス革命』と彼の“パラダイム論”」『化学史研究』31(2004),215-224頁,およびその「文献と注」を参照せよ.

[3] たとえば,唐木田健一「マイケル・ポラニーの進化思想」『化学史研究』29(2002),31-42頁.

[4] 唐木田健一『生命論―生命は宇宙において予期されていたものである』批評社(2007).本文における本書からの引用は,『生命論』○○頁として〔 〕内に示す.

[5] M. Heidegger, Nietzsche (1961)/細谷貞雄監訳,杉田泰一・輪田稔訳『ニーチェⅠ』および加藤登之男・船橋弘訳『ニーチェⅡ』平凡社(1997).本文における本書からの引用は,たとえば『ニーチェⅠ』○○頁として〔 〕内に示す.