本記事は2000年2月に執筆されたものです.本稿の一部をもとにした書評は,『化学史研究』第27巻(2000),238-240頁に発表しました.
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本書の対象と意図
私は地図上で河を見ると,ほとんどいつもそれが海から陸に流れ込んで形成されているような錯覚に陥る.何故かはわからない.こんな妙な感覚の持ち主はもちろん少数派であろうが,一方で河を溯ったらどこに辿り着くのかという興味は多くの人々に共有されているものであろう.
本書の著者・板倉聖宣が対象とするのは,科学が誕生して間もない頃の,科学とその普及・教育とが不可分に結びついていた時代であり,そこにおける「科学とその教育の活動の姿」である〔本書2頁〕.そして彼は,その探究の成果を,初期の科学者たちに習って「科学史の専門家でもない人びとに直接に伝えて吟味してもら」うことを意図している〔3頁〕.これが本書の構えである.
構成
以下に目次を示す.各章に付されている副題から,記述の内容とその流れをつかむことができるであろう:
第1部 科学と科学教育の源流
第1章 科学教育の源流をもとめて─サミュエル・ピープスの好奇心日記
第2章 ロンドン王認学会を準備した人びと─ピューリタン革命の中の科学愛好者たち
第3章 ロンドン王認学会の活気─世界最初の貧乏科学者フックの誕生
第4章 学会再建のキィワードは,たのしい実験─王認学会の組織問題
第5章 ニュートンの時代─「天才」出現の社会経済史的・科学史的背景
第6章 ニュートン主義の成立─『自然哲学の数学的原理』とニュートンの後半生
第7章 科学の公開実験講座のはじまり─科学入門書の出版と〈科学巡回講師〉の活躍
第8章 1700年代の英国の科学者たち─フランクリン,ブラック,プリーストリ,ワッ ト
第2部 力学の歴史物語
第1話 ガリレオとピサの斜塔
第2話 慣性の法則と地動説と原子論
第3話 打撃力のなぞ
第4話 衝突の法則とフーコー振子
「王認学会」という訳語
目次には「王認学会」という用語が現れている.そこには,実際は「ロイヤル・ソサエティ」というルビが振ってあったのだが,ここでは省略した.すなわち,“Royal Society”のことである.これは通常「王立協会」などと訳される.しかし,板倉によれば,この学会は国費でできたものではなく,民間の学会に,自分も科学好きだった国王(チャールズ二世)が勅認状(charter)を与えて,法人としての特権・保護を認めたものに過ぎない.会の運営は会員の会費によるものである.また,通常の辞書で“royal”の項をみても,「勅許を受けてはいるが王立でないものもある」とはっきり書かれている.“Royal Society”がまさにそうである.したがって,板倉は,国王認可という意味で「王認学会」という訳語を用いている〔73頁〕.彼がこの用語を問題にするのは,明治以降の日本の科学が国家指導型で成長してきたのに対し,英国では科学が民間主導で成長してきたことを重視しているからである〔74頁〕.また,板倉は,通常1662年とされている王認学会の創設も,1660年とするのが正しいとしている〔72頁〕.
サミュエル・ピープスの日記
板倉はピープス(Samuel Pepys)という人の日記の紹介から本書の記述を開始する〔第1章〕.ピープスは「仕立屋の息子でしたが,王制復古(1660)後,幸運にも海軍省の高等官に成り上がることができた人です.当時としては庶民的な人で,科学者と呼べるような人ではありません.」〔17頁,( )内は評者による挿入〕.『広辞苑』によれば,ピープスは「近代イギリス海軍の父とされる海軍士官.その長大な日記(一六六〇~六九年)で知られる.(1633~1703)」とある.また,私の手元の別の文献によれば,この日記の原文はプライバシーを守るため暗号(あるいは難解な速記法)で書かれており,そのため大層率直で魅力的な内容になっているとのことである.板倉は,このピープスの日記にもとづき,王認学会創設当時のロンドンにおいて,好奇心旺盛な1人の男がいかにして科学知識を身につけていったかを浮かび上がらせる.
ピープスは,仲のよい友人から酒場で「針がね球」(多分天球儀)を見せてもらったり,上司のために光学機械屋から小さな望遠鏡を買い込んだり,公園でポンプが水を吸い上げるのを見物して面白がったり〔25-6頁〕,あるいは海軍に納入される木材が高過ぎることに気づき,それを安くさせようと「造船用の木材の体積計算法」を街の数学者に習ったりする〔29頁〕.とりわけ興味深いのは,地球儀と天球儀の一対を購入し,妻の求めに応じ,それを理解させるために日課のようにしてまずは算術から教えはじめ,自分も楽しんでいることである.板倉は,「ピープスの日記には,自分の好奇心を満たすことの喜びのほかに,教えることの喜びが書いてあるのは嬉しいことです.」と述べ,「ここには科学知識を教え学ぶことの楽しさの源流を見出すことができる」と指摘する〔30-2頁〕.
これはピープス1人に特異なことだったわけではない.当時はクラブ組織を通じ,「好学家」たちがしきりと面白い情報の交換をし,議論をしていたのである〔23-4頁〕.1661年1月,ピープスは知人に連れられロンドンのグレシャム学寮というところに出かけていく.そこでは,テネリフェ(カナリア群島中の高山)に水銀気圧計をもっていって気圧の実験をする計画の話が聞けるということであった.「そこで建物の様子を見たが,名士がたくさん集まっていた」.このとき彼の目撃したのが,翌年に国王の認可状を得て「王認学会」となる集まりであった〔27頁〕.ピープスは,このように,初期の頃から王認学会の近くにいた.そして,彼が正式にその会員となったのは,1665年2月のことだった〔32-3頁〕.
科学の楽しさ
「科学の楽しさ」は本書の「キィワード」のひとつである.初期の王認学会は,科学研究の組織というよりは,科学を学び合う組織だった.先程クラブ組織のところでも触れたが,科学にはどんな楽しい話題があるかという情報を求め,それを実際自分たちの手で(あるいは目の前で)確認したのである.
板倉はバーチの本〔T.Birch,“The History of the Royal Society of London”(1756-57)〕における議事録をもとに,王認学会の会合日〔本書口絵グラフ②に掲載〕および開催回数の変遷〔107頁〕を作図する.これによって学会の活発さの度合いがよく理解できる.会合は毎週水曜日(都合によっては木曜日)とされていた.1年は通常52週である.学会の役員選挙の時期に合わせ,毎年12月から翌年の11月までを1年度として数えると,1661年度〔1660年12月(この年は11月28日分を含む)から1661年11月まで〕は何と55回も開催されている.すなわち,複数回開催された週があったのである.開催週としては49回だった〔87頁〕.間もなく開催は週1回と決められ,その後1664年度までほとんど休まずに(すなわち毎年51から52回に渡って)開催された.会員が熱心だったのは当然として,その内容がとても楽しかったのだろう.
ところが,1665年にはロンドンにペスト(黒死病)が大流行した.会員の多くが避難したため会合が開けなくなり,影響は翌年の66年にまで及んだ.またこの66年は有名な大火災(「ロンドンの大火」)があって,多くの建物が焼失した.ただし会合は,その直後に1回休んだだけで,すぐに再開された〔101頁〕.
しかしながら,この大火災以降,週例会の回数は年を追うごとに減少し,欠席者による会費の支払いも滞るようになった.そこで学会の理事たちが講じた対策は,「集会をexperimental entertainments(実験的なたのしみごと)によって,みんなにもっと注目されるようなものにす」るというものだった.学会は「科学実験の楽しさ」を打ち出し,1674年11月には4カ月半ぶりで週例会の開催にこぎつけたのである〔108-9頁〕.板倉は,自分たちもこの故事に習って,楽しい授業の実現をしたいと述べる〔110頁〕.
科学の有料公開講座
本書の第7章では,科学の有料公開講座を開催した人々が紹介されている.まずは,デザギュリエ(J.T.Desaguliers,1683-1744)である.
彼は,1710年にオックスフォード大学を卒業したのち,1713年からウエストミンスターの自宅で,参加費を徴収して,科学の連続実験講座を開始した.聴講料は,参加者が12人以上のときは1人3ギニー,12人未満の場合でも12人分の聴講料を払えば,1人でも開催するというものだった.板倉の試算によれば,1人3ギニーというのは現在の日本の6.3万円に相当する.したがって,1講座12回とすると,1回分は5000円ぐらいということになる.聴講者がたった1人でも12人分,すなわち75.6万円を払えば話は聴けたのである.当時の英国では,科学の実験講座が,現在の演奏会や芝居といった楽しみごとと同様,文字通り商売として成立したのである〔194-6頁〕.
デザギュリエは,実験の助けを借りた自分の講義が,あらゆる階層の人々や貴夫人にさえも大変よく受け入れられることを知って大喜びする.そして,「私たちが〈他の方々の進歩にとにかく役立っている〉ということによって味わえる満足はとても大きなものです.」と書く〔199頁〕.
彼の試みはその後多くの人々に見習われて流行するようになった.板倉はそのうち特に,巡回講師ベンジャミン・マーチンと公開講師ジェームズ・ファーガソンについて紹介している〔200-5頁〕.なお,デザギュリエは「近代フリーメーソンの父」としても著名とのことである〔197-9頁〕.
身分のこと
当時の英国の身分制度では,公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という爵位をもつ人の《下に》,準男爵・ナイトの身分があり,さらにエスクワイア・ジェントルマンと続いた〔20-2頁〕.本書の冒頭に日記が引用されたピープスは,1660年27歳のときに,めでたくジェントルマンからエスクワイアに昇格している〔25頁〕.
1663年当時の王認学会の会員名簿(115人)によれば,公爵が1人,その他「ロード」と呼ばれる(すなわち爵位をもつ)身分が15人,「サー」と呼ばれる身分(準男爵とナイト)が19人,博士が28人,その他のエスクワイアが48人,学芸修士・神学士が2人,単なるミスターが1人,外国人が1人とのことである.ここで,たった1人の「単なるミスター」とは,ロバート・フック(1635-1703)のことである.彼は博士でもエスクワイアでもなく,また学士号ももたなかった.彼は,1662年以来学会の専従実験主任として活躍していたが,肩書もなくまた貧しかったので,それまで会員ではなかった.彼は,このとき初めて,仲間として学会に迎え入れられたのである〔96-101頁〕.
学会の有力メンバーだったロバート・ボイル(1627-1691)は,貴族ではなかったが,貴族の出身として“the honourable Robert Boyl”と呼ばれた.彼の父親は伯爵だった〔53-4頁〕.板倉の調査によれば,成人したボイルの兄4人は全員貴族となった.また,7人の姉の夫うち6人は貴族であり,1人だけが「サー」(準貴族)の身分だった〔127-8頁〕.当時の学会はこういうボイルのような人々によって支えられていた.ボイルは恵まれないフックに好意をもち,彼を引き上げるのにも尽力した〔96,102-3,126頁〕.
そのフックは,1653年「従僕生servitor」としてオックスフォード大学に入学した〔64,137頁〕.彼は,「グッドマンという学生の下僕として講義に出席したり,大学の唱歌隊に入って行事のときに賛美歌を歌ったりして生活費を稼いだりした」〔94-5頁〕.
フックとは仇敵の関係にあり,またのち(1703年)に王認学会の会長となるアイザック・ニュートン(1642-1727)は,伝記などで父親が「領主」だったように書かれていることがある.しかし,ニュートンは自作農(ヨーマン)の家の出身だった〔132-3頁〕.彼は1661年にケンブリッジ大学のトリニティ学寮に“sizar”として入学した.この単語は辞書をひくと「特待免費生」とか「給費生」となっている.これでは,特に成績がよいため学費を免除されたり奨学金を給与された学生であるかのような誤解を生ずる.実はsizarとは,大学の中で給仕のような雑用をする代償として,学費を免除された学生のことである.だから板倉は,それに「給仕学生」の訳語を与える〔136頁〕.給仕学生は,フェローたちの食事を運んだり,自分のチューターのための使い走りをした〔140頁〕.ニュートンも,フックと同様,貧乏学生として大学に入学したのである〔137頁〕.
銭金(ゼニカネ)のこと
先に,初めて有料の公開講座を開いたデザギュリエを紹介したところにも表れていたが,本書における板倉は,銭金のこと,特に登場人物の収入に関して立ち入った記述をしている.彼は家庭の生活基盤に注目する必要を強調する〔135頁〕.
たとえば,あのピープスが1660年にエスクワイアに昇格したことは上に触れたが,そのあと彼が任官したときの年俸は350ポンド(700万円)だった〔25-6頁〕.すぐあとでわかるが,これは極めて高給である.〔以下,( )内は板倉による換算値であり,現在の日本円相当であることが断られている.〕
王認学会の前身に当たる会合では,入会金は10シリング(1万円),その他出欠に関わらず会とコンタクトしておきたい場合,毎週1シリング(1000円)を払うことになっていた〔81頁〕.また,会として筆記係と作業員を雇うことになったが,その年俸はそれぞれ40シリング(4万円)と4ポンド(8万円)だった.板倉は,「週給ではなく年給です」と断っている〔84頁〕.
フックは1663年,学会の物品管理員となって週給1ポンド(2万円)の謝礼を得ることとなった〔102頁〕.しかし,これではとても十分な処遇とはいえない.1664年6月にはカトラー卿という金持ちの会員が,グレシャム学寮で年16回の講義を行うことを条件に,フックに50ポンド(100万円)の終身年金提供を申し出た.また,同じ年の7月には,学会の実験主任手当として,年80ポンド(160万円)を受け取ることとなった.さらに,翌年の3月には,グレシャム学寮の幾何学教授として年俸50ポンド(100万円)の地位が確保された.こうしてようやく,フックも王認学会会員にふさわしい収入が得られるようになった.しかし,この当時の英国では,最低年200ポンド(400万円)の収入がないと中産階級としての体面が保てないとされていた.フックの場合,約束の年金が支払われなかったりして,なかなかこの線に達しなかったらしい〔103,111頁〕.
それまで,フックのような貧しい者は,科学者になる機会など全くなかったことであろう.王認学会は,そのような人物にも科学者として生きる道を開いたのである.この意味で,フックは研究そのもので生計を立てることのできた世界最初の科学者ということができよう〔103-4頁〕.フックはその後,大火のあとのロンドン再建を目的とした市の測量委員の1人に選ばれた.これは年収150ポンド(300万円)の地位であった.また多くの建物の設計を引き受けて,ほかにも多くの収入が得られるようになった.そのため,彼が1703年に亡くなったときは,周囲がびっくりするほどの遺産が残されたのである〔112,126頁〕.
フックより7歳若かったニュートンは,時代の子としての幸運に恵まれ,科学の専門家となることができた.彼は,1667年10月,トリニティ学寮のフェローとなったが,その給与は年100ポンド(200万円)だった.また,1669年10月にはルカス幾何学講座の教授となり年俸100ポンドを得た.フェローの給与と合わせ,年200ポンド(400万円)の収入となったのである〔149頁〕.
現在のこと
紹介は以上に留めておく.読者にはぜひ直接本書に接していただきたいと思う.
板倉らはこれまで,周到に工夫された実験を通じて生徒たちと感動を共有し,「たのしい授業」を実現する努力を長期に渡って継続してきた.科学教育に携わっている少なからぬ人々がこのような真摯な活動をしている一方,レッキとしたアカデミズムに席を置く人々が,「科学的真理は存在しない」とか,「科学は約束事に過ぎない」とか,「科学は錯覚である」といった乱暴で俗的にはいかにも面白おかしい主張を散布し,マスコミもその論調に占拠されるといった事態になっている.その弊害は,私のようなアカデミズムとは何の関わりもないところで仕事をしている者にとっても,すでに明白である.そんな主張をした人々にも言い訳はあろう.ただ,弁解の前に,彼らにも現実の科学とその源流はしっかり学んでほしいと思う.
当然のことながら,板倉は《素朴な》科学観とは全く無縁である.たとえば,本書においても彼は,ガリレオとともに「真理は実験によってのみ決まる」〔241頁〕と主張するが,同時に(ガリレオの)「ピサの斜塔の実験の物語は,『真理を見つけたかったら,実験しさえすればいい』という間違った考えを流布するものとして,捨て去らねばならない」とも書いている〔249頁〕.
また彼は,いわゆる「慣性の法則」は実験的に証明することは極めて困難であるとして,それを「慣性の原理」と呼ぶよう提案している〔256頁〕.私には,こういう問題は,科学をロクに知らず経験もない人々が寄ってたかって《通約不可能性》などといったことを議論するより,よほど重要なことと思う.
私は本書を読んでいる途中,なぜか本多勝一氏の『戦場の村』(朝日新聞社,1969)を思い起こした.このルポルタージュは,ベトナム戦争が最も激しい時期に,文字通りその最前線で取材したものである.このルポで本多はまず,サイゴン(当時の「南ベトナム」の首都,現ホー・チミン市)の平均的な市民の家庭に入り込み,そこでの日常生活から報告を開始する.これにより,戦争の悲惨さが,身近にそして具体的に伝わってきた.これは,板倉が本書をピープスの日記で始めたことに対応するのかも知れない.
本書の153頁には,王認学会から発行されたニュートンの『自然哲学の数学的原理』初版(1687)扉の写真が再現されている.これはさまざまな科学史の本やニュートンの伝記本などに掲載されているものであって,特に珍しいものではない.ただ,本書においてとても印象深いのは,その扉に,著者ニュートンの名の活字とほとんど同じ大きさで,“S.PEPYPS”の文字が見えることである.そう,ピープスはこのとき,王認学会の会長になっていたのである.
唐木田健一