唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

紹介 板倉聖宣著『科学と科学教育の源流』仮説社(2000)

2022-12-28 | 日記

本記事は2000年2月に執筆されたものです.本稿の一部をもとにした書評は,『化学史研究』第27巻(2000),238-240頁に発表しました.

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 本書の対象と意図

 私は地図上で河を見ると,ほとんどいつもそれが海から陸に流れ込んで形成されているような錯覚に陥る.何故かはわからない.こんな妙な感覚の持ち主はもちろん少数派であろうが,一方で河を溯ったらどこに辿り着くのかという興味は多くの人々に共有されているものであろう.

 本書の著者・板倉聖宣が対象とするのは,科学が誕生して間もない頃の,科学とその普及・教育とが不可分に結びついていた時代であり,そこにおける「科学とその教育の活動の姿」である〔本書2頁〕.そして彼は,その探究の成果を,初期の科学者たちに習って「科学史の専門家でもない人びとに直接に伝えて吟味してもら」うことを意図している〔3頁〕.これが本書の構えである.

 構成

 以下に目次を示す.各章に付されている副題から,記述の内容とその流れをつかむことができるであろう:

  第1部 科学と科学教育の源流

第1章 科学教育の源流をもとめて─サミュエル・ピープスの好奇心日記

第2章 ロンドン王認学会を準備した人びと─ピューリタン革命の中の科学愛好者たち

第3章 ロンドン王認学会の活気─世界最初の貧乏科学者フックの誕生

第4章 学会再建のキィワードは,たのしい実験─王認学会の組織問題

第5章 ニュートンの時代─「天才」出現の社会経済史的・科学史的背景

第6章 ニュートン主義の成立─『自然哲学の数学的原理』とニュートンの後半生

第7章 科学の公開実験講座のはじまり─科学入門書の出版と〈科学巡回講師〉の活躍

第8章 1700年代の英国の科学者たち─フランクリン,ブラック,プリーストリ,ワッ    ト

    第2部 力学の歴史物語

第1話 ガリレオとピサの斜塔

第2話 慣性の法則と地動説と原子論

第3話 打撃力のなぞ

第4話 衝突の法則とフーコー振子

 「王認学会」という訳語

 目次には「王認学会」という用語が現れている.そこには,実際は「ロイヤル・ソサエティ」というルビが振ってあったのだが,ここでは省略した.すなわち,“Royal Society”のことである.これは通常「王立協会」などと訳される.しかし,板倉によれば,この学会は国費でできたものではなく,民間の学会に,自分も科学好きだった国王(チャールズ二世)が勅認状(charter)を与えて,法人としての特権・保護を認めたものに過ぎない.会の運営は会員の会費によるものである.また,通常の辞書で“royal”の項をみても,「勅許を受けてはいるが王立でないものもある」とはっきり書かれている.“Royal Society”がまさにそうである.したがって,板倉は,国王認可という意味で「王認学会」という訳語を用いている〔73頁〕.彼がこの用語を問題にするのは,明治以降の日本の科学が国家指導型で成長してきたのに対し,英国では科学が民間主導で成長してきたことを重視しているからである〔74頁〕.また,板倉は,通常1662年とされている王認学会の創設も,1660年とするのが正しいとしている〔72頁〕.

 サミュエル・ピープスの日記

 板倉はピープス(Samuel Pepys)という人の日記の紹介から本書の記述を開始する〔第1章〕.ピープスは「仕立屋の息子でしたが,王制復古(1660)後,幸運にも海軍省の高等官に成り上がることができた人です.当時としては庶民的な人で,科学者と呼べるような人ではありません.」〔17頁,( )内は評者による挿入〕.『広辞苑』によれば,ピープスは「近代イギリス海軍の父とされる海軍士官.その長大な日記(一六六〇~六九年)で知られる.(1633~1703)」とある.また,私の手元の別の文献によれば,この日記の原文はプライバシーを守るため暗号(あるいは難解な速記法)で書かれており,そのため大層率直で魅力的な内容になっているとのことである.板倉は,このピープスの日記にもとづき,王認学会創設当時のロンドンにおいて,好奇心旺盛な1人の男がいかにして科学知識を身につけていったかを浮かび上がらせる.

 ピープスは,仲のよい友人から酒場で「針がね球」(多分天球儀)を見せてもらったり,上司のために光学機械屋から小さな望遠鏡を買い込んだり,公園でポンプが水を吸い上げるのを見物して面白がったり〔25-6頁〕,あるいは海軍に納入される木材が高過ぎることに気づき,それを安くさせようと「造船用の木材の体積計算法」を街の数学者に習ったりする〔29頁〕.とりわけ興味深いのは,地球儀と天球儀の一対を購入し,妻の求めに応じ,それを理解させるために日課のようにしてまずは算術から教えはじめ,自分も楽しんでいることである.板倉は,「ピープスの日記には,自分の好奇心を満たすことの喜びのほかに,教えることの喜びが書いてあるのは嬉しいことです.」と述べ,「ここには科学知識を教え学ぶことの楽しさの源流を見出すことができる」と指摘する〔30-2頁〕.

 これはピープス1人に特異なことだったわけではない.当時はクラブ組織を通じ,「好学家」たちがしきりと面白い情報の交換をし,議論をしていたのである〔23-4頁〕.1661年1月,ピープスは知人に連れられロンドンのグレシャム学寮というところに出かけていく.そこでは,テネリフェ(カナリア群島中の高山)に水銀気圧計をもっていって気圧の実験をする計画の話が聞けるということであった.「そこで建物の様子を見たが,名士がたくさん集まっていた」.このとき彼の目撃したのが,翌年に国王の認可状を得て「王認学会」となる集まりであった〔27頁〕.ピープスは,このように,初期の頃から王認学会の近くにいた.そして,彼が正式にその会員となったのは,1665年2月のことだった〔32-3頁〕.

 科学の楽しさ

 「科学の楽しさ」は本書の「キィワード」のひとつである.初期の王認学会は,科学研究の組織というよりは,科学を学び合う組織だった.先程クラブ組織のところでも触れたが,科学にはどんな楽しい話題があるかという情報を求め,それを実際自分たちの手で(あるいは目の前で)確認したのである.

 板倉はバーチの本〔T.Birch,“The History of the Royal Society of London”(1756-57)〕における議事録をもとに,王認学会の会合日〔本書口絵グラフ②に掲載〕および開催回数の変遷〔107頁〕を作図する.これによって学会の活発さの度合いがよく理解できる.会合は毎週水曜日(都合によっては木曜日)とされていた.1年は通常52週である.学会の役員選挙の時期に合わせ,毎年12月から翌年の11月までを1年度として数えると,1661年度〔1660年12月(この年は11月28日分を含む)から1661年11月まで〕は何と55回も開催されている.すなわち,複数回開催された週があったのである.開催週としては49回だった〔87頁〕.間もなく開催は週1回と決められ,その後1664年度までほとんど休まずに(すなわち毎年51から52回に渡って)開催された.会員が熱心だったのは当然として,その内容がとても楽しかったのだろう.

 ところが,1665年にはロンドンにペスト(黒死病)が大流行した.会員の多くが避難したため会合が開けなくなり,影響は翌年の66年にまで及んだ.またこの66年は有名な大火災(「ロンドンの大火」)があって,多くの建物が焼失した.ただし会合は,その直後に1回休んだだけで,すぐに再開された〔101頁〕.

 しかしながら,この大火災以降,週例会の回数は年を追うごとに減少し,欠席者による会費の支払いも滞るようになった.そこで学会の理事たちが講じた対策は,「集会をexperimental entertainments(実験的なたのしみごと)によって,みんなにもっと注目されるようなものにす」るというものだった.学会は「科学実験の楽しさ」を打ち出し,1674年11月には4カ月半ぶりで週例会の開催にこぎつけたのである〔108-9頁〕.板倉は,自分たちもこの故事に習って,楽しい授業の実現をしたいと述べる〔110頁〕.

 科学の有料公開講座

 本書の第7章では,科学の有料公開講座を開催した人々が紹介されている.まずは,デザギュリエ(J.T.Desaguliers,1683-1744)である.

 彼は,1710年にオックスフォード大学を卒業したのち,1713年からウエストミンスターの自宅で,参加費を徴収して,科学の連続実験講座を開始した.聴講料は,参加者が12人以上のときは1人3ギニー,12人未満の場合でも12人分の聴講料を払えば,1人でも開催するというものだった.板倉の試算によれば,1人3ギニーというのは現在の日本の6.3万円に相当する.したがって,1講座12回とすると,1回分は5000円ぐらいということになる.聴講者がたった1人でも12人分,すなわち75.6万円を払えば話は聴けたのである.当時の英国では,科学の実験講座が,現在の演奏会や芝居といった楽しみごとと同様,文字通り商売として成立したのである〔194-6頁〕.

 デザギュリエは,実験の助けを借りた自分の講義が,あらゆる階層の人々や貴夫人にさえも大変よく受け入れられることを知って大喜びする.そして,「私たちが〈他の方々の進歩にとにかく役立っている〉ということによって味わえる満足はとても大きなものです.」と書く〔199頁〕.

 彼の試みはその後多くの人々に見習われて流行するようになった.板倉はそのうち特に,巡回講師ベンジャミン・マーチンと公開講師ジェームズ・ファーガソンについて紹介している〔200-5頁〕.なお,デザギュリエは「近代フリーメーソンの父」としても著名とのことである〔197-9頁〕.

 身分のこと

 当時の英国の身分制度では,公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という爵位をもつ人の《下に》,準男爵・ナイトの身分があり,さらにエスクワイア・ジェントルマンと続いた〔20-2頁〕.本書の冒頭に日記が引用されたピープスは,1660年27歳のときに,めでたくジェントルマンからエスクワイアに昇格している〔25頁〕.

 1663年当時の王認学会の会員名簿(115人)によれば,公爵が1人,その他「ロード」と呼ばれる(すなわち爵位をもつ)身分が15人,「サー」と呼ばれる身分(準男爵とナイト)が19人,博士が28人,その他のエスクワイアが48人,学芸修士・神学士が2人,単なるミスターが1人,外国人が1人とのことである.ここで,たった1人の「単なるミスター」とは,ロバート・フック(1635-1703)のことである.彼は博士でもエスクワイアでもなく,また学士号ももたなかった.彼は,1662年以来学会の専従実験主任として活躍していたが,肩書もなくまた貧しかったので,それまで会員ではなかった.彼は,このとき初めて,仲間として学会に迎え入れられたのである〔96-101頁〕.

 学会の有力メンバーだったロバート・ボイル(1627-1691)は,貴族ではなかったが,貴族の出身として“the honourable Robert Boyl”と呼ばれた.彼の父親は伯爵だった〔53-4頁〕.板倉の調査によれば,成人したボイルの兄4人は全員貴族となった.また,7人の姉の夫うち6人は貴族であり,1人だけが「サー」(準貴族)の身分だった〔127-8頁〕.当時の学会はこういうボイルのような人々によって支えられていた.ボイルは恵まれないフックに好意をもち,彼を引き上げるのにも尽力した〔96,102-3,126頁〕.

 そのフックは,1653年「従僕生servitor」としてオックスフォード大学に入学した〔64,137頁〕.彼は,「グッドマンという学生の下僕として講義に出席したり,大学の唱歌隊に入って行事のときに賛美歌を歌ったりして生活費を稼いだりした」〔94-5頁〕.

 フックとは仇敵の関係にあり,またのち(1703年)に王認学会の会長となるアイザック・ニュートン(1642-1727)は,伝記などで父親が「領主」だったように書かれていることがある.しかし,ニュートンは自作農(ヨーマン)の家の出身だった〔132-3頁〕.彼は1661年にケンブリッジ大学のトリニティ学寮に“sizar”として入学した.この単語は辞書をひくと「特待免費生」とか「給費生」となっている.これでは,特に成績がよいため学費を免除されたり奨学金を給与された学生であるかのような誤解を生ずる.実はsizarとは,大学の中で給仕のような雑用をする代償として,学費を免除された学生のことである.だから板倉は,それに「給仕学生」の訳語を与える〔136頁〕.給仕学生は,フェローたちの食事を運んだり,自分のチューターのための使い走りをした〔140頁〕.ニュートンも,フックと同様,貧乏学生として大学に入学したのである〔137頁〕.

 銭金(ゼニカネ)のこと

 先に,初めて有料の公開講座を開いたデザギュリエを紹介したところにも表れていたが,本書における板倉は,銭金のこと,特に登場人物の収入に関して立ち入った記述をしている.彼は家庭の生活基盤に注目する必要を強調する〔135頁〕.

 たとえば,あのピープスが1660年にエスクワイアに昇格したことは上に触れたが,そのあと彼が任官したときの年俸は350ポンド(700万円)だった〔25-6頁〕.すぐあとでわかるが,これは極めて高給である.〔以下,( )内は板倉による換算値であり,現在の日本円相当であることが断られている.〕

 王認学会の前身に当たる会合では,入会金は10シリング(1万円),その他出欠に関わらず会とコンタクトしておきたい場合,毎週1シリング(1000円)を払うことになっていた〔81頁〕.また,会として筆記係と作業員を雇うことになったが,その年俸はそれぞれ40シリング(4万円)と4ポンド(8万円)だった.板倉は,「週給ではなく年給です」と断っている〔84頁〕.

 フックは1663年,学会の物品管理員となって週給1ポンド(2万円)の謝礼を得ることとなった〔102頁〕.しかし,これではとても十分な処遇とはいえない.1664年6月にはカトラー卿という金持ちの会員が,グレシャム学寮で年16回の講義を行うことを条件に,フックに50ポンド(100万円)の終身年金提供を申し出た.また,同じ年の7月には,学会の実験主任手当として,年80ポンド(160万円)を受け取ることとなった.さらに,翌年の3月には,グレシャム学寮の幾何学教授として年俸50ポンド(100万円)の地位が確保された.こうしてようやく,フックも王認学会会員にふさわしい収入が得られるようになった.しかし,この当時の英国では,最低年200ポンド(400万円)の収入がないと中産階級としての体面が保てないとされていた.フックの場合,約束の年金が支払われなかったりして,なかなかこの線に達しなかったらしい〔103,111頁〕.

 それまで,フックのような貧しい者は,科学者になる機会など全くなかったことであろう.王認学会は,そのような人物にも科学者として生きる道を開いたのである.この意味で,フックは研究そのもので生計を立てることのできた世界最初の科学者ということができよう〔103-4頁〕.フックはその後,大火のあとのロンドン再建を目的とした市の測量委員の1人に選ばれた.これは年収150ポンド(300万円)の地位であった.また多くの建物の設計を引き受けて,ほかにも多くの収入が得られるようになった.そのため,彼が1703年に亡くなったときは,周囲がびっくりするほどの遺産が残されたのである〔112,126頁〕.

 フックより7歳若かったニュートンは,時代の子としての幸運に恵まれ,科学の専門家となることができた.彼は,1667年10月,トリニティ学寮のフェローとなったが,その給与は年100ポンド(200万円)だった.また,1669年10月にはルカス幾何学講座の教授となり年俸100ポンドを得た.フェローの給与と合わせ,年200ポンド(400万円)の収入となったのである〔149頁〕.

 現在のこと

 紹介は以上に留めておく.読者にはぜひ直接本書に接していただきたいと思う.

 板倉らはこれまで,周到に工夫された実験を通じて生徒たちと感動を共有し,「たのしい授業」を実現する努力を長期に渡って継続してきた.科学教育に携わっている少なからぬ人々がこのような真摯な活動をしている一方,レッキとしたアカデミズムに席を置く人々が,「科学的真理は存在しない」とか,「科学は約束事に過ぎない」とか,「科学は錯覚である」といった乱暴で俗的にはいかにも面白おかしい主張を散布し,マスコミもその論調に占拠されるといった事態になっている.その弊害は,私のようなアカデミズムとは何の関わりもないところで仕事をしている者にとっても,すでに明白である.そんな主張をした人々にも言い訳はあろう.ただ,弁解の前に,彼らにも現実の科学とその源流はしっかり学んでほしいと思う.

 当然のことながら,板倉は《素朴な》科学観とは全く無縁である.たとえば,本書においても彼は,ガリレオとともに「真理は実験によってのみ決まる」〔241頁〕と主張するが,同時に(ガリレオの)「ピサの斜塔の実験の物語は,『真理を見つけたかったら,実験しさえすればいい』という間違った考えを流布するものとして,捨て去らねばならない」とも書いている〔249頁〕.

 また彼は,いわゆる「慣性の法則」は実験的に証明することは極めて困難であるとして,それを「慣性の原理」と呼ぶよう提案している〔256頁〕.私には,こういう問題は,科学をロクに知らず経験もない人々が寄ってたかって《通約不可能性》などといったことを議論するより,よほど重要なことと思う.

 私は本書を読んでいる途中,なぜか本多勝一氏の『戦場の村』(朝日新聞社,1969)を思い起こした.このルポルタージュは,ベトナム戦争が最も激しい時期に,文字通りその最前線で取材したものである.このルポで本多はまず,サイゴン(当時の「南ベトナム」の首都,現ホー・チミン市)の平均的な市民の家庭に入り込み,そこでの日常生活から報告を開始する.これにより,戦争の悲惨さが,身近にそして具体的に伝わってきた.これは,板倉が本書をピープスの日記で始めたことに対応するのかも知れない.

 本書の153頁には,王認学会から発行されたニュートンの『自然哲学の数学的原理』初版(1687)扉の写真が再現されている.これはさまざまな科学史の本やニュートンの伝記本などに掲載されているものであって,特に珍しいものではない.ただ,本書においてとても印象深いのは,その扉に,著者ニュートンの名の活字とほとんど同じ大きさで,“S.PEPYPS”の文字が見えることである.そう,ピープスはこのとき,王認学会の会長になっていたのである.

唐木田健一


定量的科学におけるあいまいさについての考察.誤差論,さらには物理量間の一致と新理論の形成について

2022-12-21 | 日記

本記事は,唐木田健一『化学史研究』第16巻第2号,49-54ページ(1989)に基づく.

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定量的科学におけるあいまいさについての考察

  

1.はじめに

 科学は「客観的」(objective),「無私」(disinterested)かつ「普遍的」(universal)な真理研究の営みであるとする「科学の真理探究モデル」(Scientist-as-truth-seeker Model)[1]はすでにその影響力を失いつつある.以前の我々の調査によれば,日本では特に1970年代以降その傾向が顕著であるように思われる[2].一方,現在においては,「科学の真理探究モデル」に対する一種の反動として,あるいはそのモデルが未だ社会的に根強く残っているという状況を背景として,科学の「主観的」あるいは「非合理的」側面を強調する議論が目につくようになっている[3].しかしながら,この論議を基礎づけているのは逆に科学における《合理性》の過剰なのであって,すなわち対立する二つの理論の双方において,それぞれの《科学的合理性》を見出し得るということなのである[4].この事情を理解するための一つの手がかりとして我々が着目したのは,「厳密な学問としての科学」におけるあいまいさである.本稿では,物理量間の一致をめぐっての考察において,その一つの例を示したいと考える.

 

2.測定値間の一致の問題

 二つの測定値間の一致・不一致を考察する場合には,その測定値に付随する誤差の評価が本質的に重要である.たとえば,

Case I:

測定値α 0.1542±0.0003nm

測定値β 0.1539±0.0002nm

であれば二つの測定値は一致するということができるし,また

Case II:

測定値α 0.1548±0.0001nm

測定値β 0.1533±0.0002nm

であれば両者は一致しないと結論することができよう.一部の人々には,誤差に関する議論は測定が精密でない場合に必要となるように考えられるかも知れないが,事情はむしろ逆であって,測定が精密になればなるほど誤差とその評価は重要となるのである.言い換えれば,誤差の評価がなされていない測定値は事実上意味を持たぬのである.

 ところで,ある理論から二つの測定値αとβは一致することが期待されていたとしよう.そしてその場合に上記Case IIの結果が出たとしたら,その理論は実験により反証されたということができるであろうか? もちろん,そうであると答えることができる.しかしながらその理論の擁護者は,それら測定値の少なくともどちらか一方が誤っていると主張することもできる.それは,誤差評価には本質的なあいまいさが伴うからである.

 誤差は,よく知られているように,偶発誤差と系統誤差に分類することができる.このうち,前者については統計的手法が適用でき,測定者間共通の評価がある程度は可能である.しかしながら,この場合,測定値間の一致・不一致といってもそれは統計的な意味においてであって物理的意味においてではないということに留意しなければならない.また,系統誤差のほうはもっと事情が複雑である.

 系統誤差は,装置・手順・環境(温度,湿度,圧力,・・・)等を源とし,極論すれば測定者以外には立ち入ることができない.もちろん測定者は気の付く限り系統誤差源のチェックを行うわけであるが,それは文字通り気の付く限りに限定される.従って,測定者は,自己の測定値が未知の誤差源によってバイアスを受けている危険に絶えずさらされていることになる.たとえば,サンプリング誤差が本質的に無視できる(すなわち事実上同一の)試料の化学成分を複数の機関が分析した結果,それぞれの機関が与えた測定誤差を越えて不一致が観察されるなどということは決してめずらしいことではないのである[5].系統誤差に関わるこのあいまいさは,次のウィルソンの表現[6]からも読み取ることができる.すなわち,(系統誤差は)「・・・それぞれの方法についての知識や経験を基礎にしてのみ求めうるものであるから,特定の信頼水準をもつ信頼区間という項によって誤差限界を表現するのは通常不可能である.発表されている限界値は,いかにも真値を含んでいそうであると実験者が判断した領域をあらわしている」.逆に,我々がある測定値とその信頼限界を引用する場合には,どこの研究グループの誰による数値かということがその信頼性評価の大きな要因の一つとなっているのが実情である.科学の特徴の一つとして「普遍性」という性質があげられ,その内容は,同じ条件下では誰でも・どこでも・いつでも同じ結果が得られることだと説明されることがあるが,現実の問題としては,その言明に対していくつもの留保条件が必要なのである.

 系統誤差源としては,上述した装置・手順・環境などのほかに,測定の基づく理論をあげることができる.上記Case IIの場合,二つの測定値がそれぞれ異なった原理に基づく手段によって得られたものであり,かつそれらの間の不一致が測定の理論の不備によるものであるならば,測定自体に関わる要因をいくらチェックしても測定値間の一致は得られない.この場合,逆説的な表現をすれば,一致すべき二つの測定値は一般には一致しないほうが正しい.一例をあげよう.分子構造決定の精度が向上するにつれて「同じ」原子間距離に着目しても二つの独立な測定手段であるスペクトル法と回折法の与えるデータの不一致が「誤差の範囲」を越えることがしばしば見出された.各手段の詳細な検討の結果,その不一致は測定理論の不備によることがわかった.すなわち,原子間距離といってもそれは固定したものではなく,分子内振動によって絶えず変化している.そして,測定によって得られる原子間距離は,何らかの意味でのその平均値を表現する.従って,測定手段が異なれば,「同じ」原子間距離であってもその平均のされかたが異なり,「有意差」を生じるという事情である.言い換えれば,「同じ」原子間距離であっても測定手段によってその物理的意味は異なる[7].そして,その物理的意味を与えているのは測定の理論なのである.スペクトル法と回折法という独立な手段によって得られた測定値は,それぞれのデータに分子内振動の寄与に基づく補正項を加えることによってその物理的意味を一致させなければならない.そうして初めて,両者は比較対照できるものとなるわけである[8]

 以上は,二つの測定値間の一致が期待されていたとき実験的に不一致が示された場合(上記Case II)の考察である.逆に,二つの測定値の間の差(不一致)が期待されているときに上記のCase Iのような結果が出た場合はどうであろうか.我々は次のような疑問をもつことができる.すなわち,二つの測定値は確かに誤差の範囲で一致しているが,これは測定誤差が大きいためであって,測定の精度および確度がもっと向上すれば差は検出できるのではないか? もちろん,そのようなことはあり得るであろう.しかしそれは,測定者にとっては抽象的な疑問でしかない.従って,測定者に可能な対応は,「二つの測定は矛盾なく両立(一致)する」という表現を「二種の測定値間の差は検出できない」と変えることができるのみである.

 これまでの議論は,測定値間の一致についてのみならず,理論値と測定値,あるいは理論値と理論値の間の一致に関しても基本的に成立する.純粋な非経験的物理量といっても,それは測定値である基本物理量(たとえば,分子系の量子力学においては,電子や原子核の静止質量,荷電,等)を含む.そして,それらは誤差をもつ.さらに,その非経験的物理量を生み出した方程式が「かたより」をもつこともあり得る.あるいは,その方程式は正しいものであっても,それを解くために導入した仮定により誤差を生ずる場合がある.これらの誤差はすべて,物理量間の一致の考察において本質的関与をする.

 

3.理論形成と一致

 ここでは前節での議論を背景として,理論形成における物理量間の一致の役割について考察してみたい.

 まず,例として,ポーリング(Linus Pauling, 1901-1994)の共有結合半径の理論[9]を概観してみよう.この理論は,各原子が一定の半径をもった球で近似できること,そして各共有結合距離はそれを構成する二つの原子球の半径の和で表現できること,という二つの前提からなる.この前提が成立するならば,特定の原子対の結合距離はいかなる分子中であっても一定の値を示さなければならない.ポーリングはダイヤモンドを始めとする8種の分子中の炭素-炭素間(一重)結合距離の測定値をかかげ,それらが0.152~0.155nmの間にあることを示す.各測定値の誤差は±0.001nmのオーダーであるから,それらの距離は互いに誤差の範囲で一致しているということができる.これを「特定結合距離における一致」と呼ぶことにしよう.

 次に問題となるのは,結合距離の加成性である.これはポーリングにより次のように例示されている.ダイヤモンドの炭素-炭素間距離は0.1542nmである.これを炭素-炭素間距離の代表値みなそう.すると,炭素原子の共有結合半径はその半分の0.0771nmである.一方,塩素分子中の塩素-塩素間距離は0.1988nmと実測されている.従って塩素原子の共有結合半径は0.0994nmとなる.そこで,炭素の共有結合半径と塩素の共有結合半径の和を計算すると,0.0771+0.0994=0.1765nm;これは四塩化炭素分子の炭素-塩素間距離0.1766±0.0003nmと誤差の範囲で一致する! これを「加成性における一致」と呼ぶことにしよう.かくして,各原子についての共有結合半径の値を定めることができることになる.

 さて,この例を基に,少し一般的な議論を展開してみたい.まず,理論をつくりあげるにあたっての跳躍台となる一致がある.これを,「理論形成のヒントとしての一致」と呼ぶことにしよう.共有結合半径理論の「特定結合距離における一致」(上述)はおそらくヒントとしての一致であると思われる.もう一つ,「理論から読み取られた一致」と呼ばれるものがある.「加成性における一致」(上述)は,共有結合半径理論(あるいはそれと同等の発想)があって初めて見出されるものである;すなわち,「理論から読み取られた一致」である.ひとたび理論が形成されてしまえば,「ヒントとしての一致」は理論に組み込まれてしまい,「読み取られた一致」に化する.従って,両者は独立なものではなく,前者は後者に含まれる.二種の一致の区別は機能的なものである.

 「ヒントとしての一致」においては,一致は正確であればある程跳躍台としての役割は堅固となる.すなわち,一致がその時代において与えられる最高の測定精度および確度と矛盾しないことである.一方,「読み取られた一致」においては,誤差はほとんど二義的な役割しか果たさないことがある.上に引用された例に限れば,共有結合半径の理論と実測値との一致は誤差と矛盾しない.しかしながら,ポーリング自身,理論と必ずしも一致しない例をいくつかあげている.それらは結合の特殊性(たとえば,環状化合物における結合の「曲がり」)あるいは,他の結合様式(イオン結合性や共鳴による他重結合性など)の寄与によって解釈されるものとなる.

 「読み取られた一致」に関する興味深い一例として,ドルトン(John Dalton, 1766-1844)と彼の倍数比例の法則をあげることができる.これはすでに原によって議論されている[10].倍数比例の法則は,「二種の元素から成る化合物が二種以上あるとき,一つの元素の一定量と化合する他の元素の量は簡単な整数比を成す」と表現できる.一酸化窒素(NO)および二酸化窒素(NO2)という二つの化合物における窒素に対する酸素の化合比は,それぞれ(1.15, 1.26, 1.36)〔デイヴィー〕および(2.38, 2.57, 2.95)〔キャヴェンディッシュ〕と与えられている.かっこ内の数字は,繰り返し測定の結果のバラツキである[11].この二種の化合比が簡単な整数比の関係になるというのが倍数比例の法則の主張である.そして,ここでそれは,2.38/1.36~2.95/1.15,すなわち1.75~2.56の範囲にバラツイている.これをドルトンは整数比2とみなした:彼にとってこれは原子仮説から読み取られた一致だったわけである.

 同様のことは,たとえば,メンデル(Gregor Mendel, 1822-1884)[12]にもあてはめることができる.彼は,雑種初代に関する7つの実験結果を示したあと,「すべての実験の結果をとりまとめると,優性形質をもつ個体の数と劣性の形質をもつ個体との間には2.98:1または3:1といってもよい平均比が生ずる」と書いている.ドルトンの場合は余りに誤差の大きい数値から整数値を読み取ったことで後世の人々をおどろかせるが,メンデルの場合は,逆に,実験結果のバラツキが余りに小さいこと(など)で以前から幾人かの人々の疑惑の対象となっている[13].いずれにせよ,いかに正確なものであっても,一般に測定によってのみある物理量が整数であることを「証明」することはできない.それは何らかの発想(理論,法則,あるいは先入観)によって読み取られねばならない.

 「理論形成のヒントとしての一致」の典型例としては,一般相対性理論[14]をあげることができよう.この理論は,慣性質量と重量質量の一致(もっと正確に表現すると,慣性質量と重量質量の比は物体の種類に関わらず一定であること――等価仮説)を前提とするものである.エトヴェッシュ(Eötvös Loránd, 1848-1919)の測定結果が極めて高い精度(~107)をもつことはアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)によって引用されている.しかし,測定結果のみでは,せいぜいこの一致が「極めて確からしい」,あるいは「極めて高い真実性をもつものと思われる」にすぎない.しかし,この一致はアインシュタインに対し,「常に厳密に成立する一つの自然法則であり,これは理論物理学の基礎として当然,公式化されるべきものであるという確信」をいだかせた.これにより一般相対性理論が定式化され,また逆に,それによって二種の質量が本質的に一致することが「証明」されたわけである.

 プランクが黒体輻射の理論に導入したhとアインシュタインの光量子論[15]におけるRβ/Nの一致はもう一つの例である.これがその後の量子論の展開にいかに深く寄与したかはすでによく知られている通りである.

 

4.一致における先入観の役割

 前節では,物理量間の一致は理論形成のヒントとなるが,結局のところ,それは理論によって読み取られなければならないことが議論された.すなわち,物理量間の一致は理論により検証されなければならない.そしてこのことは,データ(物理量)による理論の検証という事態と一体をなしている.ここでいう理論とは,より広義には,主体の関わる思考の枠組みのことである.思考の枠組みは,しばしば否定的に評価され,先入観と呼ばれることもある.

 一般に測定値には誤差が付随し,それは我々がデータから何事か(すなわちシグナル)を読み取ろうとする場合にノイズとして作用する.先入観の役割は,ノイズを背景としてシグナルをひろい出すことにある.先入観を排除しデータをありのままに見なければならないということはしばしば指摘される.しかし,現実には,我々の思考は常に完全には対象化しきれない枠組みに条件づけられているのであり,それに基づいて我々のあらゆる創造的活動が展開されるのである.問題は先入観の排除ではなく,むしろデータに対する鑑識眼や理論形成にあたっての首尾一貫性がいかに先入観と均衡が保たれているかということのように思われる.そのことは,正多面体による宇宙の調和というすさまじい《先入観》から出発してニュートン体系の基礎となる諸法則にたどりついたケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)の軌跡によくあらわれているように思われる[16]

 

5.結語

 本稿では科学的探究の最も実証的な場面を取り出し,そこにおけるあいまいさについて考察した.序で述べたように,これが複数の互いに矛盾する立場にそれぞれの合理性を許すのである.あいまいであるということは(少なくともそれ自体は)いささかも非合理的,あるいは神秘的事態を意味しない.一方,あいまいさと主体との関わりは重要である.ここにおいて各データはそれぞれに意味づけがなされるのであるし,また同時にそれを通し我々はその主体がいかなる人物であるかを定義づけることが可能となるのである[17]


[1] W. A. Blanpied, ‘Subjective Impressions Regarding Contemporary Concerns and Trends’, Newsletter of the Program on Public Conceptions of Science, Jefferson Physical Laboratory, Harvard University, No. 8 (1974), pp.136-156.

[2] K. Karakida, Y. Ishihara, T. Sato, and K. Nakamura, ‘Bibliography of Important Works on Science and Ethics in Japan’, ibid., No. 16 (1976), pp.38-51.

[3] その契機となったのは次の文献であるように思われる:T. S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions (1962);中山茂訳『科学革命の構造』(みすず書房,1971).また,次の文献も参照せよ:P. K. Feyerabend, Against Method (1975);村上陽一郎・渡辺博訳『方法への挑戦』(新曜社,1981).

[4] そこで,どちらの理論を選ぶかは各人の《主観的》好みによるということになる.この辺については次の文献を参照せよ:唐木田健一「我々にとってアヴォガドロとは何か?」『本誌』1985, 186.

[5] たとえば,次の文献をみよ:浜口博『現代化学』1974年2月号,p.17.

[6] E. B. Wilson, An introduction to Scientific Research (1952);福山美知子訳『科学研究の計画と進め方』(技法堂,1971),p.271.

[7] これは原子間距離に限らず他の物理量においてもよく観察されることである.

[8] この事情について記述した比較的にわかりやすい文献は,森野米三・坪井正道『分子の構造』(東京化学同人,1966),第9章.

[9] L. Pauling, The Nature of the Chemical Bond, 3rd ed., (1960);小泉正夫訳『化学結合論』(共立出版,1962),7.1節.

[10] 原光雄『化学入門』(岩波書店,1953),pp.128-131.

[11] このバラツキと定比例の法則(化合物の成分元素の質量比は常に一定である)との関連も「一致」の観点からは興味深いものであるが,これは別の議論としよう.

[12] G. Mendel, Verhandlungen des Naturforschenden Vereins in Brünn, 4, 3 (1866). 本文での引用は次の文献の山下孝介の訳に基づく;湯川秀樹・井上健編『現代の科学 I』(中央公論社,1973).

[13] たとえば,R. A. Fischer, Annals of Science, 1, 115 (1936). これは次の文献に引用されている;J. F. Box, R. A. Fischer―The life of a Scientist (John Wiley & Sons, 1978), p.295. なお,本稿ではデータの《非公式な加工》(捏造)の問題には立ち入らない.

[14] A. Einstein, Z. Math. Phys., 62, 225 (1914). 本文での引用は次の文献に基づく;湯川秀樹監・内山龍雄訳編『アインシュタイン選集2』(共立出版,1970).

[15] A. Einstein, Ann. Phys.,17, 132 (1905).

[16] A. Koestler, The Watershed: A Biography of Johannes Kepler (1960);小林信弥・木村博訳『ヨハネス・ケプラー:近代宇宙観の夜明け』(河出書房新社,1971).

[17] 唐木田健一「科学史におけるのりこえの視点」『本誌』1988, 185. また,注4における文献も参照せよ.


紹介 鈴木武雄『和算の成立―その光と陰』恒星社厚生閣(2004)

2022-12-14 | 日記

この記事は,「物理学者の社会的責任」サーキュラー『科学・社会・人間』2005年1号(通算91号),47-53頁に掲載されたものです.とくに和算書に関し見慣れぬ漢字が頻出して読みにくいかも知れませんが,非常に面白い内容です.

唐木田健一 

1.人物たち

はじめに本書に登場する人物の一部を本書の記述にもとづいて紹介する.物語のはじまる前に登場人物を紹介されても退屈であることは評者もよく承知しているが,これは小説ではなく歴史である.

     *

 関孝和(せき・たかかず,1640頃?-1708).和算史上における数々の画期的な業績で知られる.「関流」の開祖.しかし,その生涯は謎に包まれており,生年も不明である.和算流派の開祖であり「算聖」として尊敬を集めたにも関わらず,その直筆の原稿やメモ・書簡類は残っていない.もしあれば弟子たちに珍重され伝来したはずである.日本学士院所蔵の免許状は唯一彼の直筆と言われているが根拠はない.彼の著した和算書で生前に板行されたものは『発微算法(はつびさんぽう)』(1674)のみ.『括要算法(かつようさんぽう)』は彼の没後弟子たちが遺稿を出版したものである.彼のその他の著作はすべて写本により伝わった.公職の履歴としては,時期は不明であるが,甲府宰相綱重・綱豊父子の家臣となった.1704年,綱豊が将軍継嗣となり江戸城西の丸に入るに伴い幕臣となる.1706年11月,非役となり小普請入り.幕臣だったのはこの期間だけである.

 礒村吉徳(いそむら・よしのり,1630?-1710).1658年以降は二本松藩士.墓所も福島県二本松市にある.『算法闕疑抄(さんぽうけつぎしょう)』(初1659)およびその増補版である『頭書算法闕疑抄(とうしょさんぽうけつぎしょう)』(初1684)の著者.『算法闕疑抄』はそれまでの和算家たちの業績を整理しわかりやすくまとめた名著であって,『頭書算法闕疑抄』とともに何度も改訂され書肆を変えて出版されたベストセラーである.二本松藩では土木技術者として仕事をした.二合田用水の設計・測量・開削の業績が記録されている.

 村瀬義益(むらせ・よします,?-?).『算法勿憚改(さんぽうぶつだんかい)』(初1681?)の著者.この書では,和算史上初めて,あるタイプの3次方程式が逐次近似法で解かれている.同書の序文によれば,佐渡の生まれ.そこで百川(治兵衛=忠兵衛)流の数学を学び,その後江戸に出て礒村吉徳(前出)に師事した.それ以外の履歴は生年・没年を含め不明,『算法勿憚改』を板行したことしかわからない.「存在感のない怪しいところがあ」る.

 高原吉種(たかはら・よしたね,?-?).『荒木彦四郎村英先生茶談』という写本では,「高原吉種の弟子に礒村吉徳があり,また関孝和先生も初めは高原を師としたと言われている」との趣旨が記されている.この本は,関流初伝の荒木村英の談話を関流二伝の松永良弼が記録したものである.(「初伝」というのは,関孝和を継いだ関流「初代家元」の意味であろう.)また,礒村吉徳の『算法闕疑抄』および『頭書算法闕疑抄』(ともに前出)にも,『塵劫記(じんこうき)』(初1627)の著者・吉田光由(よしだ・みつよし,1597-1672)らと並んで高原吉種の名前が刻まれている.しかし,彼に関してはこれ以上の史料はなく,生年・没年も不明.また著作も1冊も知られていない.

 建部賢弘(たけべ・かたひろ,1664-1739).関孝和の高弟.『研幾算法(けんきさんぽう)』(1683, 19歳),『発微算法演段諺解(はつびさんぽうえんだんげんかい)』4冊(1685, 21歳),および『算学啓蒙諺解大成(さんがくけいもうげんかいたいせい)』7冊(1690, 26歳)を出版した.1692年,甲府宰相綱豊の家臣となる.綱豊が将軍継嗣に決まり江戸城西の丸に入るに伴い幕臣となる.1709年,綱豊は六代家宣として将軍に就任し,以降賢弘は家宣および七代家継に仕えた.新たに紀州藩主から将軍となった八代吉宗の時代には武蔵国山地の検地をおこない(1720),また国絵図作成への関わりで賞賜される(1725)など躍進を続けた.和算書は,上記3種を除いては,すべて写本で伝わっている.とくに『綴術算経(てつじゅつさんけい)』(1722, 58歳)および『累約術(るいやくじゅつ)』(1726, 62歳)は業績中最も独創的であるだけでなく,和算史を超えて世界数学史上の輝かしい業績と評価されている.

 井上筑後守政重(いのうえ・ちくごのかみ・まさしげ,1585-1661).三代将軍家光(在位1623-1651)の時代に初めて設置された要職「大目付」の4人のうちの1人.また,1657年,初代宗門改奉行に就任.キリシタンの大弾圧を企画執行した悪名高い人物として知られる.彼の下屋敷は,現在でも「切支丹屋敷」として,その名が残っている.

 ジュセッペ・キアラ(Giussepe Chiara,1602-1685).イエズス会神父.1643年,神父らおよび従者からなる一行(イエズス会宣教師団ルビノ第2隊)10人のなかの1人として日本に潜入.平戸近くの筑前大島に上陸して捕らえられ,長崎を経て江戸送りとなった.江戸では将軍家光らにより尋問され,結局のところ井上筑後守政重(前出)により全員棄教させられ切支丹屋敷に収容される.それぞれ妻をあてがわれ扶持をもらい,切支丹目明しとして一生を送ったといわれる[1].日本名・岡本三右衛門.

     *

 本書は,これら人物たちの密接な関係を明らかにする.結論をそのまま記せば,

  • 関孝和や礒村吉徳の師とされる謎の人物・高原吉種はジュセッペ・キアラである.
  • 礒村吉徳と村瀬義益は同一人物である.
  • 切支丹屋敷は高原吉種(=ジュセッペ・キアラ)を中心としたいわば秘密の「科学技術研究所」であって,それを運営したのは井上筑後守政重である.

これらの結論は奇態である.また,これらを直接に裏づける史料はない.ただし著者は,多数の史料によって,緻密に自己の主張を組み立てている.わずかな史料とその《奔放な》解釈によるものとは異なる.またその主張は,たとえ旧来の和算史家たちが何を言おうと,日本近世史の流れの中におけば,きわめて理に適ったものに思われる.

 

2.建部賢弘の場合

 本書は全体として緻密な体系を構成する.したがって,紹介のためにその一部を切り出すと,結論が《奇態》なだけに,無用な誤解を誘発するおそれがある.そこで,ここでは,本書の内容としてはやや傍流となるが,読者には比較的になじみの知識に関わると思われる小部分に限定して紹介を試みる.

 先の人物紹介においては甲府宰相の家臣から幕臣になった人物が2人存在した.関孝和とその高弟・建部賢弘である.立場は異なるが,同じ履歴をたどった人物として,我々は新井白石(1657-1725)を知っている.生没年によれば,年齢差はあるにせよ,白石と孝和,そして賢弘は同時代を近くで過ごしている.白石が甲府に出仕したのは1693年で,賢弘より1年あとである.この1693年の時点で3人の年齢をざっと比較すると,孝和約53歳,白石36歳,そして賢弘29歳である.

 いくつかの不可解

 『新井白石日記』には,1ヵ所だけではあるが,孝和の名が出現する.しかし,賢弘に関する記述はない.同じく白石の『退私録』にも孝和に関する逸話は記されているが,賢弘は全く触れられていない.白石が賢弘のことを知らないわけはない.賢弘は甲府に出仕する以前にすでに3種の和算書(前出)を板行した秀才であり,他方白石は数学を含むあらゆる対象に知的好奇心を向けた学者である.著者は,白石のこの沈黙は,不思議であると言っている.

 さらに不思議なことがある.賢弘は10代から20代にかけて3種の和算書を刊行した.これらは立派な著作ではあるが,主として師や先達の業績を代弁したり集大成したもので,彼自身の独創性が現れているとは言えないものである.他方,60歳前後には『綴術算経』および『累約術』の2冊を著しており(前出),この内容はきわめて独創的である.業績の一部を紹介すると,『綴術算経』では,

  • 第六で極大極小問題を扱った.
  • 第十一では円周率を求める際,関孝和による数値の加速法を改良して,小数41位まで正しく計算した.
  • 第十二で(arcsinθ)2をθの冪級数に展開した.

また,『累約術』は,現代の数論におけるいわゆる「ディオファンタス近似問題」(有理数による無理数の近似に関する議論)にあたるものである.藤原松三郎は,

かかる問題は西洋数学史に現れたのは,ヤコービ(Jacobi)の遺稿論文(Crelle Journal 69, 1869)におけるいはゆるJacobi's Algorithmが最初である.しかるに賢弘はそのときより約140年以前にこの問題を論じてゐる.驚嘆すべき事実である.

と驚嘆している[2]

 不思議なのは,このような独創的な業績が「いきなり」出現したことである.西洋数学をみても,偉大な業績はその厚い伝統を背景に出現するものである.もっとも,これこそが和算の独自性であり,日本人の卓越さのゆえであると主張することは可能かも知れない.しかし,それが通用するのは,せいぜいが国定教科書の時代であろう.

 著者はさらに疑問を提起する.数学における画期的な業績は,通常20歳代から30歳代のときのものである.それを考慮すると,賢弘の驚嘆すべき業績が50歳代から60歳代にかけて出現したというのは異様である.「和算家が熟達するには時間がかかるので60歳前後であっても不思議はない」という主張もあるようである.しかし,賢弘の業績は,並みの和算家がそれまでの成果をまとめた類のものではない.

 白石とシドティ

 新井白石の『西洋紀聞』は1708年に日本に単身潜入したイエズス会宣教師シドティ(1668-1714)との出会いを記録している.白石はこの出会いを「一生の奇会」と称し,またシドティを「五百年に一人を得るべき人材」と評価した.これは数学や天文学におけるシドティの造詣によるものと思われる.

 白石は1709年の11月から12月にかけてシドティに会っている.場所は「改屋敷」,すなわち切支丹屋敷である.白石は,対面のための下調べとして,ジュセッペ・キアラの筆写本などを借り出して読んでいる.切支丹屋敷にはキリスト教関連として禁書になった多数の本が所蔵されていたと推定される.白石はこれら禁書本を自由に閲覧し借り出していた.彼がていねいに書き写した西洋科学書,李之藻による漢訳の『句股弦度図説』が残っている.『西洋紀聞』に出てくる「勾股(=句股,こうこ)の法」とは三角法にあたるものである.

 このシドティとの対談において,白石は数学の知識を必要としたと考えられる.自身でも調査をした.また,彼の近くにはすぐれた和算家がいた.関孝和はたまたま直前の1708年に亡くなっているが,建部賢弘は存在する.賢弘がシドティに関わったという記録は見出されていない.しかし彼は当時将軍・家宣の側近を自認する立場にあり,また和算の秀才としての実績を有していたのであるから,シドティと面談の機会があったとして不思議はない.

 著者は,『寛政重修諸家譜』[3]から,賢弘の奇妙な転居の記録を見つけ出す.賢弘は1709年7月,三番町に宅地を拝領している.そして,その5ヵ月後の同年12月に,小川町に転居地を賜り住んでいる.そして,のちの1714年6月には一番町に移った.すなわち,三番町→小川町→一番町である.この時代は,当人の気まぐれで簡単に転居などできるものではないし,また現在と同様,転居には費用と手間がかかる.著者はこの移動のタイミングに着目する.

 三番町に宅地を拝領してから5ヵ月後の12月に賢弘が小川町に転居した時点は,まさに白石が切支丹屋敷でシドティと面談をしている時期(11月~12月)である.そして,賢弘が小川町から一番町に移った1714年といえば,シドティは2月に召使夫婦をキリスト教に入信させたことで地下牢に押し込められ,そして同年12月に獄死しているのである.

 千代田区三番町は江戸城の北西で千鳥ヶ淵戦没者墓苑の辺りである.それに対して江戸時代の地図で小川町は江戸城の北で水道橋のすぐ近く(現在の千代田区三崎町)である.さらに,千代田区一番町は,三番町より南で半蔵濠の西隣である.ところで,シドティがいた切支丹屋敷は,現在の文京区小日向1丁目にあった.切支丹屋敷に通うには,三番町よりも小川町のほうが便利である.距離にして約半分である.そして,1714年に一番町に移ったのは,もうシドティには会えなくなってしまったからである.

 著者は『綴術算経』および『累約術』における賢弘の独創は,自己の行き詰っていた研究を,シドティに何度も面談して,大飛躍に結びつけたものと考えている.そうであれば,時期的に納得ができるものである.また,シドティらイエズス会宣教師たちの数学を重視した高い学識については,著者がいくつかの個所において記述している.

 1714年10月,賢弘は布衣(ほい)という地位に任じられている.これは幕府がつくった制度で六位に相当するそうである.著者は,白石の推薦が働いたと推測している.

 新政権における大出世

 1716年,将軍・家継が死去し,白石はその直後に解任された.それまでの徳川宗家筋からいうと傍系の紀州藩から,吉宗が将軍に就任した.賢弘も職を解かれ寄合となった.その後しばらく彼の動静は不明であるが,1720年に武蔵野国山地の検地をしたことが記録されている.その功が認められたものか,彼は翌年二の丸留守居(700石高布衣)となった.彼は,前将軍時代の1709年には300俵(120石)取の御家人だったことが記録されているので,大出世である.そして彼は1730年に御留守居番(千石高布衣),さらに1732年御広敷用人(推定2000~3000石)となった.当初の御目見以下の御家人から高禄の旗本へと躍進したのである.従来,この出世の理由は,吉宗が賢弘の暦算学を評価したためであるとされていた.そうであったのかも知れないが,それだけだったのであろうか.

 著者は建部賢弘宛の田沼主殿頭意行(たぬま・とのものかみ・もとゆき)の手紙を示す.これは著者自身によって所蔵されているものである.この書状によれば,賢弘は意行に長崎渡来の書物を依頼したようである.そして,賢弘と意行は以前より親しかったらしいことがわかる.著者は,賢弘の出世は,意行ら吉宗の側近を通じて政権に取り入ったためであろうと推測している.賢弘の書状あるいは彼宛の書状は現在これ以外には存在しない.また,田沼意行の書状も初出とのことである.なお,田沼主殿頭意行は,吉宗が紀州から連れてきた子飼いの側近である.(そして,彼の嫡男が有名な田沼意次である.)

 ところで,白石はなぜ賢弘に関して沈黙していたのかという先の疑問に立ち返ってみる.理由のひとつは,切支丹屋敷とその内部の活動が関わっていたためである.また,賢弘がシドティからヒントを得て著作をしたとしたら,なおさらのことである.白石は解任されて政権中枢を離れたあと,自著『西洋紀聞』の存在を知られることすらおそれていた.初稿は1715年になったが,その後厳しく秘密にされてきたのである.一方,賢弘は吉宗政権で大出世し,権力を手に入れた.白石は賢弘をもおそれていたと考えられる.

 伝記の矛盾

 『寛政重修諸家譜』(既出)によれば,賢弘ははじめ北條源右衛門某の養子となり,事情があって実家に戻ったあと,甲府宰相綱豊に仕えたとなっている.他方,賢弘の兄・建部賢明が書いた『建部彦次郎賢弘伝』(『賢弘伝』)によれば,1690年に北條源右衛門という者の養子となり,1692年に桜田営(綱豊の館)に勤めたという趣旨の記述がある.さらに,この『賢弘伝』には,養家の北條はきわめて邪欲無道であって,賢弘の俵米を掠め取ったり,1703年には気に入らぬからといって賢弘を実家に帰そうとしたなどとして,長文の悪口が並べられている.結局,賢弘は北條家の実子に家を継がせるため,身を引いたということである.『寛政重修諸家譜』と『賢弘伝』とで,どちらが正しいのであろうか.少なくとも,養家を離縁になった時期と甲府宰相の家臣になった時期のどちらが早いのかに違いがある.

 すでに繰り返し触れたが,賢弘は若い頃(1683~1690)に3種の著作(『研幾算法』『発微算法演段諺解』『算学啓蒙諺解大成』)を板行している.もし兄の『賢弘伝』の通りだとすれば,これは北條家に養子に入る以前のことである.ならば,この出版の費用はどこから捻出されたのであろうか.相当高額なはずである.賢弘の父・直恒は1656年にやっと200俵になったのが最高であり,1687年には辞職している.『算学啓蒙諺解大成』は7冊からなる大著であるが,この出版は父の辞職後のことである.兄弟たちも,とても頼りになる状態ではなかった.

 著者は,『寛政重修諸家譜』の記述がより正しく,賢弘は幼い頃北條家に養子に入り,関孝和に入門して教育を受け学業を積み,北條家の援助で3種の和算書を出版したと考える.そして,そのあと北條家を離れて実家に戻り,しばらくして綱豊の家臣になったのである.すなわち,兄・賢明は,賢弘が1690年に北條家の養子になったと書いているが,実際は1690年に養家を離れたのであろう.

 養子を迎えるということは,北條家には男子がいなかったと考えられる.しかし,1707年には,実子と思われる北條氏盛が北條家を継いでいる.逆算すれば,氏盛はまさに1690年頃生まれたと推定される.したがって,賢弘の離縁は,北條家における男子誕生が原因だったのであろう.また,1690年までの賢弘による出版活動も関わっていた可能性がある.著者は,養家は大変な出費で,あきれ果てたのではないかと推測している.

 いずれにせよ,兄にとって,弟のこの離縁は腹立たしいものであったろう.それが北條家への悪口や,養子になった時期のごまかしになったのではないかと思われる.

 

3.方法

 著者はさまざまな事実を結びつけ論理的な首尾一貫性(無矛盾性)を追求する.この過程のなかでは欠如(ないものの存在)や矛盾が浮かび上がってくる.そして,それらを課題としてさらに探究を継続することにより,体系はより緻密で立体的なものとなる.この方法は私が以前から着目していたものであるが[4],本書の著者はそれを自覚的に運用している.彼は,さまざまな史料・文献が「明快な論理で,矛盾なく説明」できるかどうかを規範に採用している.

 また著者は,すぐれた業績は決して既存の諸業績から孤立しては誕生しないことを知っている.これも評者が大いに共感するところである.本紹介で触れることができたものとしては,『綴術算経』および『累約術』における建部賢弘の独創の由来の追究がある.

 同様のこととして,著者は村瀬義益が和算史上初めてあるタイプの3次方程式を逐次近似法で解いていること(本稿「1.人物たち」参照)に着目し,その起源を追っている.著者は,西洋数学の漢訳本である『同文算指』[5]の開平計算が逐次近似法によっているという土倉保の解明を契機とし,義益の『算法勿憚改』における飛躍は『同文算指』をヒントにしたものであるとの推定を導く.

 著者自身の研究の出発点となったのは,平山諦『和算の誕生』である[6].ここで平山は,和算史にヨーロッパ数学・文化の影響が存在することを主張した.本書における探究の結果は,その影響が「これまで考えられた以上に大きかったことを示」している.

 

4.おわりに

 本紹介では,評者の作戦上,さまざまな登場人物(とくにキアラ神父と井上筑後守政重)の魅力に触れることができなかった.本書の内容は明らかに和算史の枠組みをはみ出し,近世日本史のきわめて興味深い側面を描き出している.近年,エコロジーの観点から江戸時代を評価する議論があるが,本書は江戸時代のまた別の魅力を明らかにするものである.

 評者はこれまで,たとえば1687年を貞享4年などと換算し,両者に大いなる落差を感じたことがあったが,その認識は本書により相当程度あらためられた.

 なお,本書の存在は,猪野修治氏の主宰する湘南科学史懇話会における著者・鈴木武雄による講演(2004年11月3日,藤沢)で知った.

(2004.12.12)


[1] 遠藤周作の小説『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルがキアラだそうである.また,同小説中,井上筑後守政重は「奉行」「イノウエ」と呼ばれて登場するそうである.

[2] 日本学士院編『明治前日本数学史』第2巻,岩波書店(1994),311頁.これは鈴木による引用である.

[3] 『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』は諸大名以下御目見(おめみえ)以上の諸氏の系図・略歴を記した書のことである(『広辞苑』).

[4] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995).本ブログでは,たとえば「新理論の形成:首尾一貫性の追求,欠如,矛盾,そして弁証法」.

[5] 『同文算指』(1613)の原著は,ローマ学院の学頭Christopher Clavius(1537-1612)の著“Epitome Arithmeticae Practicae”(初1583)であり,中国に渡来したイエズス会宣教師マテオ・リッチおよびキリスト教徒となった李之藻により漢訳されたものである.

[6] 平山諦『和算の誕生』恒星社厚生閣(1993).これは平山が89歳のときの著作である.


無機化学者・斎藤信房と地質学者・都城秋穂

2022-12-07 | 日記

斎藤信房(さいとう・のぶふさ,1916-2007)。東京大学名誉教授。理学部化学教室で無機化学、放射化学講座を担当。研究領域は同位体化学を中心として広範にわたる。1963年より2年間、国際原子力機関(IAEA)のアイソトープ部長を務める。

本記事の出典:斎藤信房先生記念誌編集委員会(代表・富田功氏)編『うららなる湖――斎藤信房先生の思い出』斎藤信房先生記念誌の会発行、岩波出版サービスセンター製作(2010年10月20日)。

     *

斎藤先生の学位論文研究と都城秋穂氏

                                      唐木田 健一

 2004年の晩秋のことです。たまたま送られてきた学会誌のなかに私の論文をお見つけになった斎藤先生が、そこに都城秋穂氏の著書が引用されているのを知って、我が家にお電話を下さいました。「学位論文の仕事は都城さんと一緒にやった」とのお話でした。私は都城さんにお目にかかったことはありませんが親しくしていただいていたので、そのあと斎藤家を訪問したとき先生御夫妻と写真を撮って都城さんにお送りしました。次の手紙(日付なし、消印2005年1月6日)はその返事です。

 お手紙とお写真をありがとうございました。あなた方ご夫妻、および斎藤さんご夫妻の写真を、たいへん興味深く拝見いたしました。むかしの斎藤さんを思い出して、たいへんなつかしく思いました。

 斎藤さんは私より三~四年年上で、私が大学院学生のとき助教授で、私が助手のとき教授でした。ですから、当時の慣習によれば当然私は「斎藤先生」とよぶべきだったのですが、斎藤さんがそのころあまり気楽で寛大だったので、私は「斎藤さん」とよぶようになってしまいました。

 斎藤さんは、ほんとうに親切で、寛大でした。そのために私は、斎藤さんに一方的にお世話になり続けでした。そのことを、今でもたいへん恐縮しております。

 しかしあなた方が斎藤さんと親しいとは、全く思いがけないことでした。私もこれから、時々斎藤さんに手紙を書くことにしましょう。斎藤さんがまだご元気な間に連絡を回復することができて、幸いなことでした。この点で、あなた方にお世話になりました。どうか奥様にも、私からお礼を申し上げていると、お伝え下さい。

 都城秋穂(みやしろ・あきほ、1920-2008)さんは東京帝国大学理学部地質学科の出身で、東京大学助教授、コロンビア大学教授、ニューヨーク州立大学教授を歴任したあと、ニューヨーク州立大学名誉教授としてニューヨーク州オールバニーにお住まいでした。『変成岩と変成帯』(1965)、『変成作用』(1994)、『科学革命とは何か』(1998)などの著書があります。2002年「変成岩の理論的研究およびそのテクトニクス論への寄与」で日本学士院賞をお受けになりました。

 つぎに紹介する文章(2008年2月27日付手紙の一部)には、学位論文を準備中のころの斎藤先生との関係が記述されています。私はこの内容を大変興味深く思いますがそれは、変成作用に関する著名な専門家がその専門に深く入り込むにあたって、斎藤先生の存在があったという点です。

 一九四〇年前後から、斎藤さんは朝鮮半島の中央部の珍しいアルカリ岩群の地球化学的研究をはじめられ、それを学位論文にするお考えでした。私は一九四三年に大学院に入り、その同じ岩群を研究して、地質学的な面で斎藤さんに助言することになりました。そこで私は、一九四三~四五年に数回その地方に行って調査しました。その後何年も、私はその岩群のことを考えたのですが、考えが迷宮に入りこんでしまって、遂にはっきりとした結論に達しませんでした。したがって、私は斎藤さんのお役に立つような助言が全くできませんでした。これは全く、私の無能であって、斎藤さんに申しわけがないと心から思い、一生私の心の重荷になりました。斎藤さんが、そのことについて一言も私を咎められなかったので、私はますます恐縮してしまいました。

 そのころ、そういうアルカリ岩類は、マグマが結晶しながら分別作用をうけた残液が固結した火成岩だと一般に考えられていました。この説は、そういう岩石の化学組成をよく説明します。ところが私が、その地方へ行って取った岩石の構造をよく見ると、火成岩ではなくて、変成岩かもしれないと思われる性質を示しているのです。そこで私は、それらの岩石は火成岩だろうか? それとも変成岩だろうか? と迷ったのです。

 これを解決するためには、私は変成作用というものをもっと勉強しなくてはいけないと思って、一九四六年から変成作用の勉強を本格的にはじめました。こうして私は、変成作用研究の専門家になってしまいました。結局、朝鮮のアルカリ岩群の方は、それっきりに放置することになり、斎藤さんに申しわけないことになったのです。

(了)