唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

イスラエル建国にあたってのアインシュタインの所感(1949年)

2023-11-29 | 日記

 1948年5月,ユダヤ国家イスラエルが独立を宣言した.ユダヤ人たちは「歓喜に充」たされたが,アインシュタインはここで,長い歴史の経過の中で形成された「ユダヤ人の倫理的理想」なるものをもち出すのである.

 以下に紹介するのは1949年11月27日に行われたラジオ放送でのアインシュタインのメッセージ「イスラエルのユダヤ人」の一部である.引用元は,湯川秀樹監修/中村誠太郎・井上健訳編『アインシュタイン選集 3』共立出版(1972),pp. 247-248である.

 なお,本記事とともに,先の私のブログ「“ユダヤ国家”創設に対するアインシュタインの否定的見解(1938年)」も御参照下さい.

唐木田健一

     *

〔前略〕

 この種の理想〔すなわち,ユダヤ人の倫理的理想〕の一つは,その基礎を暴力にではなく相互理解と自己抑制とにおいた平和であります.もしもわれわれがこの理想に浸りきっているとするならば,われわれの喜びはいささか悲しみと混じり合ったものになっているわけです.なぜならば,アラブ人たちとのわれわれの関係は現在のところこの理想から程遠いものになっているからであります.もしもわれわれが他人に邪魔されることなく,わが隣人たちとの関係を処理することが許されていたならば,われわれはこの理想に到達していただろうということは,十分ありうることでしょう.なぜならば,われわれは平和を欲しているのであり,われわれの将来の発展が平和にかかっていることを認識しているからであります.

 ユダヤ人とアラブ人とが平和裏に平等なものとして自由に共存する分割されざるパレスチナをわれわれが達成しなかったのは,われわれ自身のあるいはわが隣人の誤りであったというよりは,むしろ信託統治国(☆)の過誤によるものでした.パレスチナに対するイギリスの信託統治のように,ある国が他国を支配する場合には,その国は,かの悪名高い「分割して統治せよ(Divide et Impera)」という手管を踏襲するのを避けることはほとんど不可能なのであります.わかりやすい言い方をすれば,このことは次のことを意味します.すなわち,被統治住民の間に不和を醸成せよ.その結果,彼らは彼らに課せられた足枷を脱するために団結するということが起こらなくなるであろう.ところで,足枷はすでに取り除かれています.しかし播かれた不和の種子も実を結ぶに至っており,ここしばらくの間はまだまだ災いを起こすことになりそうです――それがあまり長くないことを望みたいものです.(文中の下線は原訳文における傍点,また〔  〕は私による挿入)

〔後略〕

☆イスラエルを含むパレスチナの地は,オスマン・トルコの支配を経て,第一次大戦後はイギリスの委任統治領となった.ここでいう「信託統治国」とはイギリスのことをさす.


「ユダヤ国家」創設に対するアインシュタインの否定的見解(1938年)

2023-11-22 | 日記

 ここに紹介するのは1938年4月17日,ニューヨーク市コモドア・ホテルでのパレスチナ全国労働委員会「第三会期」祝賀会でのアインシュタインの挨拶「シオニズムに負うもの」の一部である.引用元は,湯川秀樹監修/中村誠太郎・井上健訳編『アインシュタイン選集 3』共立出版(1972),pp. 233-234である.なお,ユダヤ国家創設,すなわちイスラエルの建国宣言は,これよりもずっとのちの1948年5月である.また,念のため付け加えておくと,アインシュタインは両親ともにユダヤ人である.

唐木田健一

     *

〔前略〕

 領土の分割の問題についてもう一度,個人的な意見を述べたいと思います.私としては,一つのユダヤ国家を創設するよりも,平和裏の共存ということを基礎にしてアラブ人たちと合理的な協定に達するほうがはるかに望ましいと考えています.実際的な考慮を別にしますと,国境とか軍隊とか,さらにはいかに謙虚なものとはいえある程度の一時的な権力をそなえたユダヤ国家という観念には,ユダヤ主義の本質的性格について私の理解しているものから抵抗を感じるのです.私が恐れるのは,ユダヤ主義が蒙るであろうところの――とくにわれわれの側の内部で狭量な国家主義が頭をもたげてくることから蒙るであろうところの内面的打撃なのです.この種の国家主義は,ユダヤ国家が存在していない状態においてさえ,すでにわれわれとしては協力に反対して斗わざるをえなかったものでした.われわれはもはやマカベー期(☆)のユダヤ人ではありません.言葉の政治的意味での国家なるものへの復帰は,われわれの予言者たちの天才に負うところのわが共同体の精神主義的な性格から逸脱するに等しいことになりましょう.けだし,外部的必然性の結果,否でも応でもわれわれがこの重荷を負わざるをえないというのであれば,それを上手にかつ忍耐心をもって負うことにしようではありませんか.

〔後略〕

(☆)紀元前数世紀のユダヤ民族の再興運動の時期.Maccabee家がその中心であった〔引用元における訳注〕

 


「科学的」という修飾語は,説明が科学的でないときにしばしば用いられる

2023-11-15 | 日記

 科学者が自己を「科学者」と称することは,特殊な場合を除いて,ほとんどない.まず概念が広すぎる.それに「科学者」などというと,何か難解で《高尚》なことに関わっているかのようなわるい印象が生じるかも知れず,そんなことは避けたいということであろう.専門分野を問われたときは,あらたまって,たとえば「化学者です」などと答えることもあろう.ただしその場合も,「化(ばけ)学屋です」などと,ちょっと茶化した表現になることもある.

 科学者どうしが論争するとき,(当然のことながら)「どちらが科学的か」を争うわけではない.それぞれの主張内容が具体的に問われるのである.したがって,科学者にとって,詳細な論証を欠いた「科学的」という言葉はまったくの無意味である.

 他方,科学者が自分の主張について,「科学的」であることをしきりと強調する場面もある.それは,何かの事情を背負った科学者が,科学者以外の人々に対して,自分の主張を受け入れさせようとしている場合である.「根拠を詳細に説明してもあんたらには理解できないであろうが,この結論は客観的に正しいものである」と強弁しているのである.

 科学者以外の人が,ある主張を「科学的」と強調する場合もある.たとえば最近,国際原子力機関(IAEA)の年次総会において,日本の「ALPS処理水」の海洋放出に対して中国がその累積的影響に懸念を表明したとき,出席していた日本の閣僚が「科学的根拠」という表現を用いて反論したとのことである.私自身は,海洋放出に大きな懸念を有しているので,この居丈高な《反論》には大いにおどろきを覚えた.

☆ALPS処理水の海洋放出に関連しては,本ブログ記事「ALPS処理水に関するIAEA包括報告書における“2.4 正当化”の内容」もどうぞ.

 自分の主張を「科学的」とだけ強調して,懸念に対する問いかけに誠実に答えない場合は,大きな問題を隠蔽していることが多い.すなわち,「科学的」という修飾語は,説明が科学的でないときにしばしば用いられる.これは私の個人的な経験則として長年運用しているものであるが,うんざりするほどよく当たるのである.

     *

 これに関連して最近,池内了さんの論考(☆)を面白く読んだ.池内さんは科学者である.彼は「ALPS処理水」の海洋放出を批判したのであるが,そのとき「科学的に定めた安全基準を満たしているのだから問題はない.科学者のくせに,科学を裏切っている」との非難を受けたそうである.また,ネット上でも,「処理水の海洋放出に反対する者は科学的ではない」との言辞にあふれている.そこで彼は,「安全基準」と「科学的」という言葉を吟味するのである.ここでは,本ブログ記事のテーマとの関連で,彼の「科学的」についての吟味を紹介しよう.

☆「東京新聞」2023年10月20日夕刊.記事の末尾の記述によれば,池内さんは,総合研究大学院大学名誉教授.

 池内さんによれば,

「科学的証明」と言う言葉が頻繁に使われるのだが,実は科学者はあまりその言葉を使いたがらない.というのは,現在の科学の方法には必ず限界があって,科学によって100%証明できることはほとんどないということを,科学者自身がよく知っているからだ.人々は99%正しければ1%の不足はあっても100%正しいと見なして,「科学の勝利」を宣言しようとする.しかし、科学者はその1%の不足を気に病んで,「科学的証明」と言うことをむしろ恥ずかしく思うのだ.まだ不十分なのに,万全であるかのように言いたくないのである.

すなわち,まともな科学者は,「科学的」という言葉を使いたがらないのである.

 なお,池内さんは「現在の科学の方法には必ず限界があって」と書いているが,これは未来の科学では限界がなくなるということを意味するのではない(また池内さんも多分そのようなことを主張しているのではない).科学の本質は緻密で膨大な実験や観察に裏づけられた理論である.理論とは抽象的なものである.この抽象的な理論を具体的現実に適用する場合,(非常にうまくいくこともめずらしくはないが,他方で)思わぬズレの生じることがある.このズレが,あるとき突如,たとえば致命的な事故として姿を現すのである.

唐木田健一


(続)アフリカの日本人残留児の問題.三浦英之『太陽の子』受賞挨拶から

2023-11-08 | 日記

 三浦英之『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』集英社(2022)についてはすでに本ブログ「アフリカの日本人残留児の問題」で紹介した.報道によれば,この作品は第22回新潮ドキュメント賞の対象となり,10月6日に都内で贈呈式が開催された.

 以下は著者・三浦さんの受賞挨拶の「後半部」である:[1]

     *

 少し話は変わりますが,皆さんは今,自由でしょうか.ここにお集まりいただいている多くのメディア関係者の皆様は自由でしょうか.権威や権力,あるいは所属組織といったものに遠慮したり,忖度したりせずに,おかしいものはおかしいと,自由に報道できたり,発言できたりできているでしょうか.

 今回,私は,私自身の力不足もあって,このアフリカの難しいテーマを,私の所属組織では発表することができませんでした.でも一方で,やはりおかしいと感じてくれた編集者の方々や出版社の方々が,この難しいテーマを書籍として世に送り出してくれた.そしてこの作品に対して,本日,このように,立派な賞を与えてくれ,世に広めてくれた人たちがいました.どうもありがとうございます.

 私はこの一連の連鎖に,この国に脈々と引き継がれてきた文化的な強靭さを垣間見たような気がしています.たとえひとつの方法ではうまく世に問えなくても,別のルートによって,問題を世に提起することができる.この多様性がうまく機能した結果,アフリカにおける日本人残留児の問題は,いままさに社会に提起され,後継企業によって,支援の枠組みに関する話し合いが始まっています.

 小説が読んだ人の人生を変えていくものだとするならば,事実によって物語るノンフィクションというものは,社会や時代を大きく変えていく力があると私は思っています.大切なのはいつだって,勇気であり,誠実さです.〔引用終〕

     *

 『太陽の子』の中では,このテーマに関する三浦さんの企画は所属組織では採用されず,結局アフリカ特派員の彼は解任されてしまうこと,そこで個人的テーマとして,地方勤務の激務の中,早朝および深夜に執筆したことが触れられている.

 三浦さんは朝日新聞の現役記者である.しかしこの問題は,「朝日」に限ったことでも,また新聞業界に限ったことでもないであろう.

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 このブログのテーマとしては余談になってしまうが,同日同会場で小林秀雄賞の贈呈式も行われたとのことである.対象は平野啓一郎『三島由紀夫論』である.平野さんにはデビュー以来注目しているが〔本ブログ記事「平野啓一郎『日蝕』を巡って」〕,彼が長期に渡って三島に関心をもっていたというのは,私には少々意外であった.

唐木田健一


[1] 月刊『創』編集長・篠田博之さんの記事からの引用


一般相対性理論以前でも重力場による光線の湾曲は予測できた!?

2023-11-01 | 日記

 すでにむかしのことになるが,友人に勧められ,一般相対性理論の検証に関わるアーサー・エディントンの観測結果を考察した本に眼を通したことがある.この本はある科学史家によるもので,《その筋》では評判の高いものであった.

 一般に理解されていることによれば,エディントンの観測隊は1919年の皆既日食の際,太陽近傍に見える星の位置を調べることによって,アインシュタインが予測した太陽の重力場による光線の湾曲を検証したとされている.この結果はロイヤル・ソサエティで発表され,新聞がそれを大きく報道することによって,アインシュタインは現在のような世界的有名人となった.

☆私はこの件を,桑木務訳/ハイデガー『存在と時間(上巻)』岩波書店(1960)の訳注で初めて知った.それによれば,アインシュタインの相対性理論が「専門家外に知られたのは,その理論で予言された結果が一九一九年のイギリス天文学者による皆既日食の観測によって実証されて“科学の革命,新時間空間論,ニュートン引力論の顚覆”というロンドンタイムズの大見出しで報ぜられたためで,アインシュタインの相対性理論は世界中にセンセイションをおこした」とある.

 ところがこの本は,エディントンの観測およびその解析結果に疑義を呈していた.その疑義自体は,私は傾聴に値するものと考えた.しかし,気になったのは,その本では,一般相対性理論以前でも,すなわち「古典論によっても重力場による光線の湾曲は予測されるのであって,その値はアインシュタインの予測値の半分である」としていたことである.これには私は大いにおどろいた.

 私の理解では,重力場による光線の湾曲は一般相対性理論によって初めて予測されたことである.そこに古典的理論など出現の余地はない.また,光線の挙動はマクスウェル方程式によって記述されるが,マクスウェル方程式に重力などは現れないし,マクスウェル方程式と重力との相互作用の理論も存在しない.私はこの本の著者の《無知》にあきれ,この話題を数人の友人たちにもち出したこともあった.

 その数年のちのことである.物理の一般書を眺めているとき,「古典論による重力場での光線の湾曲」に相当するらしい議論に出会った.それによれば,半径Rで質量Mの球体に対し,無限遠方から速度vで質量mの粒子が近づいたとする.粒子は球体の表面すれすれを通過するとして,このとき引力により進行方向が曲げられ,再び無限遠方へと去っていくというモデルである(ただし,Mmより十分に大きいとしておく).この場合の湾曲角度θはニュートン力学により計算でき,それはRMv,および万有引力定数Gで決まり,mには依存しない.ここで球体を太陽,運動する粒子を光線に見立てたもの〔v=c(光速度)〕が,古典力学で計算した重力場による光線湾曲の値とされているもののようである.

 一般相対性理論の検証の際,このような《理論》が学界で通用していたとすれば,日食における観測結果を検討するとき,一般相対性理論の予測値が《古典論による予測値》とは有意に異なることを示す必要があろう.それなら,問題の本の著者が《古典論による予測値》に言及するのも当然であって,さきに「著者の《無知》」にあきれた私は,今度はそのような《古典論的予測》を知らなかった自分の無知を大いに恥じることになった.友人たちに自己批判もした.

     *

 そのさらに何年かのちのことである.一般相対性理論に関するアインシュタインの諸論文を集中して読む機会があった.そのとき気づいたのは,アインシュタインは《古典論による予測値》にはまったく触れていないということだった.触れていないどころか,1911年に彼は自己の一般相対性理論にもとづいて,太陽の重力場による光線の湾曲を初めて導出し,その数値を与えている[1]が,それはたまたま,上に述べた《古典論による予測値》と一致するものであった.アインシュタインは論文の中で,この光線の湾曲の「問題を天文学者がとり上げることを強く望む」と書いている.仮にこのとき,天文学者が要請に応え光線の湾曲を正確に測定して,それがアインシュタインの予測値と一致したとするなら,彼の一般相対性理論は検証されたことになったのであろうか?

 実は,このときの予測値には誤りがあり,この論文では「重力場による時計の遅れだけが考慮され,物指の読みの変化を忘れている」のであった[2].1916年に発表された理論(「完成版」)[3]においては修正がなされ,予測する湾曲はそのちょうど2倍の値となっている(☆).

☆アインシュタインの諸理論は,その第1報において,ほぼ完成された形で与えられている.それに対し,一般相対性理論については,論文上でも試行錯誤が見出される.

     *

 あらためて「古典論による重力場での光線の湾曲」について考えてみよう.1910年代の物理学界といえば,すでに特殊相対性理論(1905)が提出されて十分な時が経過している.特殊相対性理論によれば,質点の運動速度は光速度(c)に達することはできない.したがって,光線を運動する質点として扱うモデル,および光速度v(=c)を含む湾曲の値は成立しない.

 また,アインシュタインは1905年の「光量子論」に関する論文[4]の中で,「物理学者が,気体や物体に関して構成している理論的諸概念と,いわゆる真空中における電磁過程のマクスウェル理論との間には,深い形式上の相違がある」ことを指摘している.すなわち,物体の状態は,数は非常に多いにしても,有限の数の原子および電子の位置と速度により完全に決定されると考えられるのに対し,空間の電磁的状態を記述するためには連続的な空間関数が用いられる.そして,その状態を完全に決定するには,有限な数のパラメータでは十分でないとみなされる.マクスウェル理論によれば,光を含むすべての純粋な電磁現象の場合,エネルギーは連続的な空間関数である.他方,物体のエネルギーは,原子および電子といった多数の微小部分に分離して存在する.

 したがって,アインシュタインにとって,光という電磁過程を質点(物体)の運動として扱う《古典論》など,最初から論外であったのである.

唐木田健一


[1] A. Einstein, Annalen der Physik, 35 (1911), pp.898-908. 日本語表現は,湯川秀樹監修/内山龍雄訳編『アインシュタイン選集 2』共立出版(1970)のものを採用した.

[2] 注1における日本語文献32ページの「訳注」.

[3] A. Einstein, Annalen der Physik, 49 (1916), pp.769-822.

[4] A. Einstein, Annalen der Physik, 17 (1905), pp.132-148.