唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

上村由紀子「女主人公たちは一見強要などされることなく地獄を歩む」.まひろ,寅子,そしてリキと悠子について

2024-05-29 | 日記

 上村由紀子はウェブ記事(☆)において,現在放映中のNHKドラマの女主人公たちについて論じている.「光る君へ」のまひろ,「虎に翼」の寅子,そして「燕は戻ってこない」のリキ(理紀)と悠子である.この三つの作品はいずれも女性脚本家(「光」は大石静,「虎」は吉田恵里香,「燕」は長田育恵の各氏)によるもので,社会における女性の選択を中心として描かれている.

☆上村由紀子「『虎に翼』や『光る君へ』が描く“地獄”を歩む女性たち 社会を切り取るNHKドラマの神髄」(2024年5月21日配信)

 まひろはこのドラマ(「光る君へ」)のなかで与えられた紫式部の名前である.彼女は藤原道長とは互いに想い合っていたが,身分違いのために正妻になることができず,「妾であっても一番に愛する.こころはお前にある」との道長の言葉を振り切って彼から離れる.

 寅子は女性として日本で初めて弁護士となった一人であるが,未婚女性であるということでことごとく依頼人から弁護を断られてしまう.そこで彼女は,社会的地位を担保するため,結婚を決意する.

 リキは派遣社員として医療事務の仕事をしている.東京に憧れて北海道から出てきたのであったが,低賃金ではありイメージしていた生活とはまったく異なる.同僚から卵子の提供で金を稼ごうともち掛けられた彼女は,アメリカの生殖医療エージェントの日本支社で面接を受け,莫大な報酬と引き替えに代理母となる選択をする.他方,イラストレーターの悠子は,夫の「自分の遺伝子をもった子供が欲しい」という意を受け,代理母による出産を受け入れる.彼ら夫婦は不妊治療も受けたが,子どもに恵まれなかったのである.

 この記事の著者・上村由紀子は,「それぞれの人生における重大な選択をおこなった4人の女性に共通するのは彼女たちの選択が“一見,強要などされていないこと”である」と指摘する.まひろは北の方にはなれないと知って,自分の意思で道長から離れたのである.寅子は既婚者となって社会的地位を得ようとした.リキは,コーディネーターから「これは人助けでもある尊い行為である」と言われ,その高額の報酬によって現状から抜け出そうとした.また,悠子は「どうするかは悠子が決めてくれていい」と夫から決断を委ねられる.

 上村は,「4人とも本当に望んでいるものとは異なる道を提示され,どうにもならない状況下での決断を迫られ選択をする.これは“自らが選んだ”“自分で望んだこと”との十字架を背負ってその後の人生を歩まざるをえない地獄だ」と書く.各主人公たちには,それぞれの地獄のなかで,どんな未来が託されるのか.上村はその地獄の行きつく先を注視する.

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サルトル『弁証法的理性批判』(☆)より:

ドップ工場の女工が,養うことの不可能な子供の出生を避けるために堕胎術を利用するとき,彼女は自分に課せられた運命を避けるために自由な決断をなすのである.彼女は彼女自身によって彼女が既にあるところのものを実現する.彼女は自由な母性たることを彼女に拒むところの既に下されている宣告を,彼女自身に反して自らに下すのである.〔日本語版第I分冊,pp.279-280〕

☆J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique, Tome I―Théorie des Ensembles pratiques” (1960). 日本語版は『弁証法的理性批判』人文書院(I竹内芳郎・矢内原伊作訳1962,II平井啓之・森本和夫訳1965,III平井啓之・足立和弘訳1973).

人は,このような選択を積み重ねることによって,それぞれ独自の人生をつくっていくのである(本ブログ記事「個人の独自性と幼少期の重要性」).なお文頭の「ドップ」は,R・Dレイン/D・Gクーパー『理性と暴力』(☆)によれば,(フランスの)シャンプー会社である.

☆R. D. Laing and D. G. Cooper, “Reason and Violence” (1964/1971)/足立和浩訳(1973)番町書房,p.170.

唐木田健一

 


「入試ほど公平な制度はない」という話

2024-05-22 | 日記

 このところの報道によれば,早稲田大学の今年の入学試験において,メガネ型端末とスマホとを組み合わせて問題文を外部に送信し,解答を求めるという不正行為があった.この種の不正の「はしり」は,2011年の京大での入試であろう.ここでは,机の下のケータイに設問を手入力し,外部に送信して解答を求めたということであった.

 この京大での事件が報道された数日あと,私は金子務さん(☆)と話をする機会があった.金子さんはこの事件に関し,京大の処置に大変怒っておられた.京大は被害届を提出し,この件を「警察沙汰」にした.しかし金子さんは,これは学内の問題として処理すべきとのお考えであったのだと思う.私自身は,入試の公平性を破壊するこの受験生の行為に怒りを覚えていたので,金子さんのような観点は抜け落ちていた.

☆金子務氏.もと中央公論社『自然』編集長,大阪府立大学名誉教授.『アインシュタイン・ショック(1).大正日本を揺るがせた四十三日間』『アインシュタイン・ショック(2).日本の文化と思想への衝撃』河出書房新社(1981,新装版1991)ほか多数の本の著者.

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 1960年代後半のことであった.私はある一般誌の評論文において印象的な文章に出会った.それは,「入学試験ほど公平な制度はない」というものであった(☆).もちろん,入試がおこなわれる枠組み自体は,決して公平なものではない.たとえば当時,東大入学者の親の年収は慶応大学を抜いて一位になったというようなことが報道されていた.しかしその評論の著者は,そのようなことは十分承知であったのである.

☆私は著者名を記憶しているが,現在ドキュメント上で確認できないので,ここでは触れなかった.この評論は当時多数の読者を有したメディアに発表されたものである.何らかの情報をおもちのかたにはぜひお知らせをいただきたい.

 これに関連して思い出したのは,1966年(1965年度)の東大入試(二次試験)の会場における出来事であった.問題の冊子を配付したあと,試験監督の教官が「問題文に訂正がある」と告げた.会場には緊張が走った.訂正は2個所あった.詳しいことは記憶していないが,ひとつはカンマ(あるいは点)が正常な位置より若干回転しているというもの,他方は文字のひとつがわずかに(1mm程度)上にズレているというものであった.会場内は,(多分)あまりに些細な訂正であったので,若干のざわめきが生じた.この程度の「誤植」であれば,当時の私なら気がつきもせず見過ごしており,結果として何の問題も生じなかったであろう.しかし,私には,入試においてはこれほどまでに気が遣われているのかという印象が残った.

 「入試ほど公平な制度はない」といっても限定は必要であろう.「裏口入学」などは論外としても,たとえば,特定の運動選手たちが優遇されたり,あるいは最近明らかになったことであるが,医学部入試で女子生徒が系統的に不利益をこうむったり,ということが知られている.「入試が公平」といっても,このようなことを含めてのことではない.

 この言葉が当時学部学生であった私に意味したことは,(日本の)社会にはさまざまな選別・評価のシステムがあるが,入試ほどに公平・公正なものではないという警告であった.その後(ご)私は今日(こんにち)まで,「社会人」として若干の経験を積んだが,さまざまな場面でこの言葉を思い出した.そして,イカンながら,その警告がほぼ100%正しいことを確認した.

 数年前のことになるが,東大に推薦入試があると聞いておどろいた.天皇の親戚の少年がその制度を使うのかどうか,といったことがいま一部でゴシップになっているようである.推薦入試は,比較的には公平である入試を社会の不公平・不公正な評価システムで汚染するものとして,私にはとても好ましいものとは思われない.このような制度を推進しようとする人々は,社会におけるさまざまな評価システムがいかに実施され,何をもたらしたのかをしっかりと学ぶべきであろう.

 社会における評価システムがあまり頼りにはならないとしても,実際に立ち入って一緒に仕事をした人々――先輩/上司であれ,同僚であれ,後輩/部下であれ,あるいは取引先であれ,発注元であれ――による評価は,私の経験によれば,フレ幅が比較的に小さい.頼りにすべきはシステムではなく,ともに仕事をする人たちである.

唐木田健一


ピアニストは鍵盤ではなく弦を鳴らす.宮下奈都『羊と鋼の森』とマイケル・ポラニー『暗黙知の次元』から

2024-05-15 | 日記

宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋(2018):

「外村くん,ピアノのタッチって,わかる? 鍵盤の軽さや重さみたいに思ってない? ほんとうはそんな単純なものじゃない.鍵盤を指で叩くと,連動してハンマーが弦を打つ.その感触のことなんだよね.ピアニストは鍵盤を鳴らすんじゃない.弦を鳴らすんだ.自分の指先がハンマーにつながっていて,それが弦を鳴らすのを直(じか)に感じながら弾くことができる.その感じが,板鳥さんのタッチだ」〔Kindle版,81%付近〕

 

マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』紀伊國屋書店(1980):

 意味が,意味をもつところのものと分離している,ということをもっとはっきりと理解するために,洞窟を探検するときの探り杖の用い方や,盲人が杖をつきながら歩くときの杖の使い方を例として考えることにしよう.なぜなら,これらの例では意味と意味をもつところのものとが十分に分離しているし,その上,その分離が次第におこっていく過程をも見ることができるからである.探り杖を用いるとき,だれでもはじめ,杖から指や手のひらに衝撃を感じるであろう.しかし我々が探り杖を使うことになれてくるにつれて,あるいは歩行用の杖を使うことになれてくるのにつれて,杖が手に与える衝撃について我々がもつ感知は,我々がつついている物体が杖と接する点についての感覚へと次第に変化していく.これがまさに,意味をもたぬ感覚が,解釈の努力によって意味のある感覚へと変化する過程であり,またその意味のある感覚が,もとの感覚からはなれたところに定位される過程である.我々は,手の中の感覚を,杖の先にあって我々が注目しているところの意味との関連において感知するようになる.我々が道具を用いる場合にもこれと同じことが言える.手が道具から受ける感触は,道具があてがわれている物体に道具があたえる作用,という形で意味をもち,我々はその意味に注目している.これを我々は暗黙知の意味論的側面,とよぶことができる.意味はすべて,我々自身から遠くのほうへとはなれていくような傾向をもつ.私が暗黙知の第一項と第二項をそれぞれ「近接的」,「遠隔的」という言葉で表現したこと(☆)は,実はこのような事情によって正当化されるのである.〔佐藤敬三訳,pp.27-28〕

☆本ブログ記事では「マイケル・ポラニーの暗黙知

〔唐木田健一による引用〕


和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(1934)より.「倫理」という言葉の意味

2024-05-08 | 日記

 「倫理」という言葉は通常,規範,あるいは規範にしたがう行為に関連して用いられます.この意味では,「道徳」に近い意味をもっています.他方私は,「倫理」は人間関係(「倫」)におけるコトワリ(「理」)という意味で使用しています.すなわちそれはコトワリ(倫「理」)なのであって,私のいわゆる「広義の理論研究」の一環を構成します(☆).「倫理」のこの用語法は,和辻哲郎に由来します.ここでは彼の『人間の学としての倫理学』から関連部分を要約し紹介します.

☆本ブログ記事「倫理的問題の評価において要求される項目

唐木田健一

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 「倫」という中国語は元来「なかま」を意味する.この意味は「精力絶倫」というような用法において現在も生きている.すなわち,「絶倫」とは仲間が絶(た)えること,肩を並べる者がないこと,すなわち抜群を意味する.倫はこのように「なかま」を意味するので,人倫という熟語は人のなかま,共同態,あるいは人類の意味に用いられる.

 「なかま」ということは,単に人を複数的に見ただけではない.そこには人々の間の関係とこの関係によって規定された人々が意味されている.日本語の「なかま」に「仲間」という漢字があてはめられることによっても明らかなことに,「なかま」は一面において人々の中であり間(あいだ)でありつつ,しかも他面においてこのような仲や間における人々なのである.

 儒教の教えに「人倫五常」がある.これは人間共同態における五つの「常」,すなわち不変なるもののことである.これは転変する生活が転変し行くところの秩序,すなわち人々がそこを通り行くである.人間共同態は本来このような秩序にもとづくがゆえに可能なのである.「人倫」という言葉が人間共同態の意味をもちつつ,しかも「人間の道」あるいは「道義」の意に用いられるのはこの事情による.

 もちろん,儒教の「人倫五常」とは著しく異なった人倫の思想も存在する.しかし,そこで異なるのは,ただ共同態の把捉の仕方だけであって,人倫を人間共同態の存在根底から把捉するという根本の態度は変わらないのである.

 それでは「倫理」という言葉は何を意味するのであろうか.理は「ことわり」であり「すじ道」である.だからそれが人間生活に関係させられれば,「理」の一語をのみをもってすでに「道義」の意味をもち得る.ところで,「倫」は一面において人間共同態を意味しつつ,他面においてこの共同態の秩序すなわち人間の道を意味した,だから,「倫理」という熟語では,何ら意味の増大は見られない.ただ,「倫」がすでにもつところの道の意義を「理」によって強調するのみである.だから,「倫理」は十分な意味における「人倫」とまったく同義であるということができる.すなわち,「倫理」もまた人間共同態の存在根底たる道義を意味する.

 以上における「倫理」の意味からすれば,個人的道徳意識を倫理という言葉によって表すのははなはだ不適当である.倫理という言葉は第一に人間共同態に関する.共同態を捨象した個人的意識はこの語とは縁なきものである.第二にそれは人間共同態の存在根底に関する.道徳的判断あるいは評価はこの地盤の上で可能になるのであって,逆にこのような判断や評価が根底となるのではない.そこで我々は,「倫理」という概念を道徳意識から区別しつつ,つくる上げることができる.倫理とは人間共同態の存在根底として,種々の共同態に実現されるものである.それは人々の間柄の道であり,秩序であって,それがあるゆえに間柄そのものが可能となるのである.

〔和辻哲郎『人間学としての倫理学』岩波書店(1934),pp.2-9〕

 


サルトル『方法の問題』より.個人の独自性と幼少期の重要性

2024-05-01 | 日記

 ここに掲載するのは,サルトル『方法の問題』J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)の「三 前進的-遡行的方法」の一部についての紹介である.文章は平井啓之訳の日本語版『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)に依拠するが,私による逸脱も存在する.文中の〔○○頁〕は,この日本語版における対応ページである.また,小見出しは私が便宜的に付した.

唐木田健一

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投企

 どんな行動も,それを条件づける現存の諸因子と,それが誕生させようと試みている来たるべき対象物とに同時に関連させて決定される.行動のこの構造は投企と呼ばれるものである〔103下頁〕.

 

個人の独自性と幼少期の重要性

 幼少期とは,家族集団を通して我々の階級的・社会的立場を習得することであり,それから我々を解放しようとするぎこちない努力である.ここでは習得も解放も一つのことである.子供は期待される状態に照らし,それを受け入れ,それに反抗し,現状をのりこえて自己をつくっていくからである.そして,こののりこえの努力は,ついには性格という形で我々のうちに残存する.習得された仕草や役割の根源が見出されるのは幼少期においてである.ここにおいては,我々の最初の反抗が残した痕跡,息が詰まるような現実をのりこえるための絶望的な試み,およびその結果として生じる偏向・性格のねじれが見出される〔112下頁〕.

 仕草と役割はのりこえながらしかも保持されて,投企の内的彩色とでも呼べるものを構成する〔117下頁〕.我々は,我々の根源にひそむ偏向とともに思惟するであろうし,この習得されしかも拒否したいと願っている仕草とともに行動するであろう〔113上頁〕.この彩色は,主観的には好みであり,その個人的スタイルをなすものであるが,それは我々の根源的な偏向ののりこえ以外の何ものでもない.こののりこえは瞬間的運動ではなくて長い仕事である〔118上頁〕.それは方向づけられた投企,行動による人間の独自性の確証としての投企であり,同時に,何事にも還元できず,何事からも演繹できないという意味で,所在をつきとめることのできない霧のような非合理性である〔119下頁〕.

 このように,我々は絶えず自分の階級的・社会的立場をのりこえると同時に,こののりこえ自体を通して自己の階級的・社会的現実があらわれるということができる〔113上頁〕.このことは物質的条件が,考察の対象である意識態度について十分には〈決定的〉でないということを意味しない.それどころか,それ以外にいかなる因子を加える必要もないと言って差し支えない.ただし,それは,物質的条件が人間の投企を通して生み出す事象の相互作用を,あらゆる水準において究めるという条件づきでのことである〔116下頁〕.

 この観点からすれば,すべての行為はピラミッド状で段階を異にする多種多様な意味をもっている.このピラミッドにおいては,下層のより一般的意味が上層のより独自的かつ具体的な意味のための枠の役割をつとめる.そして,この上層の意味は下層の枠の外へ決して出ることはできないが,それをその枠から演繹したり,その枠内に解消したりすることはともに不可能である.人間の具体的性格を経済的運動の枠の中で究めることは重要であるが,同時にその独自性を見失わないようにしなければならない.こうすることによってのみ,我々は全体化のことを考えることができるであろう〔114上-114下頁〕.

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Kコメント:

 上には,投企における「所在をつきとめることのできない霧のような非合理性」なる表現が出てくる.理論科学として,無用な誤解が生じないよう,コメントを付しておきたい.

 投企とは,与えられた条件(「現存の諸因子」A)をもとに,ある目的(B)を達成しようとする企てのことである.サルトルのいう「非合理性」は,ここでB(上層)はA(下層)から論理的に演繹することはできないし,またBをAに還元することもできないということを意味する.すなわち,「何事にも還元できず,何事からも演繹できない」.これこそが行為者の独自性を表わすのである.

 なお,本記事に直接関連しては,「サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」参照.

〔本稿了〕