唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

ノーベル賞,文化勲章,文化功労者

2021-10-27 | 日記

ノーベル賞で「日本人」受賞者が出たときの報道のバカバカしさにはいつも辟易していますが,今年(の物理学賞)は日本国籍を離脱した人物だったので,若干のおもしろい場面も見ることができました.首相の岸田が「日本にとっても大きな誇り」といったそうです.

今年のノーベル賞はこのように比較的には静かに過ぎましたが,そのあとの文化勲章,文化功労者の選抜に関しては,いつも通りのバカバカしさに接することとなりました.

ここに掲載するのは,物理学者の社会的責任サーキュラー『科学・社会・人間』115号,2011年1月25日に掲載されたものです.

 

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ノーベル賞!

唐木田健一

 

 これまでは,あまりにバカバカしいこととして「蔑して」遠ざけてきたが,このところ少々私の気分が変化してきたので,ここに論じてみたい.いわゆる《権威ある賞》についてである.

 最近,日本人2名がノーベル化学賞を受けた.今回私は,テレビの報道番組などで関連の話題が出たときは,「蔑遠」することなく,しっかりと視ることにした.その結果あらためて確認したのは,人々は《偉業》を讃えているが,その《偉業》とは「ノーベル賞の受賞」ということなのであった.これは「ノーベル賞騒ぎ」の本質をよく表している.

 偉業なるものが仮に存在するとしたら,(今回の場合)数十年前になされた研究がそれにあたるはずである.しかし事態は逆転している.その研究成果は,受賞によって偉業へと昇格したのだ.これはおかしなことである.何年か前,日本の会社員がノーベル化学賞を受けたことがあったが,そのとき受賞者は「ノーベル賞に決まったからといって私の能力が上がったわけではない」という趣旨を発言していたと記憶する.これは上述のおかしさに通じるものである.

 国際的な運動競技大会でのメダル騒動もノーベル賞騒ぎ同様バカバカしいものである.しかし,こちらのほうは,その大会での実績とメダル獲得とは直結している.ノーベル賞の場合のような乖離はない.ノーベル賞では,まずは御当選が偉業なのであり,めでたいのである.

 化学でも,物理学・医学においても,その中のさらにそれぞれの分野の専門家に「現在生存している研究者の業績で,世界的な評価に値するもの」をリストしてくれるよう依頼したら,(「いくらでも」というのは大げさと言われるかも知れないが)いくつも挙げてくれるであろう.各専門分野において(ノーベル賞候補程度の)よい仕事など,めずらしいものではない.とくに最近では,あとになってたまたまその関連分野が世界的流行になったとか,受賞者とは関わりのないところで有力な用途が見出されたといったことが受賞のきっかけになっていることもある.

 「ノーベル賞の自然科学部門では(いくつかの例外は別として)概ね妥当な人が受賞している」としてノーベル賞を擁護する人もいる.しかし,そんなことは当然で,世界中には「妥当な人」が多数存在し,その中から受賞者が選ばれたということに過ぎない.だからこそ御当選がめでたいのである.そして当選者を選ぶのは,北欧の王国のアカデミーや研究所である.

 ノーベル賞の選考過程は秘密ということになっているが,当選のための運動や働きかけ(あるいは当選させないための運動や働きかけ―これは最近の中国政府のような開けっ広げのものをいっているのではない)が相当な影響力をもっているらしいことはよく知られている.今回もノーベル賞をめざして北大が組織的に国際的な広報活動をしたことが,肯定的に報道されている.

 受賞者本人やその血縁・地縁関係者・同窓生が当選を喜び,また商売第一のマスコミが仰々しく騒ぎ立てても,私としてとくにミズをさす気はない.しかし,多数のすぐれた業績を知る学会では,このような賞に対し(私のように「蔑遠」する必要はないのかも知れないが),少なくとももっと距離を置いたほうがよい.そうでなければ,すぐれた業績を有する多くの人たちに対して失礼(不公正・不公平)である.レッキとした研究者が,当選者を当選者ということでありがたがっているようでは,学者としての資質が疑われる.

 ノーベル賞は,平和賞(や文学賞)をみれば露骨に明らかなように,その運営団体の強力な自己主張の行為である.この自己主張に費やされている莫大な費用は,(よくは知らないが)企業経営者アルフレッド・ノーベルの遺した私財がもとになっているのであろうから,自己主張の中身はともかく,自己主張の行為そのものは私が口出しすべきことではない.最近ではノーベル財団のほかに,スウェーデン国立銀行が関与しているらしい(経済学賞)が,いずれにしても私とは関わりがない.他方,同様な自己主張の行為に,私の支払う税金が関与するとなれば話は違ってくる.たとえば,日本の文化功労者や文化勲章である.

 ノーベル賞についてすでに述べたので,文化功労者や文化勲章受章者の選択に関するバカバカしさにはもう触れない.ここでは金(カネ)のことだけ問題としたい.文化功労者や文化勲章受章者はほとんど,(本人の《主観的》評価は別として)恵まれた社会的地位あるいは境遇にある人たちである.また,当選対象となった業績は,その地位あるいは境遇における業務としてなされたものである.さらに,これらの人々はすでに,経済的にも恵まれていると推定される.ところが,文化功労者およびその中から選ばれる文化勲章受章者には,350万円の年金が支払われるとのことである.これは大金である.

 日本現代史研究で貴重な仕事をした友人が先ごろ亡くなった.65歳だった.ある追悼文では,「市井の研究者がひっそりと亡くなった」と表現されている.私が知り合いになったのは比較的に最近のことであるが,そのときすでに彼は厳しい闘病中で,同時に積極的な研究活動を継続していた.生計を立てるための仕事(研究ではない!)が病気のため不可能となり,生活保護を受けているとのことであった.彼がもっと長生きしていたら,文化功労者や文化勲章受章者になっていたであろうか.彼自身も,また彼の友人たちも,そんなことは思いもしなかったであろう.それはもちろん,彼の友人や彼自身が,彼の仕事を低く評価していたからではない.文化功労者や文化勲章受章者とはどんなものか,みんなよく知っていたということに過ぎない.こんな顕彰制度は,何もかも恵まれた人に対する政府によるバラマキとして,即刻廃止すべきであると思う.こんな制度は,すぐれた業績を有する多くの人たちに対して失礼である.

 それにしても,ノーベル賞などというバカバカしいことひとつとっても,我が師ジャン=ポール・サルトルは立派であった.彼がノーベル賞を拒否したのは,1964年10月のことであった.

 ついでに付け加えておけば,その翌月に日本の首相に就任した佐藤栄作は長く政権を担当し,退任後の74年にはノーベル平和賞に《輝いた》.

(2010年10月27日)

 


1968年における日大不正経理問題と日大闘争

2021-10-20 | 日記

日本大学の理事の一人がこの10月7日に背任で逮捕されました.この人物は,「日大のドン」と呼ばれる権力者=理事長の最側近とのことです.当の理事長の逮捕を観測するメディアもあります.「日大闘争」として知られる50数年前の日大全共闘による激しい闘争の発端もやはり金に関わる不正の問題でした.日大経営幹部の体質はむかしと変わりがないようです.

テレビの報道番組で,日大の若干の学生たちに対するインタビューを見ました.いずれもあきれたり,しらけたりはしていましたが,怒りの表明はありませんでした.経営幹部とは異なり,学生のほうはずいぶんと変わってしまったようです.

本ブログでは,唐木田健一『1968年には何があったのか』批評社(2004)の17章にもとづき,次の記事を掲載します.文中の日付はすべて1968年10月を現在時としたものです.

 

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17.日大闘争

 

 10月4日(金)

 今週の月曜日(9月30日),学生たちがねばり強く果敢に闘争を展開してきた日本大学で,ついに大衆団交が開催された.場所は両国の日大講堂.ここは確か,もとの国技館だ.

 会場には日大全共闘の学生ら約1万人,周辺には支援の学生約2万5千人とそれを妨害しようとする体育会系など約800人が集まったそうだ.団交は午後3時からはじまり翌日の午前3時まで続いた.古田重二良(じゅうじろう)・日大会頭は,

6月11日,経済学部で体育会系暴力学生をつかって学生を弾圧したこと,大衆団交を放棄したこと,機動隊を導入し仮処分を執行したこと,は間違いであり徹底的に自己批判します.

という文書を読みあげて署名し,また理事たちも次々と立って辞任を宣言した.よくは知らないが,「会頭」というのは日大組織の頂点のポジションらしい.

 学生たちの大勝利にみえた.学生自治権の確立,体育会の解散など,4項目と付帯1項目の「確約書」に署名がなされた.

 以前,友人の寮で会った日大の学友は,「不正に頭にきて本当に思いがけず学生運動に飛び込んだ」と語っていた.彼は「古田を殺してやりたい!」とまで言った.今回は多分,彼も若干なりとも鬱憤が晴れたことであろう.

 この大衆団交の様子は,テレビ・新聞で大きく報道され,世間には大きな衝撃となったらしい.早速翌日の閣議では首相の佐藤栄作が問題にしたということだ.佐藤は「日本会」とかいう不気味な名前の団体を通じて古田とは親しいらしい.

 これに影響されてかどうかは知らないが,古田会頭はこの3日に再開を約束していた大衆団交を拒否し,また署名した「確約書」の破棄を宣言した.そして,きょう,秋田明大(あけひろ)・日大全共闘議長をはじめとする学生8人に逮捕状が出された.何ということだ!

 日大闘争の発端は,金にまつわる不正という実に明瞭なものだった.教授が裏口入学の斡旋で得た金の脱税問題とか,会計課長が蒸発したとか,過去いろいろ報道はなされてきたが,今回の紛争の直接のきっかけは,今年の4月15日に東京国税局によって摘発され発覚した使途不明金20億円の存在であった.これは,(多分,古田を含む)日大幹部のヤミ給与となったらしい.

 4月18日,教職員組合は古田会頭をはじめとする全理事の辞職を要求した.また,経済学部・短大経済学部の学生を中心として,広範な学内民主化闘争が開始された.

 5月23日には日大開学以来初めてといわれるデモが敢行され話題となった.また,同月27日には各学部から約7千名が集まって全学共闘会議が結成され,全理事の退陣,経理の公開,大衆団交の要求が掲げられた.

 この間,私などが新聞記事でしばしば目にしたのは,全共闘や集会参加学生に対する体育会系学生の襲撃だった.6月11日,経済学部前で開催された約1万人の全学総決起集会にも体育会系学生が殴り込み,負傷者百人を越す流血の事態となった.これは,上に引用した「自己批判書」に触れられている事件だ.

 各学部は,6月12日の経済学部をはじめとし,次々とストライキに突入した.大学当局は,学生からの繰り返しの要求にも関わらず,大衆団交を拒否し続けた.全共闘は各学部の建物および本部を封鎖・占拠した.

 9月4日,当局の申請にもとづく東京地裁の仮処分が執行され,本部および経済学部・法学部に機動隊が導入された.占拠中の学生は投石などで抵抗したが,132人全員が逮捕された.しかし,全学の学生・教職員はこの強制執行に強く反発した.全共闘は抗議集会を開き,その日のうちに経済学部および法学部を再占拠した.

 このあと,機動隊導入による学生排除-再占拠が何度か繰り返された.9月12日の全学総決起集会には約2万人が参加し,大デモを行って,白山通りで機動隊と衝突した.このとき154人が逮捕されたが,法・経の建物は奪還した.

 9月19日には最後に残った医学部がストライキに入り,11の全学部のストライキ体制が確立した.24日には本部も再封鎖された.こうして,日大全共闘は9月30日の大衆団交を迎えたのである.

 テキはさすがに汚いししぶとい.ただ,こんなことは最初からわかり切ったことだ.闘いはもちろん,これからである.

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 今年の4月15日に東京国税局が日大の使途不明金20億円を摘発した際,それが記事にならぬよう各紙に働きかけた有力者たちがいたという.その一人が日大出身の池田正之輔・自民党代議士だ.池田代議士は自民党の福田赳夫・幹事長の派閥の重鎮であり,日大の古田会頭はおそらく彼の重要後援者の一人である.この池田代議士が6月25日,日本通運からの収賄容疑で起訴された.「日通事件」はついに政権与党に結びついたのだが・・・・・.

 東京地検が日本通運本社の手入れを行ったのは今年の2月だった.業者から約3億円のリベートを受け取ったという管財課長が逮捕された.さらに,3月になっての東京地検の発表によれば,日通の役員たちは金の延べ棒を購入し,決算期毎に金杯などを作って無申告所得として山分けをしていたという.どこかの大学と同じ「ヤミ給与」である.また,管財課長の受け取ったリベートは5億円にものぼるらしい.そして,4月8日,日通の福島・前社長および西村・前副社長が業務上横領容疑で逮捕された.福島は今年の1月に社長を辞任していた.

 日通におけるヤミの資金が政界工作に用いられた可能性はずいぶん以前から指摘されていた.そして,6月4日,東京地検は社会党の大倉精一・参議院議員を逮捕した.容疑は日通の「米麦独占輸送問題」に関しての200万円の斡旋収賄だった.本人は容疑を否定した.

 大倉議員は日通の労組出身ということだから,日通との関係は当然深いであろう.ただ,意外なのは,逮捕者が社会党議員一人だけということであった.日通と自民党との関係を考えれば,きわめて理解しにくい事態だった.参議院選挙(6月13日公示,7月7日投票)を前に社会党は明らかに苦境に陥った.

 6月25日,大倉議員が拘置期限を迎える日に,東京地検は前日家宅捜査をしたばかりの自民党・池田正之輔代議士を在宅のまま起訴した.容疑は日通からの300万円の収賄だった.大倉議員のほうは逮捕のまま起訴された.同じような収賄容疑なのになぜこのように扱いが違ったのか?

 8月の末から9月のはじめにかけて,興味深い事実が明らかにされた.日通の前社長らが逮捕された10日ばかりあとの4月19日,新橋の「花蝶」という料亭で,井本台吉・検事総長が自民党の福田幹事長および池田正之輔代議士と会談したというのだ.検事総長は「すべての検察庁の職員を指揮監督する」検察最高の地位である.その人物が,約2カ月後に起訴されることになる人物と会食をしていたのだ.

 この会食のホストは,井本検事総長で,彼が去年の11月検事総長に就任するに際し,池田の尽力を得たその返礼とのことだった.この池田の「尽力」なるものは本当のことらしい.だから,こんな会食など何も問題にならないということにはならないであろう.逆に大問題ではないか.

 また,井本検事総長は群馬県出身で福田幹事長とは同郷であり,二人は学生時代からの友人であったらしい.福田が大蔵省の主計局長だったとき,「昭電疑獄」(1948年)に関わって収賄容疑で逮捕されたことはよく知られているが,このとき弁護人を務めたのが井本・現検事総長だったということだ.

 大倉議員と池田代議士という二人の被疑者に対する検察の不可解な扱いの違いも,私にはこの与党幹部と検事総長との関係でとてもよく理解できた感じがした.


2022年2月21日追記:

すでによく知られたことであるが,日大理事長・田中英寿は2021年11月29日,所得税法違反容疑で逮捕された.田中は当時の体育会系学生であった.

上の文中に出現する自民党幹事長・福田赳夫はその後首相となった.赳夫の息子・康夫も(現在では)元首相である.ついでながら,康夫の息子・達夫は衆議院議員で現在自民党総務会長である.


1968年11月の東大文学部「無期限団交」のこと

2021-10-14 | 日記

最近刊行された私の『科学・技術倫理とその方法』(緑風出版)の2章の4では,山本義隆氏(当時東大全共闘代表)による丸山真男批判を扱い,関連して1968年11月の東大文学部における「団体交渉」について触れました.本ブログでは,唐木田健一『1968年には何があったのか』批評社(2004)の25章にもとづき,次の記事を掲載します.文中の日付はすべて1968年11月を現在時としたものです.

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25.文学部無期限団交

 11月10日(日).

 総長事務取扱の加藤法学部教授はきょう初めて評議会を招集し,信任投票を行って,総長代行に就任したという.「紛争」解決のために責任と権限を強化したいということらしい.

 いまマスコミは文学部の大衆団交のことで大騒ぎをしている.新任の林健太郎文学部長がこの4日以来学生たちによって監禁されており,人道問題であり人権侵害であるというのだ.学生たちが誹謗中傷の的となっている.いつものパターン―暴力学生キャンペーン―だ.

 新聞報道によれば,林教授の「友人有志」という13人の《文化人》が「緊急の訴え」なる文書を発表している.作家・三島由紀夫も名を連ねていた.三島はまぁよいとして,この13人の中には東大の教授と助教授が一人ずつ加わっていた.彼らは一体どこを見て何を考えているのか.自分たちの勤務先の問題ではないか.

 この団交は学生と教官双方の合意で4日の午後10時から開始された.300人近くの学生に対し教官側も林文学部長をはじめとする約40人が出席した.ただ,話は平行線をたどり,一向に進展しなかった.教官たちはダウンしたとして次々と退出し,一昨日の8日にはついに林学部長とY助教授の二人だけとなった.

 この8日の午後,全学の教官約300人が団交が行われている文学部の建物の前に集まり,

「林学部長を即刻釈放せよ」

「諸君はそれでも学生か.理性を取り戻せ」

「大学は,人権は,理性は暴力に屈しないぞ」

 などとシュプレヒコールをしたと報道された.また,伝えられるところによれば,この集団をリードしていた教官は,

「皆さん,恥も外聞も忘れて,大声で抗議しましょう」

 と言ったそうだ.そう,あのお品のよい方々は通常は絶対こんな振る舞いはしないのだ.そして,《お集まりの皆さん》は,30分もしないうちに,

「教授の皆様御苦労様でした.さあ引き上げましょう」

 というアナウンスでさっさと帰って行ったとのことだ.

 この教官の集団には,著名な政治学者である法学部の丸山真男教授の顔も見えたと言われる.丸山教授といえば,この8日付で,全学の教官約50人の名前が入った「学生諸君に訴える」という文書が発表された.

 十一月四日以降文学部二号館において行なわれているいわゆる「大衆団交」は,一定の主張をおしつける目的をもって学部長・評議会その他の教授助教授を監禁状態のもとにおき,既に四晩を経過しています.これは,話し合い─そもそもこれを話し合いと呼びうるとは毛頭思われませんが,仮にそう呼んでおくとしても─のあり方とはとうてい考えられず,基本的人権の重大な侵害にほかなりません.

 ことは生命の危険の問題に局限されるものではなく,たとえいかなる待遇がなされていようとも,そもそも人を監禁状態において会見を強要すること自体が,許すべからざる暴挙であります.それはたんに理性の府としての大学にあるまじき行為であるのみならず,何よりもまず争う余地のない人権の蹂躙であります.かような行為を大学において敢えてするということは,文字通り大学を日本国憲法の及ばない無法地帯とする暴挙であり,私共は大学人として断じてこれを黙視することはできません.

 私共は,このようなことを行なっている学生諸君に対して強く抗議し,一刻も早く監禁を解くことを要求いたします.そして,その他の学生諸君に対しても,諸君の人権感覚をよびさまし良心の命ずるところに従ってただちに勇気ある行動をとるよう訴えます.

 この文書の署名者の一人が丸山教授だった.私は全共闘には丸山教授の過去の諸著作に敬意を表している人たちが多いことを知っている.彼らは今いかなる感慨を抱いているのであろうか.

 今回の大衆団交に先立って文学部ではいろいろなことがあった.大河内執行部の総退陣のあとの11月2日に,文学部の学生委員長(教授)は新しい学部長を選出する前に大衆団交を行うと学生たちに約束した.しかしながら翌3日,文学部は教授懇談会なる名前で,この約束の一方的な破棄を通告した.そして,4日の早朝,秘密教授会において林学部長をはじめとする新執行部が選出された.団交が開始されたのはこの日の夜だった.

 林教授は右翼的タカ派の論客として知られている.このような時期に彼のような人物を学部長に選出した文学部教授会の覚悟と見識はなかなかのものである.それに,林教授は確かこれまで文学部の評議員だったはずである.責任をとって辞任したはずの評議員が学部長に御出世なのか!?

 団交における学生たちの追及の中心は「文学部処分」の問題だった.「文学部不当処分撤回」は全共闘の七項目要求のうちの一つだった.

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 文学部には,「相互の理解を深め,文学部学生の教育,研究,自治活動に関する種々の問題につき協議」する機関として,十数年来「文学部協議会(文協)」という会議体があった.教授会・助手会・学友会(学生自治会)から構成された.ここ数年,文協の開催は公示され,公開の場として,委員でない学生も傍聴できた.

 文学部の学友会はそれまで民青によって支配され,彼らは教授会に彼らの個別要求を認めさせる場として,文協を利用してきた.しかしながら昨年6月の選挙で,委員長を除く常任委員全員がこれまで反執行部として活動してきた学生たち(革マル派系)に代わった.すると教授会側は,文協をオブザーバー抜きで正式の委員だけで開催すること,それ以外は文協とは認めないということを通告してきた.その後数度の機会にわたって教授会と学友会との間では激論が続いた.

 昨年の10月4日,約2時間の議論のあと,教授側の委員は「教授会の時間なので退出する」といって腰を上げた.学生側は,それを止めて,「次の日時を答えてほしい」と要求した.教授側の委員5名はそれに応えず,「それ!」という掛け声とともに入口に殺到した.付近の学生たちは,抗議しつつそれを阻もうとしたが教授たちの勢いにおされ,(現在の文学部ストライキ実行委員会の表現によれば,)「全員の退出を許してしまった」.このときの揉み合いが処分の対象となったのである.

 その2カ月余りあとの12月22日,文学部は山本学部長名で哲学科4年のNさんの停学処分を発表した.それによれば,NさんがT助教授─この人は教授たちの退場のとき先頭にいたらしい─の「ネクタイをつかみ暴言を吐くという非礼をおかし」「学生の本分に反する行為があった・・・・・」ためということだった.この処分には期限が明記されていなかった.無期停学である.

 Nさんはネクタイをつかんだという事実を否定した.逆に,学友会は,「T助教授がNさんの胸ぐらをつかみながら外に出たため,Nさんは助教授の手を払いつつ廊下で抗議をした」と主張した.

 文学部学友会は処分撤回闘争に立ち上がったが,当局は何ら交渉に応ぜず,また処分再検討の姿勢も示さなかった.今年の3月になって例の医学部の大量処分が発表されると,学友会は両処分の類似性を明らかにし,医学部と連帯して,卒業式・入学式の闘争を展開した.6月の機動隊導入以降,文学部学友会は全学の先頭に立ち,6月26日より無期限ストで闘っていた.

 ところが,興味深いことに,今年の9月になってNさんの無期停学は突如文学部教授会によって解除されたのである.理由は「教育的配慮にもとづく」とのみ説明された.退学や無期停学が解除されることはめずらしくない.ただ,それは当人が十分に謹慎改悛の情が顕著な場合だった.一方,Nさんは,6月には文学部の学生大会で議長に当選するなど,処分後も大活躍だった.処分解除の理由など皆無だった.

 文学部教授会は,処分を解除することによって,それを既成事実化したのだろう.解除されたのだから撤回の必要はないという理屈だ.

 医学部処分はこの11月1日に撤回されたが,その理由は,(1)本人からの事情聴取をしなかったこと,(2)紛争の最中に一方の当事者である医学部の教授会がもう一方の当事者である学生を処分したため「政治的処分」と受けとられてもやむを得ない面があったこと,(3)教授と学生の間の不信の溝は深く大学の処分としての教育的意味を持ち得なかったこと,であった.

 文学部処分においても(2)と(3)は明らかにそのまま成立する.問題は(1)である.文学部教授会は,事情聴取はちゃんと行ったのであり,そこが医学部処分と違うところだと胸を張っているらしい.

 処分に先立ち,Nさんは数度にわたって教授会に呼び出された.彼が謝罪しない限り文協は閉鎖すると言われたからだ.Nさんは呼び出しには応じ,事件の捏造と文協閉鎖への動きに抗議した.これに対し教授会は,「反省の色がないと罪が重くなる」などと脅した.この一連のやり取りをもって文学部教授会は「事情聴取」と称しているらしい.

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 文学部団交初日の4日は午後の10時に始まって徹夜し,翌日の午前8時頃まで続いた.5日は休憩のあと,午後8時から翌日の午前1時頃まで.6日以降は,テキがだんまりの戦術を採用していることもあって,日に1~2時間程度の追及の模様.きのうの9日は医師の診断だけで終わったらしい.

 このような交渉の仕方は無論変則であると私は思う.しかし,教授たちはこれまで,話し合いに応じた場合でも,途中で逃亡しその後一切姿を見せないということが余りに多かった.このような人たちを相手に交渉を続けるには,常に相手に居場所を明確にしておいてもらう必要があるだろう.解決しなければならない問題の存在は明らかなのであって,教授たちはそれに大きな責任を有しているのである.

 それに教授たちはいままで,学生が話し合いを求めているといって学生の前に姿を見せ,二つ三つの質問に答えれば義務が果たされるかのように勘違いをしていたように思われる.我々は当初から,ともかく先生たちに話を聞いてもらえば気が済むなどと考えていたわけではなかった.我々は単に問題の論理的解決を求めているのである.私には妥協はあり得るように思われた.しかし,それはあくまで筋が明確にされたのちの話であった.

 それにしても,文学部団交に対するマスコミの非難キャンペーンが激しくなったときにノコノコ現れ,「暴挙」だとか「人権侵害」だとかいう教授たちの学問とは一体何なのだろう.

 「恥も外聞も忘れて」シュプレヒコールをした教授や「良心の命ずるところに従ってただちに勇気ある行動をとるよう」「その他の」─すなわち闘っていない─学生に訴えた教授たちは,これまでなぜ事態を黙視してきたのか? これまでは立場上言えないこともあったということなのか.それなら私にはわからないこともない.そして,今回は勇気を出して行動したということなのか,それとも今度は立場上言わなければならないことになったということなのか?

 よく考えてみれば─あるいは別に考えてみなくても─彼らは実に重要な立場にある.だから,立場第一とすればそれもわからないわけではない.むしろ,その立場自体が問題だと考えるべきなのであろう.

☆本記事に関連しては,「1968年10月の東大理学部“大衆団交”のこと」も参照して下さい.


「マックス・ヴェーバーの犯罪」と佐伯真光・山本七平論争:「続」反倫理の生態

2021-10-07 | 日記

この10月4日付で刊行された私の『科学・技術倫理とその方法』(緑風出版)の2章6では,「『反倫理』の生態」として,浅見定雄の分析にもとづき,『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサン(=山本七平)の生態を扱いました.ここでは,その「続編」として,「佐伯/七平論争」を紹介します.これは,唐木田健一「『マックス・ヴェーバーの犯罪』事件」,橋本努・矢野善郎編『日本マックス・ウェーバー論争』ナカニシヤ出版(2008)第5章の一部にもとづくものです.なお、ブログ掲載にあたっては形式上の変更がなされていることをお断りしておきます。

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1.「知的誠実性」を論じる知的不誠実

 2002年9月に羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪―「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』という本(以下「羽入本」と略記)が刊行されている[1]。著者は東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻博士課程の1995年の修了者である。一般的にみればこの本は、自然科学分野の対応物としては、たとえば「アインシュタインは間違っていた」といったいわゆる「トンデモ本」のカテゴリーに属し(☆)、その限りの扱いですむはずである。しかし、社会学者・折原浩は継続的に、この本を徹底的かつ緻密に批判している[2][3][4][5] (また、北海道大学経済学部の「橋本努ホームページ」における「マックス・ウェーバー 羽入-折原論争の展開」も参照)。

☆ただし、この本には著者《独自》の立場からの事実の調査が含まれており、その点では自然科学に関わる多くの「トンデモ本」との違いがある。とはいえ、問題は、せっかくの調査された事実がどう用いられるかにある。

 私にはここにおける折原の姿が非常に危ういものに思われる。折原自身すら自己を「飛んで火に入る夏の虫」や「“火中の栗”を拾おうとしていること」にたとえてもいる(☆)。この折原の危うさは、私には現在の日本における学問の危うさと重なって見える。

☆ただし、「“栗”とは何か。羽入の論難に対応するヴェーバー側の歴史・社会科学、その“言葉・意味・思想・エートス論”を、それだけ鋭く、鮮明に描き出すことか。そうではない。それは比較的容易で、“火中の栗”ではない。むしろ、羽入による論難の射程を論証することによって、知的誠実性を(ヴェーバー断罪の規準とするほどに)重んずる羽入自身が、疑似問題で“ひとり相撲”をとったと知的に誠実に認め、捲土重来を期して学問の正道に立ち返ることである。批判や抗議であれば、短絡的速断と罵詈雑言ではなく、非の打ちどころのない学問的論証に鍛え上げることである」。注[3]の文献、48-49頁

 断っておくが、危うさとは、折原の主張が説得力に欠けるとか、あるいは論争において折原が危ういなどといったことではない。まるで逆である。これを仮に《勝負》と呼ぶなら、すでにその結果は明らかである。折原は強力である。私が危ういというのは、折原ほどの人物が、タイトルからして際物であることが明らかなこんな著作を、なぜ懸命になって批判しなければならないのかという点にある。

 折原は高名な「ヴェーバー学者」である。したがって、彼による羽入本の批判は、表面だけをとらえるなら、いわば「赤子の手をねじる」ような大人げない行為(もっと悪く言えば権威者による若手の弾圧)に見えることであろう。あるいは、ヴェーバーという「偶像」を破壊する《若き知性》の出現に、業界のボス(すなわち折原)が利権擁護の強迫観念に取りつかれて反応しているというレッテルを貼り付けることもできる。また、折原に対しては、比較的に専門の近い人から「羽入本は反論にも価しないものであり、“自然の淘汰”に委ねればよい」という趣旨の意見も寄せられたそうである。

 羽入本では、ヴェーバーが「犯罪者」「詐欺師」「知的不誠実」と非難されている。仮にこの主張が正しいとするなら、ヴェーバー研究者は「詐欺」の片棒を担ぎ、ヴェーバーの「欺瞞」を世に広めて害毒を流してきた「犯罪加担者」ということになろう。これは、ヴェーバー研究者としては、放置しておいてよい問題ではないというのがまずは折原の立場である[4:29-30頁](☆)。

☆これに対し、たとえば『マックス・ヴェーバー入門』岩波書店(1997)の著者・山之内靖は、「論争にも、また、羽入氏の議論にも、まったく関心がありません」とし、「(いま自分を捉えている)巨大な課題からすれば、所詮はヴェーバー研究者の間で強迫観念的に語られるに過ぎない倫理性だの知的誠実性など、時間を割くにはあまりに小さい問題なのです」と書いている。この応答は「橋本努ホームページ」(上述)のコーナーに掲載されている。

 また、羽入本は、自称「文献学」にもとづく一見緻密な「論証」を多量の自画自賛をまじえて自信たっぷりに展開しており、ヴェーバーの原文あるいは訳文と照合しながら読まない限り、一般の読者は誤導されやすい。したがって折原は、問題点を逐一指摘し、羽入による誤読・錯視・曲解を検証していく作業は、他の「誰にも転嫁できない、優れて専門家の責任とされざるを得ないのではないか」と書いている[4:94頁](☆)。それに、日本の社会および大学の現状は、奇態な主張が「淘汰」されるどころか、「悪貨が良貨を駆逐する」ことをより懸念すべき事態にあると思われる。

☆専門家の責任といっても、別に折原のみが専門家であるわけではない。折原は、「中堅」や「新進気鋭」のヴェーバー研究者たちに「遠回しに反論執筆を促した」が思わしい手応えがなかったことを記して「苦言を呈して」いる。注[4]の文献、25-26頁。

 羽入本のもととなった論文は、東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻の課程において、修士および博士の学位を授与されたとのことである。また、この本は2003年度「山本七平賞」(PHP研究所)を受けている。この賞の選考委員は、加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司、江口克彦の6人である。このうち、山折はかつてヴェーバーの論文を訳したことがあるという程度の関わりはあるが、他の5名はヴェーバーに関しては全くの素人である。これらの人々がこの本を絶賛し喝采をおくっている。政治的あるいは商業的意義はともかく、学問的には無責任きわまりないものである(☆)。

☆選考委員の「選評」は『Voice』2004年1月号に掲載されている。ここからは「PHP名士」の退廃を実によく読み取ることができる。これについては、雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について―羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の山本七平賞受賞に想う」『図書新聞』2004年2月21日号および2月28日号参照。この雀部の論文は「橋本努ホームページ」に転載されており、そこで読むことができる。さらに、折原の注[4]の文献、第五章においては、各選考委員の選評が個別に批判され、加えてその全体としての意味が考察されている。

 他者(それも世界的に超著名な学者)を「犯罪者」「詐欺師」「知的不誠実」と批判するなら、それに対する反批判にはあらかじめ相当程度の覚悟と準備があって当然である。ところが、折原が批判を公にしてから2年以上経っても、当の羽入からの反論あるいは弁明はないとのことである。ただ、ある対談に出て[6]、「折原の批判は“営業学者”の“ヒステリック”な“罵詈雑言”に過ぎず、したがって自分はそんなものに答える必要はない」という趣旨を発言している(☆)。知的誠実性を問題にしながら、自分ではそれを放棄しているのである。

☆真正面から批判されてもまともに応えることができない場合、当人あるいは利害関係者が仲間内での対談を設定し、それを公表してお茶を濁したり鬱憤を晴らすというのは、ひょっとしたらよくある手なのかも知れない。私には、たとえば、藤永茂(「科学技術の犯罪の主犯は科学者か?」『世界』1998年1月号)によって批判された村上陽一郎が、後輩筋と思われる相手と対談してグチをこぼしていたこと〔「サイエンス・ウォーズ 問いとしての」『現代思想』26-13(1998)〕が想起される。

 折原は、羽入が学問的討議に応じない以上、彼に学位を授与した東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻の関係者に公開論争を求めると宣言している。私も本件に関する東大倫理学教室の対応には多大なる関心をもって注視したい。

 なお、羽入本を批判した折原の諸著作は、ヴェーバーの「“倫理”論文」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の“精神”」)のよき入門書・再入門書となっている。「すぐれた学問体系は論難があってもそれをプラスに転化してしまう」という(たとえば物理学の基本理論にみられるような)特徴が、折原による理論展開においても確認することができる。

 

2.「山本七平」という反倫理

 羽入本が山本七平賞を受けたことは、私には大変意義深いことのように思われる。山本七平(=イザヤ・ベンダサン)はベストセラー『日本人とユダヤ人』(1970)で世に出たが、すでに1972年には本多勝一との公開討論によって[7]、その論理的詭弁とともに、それまで曖昧であったイデオロギー的背景が明らかにされている。

 また、「佐伯/七平論争」という《有益》な記録もある。少なくとも日本においては、ある事柄をめぐっての論争の勝敗が、当事者双方の合意する審判者によって、玉虫色でなく明瞭に判定された例はきわめて稀であろう。山本はそのような論争で敗れた貴重な実例である。

 これは、アメリカ上院の公聴会で用いられた宣誓文の日本語訳に関する論争で、宗教学者・佐伯真光の訳文は誤っていると山本が指摘したことではじまったものである(☆)。論争が継続されるなかで、山本は(おそらく形勢の不利を悟って逃げの手を打つつもりであったと思われるが、)「“ディベート道場主”松本道弘氏にでもレフリーをやってもら」いたいという趣旨を述べた。佐伯はそれを受け、松本にレフリーを依頼したのである。

☆この論争の経過は、佐伯真光「山本七平式詭弁の方法」、本多勝一編『ペンの陰謀』潮出版社(1977)にまとめられている。ただし、山本の側の転載拒否により、山本の文章は含まれていない。山本文の掲載紙誌については調査の上リストされている。

 松本の裁定結果は「勝負あった! 佐伯/七平論争」というタイトルのもとにまとめられている(☆)。松本はまず、ディベートのルールにしたがえば、山本は佐伯に敗れたと結論づける。その第一の理由として、山本のルール違反が上げられる。論争は山本の挑戦からはじまったもので、彼には挙証責任がある。それにも関わらず彼は佐伯からの反論に全く答えていない。松本は山本のこの論争法を「日本的にいえば、きたないし、ディベートの基本原則からすれば、アンエシカル(ルール違反)である」(かっこは原文、また下線は原文における傍点)と指摘する。山本が敗れた第二の理由は論旨のすりかえである。「こういう戦略は、論理が重視されない日本では見過ごされやすいが、実はここに大きな“陥穽”がある」(松本)。第三の理由は山本の議論における客観性の欠如である。山本は「通常」という言葉を用いるが、その裏づけは示されない。「・・・は誤りで、・・・は正式である」というが、その証拠がない。そして松本は、「山本氏はトウフを重ねるごとく、詭弁を弄した形に終ってしまった。残念なことである」と書いている。

☆松本の論文は『人と日本』1997年1月号に掲載されたとのことであるが、私は本多編『ペンの陰謀』(上述)に採録されたものを参照した。

 なお、この佐伯/山本論争の過程で、山本が話しにならぬほど英語の初等的知識に欠けることが暴露されている。たとえば彼は、熟語“not~at all”がわからず、“Do not swear at all.”(いっさい誓うな)という文章において“swear at”という熟語があると主張し、その上わざわざ「swear at all(すべてに誓え)」という訳まで付けている。また、別の個所では、間接話法が理解できずまた祈願文と命令文の違いがわからなかったので、「助けよ、汝を、神よ」といった支離滅裂な訳文まで披露している。これらはこの論争における山本の誤りのほんの一部に過ぎない。佐伯はこの事態に、最初は「半信半疑」だったようである。

 それにしても、山本は何冊もの本を翻訳・出版し(!)、また晩年には「監訳者」というようなエラい立場にもなっていたということを記憶しておく必要がある。これに比較したら、山本七平賞受賞者・羽入辰郎教授が“not A, but B”の構文を“indeed A, but B”の譲歩構文と取り違えた[4:268頁]などというのは、ほんの御愛嬌ということにされてしまうであろう。

 英語の問題ばかりではない。山本の諸著作は事実の誤りと矛盾撞着に満ちている。このひどさは常人の想像を絶するレベルにある。この私の表現に若干なりとも誇張を感じる読者は、たとえば『日本人とユダヤ人』を浅見定雄の批判[8]と対応させてチェックすることをお勧めする。おそらく仰天するはずである。

 山本がタネ本とするのは、ユダヤ学とか聖書学、あるいはきわめて読む人の少ない中国や日本の古典なので、事実(知識)に関する誤りは素人には気づきにくい。ちなみに、浅見は日本では数少ない旧約聖書学・古代イスラエル宗教史の専門家である。しかしながら、原典と照合さえすれば、山本の引用がいかに不正確でゆがめられたものかは、専門家でなくても容易に判定のできるものである。また、仮に原典が入手できなくても、《幸いにして》、山本の文章は矛盾だらけである。これも、注意さえすれば、誰でも容易に見て取ることができる。

 たとえば、浅見は自分の学生に山本の著作の論評を課したところ、彼らの一人はその内容のあまりのデタラメさに憤慨し、その怒りを浅見にぶつけてきた事実を紹介している[8:90-92頁]。私自身も別の例を直接に知っている。ある企業の管理者研修のとき、講師が山本の著作(『人間集団における人望の研究』1983)を教材に指定し予習を義務づけた。もちろんこの講師は、浅見とは違って、この本を名著と判断して採用したのである。しかし、当日になって、研修生たちは、この本の論理矛盾や特殊例を強引に一般化する論法に対し、次々と批判をしたそうである。ただ一人批判に加わらなかった研修生は、あとで、「確かに論旨は支離滅裂かも知れないが、自分はこの本から新しい知識を学んだ」と言ったそうである。実は、その知識が一番のくせものなのである(☆)。

☆あるフレーズなり文がたまたま自分のフィーリングにフィットすると、その真偽や文脈とは関わりなく、作者を愛好するというのは(少なくとも特定の「地域」では)よくあることのようである。この場合、その真偽や文脈を論じ出す人が現れると、「無用な詮索をするもの」として嫌悪の対象となる。

 この山本のような人物がマスコミ界で生き続け、書店では本が平積みされ、著作集を刊行し、めでたく天寿をまっとうされたあとは御名を冠した賞まで出現するというのが羽入事件の背景の一側面である。さきに触れたが、羽入の山本七平賞受賞は、実に順当な出来事であると言うことができるであろう。まさに「類が友を呼ぶ」「時宜的ゲマインシャフト形成」[4:137-139頁]である。

〔以下、3節および4節は省略〕


[1] 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪―「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』ミネルヴァ書房(2002)。

[2] 折原浩の書評「四疑似問題でひとり相撲」、東京大学経済学会編『季刊経済学論集』69-1(2003)、77-82頁。

[3] 折原浩『ヴェーバー学のすすめ』未來社(2003)。

[4] 折原浩『学問の未来―ヴェーバー学における末人跳梁批判』未来社(2005)。

[5] 折原浩『ヴェーバー学の未来』未來社(2005)。

[6] 「マックス・ヴェーバーは国宝か―“知の巨人”の研究で糊口をしのぐ営業学者に物申す」『Voice』2004年5月号、198-207頁。これについては、雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について:語るに落ちる羽入の応答―『Voice 5』誌上羽入-谷沢対談によせて」『図書新聞』2004年6月5日号参照。

[7] 『諸君!』1972年1月~4月号。これは、本多勝一『殺す側の論理』すずさわ書店(1972)に、ベンダサン(山本)の側の議論を含め、採録されている。

[8] 浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』朝日新聞社(1986)。