唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」だって?! じゃあ,どうせまた腹は減るのになぜ食べるのか

2024-08-07 | 日記

 最近新聞で「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という文章が眼に入った.どういう意図によるものかはわからない.マジメそうな外観によってマジメな人たちをおちょくっているような感じもする.しかし,生命を内外両面から観察している私としては,それに対して明らかにしておきたいことがある.

 「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いは,「どうせまた腹は減るのになぜ食べるのか」という問いと密接に関わるものである.いまどきの少なからぬ人々にとっては,空腹は健康の指標として,どちらかといえば快いものなのかも知れない.しかし,空腹が見通しもなく継続したら苦痛であるし,まして飢餓となったら一大事である.私たちが食べるのはまずは空腹を満たすためであるし,さらには食べることが快いからである.

 私たちはみな,空腹は食物を摂取するようにとの指示であることを了解している.そして,知識としては,食物摂取は私たちの生命維持に不可欠であることもわかっている.しかし,この空腹の信号は,私(の意識)に対して発せられるものであって,私が発するものではない.私はいわば,「食べるように」との指示を受けるのである.他方,私は食欲不振におちいったり,あるいは(消化器系の問題などによって)食べることが苦痛となることがある.これは生命活動の異常として,病(やまい)として,治療の対象となる.

 「生きること」はこれと並行して考えることができる.通常は空腹(食欲)ほど顕著ではないが,私たちの生命活動を支配する「生命の原理」は,私たちに対し「生きそして生きつづける」ようつねに後押しをしている〔本ブログ記事「生命の原理」〕.これを仮に「生欲」と呼ぶことにしよう.食欲は「生欲」のひとつの現われである.私たちが生きつづけるのは,この「生欲」を満たすためである.さらには,生きることは深い《喜び》をもたらしてくれるからである.この《喜び》とは,シラーが詩作し,ベートーベンが自己の交響曲「第九」に採り入れて曲をつけたあの《Freude》のことである.

 他方,私は自分の生き方や人生そのものに疑問をもち否定的になることがある.これは,自分にとって,よりよく生きるための重要な契機となるであろう.私の意識は,私が生きそして生きつづけるための活動を担うサブシステムのひとつである.

 ところで,私は「生欲」の完全な減退を覚え,生きることは無意味であると考え/感じるに至ったとしよう.これは私の自覚的意識が,「生命の原理」から与えられた役割を裏切る事態に至ったことを意味する.これは私の生命活動の異常として,私にとっての病(やまい)として,治療の対象となる.誤解されているかも知れないので強調しておくが,私(の意識)は私の生命活動の支配者などではない.それは,私が生きそして生きつづけるための活動を担うサブシステムのひとつに過ぎない.

 私が《喜び》と書いたものは,人によって表現はさまざまであろう.いずれにしても,人生における懸命の努力や苦難・挫折を通して与えられるものである.参考になるのかどうかは知らないが,ベートーベンは

Durch Leiden Freude

苦悩を通しての喜び

と書いている.またシラー(および第九の歌詞)は,

Freude trinken alle Wesen

An Den Brüsten der Natur;

すべての生き物は自然の胸乳から喜びを飲む

と謳っている.これは「生命の原理」の普遍性を表わす.

唐木田健一

 なお,本記事に関連しては,私のブログ「生命の原理と人生:“何のために生きるのか”」も参照.


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