唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

河合潤『鑑定不正 カレーヒ素事件』を読む(3).林真須美頭髪鑑定の問題

2023-02-15 | 日記

[「『鑑定不正』を読む(2)」のつづき[1]

林真須美頭髪鑑定の影響

 2009年の最高裁判決では,被告人が犯人である理由として,(要約すれば,)①カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜ヒ酸が被告人の自宅等から発見されていること,②被告人の頭髪から高濃度のヒ素が検出されていること,③問題の夏祭り当日,被告人のみがカレーの入った鍋に亜ヒ酸を混入する機会を有していたこと,の3点をあげている〔101-102頁〕.このうち①は河合潤がきわめて明瞭に有罪の根拠とはならぬことを証明した[2].③には何ら明確な証拠が存在しない.問題は②の頭髪におけるヒ素の検出である.

 亜ヒ酸が林宅由来のものではないことを示した「河合意見書」が提出されたあと,2017年の和歌山地裁再審請求審では,「検察側の亜ヒ酸異同識別鑑定の証明力が減退したこと」は認められたが,「林真須美の頭髪に亜ヒ酸が付着していたとの鑑定の効力は失われていない」として再審請求は棄却されたのである〔118頁〕.

 

頭髪鑑定の結論

 事件のあとの1998年12月,和歌山県警は林真須美の毛髪を5個所から採取した.鑑定は,聖マリアンナ医大助教授・山内博および東京理科大教授・中井泉のそれぞれによって行われた.

 山内は頭髪を化学処理したのち,原子吸光分光装置HG-AASによって3価無機ヒ素を定量した.その結果,林真須美の右前頭部頭髪部分に,頭髪1gあたりに換算して0.090μgの3価無機ヒ素を検出した[3].他の部分ではヒ素は検出されなかった〔127頁〕.

 なおヒ素は,化合物中の形態によって,3価ヒ素As(III)と5価ヒ素As(V)の2種がある.5価ヒ素にくらべて3価ヒ素の毒性は強いといわれている.また,ヒ素化合物には無機と有機の2種があり,亜ヒ酸のヒ素は3価の無機ヒ素である.ついでながら,As(III)→As(V)の化学変化を酸化,As(V)→As(III)を還元という.

 さて,もう一人の鑑定人である中井は,つくば市にある高エネルギー研シンクロトロン放射光施設フォトンファクトリーのビームラインで,林真須美の右前頭部の頭髪1本を10㎝の長さにわたって分析した.その結果,毛根側切断部から48mmの位置にヒ素ピークを検出した.これは10㎝の測定範囲の中央部にあたる〔127-128頁〕.

 こうして山内は,(中井および山内による)二つの異なる方式による分析において異常なヒ素を共通して検出したとして,林真須美の頭髪に一般健常者には認められない亜ヒ酸曝露が存在したと結論した〔128頁〕.

 

山内が検出したとするヒ素は検出限界以下の架空の量であった

 被告人の頭髪のヒ素を定量するとして,そこから何事かの結論を導き出すには,一般健常者の頭髪におけるヒ素量がわかっていなければならない.一般健常者の頭髪にもヒ素は存在する.

 河合は関連データを図表17〔134頁〕にまとめている.ここにはヤマト(N. Yamato)の英語の単著論文からのデータ(1988年),今回の鑑定で山内が用いたデータ(1998年),およびそれに先立つ山内の英語論文のデータ(1997年)の3種がある.一見してわかるように,山内はヤマトの値を用いている.しかも,出典を示すことなく,あたかも自分のデータであるかのように扱っている.河合はこれを「盗用」と呼んでいる.

 もっと実質的な問題がある.ヤマトの論文では500mgの頭髪を対象としているが,山内の鑑定では50mgである.したがって,山内は感度10倍のヤマトの分析と比較したことになる〔135頁〕.さらに,あとになって明らかになったことであるが,山内は検液を二つに分けて分析していた.したがって,ヤマトとの感度差は20倍ということになる〔139頁〕.

 山内は頭髪中のヒ素の分析では通常,(ヤマトと同様)500mgを対象としてきた.河合は,500mgの場合には,ヒ素の検出下限は頭髪1gあたり0.03μgになると見積もっている.この値は図表17(既出)における分析誤差が0.02~0.04μgであることと矛盾しない[4].ところが,今回の山内の鑑定では,対象試料は(50mgの半分の)25mgなので,検出限界はその20倍の0.6μgとなる[5].山内は「林真須美の右前頭部頭髪部分に,1gあたりに換算して0.090μgの3価無機ヒ素を検出した」と報告したが(上述),これは検出限界0.6μgよりもはるかに小さい値である.これは決して検出することのできない架空の濃度であった〔140頁〕.

 

山内の方法では亜ヒ酸由来の3価無機ヒ素は定量できない

 山内が検出したとする3価無機ヒ素の濃度は架空のものであったが,山内の方法では原理的に3価無機ヒ素は検出できないのである.

 山内はまず,頭髪を100℃の水酸化ナトリウム溶液(濃度2規定)中で3時間加熱して測定試料を調製している.これにより頭髪は完全に溶けきる.しかしこの処理では,3価無機ヒ素は(存在したとして)酸化され,5価無機ヒ素になってしまう〔136-137頁〕.他方,分析の最終段階では,5価ヒ素はシュウ酸やフタル酸カリウムによって3価ヒ素に還元され,アルシン(AsH3)という気体化合物として原子吸光分光装置により定量される〔132-133頁〕.したがって,この方法では,全無機ヒ素(3価+5価)は定量されるが,無機3価ヒ素の個別濃度は得ることができない〔138頁〕.

 実際,頭髪ヒ素量の「正常値」をまとめた図表17〔既出,134頁〕に示されているが,ヤマト論文および1997年の山内論文では3価無機ヒ素は分析対象ではなかった.他方,1998年の山内の本件鑑定書では,「不検出」となっている.これは「分析したが健常者の頭髪には3価無機ヒ素は検出されなかった」という意味であり,データの改ざん/ねつ造にあたる〔134頁〕.

 

中井は鉛を検出し,それをヒ素であることにした

 頭髪のもう一人の鑑定人・中井泉(既述)が林真須美の頭髪にヒ素が外部付着したことを立証したとする蛍光X線スペクトルは図表18〔141頁〕にある.これは彼の鑑定書に掲載されたものである.ここには横軸10.5keVの位置[6]に小さなピークが観測される.中井はこれをヒ素が存在することの決定的証拠とした.

 これに対し河合は,問題のピークは(ヒ素ではなく)鉛の誤りであると指摘した.ヒ素も鉛もともに横軸10.5keVの位置にピークをもつ.しかし,ヒ素であれば同時に11.7keVの位置にその約1/10の高さのピークが存在する.他方,鉛であるなら,12.6keVの位置にほぼ同じ高さのピークが存在する.河合は図表18においてこのピークを読み取っている[7].中井がヒ素としたピークは鉛の誤りであった.

 これに対し中井は,ここでは「選択励起」という方法を用いたので,鉛の信号を発生させることなく,ヒ素のみを選択的に検出できたと反論した〔141頁〕.確かに,12.0~12.9keVの光を試料に照射すれば,鉛を励起することなくヒ素のみを選択的に検出できる〔142頁〕.

 

中井が隠したスペクトル部分が明らかにすること

 その後,中井は図表18の生データを提出しなければならない事態となった[8].代理人からの依頼を受けて河合がそれをプロットし作成したチャートが図表19〔143頁,縦軸は対数目盛であることに注意〕である.中井が鑑定書の中で示したスペクトルは13keVで切られていたが,ここではそれを越えた部分をみることができる.それによれば,上記12.0~12.9keVの光での選択励起はなされておらず,15keVの光が用いられていた.またスペクトルには16~20keVの範囲に強い迷光(不必要な光の反射や散乱)の混じっていることがわかった〔図表19のStray〕.これでは,たとえ12.0~12.9keVの光で選択励起しても,鉛は迷光によって励起されてしまう〔142頁〕.

 図表19では,中井の検出した元素が(ヒ素ではなく)鉛であることの証拠である12.6keVのピーク(上述)も確認できる〔図表19のPb Lβ〕.中井の意図した15keVの光による選択励起(上述)ではこのピークは励起されないはずであったが,迷光により励起されてしまったのである.

 ところで,なぜ鉛が検出されたのか.装置内にはX線を遮蔽するための鉛板が多数用いられている.鉛板は迷光が当たる位置に貼る.これにより鉛の蛍光X線が発生したのである〔144頁〕.この条件ではどんな試料を持ち込んでも鉛が検出される.そして中井はそれをヒ素と言い張ったのである.

唐木田健一

[取り敢えず本シリーズ了]


[1] 本記事でも敬称はすべて省略する.

[2] 本ブログ記事では「『鑑定不正』を読む(1)」参照.

[3] マイクログラムμgは質量の単位であり,1マイクログラムは百万分の1グラムである.あとに出てくるミリグラムmgも同様で,1ミリグラムは千分の1グラムである.

[4] 検出下限は分析誤差の重要な要素である.

[5] 素朴な例で考え方を示しておく.±1gの誤差で質量を測定する方式があったとして,100gの試料を対象にすれば,100g±1gであるから,1gあたりの誤差は±0.01,他方10gの試料を対象にしたとすれば,10g±1gであるから,1gあたりの誤差は±0.1となる.すなわち対象試料の量が1/10になると,単位量あたりの誤差は10倍になる.なおここでは,誤差は検出下限にのみ由来すると考えている(脚注4も参照).

[6] 横軸keVはエネルギーの単位である.

[7] 図表18の右端のピークの立ち上がりすぐの部分にある「肩」のことである.このピークはあとに掲載される図表19で確認されている.なお,ピーク間の強度比は,バックグラウンドを構成するベースラインをもとに,ピークの面積比で表す.

[8] 林真須美は中井泉を被告として民事裁判を起こした.原告代理人弁護士は裁判所を通じて鑑定書のスペクトル(図表18)の生データを提出するよう中井に要求した.裁判所はこの要求を認めた.


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