[出典]
J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique, Tome I―Théorie des Ensembles pratiques” (1960). 日本語版は『弁証法的理性批判』人文書院(I. 竹内芳郎訳1962、II. 平井啓之・森本和夫訳1965、III. 平井啓之・足立和弘訳1973)。ここでは主として日本語版のIを参照した。以下で本書を引用する際は『弁証法的理性批判 I』と記し、そのページを示す。
「実践的=惰性態」
どんな対象物でも、それが何らかの経済的・技術的・社会的複合体の中に存在する場合には、生産のための用具および人間関係を通じて、他の対象物の中にさまざまな要求を呼び起こす[1]。これにより、(歴史的話題ではあるが)たとえば、「蒸気機関は工場の大規模化への傾向を引き起こす」とか「二パーセント以上の勾配では機関車の性能が弱まるということが、新線を河川や谷間に沿って敷設することを余儀なくさせる」ということが了解できる。もちろん、これらの要求は人間たちを通じて、人間たちによってこそ現れるのであり、それらは人間たちの消滅とともに消滅することであろう。しかし、上の例が示すのは、物質からの物質的要求が、人間たちを通じて、物質にまで及んでいくということである[2]。
したがって、個人(あるいは集団)の実践そのものが変質させられるのであり、その実践はもはや実践的分野を自由に組織化することではなく、惰性的な物質性の一分域を他の物質性の分域の要求により再組織化することになるのである。ここでは、変質させられた人間の実践(疎外された実践)と加工された物質とが入り混じってくるのが見出される。この領域は「実践的=惰性態」と名づけられる[3]。サルトル『弁証法的理性批判』における重要な概念である。
発明も、生産の若干の事情のもとでは、実践的=惰性態の一要求である[4](☆)。要求は要求としての人間をつくり出す。すなわち、物質の要求を自分自身の要求として内面化した人間であり、これが発明家である。
☆たとえば、18世紀のことであるが、織機や紡績機は水車あるいは風車を動力源としていた。それらは工場の立地に制限を課し、また出力も不安定であった。そこで要求されたのが、回転運動を生み出し、かつ安定した出力を有する蒸気機関であった。
利益
人間の実践と物質との共生(実践的=惰性的分野)における一つの新しい性格は、経済学者や若干の心理学者たちが「利益」と呼ぶものにみられる。「利益」とは、社会的分野における人と物との関係である[5]。ある対象物が存在し、個人は社会的分野の総体に働きかけてこれを保存し、また他を犠牲にしてもこれを発展させることを、その対象物がそのものとして要求するような場合、その個人は一つの利益をもつといわれる[6]。たとえば、財産のほとんどを投資して起業した人にとって、彼の会社は彼の利益である(☆)。
☆したがって、ここでいう利益とは、個人と特殊な関係にある対象物のことなのであって、単に「もうけ(得)」とか「利潤」といったようなものではない。
ここで対象物は、実践的=惰性態として、それ自身によってすでに自分のまわりの実践的=惰性的世界と関係をもっている。それはこの世界の諸要求を、種々の矛盾を含んだまま、自分自身の要求に反映するが、それと同時にそれ自身も分野の総体に働きかけ、その諸要求に影響を与える。ここにおいて個人は、自分の能力を尽くして、さまざまな人々によって媒介された物質性全体の諸要求と、自分の対象物の諸要求との間の媒体となる。すなわち、彼の利益=対象物のほうが本質的なものになるのである。
個人がこの対象物を保存し増大させようと努めればつとめるほど、その対象物はますますすべての他者たちに影響を与え、それによって個人はますます非本質的なものとなり、つまりは一個の機械的要素として己れを規定するようになる。こうして利益はその個人を、その人格的特殊性において規定するものとなる。たとえば、さまざまな方策を駆使して事業を軌道に乗せようとしている人にとって、彼はすでに彼の会社なのである。
利益=対象物のほうが本質的になれば、たとえば企業家にとって、利潤が目的なのかそれとも手段なのかを区別できない事態ともなる[7]。利潤が再投資されるとき、それは一方では利潤率の維持または増大が目的であっても、それは他方では、会社を外的諸変化に適応させ競合に勝つための唯一の手段であるということになる。会社は、現状を維持するかまたは発展させるために、自分の生み出す利潤を手段にして変化しながら、その維持と発展とのうちに、みずからを自分自身の目的として構成するのである。
イデオロギー的利益
イデオロギー的利益というものについて語ることもできる[8]。たとえば、学者がある論文を発表したとしよう。この論文は他者にさらされたのであり、そのため大いに称賛されるのかも知れないが、他方では常に誤解あるいは反論を受ける可能性が生じる。著者は、誤解を解き、また反駁につとめるのでないかぎり、世界の中で絶えず危険にさらされる。彼のイデオロギー的利益とは、他人の新しい主張や論文、すなわち彼を落伍させる危険のある一切のものと闘い、彼の論文を守ることである(☆)。
☆彼の論文が実は不十分な/あるいは誤った根拠にもとづいて作成されたものであって、それにも関わらず/あるいはそれゆえに評価されて特定の地位を確保したとすれば、彼のイデオロギー的利益はますますそのイデオロギー的側面をあらわにするであろう。あるいはこれは「利益」ではなく、このすぐあとに出てくる「運命」になるのかも知れない。
利益のように人間と一体化した対象物は、「自己=外=存在」と呼ばれる。自己=外=存在は利益だけではない。利益の場合とは異なり、人間に否定性をもたらす自己=外=存在もある。たとえば、赤字が構造的に累積しているけれども、諸般の事情で会社は継続しなければならないというような事態はしばしば起こることである。この場合、会社は(利益ではなく)不=利益なのであって、これは運命と呼ばれる[9]。人間はこの運命から、なかなか逃れがたいのである。
〔以上は,唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ』の九章の一部にもとづく.本ブログでの関連記事としては,「サルトルの弁証法」,「サルトル『弁証法的理性批判』より,“積極的な実践がなぜ否定性を生み出すのか”」参照〕
[1] 『弁証法的理性批判I』、p.225。
[2] 『弁証法的理性批判I』、pp.227-228。
[3] 『弁証法的理性批判I』、p.70。
[4] 『弁証法的理性批判I』、pp.228-229。
[5] 『弁証法的理性批判I』、p.234。
[6] 『弁証法的理性批判I』、p.237-238。
[7] 『弁証法的理性批判I』、p.240。
[8] 『弁証法的理性批判I』、p.242-243。
[9] 『弁証法的理性批判I』、p.261。