唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

サルトルの『弁証法的理性批判』より「実践的=惰性態」について

2021-08-26 | 日記

[出典]

J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique, Tome I―Théorie des Ensembles pratiques” (1960). 日本語版は『弁証法的理性批判』人文書院(I. 竹内芳郎訳1962、II. 平井啓之・森本和夫訳1965、III. 平井啓之・足立和弘訳1973)。ここでは主として日本語版のIを参照した。以下で本書を引用する際は『弁証法的理性批判 I』と記し、そのページを示す。

 

「実践的=惰性態」

 どんな対象物でも、それが何らかの経済的・技術的・社会的複合体の中に存在する場合には、生産のための用具および人間関係を通じて、他の対象物の中にさまざまな要求を呼び起こす[1]。これにより、(歴史的話題ではあるが)たとえば、「蒸気機関は工場の大規模化への傾向を引き起こす」とか「二パーセント以上の勾配では機関車の性能が弱まるということが、新線を河川や谷間に沿って敷設することを余儀なくさせる」ということが了解できる。もちろん、これらの要求は人間たちを通じて、人間たちによってこそ現れるのであり、それらは人間たちの消滅とともに消滅することであろう。しかし、上の例が示すのは、物質からの物質的要求が、人間たちを通じて、物質にまで及んでいくということである[2]

 したがって、個人(あるいは集団)の実践そのものが変質させられるのであり、その実践はもはや実践的分野を自由に組織化することではなく、惰性的な物質性の一分域を他の物質性の分域の要求により再組織化することになるのである。ここでは、変質させられた人間の実践(疎外された実践)と加工された物質とが入り混じってくるのが見出される。この領域は「実践的=惰性態」と名づけられる[3]。サルトル『弁証法的理性批判』における重要な概念である。

 発明も、生産の若干の事情のもとでは、実践的=惰性態の一要求である[4](☆)。要求は要求としての人間をつくり出す。すなわち、物質の要求を自分自身の要求として内面化した人間であり、これが発明家である。

☆たとえば、18世紀のことであるが、織機や紡績機は水車あるいは風車を動力源としていた。それらは工場の立地に制限を課し、また出力も不安定であった。そこで要求されたのが、回転運動を生み出し、かつ安定した出力を有する蒸気機関であった。

 

利益

 人間の実践と物質との共生(実践的=惰性的分野)における一つの新しい性格は、経済学者や若干の心理学者たちが「利益」と呼ぶものにみられる。「利益」とは、社会的分野における人と物との関係である[5]。ある対象物が存在し、個人は社会的分野の総体に働きかけてこれを保存し、また他を犠牲にしてもこれを発展させることを、その対象物がそのものとして要求するような場合、その個人は一つの利益をもつといわれる[6]。たとえば、財産のほとんどを投資して起業した人にとって、彼の会社は彼の利益である(☆)。

☆したがって、ここでいう利益とは、個人と特殊な関係にある対象物のことなのであって、単に「もうけ(得)」とか「利潤」といったようなものではない。

 ここで対象物は、実践的=惰性態として、それ自身によってすでに自分のまわりの実践的=惰性的世界と関係をもっている。それはこの世界の諸要求を、種々の矛盾を含んだまま、自分自身の要求に反映するが、それと同時にそれ自身も分野の総体に働きかけ、その諸要求に影響を与える。ここにおいて個人は、自分の能力を尽くして、さまざまな人々によって媒介された物質性全体の諸要求と、自分の対象物の諸要求との間の媒体となる。すなわち、彼の利益=対象物のほうが本質的なものになるのである。

 個人がこの対象物を保存し増大させようと努めればつとめるほど、その対象物はますますすべての他者たちに影響を与え、それによって個人はますます非本質的なものとなり、つまりは一個の機械的要素として己れを規定するようになる。こうして利益はその個人を、その人格的特殊性において規定するものとなる。たとえば、さまざまな方策を駆使して事業を軌道に乗せようとしている人にとって、彼はすでに彼の会社なのである。

 利益=対象物のほうが本質的になれば、たとえば企業家にとって、利潤が目的なのかそれとも手段なのかを区別できない事態ともなる[7]。利潤が再投資されるとき、それは一方では利潤率の維持または増大が目的であっても、それは他方では、会社を外的諸変化に適応させ競合に勝つための唯一の手段であるということになる。会社は、現状を維持するかまたは発展させるために、自分の生み出す利潤を手段にして変化しながら、その維持と発展とのうちに、みずからを自分自身の目的として構成するのである。

 

イデオロギー的利益

 イデオロギー的利益というものについて語ることもできる[8]。たとえば、学者がある論文を発表したとしよう。この論文は他者にさらされたのであり、そのため大いに称賛されるのかも知れないが、他方では常に誤解あるいは反論を受ける可能性が生じる。著者は、誤解を解き、また反駁につとめるのでないかぎり、世界の中で絶えず危険にさらされる。彼のイデオロギー的利益とは、他人の新しい主張や論文、すなわち彼を落伍させる危険のある一切のものと闘い、彼の論文を守ることである(☆)。

☆彼の論文が実は不十分な/あるいは誤った根拠にもとづいて作成されたものであって、それにも関わらず/あるいはそれゆえに評価されて特定の地位を確保したとすれば、彼のイデオロギー的利益はますますそのイデオロギー的側面をあらわにするであろう。あるいはこれは「利益」ではなく、このすぐあとに出てくる「運命」になるのかも知れない。

 利益のように人間と一体化した対象物は、「自己=外=存在」と呼ばれる。自己=外=存在は利益だけではない。利益の場合とは異なり、人間に否定性をもたらす自己=外=存在もある。たとえば、赤字が構造的に累積しているけれども、諸般の事情で会社は継続しなければならないというような事態はしばしば起こることである。この場合、会社は(利益ではなく)不=利益なのであって、これは運命と呼ばれる[9]。人間はこの運命から、なかなか逃れがたいのである。

〔以上は,唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ』の九章の一部にもとづく.本ブログでの関連記事としては,「サルトルの弁証法」,「サルトル『弁証法的理性批判』より,“積極的な実践がなぜ否定性を生み出すのか”」参照〕


[1] 『弁証法的理性批判I』、p.225。

[2] 『弁証法的理性批判I』、pp.227-228。

[3] 『弁証法的理性批判I』、p.70。

[4] 『弁証法的理性批判I』、pp.228-229。

[5] 『弁証法的理性批判I』、p.234。

[6] 『弁証法的理性批判I』、p.237-238。

[7] 『弁証法的理性批判I』、p.240。

[8] 『弁証法的理性批判I』、p.242-243。

[9] 『弁証法的理性批判I』、p.261。


村井実『教育の理想』〔慶應義塾大学出版会(2002)〕の紹介

2021-08-18 | 日記

ここに掲載するのは、『化学史研究』30(2003)、pp.199-202に発表されたものです。

     *

 本書の著者・村井は教育学者である。慶応大学教授を務め、現在は名誉教授である。彼は、「子どもたちは“善く”生きようとして自分で“学ぼう”とする」という人間観と、それにもとづく教育観の提唱者として知られている。彼のいう「善さ」とは、対象に関するある判断である。それは、私たちが対象によって何らかの基本的要求が満足されたときに成立する。それらの要求として村井があげるのは、「相互性」「無矛盾性」「効用性」、そして「美」である〔121-127頁〕。〔これら要求項目は科学理論の評価と密接に関わる。これについては、『本誌』27 (2000)、pp.169-175における寄稿の注14を参照せよ。〕

 「政教一体」

 この村井の著作における主要な主張は、日本の教育は明治維新以来現在まで、「政教一体」の考え方によって進められてきたというものである。それは、「“超国家主義的”な専制主義の教育」と呼ばれた体制をつくり出し、また「超国家主義」が破綻したあとにおいても形を変えて継続され、現在の手詰まりと混乱の状況をもたらしているとされる。ここで、「政教一体」とは「政教混一」ともいわれ、教育を政治の一部として扱うものである。それを最もよく表現するのは「教育勅語」(明治23年=1890年発布)であろう。

 敗戦と米軍の占領によって勅語は教えられなくなった。しかし、それに代わる精神的支柱が求められ、制定されたのが「教育基本法」であった。教育基本法は昨今政治的論議の対象となっている。村井のこの(教育勅語に代わる精神的支柱という教育基本法の)位置づけに対しては、「りっぱな法なのにと、心外に思う人々も多いかもしれない。あるいは逆に、戦後の教育の混乱がこの基本法の欠陥から生まれたという考えから、最近ではその抜本的な改正を求める人々も現れたということであるから、ここでもその意味で問題があったというのかと、早合点する人々もいるかもしれない」〔73頁〕。しかし、村井の指摘はそういうことではない。「教育が国家によって政治的に上から規定されるというのでは、教育も国家もほんとうに民主的とはいえないということ」〔78-79頁〕なのである。

 村井は、「政教一体」の体制のもとでの人間観を多面的に考察し、「子どもたちは少なくとも(“善く”生きようとする)人間の子どもとしては見られていなかったという事実」〔113頁、( )による挿入は原文〕に注意を喚起する。

 ここにおける、「善く」生きようとするという人間観は、さきに述べたように、村井が一貫して主張しているものである。しかし、彼はここで、大きな飛躍を見せる。「“善く生きよう”とするのはすべての生物が実際に生きる生き方、あるいは人間がそう意識して生きるという生き方の事実」〔208頁〕であるというのである。すなわち、人間だけでなく、すべての生物も「善く」生きようとしているという見方である。私は本書において、とくにこの点に着目した。

 「修身」と「進化論」の矛盾

 村井は、自身が小学校の頃を振り返り、深刻な矛盾を想起する〔216-219頁〕。当時、学校が表向き最も力を入れていたのは道徳教育であった。それは「修身科」と呼ばれ、とくに重要な筆頭教科とされていた。そこで教えられたのは、たとえば「正直であれ」「信義を守れ」「友情を尊べ」「弱いものをいたわれ」「親を大切にせよ」などという根本的な徳義の事柄であった。他方では、理科の時間において「進化論」が教えられた。そこでは、「生存競争」「優勝劣敗」「自然淘汰」などという生物観・人間観・世界観が貫かれていた。それは科学的真理として教えられた。

 「生存競争」「優勝劣敗」「自然淘汰」などの言葉は、理科の時間に聞かされただけではなかった。むしろ、学校が学業成績や進学を中心として動かされていた限り、その活動全体がそれらのことを教え込んでいた。

 こうして学校では、一方で厳粛な人倫・道徳が説かれ、他方では物質主義的・機械主義的・功利主義的な人間観・社会観が日常的に教えられた。道徳の知識と科学の知識は明らかに矛盾していた。学校や文部省(当時)は、この矛盾について何も考えなかったのかと不思議に思われる。こんな矛盾を、教育の名で、あえて子どもたちに強いていたのである。子どもたちにとってそれがいかに無残な仕打ちであったかを、責任ある立場の誰も考えなかったのであろうか? 一体、こういうことがあってよいものだろうか? 村井はいまにして、何とも恐るべきことであったと感じている。

 日本での進化論

 現代の日本では、すべての人が一様に義務教育を受けて育っており、そこでは必ず自然科学の教育が「理科」という教科によってなされている。いやしくも教育として科学を教えようとする以上、ただ断片的な知識を覚えさせるだけでなく、何らかの生物観や人間観を基礎におかないわけにはいかない。村井は、日本の理科教育では、前述のいわゆる進化論的生物観・人間観―「生存競争」「優勝劣敗」「自然淘汰」―が前提になっていると指摘せざるを得ないとする。これには、進化論が日本に移入された当時の歴史的事情が関わる〔213-216頁〕。

 ダーウィンの進化論が『種の起源』によって公表されたのは1859年であるが、日本にはそれが1878年(明治11年)、東大に雇われた動物学者モース(Edward S. Morse, 1838-1925)によって本格的に伝えられた。それ以来、進化論という言葉とその思想は、またたく間に日本人を支配するに至った。当時の東京大学「総理」は加藤弘之(1836-1916)で、彼は文部省の最高教育顧問でもあった。モースの伝えた進化論は彼を熱中させ、彼はそれまで「天賦人権論者」で知られていたが、一転して「生存競争」「優勝劣敗」「自然淘汰」を喧伝しはじめた。新たに『人権新説』(1882)を著して、進化論を「永世不易ノ自然規律」などと呼んだ。以来日本では、進化論は加藤の言葉どおり、科学上の絶対の真理として全国の学校で教えられるようになった。

 村井は、この経緯の特異さは、モースの出身地であるアメリカと対照すれば明らかであるという。アメリカはいまでも、進化論を学校で教えることについて裁判沙汰が起こったりする。これは、日本では、蒙昧や狂信の残存という印象のみで受け取られることが多い。しかし、村井によれば、アメリカでは進化論が公表されて以来、激しい学術的論争がおこなわれてきた。上記の裁判沙汰は、その論争の現代的反映であることを知るべきなのである。

 「善く」生きようとする生物

 村井は、「善さ」は人間がそれに向かって生きる根本の方向をさす言葉にほかならないが、その方向は同時に、生きとし生けるもののすべてについて考えられるもの、さらには生きとし生けるもののすべてを包む宇宙環境の全体をも貫く「宇宙の理法」とでもいうべきものとして考えられると説く〔145頁〕。この考えにもとづき村井は、物質主義的・機械主義的・功利主義的に解釈された進化論を批判する。

 野に咲く花がそれぞれに美しいのも、小鳥の羽がそれぞれにきらびやかなのも、あるいは亀の甲が固く、ウサギの耳が長く、昆虫の姿が木の葉に似ていたりするのも、すべて生物が懸命に「善く」生きようとしている姿として受けとめることができる。ここには倫理的・道徳的意味など何もない。ただ、野の花にせよ小鳥にせよ、「善く」生きようとして、おのずからそれぞれに進化を遂げて現在の状態に至ったと考えられる〔206-207頁〕。

 しかし、生物学者たちは、こういう考えを厳しく排除する。そういう考え方は擬人的であり、目的的であって、科学的ではないとされる。しかしながら、村井にとって、「善く」生きようとするのは、生物の実際の生き方の事実の指摘に過ぎない。これが科学的でないなら、生物学者のいう生物の「自己増殖性」―子孫を増やそうとすること―や、「生存競争」といった見方がとくに科学的ということにはならないであろう〔207-208頁〕。

 村井は、進化論が発想された当時は、一般に動植物を人間に対して一段と低くみる時代の末期にあたっており、しかもちょうど功利を競う資本主義社会、競争社会の勃興期にあたっていたことに着目する。そうして、そういう当時の生物観や社会観を反映する解釈が、生物と人間に関する学術的見解として受け入れやすかったのではないかと推測する〔208頁〕。

 もっとも、生物をすべて「善く」生きようとしていると見るからといって、それらが人間と全く同じであると言っているのではない。人間は「善さ」を意識して言葉に取り出し、それによって仲間と特異な交流をすることができるが、他の生物にはそれはできない。ただ、それにも関わらず、生物はすべて「善く」生きようとしているのであって、そのもちまえに従って生存の「競争」もおこなえば、(今西錦司のいう)「棲み分け」をしたり、「助け合い」をしたり、また個体が他の個体に対して我が身を犠牲にすることも認められるのである〔209-210頁〕。

 理科と道徳の矛盾を超える道

 さきにみた「修身」と「進化論」の矛盾、あるいは広く「道徳」と「科学」の矛盾は、「“善く”生きようとする生物」という考え方で超えることができる。また、仮にそのような考え方が導入されなかったとしても、「善さ」に立つ人間観と教育観で超えることができる。すなわち、「子どもたちは“善く”生きようとして自分で“学ぼう”とする」という人間観と、それにもとづく教育観である〔223頁〕。

 子どもたちは、「善く」生きようとして、自分自身で学ぶことを求める。ここで「善い」というのは、ある対象に関わる個人の判断であって、絶対の「善さ」などというものは存在しない。科学の知識も道徳の徳目も、教育上では、子どもたち自身がそれぞれに、「善い」として判断したり受けとめたりするものでしかない。その事情に気づかず、それら孤立した知識を、しかもそれぞれが絶対の「善さ」として子どもたちに「教え」ようとしたところに、教育上の決定的な過ちがあったのである〔224頁〕。

 以上の考え方を前提とするなら、仮に子どもたちが学ぶ内容に矛盾があったとしても、とくに心配の必要はない。「たとえ矛盾があっても、それにどう立ち向かうかを子どもたち自身が学んでいくのである。そうなれば、矛盾もかえって教育的意味をもつことになる。また、かりにその時点ではどうにも解決できないばあいには、その時こそ子どもたちは、それをまさに矛盾として認識し、人間についても、世界についても、自然についても、また生活者としても研究者としても、その矛盾を解くための工夫を凝らしながら生きていくことになる。そしてそれこそが、子どもたちにとっては、まさにほんとうの教育、ほんとうの人間的生き方の教育ということができるのである」〔222頁〕。

 「とんでもない」考え方?

 村井はまた、生物はすべて「善く」生きようとしているという考え方によって、異分野間での学術的対話が成立しうると主張する。すなわち、すべての生物や人間、そして人間の運営する組織(たとえば企業)がそれぞれに「善く」生きようとしているという観点において、異なった分野が交差し、それによってそれぞれの分野に画期的な飛躍の機会が生じ得るというものである〔225-232頁〕。

 ところで、実は村井は、「すべての生物は“善く”生きようとしている」という考え方を、もしかしたら「とんでもない」ものなのかも知れないと感じている。自分の考えの進め方に何かの錯覚や混乱が生じたのか、それとも自分がこれまで受けてきた教育や身につけてきた教養に何かの欠陥や歪があって、この「とんでもない」考えに陥ったのかも知れない。あるいは逆に、この考えを「とんでもない」と感じること自体が、これまで自分が受けてきた教育や教養の不幸な後遺症なのかも知れない。村井はいま、この点の判断がつかないと言っている〔211頁〕。

 しかし、それにも関わらず、私はここで村井に強い連帯の意思を表明したいと考える。あらためて振り返ってみれば、村井は以前より、「人間は“善く”なろうとする生物である」と定義できるとし、しかもその「善く」 なろうとする働きのメカニズムはすでに人間のなかに生まれつき組み込まれていて活発に働いていると指摘している(『新・教育学のすすめ』小学館、1978)。ならば、生物進化の事実を考慮に入れれば、ここでの村井の「とんでもない」考え方は、ごく自然な思想の進化と認めることができる。

(唐木田健一)


唐木田健一『アインシュタインの物理学革命―理論はいかにして生まれたのか』〔日本評論社、2018年〕の「はじめに」

2021-08-10 | 日記

本書は,量子論,ブラウン運動,特殊および一般相対性理論に関するアインシュタインの原論文を対象として,その核心を詳細に解説したものである.とくに,各理論においてアインシュタインを導いたもの,あるいは同じことであるが,彼の課題の把握の仕方について着目した.

ここで対象とする諸論文はすべて20世紀初頭の物理学革命に寄与したものである.この物理学革命は世界史的な大事件であった.それは,その後の社会のあり方を,すっかりと条件づけてしまった.視界を学問内部に限定しても,その影響は物理学を越えて自然科学全体,さらには哲学にまで及んだ.たとえば特殊相対性理論は,それまでの時間-空間概念を根底から改変した.また一般相対性理論は,ユークリッド幾何学が現実の世界で厳密には成立していないことを示した.ユークリッド幾何学は,カントのいう「先天的総合判断」(経験と合致する超経験的真理)の体系と考えられていたものである.さらに量子力学は,微視的な世界における諸対象の振る舞いが,日常の巨視的な世界とはまったく異なることを明らかにした.

物理学革命はこのように,影響が広範にわたる重大な内容を有するのであるが,ここでは,これまであまり適切に議論されることのなかった別の点に着目してみたい.それは,この物理学革命においては,それまで真理の規準と考えられ,人々を導いてきたニュートン力学を中心とする諸理論が,他の理論(特殊および一般相対性理論,量子力学)に取って代わられたということである.この,真理の規準とも考えられた体系が他のものに取って代わられるというのは,実は不思議な出来事なのである.

物理学では,経験との一致が要求され,経験は観測および実験により与えられる.したがって,いかに偉大な理論といえど,経験との不一致が明らかになれば見捨てられるであろう.物理学革命はこうして引き起こされたと考えられる.科学者の多くもそのような見解をもっているのであろう.しかしながらそれは,歴史的事実とは一致しない.たとえば,「水星の近日点の移動」という現象がある.これについて,どうしても説明のつかない量が残ることはすでに19世紀の半ばごろには知られており,しかも現在のわれわれはそれがニュートン力学の限界を示していて,アインシュタインの一般相対性理論によって初めて説明が可能な量であることを知っている.しかし,これをもってニュートン力学が廃棄されることはなかった.理論が現象を説明できないといっても,それが直ちに理論の欠陥を意味するわけではない.理論の応用の仕方が不適切なのかも知れない.あるいはわれわれは観測対象に関し,何か重要な要素を見落としているのかも知れない.

あるいは,もっと単純な例をあげれば,われわれの実験室においては,「エネルギー保存の法則」や「質量保存の法則」といった大原理の破れていることがしばしば見出される.かといってわれわれは,「エネルギー保存の法則の破れを発見した!」などとして論文を発表することなどしない.そうではなく,誤差評価が適切であったか,実験のどこに見落としがあったのかを徹底して調べるのである.このように,基本理論や基本原理が経験と一致しないことが見出されたからといって,それをもってそれらが廃棄されてしまうことなどはあり得ない.

他方,「経験と一致しないからといって基本理論が廃棄されるなどということはない」という事実をもって,「科学理論の変化はいわば宗教的回心のようなものであって,そこに合理的理由はない」とする奇態な主張が一時,主として科学外の世界において,蔓延したことがあった.その主張をまとめれば次のようになるであろう.すなわち,新しい理論は,さまざまのいわば政治的な多数派工作によって,古い理論を駆逐することにより勝利を獲得する.新しい理論の提唱者(「発見者」)は古い理論とはまったく別の思考の枠組み(《パラダイム》!)に依拠し古い理論とは対立していて,両者の間は言葉が通じ合わない(すなわち「通約不可能」の)関係にある.ということで,この主張においては,科学において進歩なるものがあるのか,それともないのかが曖昧にされてしまう[1]

基本理論が変化するのは実験や観測によって反証されるためではないし,ましてやいわゆる宗教的回心にたとえられるようなものでもない[2].科学者たちの規範であった理論が他の理論に変化する(取って代わられる)のは,まさにその規範性によるのである.すなわち,最高の権威をもつ理論を否定できるのは,その理論自身以外にない.基本理論はその内部矛盾によって変化を導くのである[3].具体的には,特定の課題を解決するため,基本理論を中心とした諸理論を動員しておこなう理論的活動が,深刻な矛盾を露呈する.そして,真正の矛盾は,それを解消しようと努力すればするほど顕在化してくるという性質をもっている.これが理論変化の動機および必然性を根拠づけるのである.

理論と合わない事実(観測や実験の結果)の存在は,単にそこに研究課題があることを意味するに過ぎない.事実は理論的活動に取り込まれ,そこに矛盾を生じさせることによって初めて,理論変化に寄与する.また,矛盾は特定の課題に向けた理論的活動において見出されるものであり,そこには既存の諸理論が動員される.したがって,発見者は例外なく既存の諸理論に通じており,それを首尾一貫して理解しようとする性向を有している[4]

発見者はこのように,少なくともさしあたっては,既存の諸理論を足場にする.また,理論内部の矛盾を明らかにするために,さしあたっては特定の立場を採用し,それに対する否定を引き出すという操作が用いられることもある.そのため,のちの時代になって発見者の原論文に接した読者は,発見者の革新性に疑いを抱くことすらある.しかし,「さしあたって」の立場は仮の立場なのであって,この点の注意が必要である.

上に述べた基本理論の変化の機構および発見者の振る舞いについて,私がむかしから着目しているのがアインシュタインである.私の見解によれば,彼は既存の諸理論を足場にしてその矛盾を追究し,そののりこえをめざすという活動を,きわめて自覚的におこなっている.そのことは,彼の諸論文の「序」に典型的に表れているが,本文における論理展開においてもしばしば見出すことができる.アインシュタインは論文によるプレゼンテーションがきわめて巧みであることが知られている.既存の重要な理論における矛盾が明確にされれば,読者は論文の扱おうとする課題をよく理解できるし,それに対する興味も引き起こされる.また同時に,新しく提起された理論の首尾と意義とが深く印象づけられるであろう.

本書は,諸分野におけるアインシュタインの問題提起とその解決に向けての努力を,主として彼の原論文にもとづいて紹介する.これにより,アインシュタインを通して,いかに物理学革命が起こったのかの一端を伝え,またとりわけ彼の課題把握の仕方,問題提起の仕方が明らかになるよう意図した.

本書は,その趣旨からして,物理学を専攻としない広範な人々も読者に想定している.本書がそのような人々に対し,アインシュタインの原論文へのよきガイドとなることを願っている.アインシュタインの原論文はいずれも,手本となるほどに,明晰かつ懇切である.しかし,それらは学術雑誌への投稿論文であり,本書ほどにわかりやすいものではない.

なお,誤解は避けておきたいが,本書で着目する「方法」は大理論のみが対象なのではない.課題に関わる諸要素を首尾一貫して統合し,そこに矛盾・不整合・欠如を見出すこと,あるいは,それまで独立と考えられていた要素間に関係を発見することは,日常的な課題にも有効に活用できることである.大理論の場合との違いは,課題解決の結果が既存の枠組みにおさまるか,あるいはそれをはみ出すかにある.結果が既存の枠組みにおさまったとしても,それ自体は何も,課題解決の価値を低めるものではない.

2018年3月15日

唐木田 健一


[1] 実際,こんな主張がかつて,一世を風靡したのである.その実態と詳細については次の文献参照:藤永茂『トーマス・クーン解体新書』ボイジャー・プレス(2017).

[2] なお,私自身は「宗教的回心」も当然,合=理的探究の対象になり得ると考えている.

[3] この点について私はすでに他の文献で考察した:唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995).

[4] かつて,創造活動に関して,既存の知識は先入観となって創造の妨げになるかのような議論が横行し,あえて無知・無学が奨励されるようなこともあった.これはまったく創造の理論に反する.仮に無知・無学に有用な点があるとすればそれは,既存の知識に通じそれを首尾一貫して理解しようとする性向をもった人に対して,ブレークスルーのためのヒントを与え得るということに過ぎない.


渡辺慧教授の論文「求む:理論変化の歴史的・動的見解」に答える

2021-08-04 | 日記

これは2021年6月22日付本ブログに発表したAn Answer to Prof. S. Watanabe’s Paper titled “NEEDED: A Historico-Dynamical View of Theory Change”の日本語訳です。なおこの記事は、藤永茂さんの二つのブログ「私の闇の奥」および「トーマス・クーン解体新書」における各7月1日付投稿「君はトーマス・クーンを知っているか?」で御紹介いただきました。

唐木田健一

     *

 

1.はじめに

 渡辺慧教授は「求む:理論変化の歴史的・動的見解」という題名の論文を発表し[1], 理論変化の問題を論じているほとんどの著者たちを批判した。彼は批判の対象に主としてトーマス・クーン[2]を選んだが、彼の反対意見はクーンへの批判者を含む他の著者たちにもあてはまると主張する。渡辺によれば、論者たちは歴史における現実の理論変化を論じているということを忘れてしまっているようにみえる。そこで彼は、この主題の議論に対する不満足な点として、互いに関連する四つの項目を特定した。

 

2.渡辺の四項目

(1)変化の一方向性

 クーンの理論は歴史の一方向性をまったく反映していない。新旧二つの理論をAおよびBとしたとき、AのBに対する関係f(A,B)のもっとも重要な点はその非対称性、すなわちf(A,B)≠ f(B,A)で特徴づけられる。この非対称性をまともに考慮しない理論は、いずれも理論変化の歴史的研究の名に値しない。クーンは理論AおよびBを、二つの同じ有効性をもった選択肢であるかのように比較している。彼は彼の本の最後の章で唐突に進歩の概念をもち出したが、それは先立つ諸章における彼の主張と直接に矛盾することとなった。

(2)変化と連続性

 クーンは二つの理論間は通約不可能であると主張する。彼は二つの理論を二つの言語にたとえ、言語は基本的に翻訳不可能であることを強調する。しかし、言語哲学者や言語学者が何と言おうと、既存の人間の言語は、日常の人間生活において完全に有効な程度には互いに翻訳可能である。科学における新旧二つの理論についてあえて言語の類比を適用するなら、それはたとえばホピ語と英語ではなく、大人の英語と子供の英語にたとえるべきである。子供の言葉は大人の言葉に翻訳できる。しかし、その逆は成立しない。同様にして、ニュートン力学の言語は、アインシュタイン力学の言語において完全に理解できるし、またそれから導出することができる。しかし、その逆は成立しない。

(3)変化の動力学

 クーンは科学革命の原因として異常あるいは危機の役割を強調する。しかし、彼の考え方にしたがうと、旧理論と矛盾する経験的事実が現実には発見されなくとも、ときには科学革命(理論変化)が生じることの理由を説明できない。さらに彼は、危機の醸成に対する、またある場合には概念形成に対する、外部因子の影響について何も触れることがない。これらの欠陥は、クーンの理論が理論発展の過程について、基本的な歴史的・動的理解に欠けることを明らかにしている。

(4)理論の唯一性

 クーン主義者たちは、経験の同じ領域において、多くの選択可能な理論があると信じている。しかしながら、知的誠実さとともに科学の現実の歴史に対面する者は、歴史的に受け入れられた一つの理論は可能な唯一の理論であることを見出す。たとえば、通常特殊相対性理論で扱われる力学の領域において、別の理論を生み出すことが可能であろうか。クーンの理論はこの簡単な歴史的事実を扱うことができない。

 

3.理論変化A→Bという図式について

 理論変化A→Bの図式においてBを新理論とすると、理論Aは一つの既存の理論であることはもちろん、既存の諸理論の組合せを意味することもある。コペルニクス革命については、理論Aはプトレマイオス体系であり、これは典型的なA→Bである。特殊相対性理論の場合、アインシュタインは「運動する物体の電気力学」を研究するため、ニュートン力学(ガリレイ変換)をマクスウェル電磁理論と組合せた。結果として、ニュートン力学は重大な変化をこうむったが、マクスウェル理論はそのまま残った。黒体輻射の問題は、最終的には量子力学を導いたが、ニュートン力学はもとより、熱力学、統計力学、波動理論、電磁気学、等の種々の学問分野を必要とした。量子力学の確立は、これらすべての分野に大きな変化をもたらした。

 

4.新たに提案された理論変化の理論

 理論変化A→Bの鍵となる要因は理論Aに見出された内部矛盾(首尾一貫性の欠如)である。すなわち、新理論Bは理論Aの矛盾をのりこえることにより生成される。言い換えれば、クーンの主張とは異なり、AとBは二つの競合する理論ではなく、BはAから生まれる。

 コペルニクスは、数学者(プトレマイオス派の天文学者)たちが研究において首尾一貫していないことを知り自己の体系へと導かれた[3]。特殊相対性理論においてアインシュタインは、マクスウェル電磁気学を運動物体に適用した場合の理論的解釈が「非対称」(不整合)であることを発見した。量子力学の成立過程における波動-粒子の二重性(矛盾)はよく知られている。

 観測データは、理論的取扱いを通して理論内部に矛盾を引き起こしたときにのみ理論変化に寄与する。光電効果に関するアインシュタインの理論的解釈(「光量子仮説」)は既存の諸理論のなかに矛盾を引き起こした。それとは対照的に、水星の近日点の移動に関する異常は19世紀の半ば以来知られており、アインシュタインの一般相対性理論(1915)は、その現象がニュートン力学の適用範囲を超えることを明らかにしたが、異常そのものが理論変化を引き起こすことはなかった。

 

5.理論AおよびBの関係:「半通約不可能性」

 理論変化はAからBへの飛躍であり、

(a)理論Aは飛躍の枠組みを構成する。しかし、

(b)理論Bは理論Aから演繹することも、それに還元することもできない。他方、

(c)理論Aの真の意味は、理論Bにおいて初めて明らかになる。たとえば、ニュートン力学の究極の意味は、特殊相対性理論および量子力学の光のもとで初めて理解されたのである。

 私はこの関係を「半通約不可能性」と呼ぶ。すなわち、AからBへは論理的飛躍が存在する。しかし、AはBにおいて理解できる。

 私はこの関係を科学における理論変化の研究から導出した。しかし、あとになって、この関係はジャン-ポール・サルトルの「投企(Pro=jet)の構造」[4]と同じものであることを見出した。さらに私はこの関係がマイケル・ポラニーの「生命の還元不可能な構造」[5]と同じものであることも見出した。すなわち、AとBの間のこの「半通約不可能性」の関係は、当初考えられたものより、一般的な意味をもつことがわかった。

 

6.渡辺に答える

 「半通約不可能性」の関係は、渡辺の四項目のうち、「(1)変化の一方向性」および「(2)変化と連続性」の二つの項目(2節)に答えることができる。すなわち、AからBへは論理的飛躍が存在するが、AはBにおいて理解できる。このことは、Bに対するAの関係は、その非対称性により特徴づけられることを意味する。

 理論と矛盾する経験的事実が現実には発見されなくとも、ときには科学革命(理論変化)が生じることの理由〔項目「(3)変化の動力学」〕は、特殊相対性理論を一例として4節で説明した。アインシュタインは理論的に矛盾を発見したのである。

 私の理論によれば、理論変化A→Bの鍵となる要因は理論Aに見出された内部矛盾である。したがって、理論変化に寄与した発見者は、古い理論の枠組みに属していたのである。このことは変化の動力学を説明する。すなわち、理論変化は理論的な問題である。そして、理論にとっての最大の問題は、その内部矛盾の存在である。それはその理論に深くコミットした人にとってはとりわけ深刻な問題である。それに加え、基本的な矛盾は、それを解こうと努力すればするほど、ますます明らかになるという性質をもっている。これが理論変化を動機づけるのである。

 外部要因の影響は、サルトルの投企の構造(「意味のピラミッド」)によって本質的に理解できる。しかし、それについてここで立ち入って議論することはしない。〔本ブログ記事「”社会構築主義”的問題:理論評価に対する”社会的要因”の関与について」参照.〕

 項目「(4)理論の唯一性」について、仮に経験の同じ領域において二つの独立な理論が成立可能であるとすれば、それはその理論領域にのりこえるべき矛盾が存在することを意味するに過ぎない。

 

7.おわりに

 私の見解によれば、理論を評価する先天的な基準は存在しない。しかし、理論AとBの間の「非対称性」、あるいは理論における進歩は認識可能である。歴史のただ中において、我々は自己の選択の正しさを保証してくれる「客観的目印」は何も有しない。しかし、選択の結果は評価にさらされるのである。投企の概念によれば、人間はその状況における選択により定義される。これは科学史の研究において、我々がまた注目する点である。

 

理論変化に関する唐木田健一の著作物

論文

『科学基礎論研究』16、No.3(1983)、17-21頁.

『化学史研究』 1985、186-192頁;1988、185-190頁;16(1989)、49-54頁;27(2000)、 169-175頁;28(2001)、171-174頁;31(2004)、215-224頁。

『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995)。

西村和夫ら編『分数ができない大学生』東洋経済新報社(1999)、37-58頁;筑摩書房(2010)、 61-85頁。


[1] S. Watanabe, Syntheses, 32 (1975), pp.113-134.

[2] T. S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, The University of Chicago Press (1962, 1970). 

[3] コペルニクス『天球の回転について』(1543)の序文。また、板倉聖宣『科学と方法』季節社(1969)、81-133頁も見よ。

[4] J.-P. Sartre, Critique de la raison dialectique (pécédé de Question de méthode), Tome I, chapter III, Librairie Gallimard (1960). また,本ブログ記事、「半通約不可能性」における問題(1)参照。

[5] M. Polanyi, Knowing and Being (ed. by M. Grene), The University of Chicago Press (1969), 14. また,本ブログ記事、「半通約不可能性」における問題(2)参照。