唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

1968年11月の東大文学部「無期限団交」のこと

2021-10-14 | 日記

最近刊行された私の『科学・技術倫理とその方法』(緑風出版)の2章の4では,山本義隆氏(当時東大全共闘代表)による丸山真男批判を扱い,関連して1968年11月の東大文学部における「団体交渉」について触れました.本ブログでは,唐木田健一『1968年には何があったのか』批評社(2004)の25章にもとづき,次の記事を掲載します.文中の日付はすべて1968年11月を現在時としたものです.

     *

 

25.文学部無期限団交

 11月10日(日).

 総長事務取扱の加藤法学部教授はきょう初めて評議会を招集し,信任投票を行って,総長代行に就任したという.「紛争」解決のために責任と権限を強化したいということらしい.

 いまマスコミは文学部の大衆団交のことで大騒ぎをしている.新任の林健太郎文学部長がこの4日以来学生たちによって監禁されており,人道問題であり人権侵害であるというのだ.学生たちが誹謗中傷の的となっている.いつものパターン―暴力学生キャンペーン―だ.

 新聞報道によれば,林教授の「友人有志」という13人の《文化人》が「緊急の訴え」なる文書を発表している.作家・三島由紀夫も名を連ねていた.三島はまぁよいとして,この13人の中には東大の教授と助教授が一人ずつ加わっていた.彼らは一体どこを見て何を考えているのか.自分たちの勤務先の問題ではないか.

 この団交は学生と教官双方の合意で4日の午後10時から開始された.300人近くの学生に対し教官側も林文学部長をはじめとする約40人が出席した.ただ,話は平行線をたどり,一向に進展しなかった.教官たちはダウンしたとして次々と退出し,一昨日の8日にはついに林学部長とY助教授の二人だけとなった.

 この8日の午後,全学の教官約300人が団交が行われている文学部の建物の前に集まり,

「林学部長を即刻釈放せよ」

「諸君はそれでも学生か.理性を取り戻せ」

「大学は,人権は,理性は暴力に屈しないぞ」

 などとシュプレヒコールをしたと報道された.また,伝えられるところによれば,この集団をリードしていた教官は,

「皆さん,恥も外聞も忘れて,大声で抗議しましょう」

 と言ったそうだ.そう,あのお品のよい方々は通常は絶対こんな振る舞いはしないのだ.そして,《お集まりの皆さん》は,30分もしないうちに,

「教授の皆様御苦労様でした.さあ引き上げましょう」

 というアナウンスでさっさと帰って行ったとのことだ.

 この教官の集団には,著名な政治学者である法学部の丸山真男教授の顔も見えたと言われる.丸山教授といえば,この8日付で,全学の教官約50人の名前が入った「学生諸君に訴える」という文書が発表された.

 十一月四日以降文学部二号館において行なわれているいわゆる「大衆団交」は,一定の主張をおしつける目的をもって学部長・評議会その他の教授助教授を監禁状態のもとにおき,既に四晩を経過しています.これは,話し合い─そもそもこれを話し合いと呼びうるとは毛頭思われませんが,仮にそう呼んでおくとしても─のあり方とはとうてい考えられず,基本的人権の重大な侵害にほかなりません.

 ことは生命の危険の問題に局限されるものではなく,たとえいかなる待遇がなされていようとも,そもそも人を監禁状態において会見を強要すること自体が,許すべからざる暴挙であります.それはたんに理性の府としての大学にあるまじき行為であるのみならず,何よりもまず争う余地のない人権の蹂躙であります.かような行為を大学において敢えてするということは,文字通り大学を日本国憲法の及ばない無法地帯とする暴挙であり,私共は大学人として断じてこれを黙視することはできません.

 私共は,このようなことを行なっている学生諸君に対して強く抗議し,一刻も早く監禁を解くことを要求いたします.そして,その他の学生諸君に対しても,諸君の人権感覚をよびさまし良心の命ずるところに従ってただちに勇気ある行動をとるよう訴えます.

 この文書の署名者の一人が丸山教授だった.私は全共闘には丸山教授の過去の諸著作に敬意を表している人たちが多いことを知っている.彼らは今いかなる感慨を抱いているのであろうか.

 今回の大衆団交に先立って文学部ではいろいろなことがあった.大河内執行部の総退陣のあとの11月2日に,文学部の学生委員長(教授)は新しい学部長を選出する前に大衆団交を行うと学生たちに約束した.しかしながら翌3日,文学部は教授懇談会なる名前で,この約束の一方的な破棄を通告した.そして,4日の早朝,秘密教授会において林学部長をはじめとする新執行部が選出された.団交が開始されたのはこの日の夜だった.

 林教授は右翼的タカ派の論客として知られている.このような時期に彼のような人物を学部長に選出した文学部教授会の覚悟と見識はなかなかのものである.それに,林教授は確かこれまで文学部の評議員だったはずである.責任をとって辞任したはずの評議員が学部長に御出世なのか!?

 団交における学生たちの追及の中心は「文学部処分」の問題だった.「文学部不当処分撤回」は全共闘の七項目要求のうちの一つだった.

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 文学部には,「相互の理解を深め,文学部学生の教育,研究,自治活動に関する種々の問題につき協議」する機関として,十数年来「文学部協議会(文協)」という会議体があった.教授会・助手会・学友会(学生自治会)から構成された.ここ数年,文協の開催は公示され,公開の場として,委員でない学生も傍聴できた.

 文学部の学友会はそれまで民青によって支配され,彼らは教授会に彼らの個別要求を認めさせる場として,文協を利用してきた.しかしながら昨年6月の選挙で,委員長を除く常任委員全員がこれまで反執行部として活動してきた学生たち(革マル派系)に代わった.すると教授会側は,文協をオブザーバー抜きで正式の委員だけで開催すること,それ以外は文協とは認めないということを通告してきた.その後数度の機会にわたって教授会と学友会との間では激論が続いた.

 昨年の10月4日,約2時間の議論のあと,教授側の委員は「教授会の時間なので退出する」といって腰を上げた.学生側は,それを止めて,「次の日時を答えてほしい」と要求した.教授側の委員5名はそれに応えず,「それ!」という掛け声とともに入口に殺到した.付近の学生たちは,抗議しつつそれを阻もうとしたが教授たちの勢いにおされ,(現在の文学部ストライキ実行委員会の表現によれば,)「全員の退出を許してしまった」.このときの揉み合いが処分の対象となったのである.

 その2カ月余りあとの12月22日,文学部は山本学部長名で哲学科4年のNさんの停学処分を発表した.それによれば,NさんがT助教授─この人は教授たちの退場のとき先頭にいたらしい─の「ネクタイをつかみ暴言を吐くという非礼をおかし」「学生の本分に反する行為があった・・・・・」ためということだった.この処分には期限が明記されていなかった.無期停学である.

 Nさんはネクタイをつかんだという事実を否定した.逆に,学友会は,「T助教授がNさんの胸ぐらをつかみながら外に出たため,Nさんは助教授の手を払いつつ廊下で抗議をした」と主張した.

 文学部学友会は処分撤回闘争に立ち上がったが,当局は何ら交渉に応ぜず,また処分再検討の姿勢も示さなかった.今年の3月になって例の医学部の大量処分が発表されると,学友会は両処分の類似性を明らかにし,医学部と連帯して,卒業式・入学式の闘争を展開した.6月の機動隊導入以降,文学部学友会は全学の先頭に立ち,6月26日より無期限ストで闘っていた.

 ところが,興味深いことに,今年の9月になってNさんの無期停学は突如文学部教授会によって解除されたのである.理由は「教育的配慮にもとづく」とのみ説明された.退学や無期停学が解除されることはめずらしくない.ただ,それは当人が十分に謹慎改悛の情が顕著な場合だった.一方,Nさんは,6月には文学部の学生大会で議長に当選するなど,処分後も大活躍だった.処分解除の理由など皆無だった.

 文学部教授会は,処分を解除することによって,それを既成事実化したのだろう.解除されたのだから撤回の必要はないという理屈だ.

 医学部処分はこの11月1日に撤回されたが,その理由は,(1)本人からの事情聴取をしなかったこと,(2)紛争の最中に一方の当事者である医学部の教授会がもう一方の当事者である学生を処分したため「政治的処分」と受けとられてもやむを得ない面があったこと,(3)教授と学生の間の不信の溝は深く大学の処分としての教育的意味を持ち得なかったこと,であった.

 文学部処分においても(2)と(3)は明らかにそのまま成立する.問題は(1)である.文学部教授会は,事情聴取はちゃんと行ったのであり,そこが医学部処分と違うところだと胸を張っているらしい.

 処分に先立ち,Nさんは数度にわたって教授会に呼び出された.彼が謝罪しない限り文協は閉鎖すると言われたからだ.Nさんは呼び出しには応じ,事件の捏造と文協閉鎖への動きに抗議した.これに対し教授会は,「反省の色がないと罪が重くなる」などと脅した.この一連のやり取りをもって文学部教授会は「事情聴取」と称しているらしい.

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 文学部団交初日の4日は午後の10時に始まって徹夜し,翌日の午前8時頃まで続いた.5日は休憩のあと,午後8時から翌日の午前1時頃まで.6日以降は,テキがだんまりの戦術を採用していることもあって,日に1~2時間程度の追及の模様.きのうの9日は医師の診断だけで終わったらしい.

 このような交渉の仕方は無論変則であると私は思う.しかし,教授たちはこれまで,話し合いに応じた場合でも,途中で逃亡しその後一切姿を見せないということが余りに多かった.このような人たちを相手に交渉を続けるには,常に相手に居場所を明確にしておいてもらう必要があるだろう.解決しなければならない問題の存在は明らかなのであって,教授たちはそれに大きな責任を有しているのである.

 それに教授たちはいままで,学生が話し合いを求めているといって学生の前に姿を見せ,二つ三つの質問に答えれば義務が果たされるかのように勘違いをしていたように思われる.我々は当初から,ともかく先生たちに話を聞いてもらえば気が済むなどと考えていたわけではなかった.我々は単に問題の論理的解決を求めているのである.私には妥協はあり得るように思われた.しかし,それはあくまで筋が明確にされたのちの話であった.

 それにしても,文学部団交に対するマスコミの非難キャンペーンが激しくなったときにノコノコ現れ,「暴挙」だとか「人権侵害」だとかいう教授たちの学問とは一体何なのだろう.

 「恥も外聞も忘れて」シュプレヒコールをした教授や「良心の命ずるところに従ってただちに勇気ある行動をとるよう」「その他の」─すなわち闘っていない─学生に訴えた教授たちは,これまでなぜ事態を黙視してきたのか? これまでは立場上言えないこともあったということなのか.それなら私にはわからないこともない.そして,今回は勇気を出して行動したということなのか,それとも今度は立場上言わなければならないことになったということなのか?

 よく考えてみれば─あるいは別に考えてみなくても─彼らは実に重要な立場にある.だから,立場第一とすればそれもわからないわけではない.むしろ,その立場自体が問題だと考えるべきなのであろう.

☆本記事に関連しては,「1968年10月の東大理学部“大衆団交”のこと」も参照して下さい.


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