おもしろケアマネ全員集合! (監修:アヒルとガチョウの2人)

主任介護支援専門員・社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士の男2人が『笑い』と『気づき』の情報を共同発信いたします。

高齢福祉業界を自ら回想する。パート3        【ガチョウ】  

2009年06月24日 | お出かけ
 2週間の研修も終わり、自分の勤務する特養へ戻った。

研修後は、研修報告書をまとめて提出しなければならない。

勤務先の報告書と研修実施主体への報告書と2つもある。

文字が埋まっていればいいと勝手に思い込み、私の感じたことを上り下り書いた。

あまり手抜きすると起こられるので、少しは起承転結でのらりくらり書いた。

大事な要点を探しては、繰り返したり、強調したりして文字を埋めていた。


 職場の環境も特に変化無く、相変わらずである。

私が2週間いなかったので、穴埋めで困ったわよと嫌味も言われた。

確かに夜勤の欠員や入浴介助も不足するだろう。

早番・遅番などのやりくりもあったかもしれない。

あたま数という人足の部分では、迷惑を掛けてしまった。

でも、一日の要員が確保できれば大したことはない。


 だって当時の入所者は、今で考えれば要支援1から要介護1レベルが圧倒的だ。

もちろん要介護5の寝たきりの人も数人はいる。

要介護2から4レベルの人もいたかもしれないが少ない。

完全自立と思われるひとは、結構いたような感じ。

中には、職員以上に手伝ってくれる入所者だっていた時代だ。


 ADLが高い人も多く、措置時代と介護保険の契約入所とは比べ物にならない。

ベッド買いもあり、区・市との契約ベッドが空けばそこの住民が入所になる。

でも、直ぐに入所にはならず、数週間空いていたこともあった。

施設側が総合的判断をして、入所予定者のADL逆指名もあった。

将棋をする時間・釣りに出掛ける時間・買い物に行く日もあった。


 措置費・援護費・各種補助金で、要介護6か要介護7の金額が施設収入だった。

けれども、入所者は要支援1から要介護1レベル。

施設全体に、ゆとりがあった時代である。

でも女性陣には、人間関係のゆとりはなかったかもしれない。


 さて、研修後に当時の寮母長や寮母主任が、こんなことを言う。

○○さん、本当に変わったわね! と。

えっ、 私は本当に何も変わっていないはずである。

約1年間は、介護のことが分からず、怒られたりしながら教えてもらった。

嫌味も言われ、時には反論もした。

嫌々の毎日を過ごし、2週間の研修も行きたくはなかった。

そんな状況で、私の意識が変わっているはずがない。

ちなみに、寮母長も寮母主任も、優しいおばちゃんで本当に良い人だった。

人格も良かった人に、予想外で褒められた。

これが、当時の生活指導員や事務長に伝わって、偽・変化バブルが生じた。


 他施設へ行った2週間の研修が年間(年度)で終わる時に報告の発表がある。

悪いことは重なるもので、その発表者に選ばれてしまった。

先に、発表予定として施設に連絡が入ったようだ。

これで、偽・変化バブルに火がつくことになってしまった。

当時は、まだまだの時代で試行錯誤の時代だった。

そこに、偽バブルが生まれてしまい、偽メッキを被せられた。

都内数ヶ所の老舗特養で行われた研修参加者が、その日に集まった。

初めて、茗荷谷にある研修施設に行った日でもある。

1年間、数ヶ所で行われてた研修なので、人がたくさんいるではないか。

そこで発表するのは、本当に緊張してしまった。

福祉業界に入って、その時は2年目。まだまだ何も知らない。

何をどう発表したらよいのか分からない。

研修報告書を基に、その内容を読み上げるだけであった。


 その後、偽バブルをどうするか考えた。

本当に困ってしまい、メッキを被され堅苦しくて困っているが、それをまた脱げない。

そうだ、消費税増税や値上げの時の便乗値上げを思いついた。

もう、こうなったら偽バブルに便乗するしかない。

生活指導員・寮母長・寮母主任も褒めてくれた。

理事長も、その配偶者の施設長も、事務長も評価してくれている。

こうなったら、必死に頑張ってメッキ状態から純度を上げようと考えた。

職員会議では、建設的な意見を述べたり、入浴介助で汗を書いた。

夜勤に欠員が出れば、積極的に名乗り出た。

全館ワックス日でも、雑巾がけとモップだけを頑張り、ポリッシャーは男の先輩へ。


 その後、なんちゃって副主任になった。給料が1号級上がってしまった。

数ヵ月後、ポリッシャー役のマイクロバスを運転する介助員に言われた。

○○君、大型免許取ってくれるかな! 事務長からも、そう言われると思うからね!

どうやら、買い物日や施設行事・一泊旅行でマイクロバスの運転は重要らしい。

運転そのものが重要ではなく、この介助員の勤務表に合わせることが難しいようだ。

もう一人、大型免許を持っている職員がいると、勤務表作りが楽になるとのこと。

事務長からは、免許費用は自分のお金と言われた。

その代わり、毎月8000円の手当てを付けると言う。

表面利回りと実質利回りが同じ、約50%だが了承した。


 だんだん、職場の雰囲気にもなじんできた。

職員の研修旅行が予定されている。

いつもは大人しい理事長が、盛んに職員旅行の説明をしている。

連日、理事長のテンションも上がり、旅行の豪華さを寮母さんにも説明していた。

説明中は、寮母さんの肩をポンと叩いたり、お尻を触ってガンバレと言っている。

この時代は、アセスメントとか、ハラスメントとか言う言葉も使わなかった。

アサノセメントということは、私も知っていた。

 
 旅行当日は、日の丸観光だか日の丸自動車だか忘れたがベンツのバスだった。

理事長から説明を聞いていたので、驚きもしなかった。

職員旅行は、ちょっと豪華にしないと理事長の機嫌が悪くなるらしい。

もちろん、トイレも階段下に設備されている。

バスが発車すると、経理担当の職員から封筒が配られた。

中には壱万円札が1枚入っているではないか!

職員の研修旅行のお小遣いまで支給される。本当に特別だ!




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高齢福祉業界を自ら回想する。パート2

2009年06月24日 | お出かけ
 社会福祉法人に転職した当時は、まったく介護なんてしたこと無い。

知識も無ければ、技術もなかった。おまけに人格だって立派に形成されていない。

だから良く怒られていた。ちゃんとアニマル見たのって?

アニマルって何のことか分からない。

動物のことなのかなと、考え込んでしまった。

そして、ようやくマニュアルであることと理解できた。

中高年の介護職のおばちゃん、マニュアルとアニマルを混同していたようだ。


 みんな仕事のことより、人間関係でピリピリしていたことを記憶している。

人格が破滅している人が多かったので、上下関係や他職種でイライラしてしまう。

看護師も例外ではなく、人格が破滅している凄まじい感性・感覚の人もいた。

もちろん、素晴らしい人格の中高年女性もおり、皆の信頼も厚い人もいた。


 みんな辛い状況があったけれど、今より恵まれていた給料もあり辞めない人も多い。

それなりの給料を我慢料と考えて、生活のために必死な人もいた。

えた・扱いされるのは嫌だと辞める人もいた。

下克上もあったり、派閥もあったり、寝返りで派閥替えもあった。

おもしろいことにクーデターもあった。本当に集団で戦いに望む女性戦士がいた。

こんな状況の中、ヤバイ環境に入り込んでしまったなあと後悔もした。


 臭覚も敏感になってきたが、私にも生活があったし子供も生まれてしまった。

仕方が無いから必死に頑張った。

そんなこんなの状況もあって、職員も淘汰されていった。

新しい事務長に反発したクーデターも終わり、平穏になりつつあった。


 1年を過ぎた頃、東京都社会福祉協議会(東社協)の研修に行かせてもらった。

当時の研修は、東社協が主催するものが多かった。

ブロック別研修では、エリア内の施設と共存共栄の仲間意識があった。

施設見学や介護の改善効果の発表や取り組みなどを他施設に広めていた。

全国大会の研修もあったし、2週間の他施設で学ぶ研修もあった。

当時の研修キーワードはこんな感じであった。

「痴呆性高齢者の処遇」「個別処遇」という今とは違う表現。

今では、認知症高齢者のケア・個別ケアと言い換えられている。

 この表現を比べれば、まだまだ集団処遇という施設っぽいイメージがある。

入所者は、利用者とは呼ばれていたものの、行政処分的な措置された者であった。

そして措置を受ける人は、まだまだ特殊な状況の人であった感じがする。

当時の社会的な状況があって、社会的入院後の社会的入所になっていた人もいる。

 
 そんな特殊性があった中で、2週間に及ぶ研修にも行かせてもらった。

今から14年くらい前の話であるが、この研修は大きな転機になった。

この研修は、私の勤務する法人では初参加であった。

都内の老舗特養に2週間も通勤する。もの珍しく色々あったし、とにかく懐かしい。

通勤時間は、自宅から2時間も掛った。往復4時間である。

内容も当時で言うところの、痴呆性高齢者の個別処遇を考察するもの。

担当する利用者を1人決め、比較的自由に余暇時間を過ごすことであった。

介護の方法論を学ぶことではないので、この人への直接介護はほとんど無い。

排泄・入浴介助などは、この施設の職員が対応してくれた。

研修生の私にも担当のスーパーバイザーがついた。

中堅の男性職員で優しい感じのする職員であったが、ちょっとホモっぽかった。

この施設では、年間を通じて東京都内の特養から2週間の研修を受け入れていた。

驚いたことに、中国とフィリピンの施設からの海外研修生を受け入れているようだ。

内容は違うものの、初日のオリエンテーションだけは一緒だった。

私と同じ研修を受けに来ていた人は、もう一人いた。

年齢は、少し上であったが男同士で仲良くなれた。

昼食は一緒に食べたり、帰りは、一緒に帰ることもあった。

休憩時間は、研修生専用の部屋で休む。

タバコを吸い、缶コーヒーを飲みながら雑談した。

私と同じように転職組で、もちろん無資格である。

まだまだ、知識・技術も知っていることもない。

早く研修が終わればいいね。ぐらいの気持ちで来ていた仲間だったかもしれない。




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