「そうして、ふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
古い本がパタンと閉じられる。
「それからどうなったの?」
小さく幼い指が表紙に描かれた異形の者の姿をなぞりながら訊く。
「それでおしまいだよ」
「そんなのへんだよ。ここにすんでたふたりはいつまでもしあわせにくらしたんでしょ。いまはどこにいるの?」
本棚に囲まれた小部屋を見回しながら訊く。そのとき彼が話を取り違えていることに気づいた。
「 . . . 本文を読む
まことに愛らしい少女であった。
白い肌にはしみひとつなく、ふっくらとした頬は薄紅に輝き、紫色の目は宝石のよう。豪奢なドレスからはえくぼのある可憐な手がのぞいている。
「つまんなぁい」
もう口癖になってしまった言葉を、少女はまた呟く。
昔、誰かが少女を抱きしめた。誰かが言った。
「貴女のお友達ですよ。仲良く遊びなさい」
ずいぶん昔のことだ。
少女にはたくさんの「おともだち」があった。お姫 . . . 本文を読む
ランチのとき、祖母の家には渡し船に乗って行ったと話すと、へえ、すごい田舎なんすね、と言われた。まあ知らなくても無理はないが、大阪市内にも渡船場はある。
祖母の家は大正区のやや南の方にあった。地図上では我が家からすぐなのだが、間の川に橋がない。電車やバスを使うとなるとぐるっと遠回りしなくてはならない。小学生だった私は、まだ補助輪の取れていない自転車で出かけた。渡し船は自転車も乗せてくれる。船着場 . . . 本文を読む
「10、9、8、7……」
コトン、コトン、と音がする。
それが降りてゆく自分の足音だと気づいたころ、ひらけた場所に出る。
原っぱの真ん中に大きな切り株がひとつ。見覚えがある、ような気がする。きっとこれはとても不思議なもので、たとえば、覗き込むと鏡のようにわたしの未来を映す、のかもしれない。期待しながら切り株の縁に手をついて覗いてみれば、けれどそこにあるのはあたりまえの年輪。よく知った乾いた手触り。 . . . 本文を読む
あなたは左の掌を見ている。
ゆっくり、一本づつ指を曲げ、指先同士を触れさせる。まず親指と人差指。次に中指を加える。
すると、薬指もその仲間に加わろうとするのだ。小指は知らんぷりしているというのに。
ひとつまみの形は、小指ぬき、薬指ぬきでできている。けれど薬指は無関心でいることができない。いつも隣の動きに気を配っている。疲れる生き方だ。
雨上がりにいきなり増殖したきのこをつみ取るように、薬 . . . 本文を読む
浮いていた。
四角い、なにか建物みたいなものが中空に浮かんでいた。
「……そうか。これは夢だな」
「ええ、夢です」
声のした方を見ると、てらてらした作業着姿の男が立っていた。
「夢なんですが、どこかで水漏れしたらしくって警戒水位より下がってしまって。浮御堂もあのとおりです。」
と、例の四角いものに目をやりながら言う。そして、ご迷惑をおかけして申しわけありません、と深々と頭を下げる。つられて . . . 本文を読む
水を汲み上げる。きのう雑貨屋で買った安物のポリバケツだけれど、そんなことは関係ないらしい。腕ほどの長さの筆に泉の水を含ませ、敷石に古い詩を書く。向こうでは 錆びたペンキ缶を使っている人がいる。簡素な道具だけれど、筆の入れ方、運び方、止めも払いも端正で、見惚れるほど美しい。
彼が一編の詩を書き終えると、途端に文字は蒸発してしまう。跡形もない。この泉に御座すのは文芸を司る女神だという。嘉せらるればそ . . . 本文を読む
道ならぬ恋、ってやつだ。
奥山の、ヤマイヌの遠縁らしいんだが、もともと不運な奴でね、奇妙な病を患ってた。満月の光を浴びないと、体の毛がなくなって、爪も牙も縮んじまって、兎を追って走ることもままならない、なんともなさけない姿に変わっちまう。まあでも、気のいい奴なんで奥山の連中と楽しくやってた。
それが、あるときからふっつりと月の光を浴びるのをやめちまった。そんなんじゃあ獲物も獲れないから、すっ . . . 本文を読む
目覚めると世界は花盛り。花に戯れ、梢に遊ぶ。わたくしはすべての花に望まれる奢りのなかで生きておりました。けれどある日、教えられたのです。
――この世にはわたくしが見たことのない花がある――
完璧な六角形の姿をしながらひとつとして同じ形のものがないというこの花に、わたくしは逢うことがないのだ。皆が美しいと褒めそやすこの身も、この花は知らぬ。千の花と遊び、万の花と契りを交わしても、ただ、この花だけ . . . 本文を読む
急がば回れ、という諺は正しい。
ショートカットするつもりだったのだが、どうやら同じところをぐるぐる回っているらしい。この石仏の前を通るのは何度目だろうか。
「バランスが悪いんだよ。左側が重すぎる」
これも何度目かに行き合ううしろ姿の女が、日傘をくるくる回しながら言う。
はあ、なにしろ新米なもので。
「あんたなら心を捨てて行くことにすればすぐじゃないの。つくりはおんなじなんだから」
はあ . . . 本文を読む
今度は甘い悲鳴のようなかぼそい少女の声だ。
――図書館はどこですか。
見まわしても誰もいない。木立の蔭にも霧の中にも人影はない。さっきからずっと。
――図書館はどこですか。
いろいろな声が皆、同じことを同じように尋ねる。姿はなく、森の空を声だけが飛びかっている。
――図書館をお探しですか。
振り向くと男が立っていた。司書なのだと、なぜだかわかった。
――いいえ。
そう答えながら、歩き疲れ . . . 本文を読む
――船べりに肱ついて夢想する船人よ、夜のくらがりに、いつまでも愛する者の面影を切に想い描くことを休(や)めよ。さもないと君たちは、水また水の寂しさに取巻かれたる唯中に生み出す不幸を見るであろう。――
水夫はその忠告を自分とは無関係のものとして聞き流しました。いえ流したいと思ったのですが、なぜか留めてしまったのです。水夫には娘はいません。海上に想い描く誰もいません。それなのに。自由であることをさび . . . 本文を読む
「ごめんね、待った?」
「うん、ちょっとだけね」
彼女はいつも約束の時間に五分遅刻してくる。きっちり五分。だったら五分前に家を出ればいいと思うのだが、そうもいかないらしい。遅れてくるのがわかってるんだから、ぼくも五分遅れていけばいいのだが、どうしてもそうできない。約束の時間の十分前には着いてしまう。
三時に会いたければ、ぼくは三時十分、彼女には二時五十五分と約束すればいいのだろうか。
ところ . . . 本文を読む
いとやんごとなき王様。また、このように聞き及びましてございます。
北の山から南の島まで各地をまわって、物語を集める若者がおりました。彼は険しい道をいといませんでした。遠くへ行けば行くほど珍しい物語を聞くことができました。聞けば聞くだけ物語はどんどん湧き出てきました。この世に物語は無限にあるように思われました。死ぬまでにすべての物語を聞きたい。彼はとうとう悪魔と契約いたしました。
その日から悪 . . . 本文を読む
「どのような闇をご所望でしょう」
仕立屋の問いに、闇は闇だろうと思う。真っ暗でなにも見えない、それが闇だ。
穏やかな微笑とともに仕立屋はつづける。
「夜の闇、地下の闇、瞼を閉じると訪れる闇。また、同じ夜の闇でも季節や天候によって闇の色は違います。どのような闇を差しあげましょう」
約束は明日だ。降っても晴れても。夜の闇に紛れて黎明までにすべてを終わらせなくてはならない。
「春浅い新月深更、誰 . . . 本文を読む