キツネノマド

松岡永子
趣味の物書き
(趣味とはなんであるか語ると長くなるので、それはあらためて)

早春賦

2015-11-22 08:03:45 | コトリの宮殿
 目覚めると世界は花盛り。花に戯れ、梢に遊ぶ。わたくしはすべての花に望まれる奢りのなかで生きておりました。けれどある日、教えられたのです。
――この世にはわたくしが見たことのない花がある――
 完璧な六角形の姿をしながらひとつとして同じ形のものがないというこの花に、わたくしは逢うことがないのだ。皆が美しいと褒めそやすこの身も、この花は知らぬ。千の花と遊び、万の花と契りを交わしても、ただ、この花だけは見ることもない。いっそ百花とともに永遠の生を捨て、魂だけになってしまえば。
 そうしてここに参ったのです。

――それ、能の「胡蝶」だろ。六花じゃなくて梅だし。
――うん。でも、さすがに梅もまだ咲いていないからね。
 茶碗から音を立てて甘酒をすすると、縁側につづく腰高障子のほうを見ながらそう言った。視界の隅にひらひら羽ばたく薄い影が見えるのにはぼくも気づいていた。数えるほどしか雪の降らないこの地方でたぶん最後の、雪が降っている。
 落ちてくる雪とは明らかに動きの違うその影は、暮れていく風景の中でかえって明るさを増していくようだった。
 ぼくは立っていって障子をあけた。座敷に入ってこないかなと、入ってくればいいなと思ったのだが、淡い光は空気に紛れるように溶けて消えた。

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