難病になった母(胃ろう手術後にあった心配事)

2023年10月29日 | 日記
(前回までの続きになります)

いつかは必要になるからと、主治医に勧められた母の胃ろうの手術を、10月2日に受けた。

手術は午前9時からだったのだが、面会時間はいつも13:00以降という病院の決まりがあり、たとえ手術の日であってもそうだった。

それでその日も午後から母に会いに行った。

行った時、母は点滴をした状態で寝ていた。

小声で「お母さん」と呼びかけてみたらゆっくり目を開けた。

「どう?」と聞くと、ぼうっとした表情で「痛い…」とひとこと。

「そうだよねぇ、手術したんだものねぇ、切ったんだもの、しばらくは痛いよねぇ…」。

あまり母に喋らせてはと思い、洗濯物の交換だけして、その日は早めに部屋を出た。

なんでこんな痛い思いをして手術しなきゃならないのか、どうして真面目に生きてきた母がこんな病気にならなきゃならないのか、ただただ母が可哀想で私も辛かった。

数日間は痛いと看護師から聞いていたので、とりあえず痛い時期が過ぎて欲しいと思った。


翌日、手術直後よりはいくらか痛みが落ちついたかなと思い母の様子を見に行くと、昨日よりも痛そうな様子だった。

痛みでますます喋る力が無いようで、紙に痛みの様子を伝えてきた。

「昨日よりも痛い。昨日とは違う痛み」

え、そうなんだ。

そして、筆談と拙い母の話と組み合わせて知って驚いたことがあった。

お昼から食事が普通に出されてベッド脇に看護師が置いて行ったらしい。手術の痛みがある母は、自力でなんとか起き上がり、少しだけ食べ、また自力でベッドに横になろうとした瞬間、ドン!とひっくり返ってしまい、それから更に痛みが増したらしい。

手術したばかりの高齢者で、しかもALSの患者に対して、ただ食事を置いていくなんて!

私は腹が立った。

そしてナースステーションに行き、看護師にお願いをして来た。

申し訳ないけど痛みがあるうちは、食事の際には体を起こしたり寝せたりの手を貸して欲しいと。

すると看護師は、「あ、食事の時はベッドを起こしてベッド上で食べるようにしますね」と言った。

「お願いします」

そして母の所に戻ると、相変わらず痛そうで心配だった。それでまた看護師に言いに行った。

「すみません、母がかなり痛そうなんですが…」

「あ、でも午前中に痛み止めを点滴から入れたので、6時間は間隔を開けなきゃならないんです。もう少し我慢してくださいね」

そう言われ、母に伝えた。

母は常日ごろ痛みにもどんなことにも我慢強く、それなのにこんなに痛がるのはよほど痛いのだろうと思うと居ても立ってもいられなかった。

あとから聞いたのだが、今まで受けた手術、脊柱管狭窄症よりも腹膜炎の時よりも、今回が一番痛かったらしい。

そうこうしていたら、看護師がやって来てこう言った。

「すみません、今日はまだ痛み止めを入れてなかったみたいです。今、入れますね」

え!?

何、そのミス。

痛み止めならまだしも、普段も薬のミスとかしてないでしょうね!

呆れてそう言いそうになった。


しかも、これも後から知った。

食事の時にベッドを起こすなり手を貸してくれると言っていたのに、結局いっさいやってもらえてなかった。

病院に対して、不満というか不安、心配ばかり募ってきていた。

そして手術後の経過に対しても心配だった。

ほぼ毎日母の肌着のシャツを洗濯に持って来ていたのだが、いつも手術をした場所にあたるシャツの所が、血液など付着していてた。

看護師に聞きに行くと、「数日間は仕方がないんです」と言っていたが、数日間どころか1週間経っても付着していた。

そんな中、また予想していなかったことが起きた。

10月9日、いつものように面会に行くと、病棟の受け付けの人に言われた。

「ここの病棟からコロナ陽性者が出まして、しばらく面会は禁止となります」。

え!?

「何か持って行く物があれば、看護師を通じての受け渡しになります」。

そんなあ…


本当に次から次といろんなことがある入院生活だ。

そしてまた更にその“いろんなこと”が起きた。


(いっきに書けず、続きはまた次回になります)




難病になった母(検査~検査結果)

2023年10月25日 | 日記
(前回の続きになります)

9月14日に入院をして、母はいろいろな検査をした。痛い思いをしなければならない検査もあった。

検査をしながらリハビリもしていた。

言葉のリハビリ、手足のリハビリと。

ALSというのは最初の症状が、上手く話せなくなる口から来るタイプと、手足の力が入らなくなるタイプがあるらしい。

母は口から症状が出た。

滑舌が良かった母が、まるで突然のように口が上手く回らなくなってきていた。

二回目に行った病院の先生から聞いた話では、「口から来た場合の方が、病気の進行が早いです」と、ショックなことを聞いていた…

口から来て、徐々に手足、全身の筋力が衰え動かなくなっていく。そして自発での呼吸も出来なくなっていく。

その進行が口から出たタイプの方が早いのだと…



入院して検査期間中、私はほぼ毎日母に会いに行った。

コロナ対策で一人の患者につき一人しか面会が出来ず、行っても15分間と決められていた。

私の家から入院先まで車で往復2時間かかるが、そのたった15分しか会えなくても、母に会う時間は大切な時間だった。

洗濯物を持って行ったり冷蔵庫に飲み物などを補充したり、マグカップや入れ歯などを洗ったり、そして何より母と少しでも話をして過ごす時間。

病院で寂しく心細い気持ちでいるだろう母を思うと、私が出来ることは毎日会いに行くことぐらいだった。

入院してからも日増しに話しが出来なくなっていく母。でも検査をしている期間は、なんとか母の話しが理解出来ていた。


いつも面会が終わり駐車場に戻って、車の中で妹や弟に、その日その日の母の様子をLINEで伝えた。

そして帰りには涙が出てきて、泣きながら運転したこともあった。

お母さんが難病なんかになるはずがない、何かの間違い、何かの間違い、

そう自分に言い聞かせても涙が出た。声をあげて泣きながら帰った日もあった。


検査結果が出たのは9月27日だった。
検査入院から2週間。

主治医と面談での検査結果に呼ばれて27日の夕方に行った。

先にナースステーションに行き、いつものように熱を測ったり面会申請書を記入。

そして、

「検査結果の面談は本人は出ないで私だけでいいんですよね?」

と聞いた。

看護師は「ちょっとお待ちください」と言って主治医に聞いている様子だった。

難病の告知であれば、本人が同席するはずがない、まずは私に言ってから本人への説明はどうしますかって聞くんだろうな、と想像していたから。

すると看護師が、

「ご本人も一緒に」

と言った。

え!もしかしてALSではなかったってこと!?治る病気だったってこと?

希望が持てた瞬間だった。


そして母と二人、相談室に通され、並んで座って先生を待った。

「何て言われるんだろうねお母さん。何と言われても受け入れて治療していこうね」

不安そうな様子の母に、つとめて明るく話しかけた。母は頷いていた。

そして主治医が入って来た。

主治医の後ろから白衣の女性と看護師の二人も入って来た。

私はかなり緊張していた。

主治医が、これまでの経緯を話し始めた。

ナニナニ検査をしましたが異常はなく、次にナニナニ検査をしましたが特に気になる数値もなく、次は…

と話していて、これは期待していいのだろうか、それとも最終的に悪い検査結果を言うのだろうかと、気が気ではない思いで話を聞いていた。

だが…

「…ということで、残念ながらALS筋萎縮性側索硬化症の診断となります」

と。



絶望感しかなかった。


母はまだ事態を飲み込めてなかった。

ALS?何それ?という感じだったと思うが、とにかく悪い病気になってしまったんだなとは感じたと思う。

私はショックで言葉が出てこなかった。

すると主治医は、

「ALSという病気はですね…」

と、病気の説明まで始めた。母の前で。

言うんだ?そんなに事細かく本人に。

そう思いながら私は聞いていた。

そして主治医はこうも言った。

「いずれ口からは食べれなくなりますので、この入院中に胃ろうを作っておく方がいいと思いますが、どうしますか?」

え!?

もう?

もう決めなきゃならないの?

驚いたけど、冷静に考えた。

「胃ろうを作ったら、もう胃ろうを使うということですか?口から食べれないということですか?」

「いえ、そうでありません。口から食べられるうちは食べていいんです。ただ、既に飲み込みが悪くなっていますし、誤嚥性肺炎にでもなったら大変です。口から食べれる物は食べても、栄養を補うために胃ろうを使って栄養を入れるという使い方も考えられます」

なるほど。

「そうですか、いずれ胃ろうを作らなければならないのなら、また入院して作るのもなんですし、この入院中に作っておいた方が良さそうですね。ね、お母さん」

と、隣に座って黙って頷いていた母の顔を見た。

その時、え!と思った。

母は涙をこぼしていた。

涙がマスクの上の部分を濡らしていた。

お母さんが泣いている…


主治医の話が終わり、次に白衣を着た女性が言った。

ソーシャルワーカーだった。

「次に私から何点か話をさせていただきます」

話とは、難病申請のこと、それと話が出来なくなった後のコミュニケーションを取る機械?のことだった。

もうそんな話も聞かなきゃならないんだ…

まだ気持ちの整理もついていないのに、私と母はそれらの話を聞いていた。


話が終わり、母と一緒に病室に戻った。

母はどんなにショックだっただろう。

つい私は、

「お母さん、ショックなこと言われちゃったね。難病だなんてね、こんなことならまだ癌て言われた方がマシだったね」

と半ばヤケになって言った。

するとベッドに座った母は、私を見上げて「シー」という仕草をした。

そして私に手招きをして、耳元で言った。

「向かい側のベッドの人が昨日、癌て言われたみたいだよ。だからそんなことを言ってはダメだ」

そっか、つい失言をしてしまった。


その後少し母と話し、私は病院を後にした。

そして妹や弟に電話で結果を伝えた。

この入院中に胃ろうを作るという確認もした。

電話をした後もひとり家で気持ちが落ち着かなかった。

そして息子にも電話をした。

「おばあちゃん、ALSだった…」

という話から始まり、

「主治医が病気の説明をして、胃ろうを作る話もしてね、ふとおばあちゃんの顔を見たら、涙をこぼしてい…」

話してる途中で私も泣けてきてしまった。

電話の向こうで息子も言葉が見つからないでいた様子だった。

「それでね、おばあちゃんに『癌の方がマシだった』と言ったら、おばあちゃんが『向かい側のベッドの人が癌だからそんなことを言ってはダメ』ってちょっと怒られたよ」

と話した時、息子は「え、」と言った。

「おばあちゃんてすごいなあ…。自分がつらい病気のことを聞いたばかりなのに、周りが見れるんだ。ひとの心配までして」

息子のその言葉に、私もハッとした。

「本当だ…本当だねぇ」


私の母は、やっぱり強くて優しい人だ。そうあらためて感じると、ますます泣けてしょうがなかった。














難病になった母(検査入院の日まで)

2023年10月18日 | 日記
(前回の続きになります)


お盆が過ぎた8月18日に、やっと母を病院に連れて行った。

母はきっと脳梗塞なんだろうと私は思っていたので、前もって脳神経内科のMRIを予約していた。

そこは前に私も診てもらったことがある個人病院で、比較的MRIを予約しやすかったし、先生の感じも良かったので。

8月18日に、さっそくMRIを撮り、診察を受けた。

でも、

「MRIを見る限り、脳には全く異常は無いですよ。もう少し様子を見てていいと思います」

と言う。

え?これで、「はいそうですか」と帰るわけにいかない。

春からずっと喋りがおかしい母なのだ。病院に連れて行きたくてやっとこの日を迎えたのに、何も異常が無いわけがない。

「先生、でも母はもともと滑舌が良く、どちらかというと早口だったんです。いくらなんでも短期間でこんなに変わってしまったのは何なんでしょう?」

と食い下がった。

すると先生は一瞬考え、そして、

「舌を見せてください」と母に言った。

母は言われた通り舌を出した。

先生がジッと見ていた。

そして、「舌を右に動かしてください。はい、次は左。はい、あーと声を出してください」と母に指示をし、そして今度は手足を触ったり動かしたりした。

そしてこう言った。

「神経の病気の可能性がありますので、紹介状を書きます。そこで診てもらってください」

そう言われて、ああ良かった、とてつもない不安から一歩前進出来ると思った。

でも、母が看護師に促されて廊下に出た後、先生は私にショックなことを告げた。

「難病の可能性もあります。ALSってわかりますか?」

「え!?」

「ALS筋萎縮性側索硬化症、もしかしたらその可能性があります。」

まったく思いもしていなかった。

ALS、神経の伝達が出来なくなり、目以外の体全身が動けなくなる、そして呼吸さえも出来なくなる難病。

母がなるなんて、そんなバカなことって…

そのあと会計を待っている時や、母と病院を出て外食をする時、携帯でALSを調べた。

ショックだった。何から何まで症状が母と一致していた。

妹と弟に、ALSの可能性を指摘されたことをLINEで報告した。

その日一緒にお昼を母と食べながら、母が飲み込みがますます悪くなっているのを感じた。

喉の筋肉が落ちて、誤嚥するのは本当に気を付けなければならない。



紹介状を持って次の病院に行ったのは、8月28日。 病院の方からその日を予約されていた。

どんな検査をするんだろうと思っていたのだが、ただの問診みたいなことで終わり、大学病院に入院し、精密検査をしますと言われた。

「予定は1か月の入院です、ただ大学病院の方では入院予約の人が多く、しばらく入院待ちになります」

とのことだった。

その後、入院に関する説明を母と2人で受けた。

病院に行き、私と一緒に歩く母。私の隣に座っている母。

なんだか母が小さく、そして心細そうにしているのを感じ、私は涙が出そうだった。

なんで母が…
今まで一生懸命働き通しだった母が、
明るく強く優しい母が…


やっと大学病院に検査入院出来たのが9月14日。

それまでも私は悶々とする毎日だった。
寝ても覚めても母の病気のことを考え、辛かった。

夢も見た。母が以前のように明るい声と笑顔で、私は「治ったんだね!」と夢の中で喜んだ。
でも、寝ていながらもこれは夢なんだろうなと思い、夢なら覚めないで、と思ったけど目が覚め、絶望感しかなかった。


9月14日入院の日、母は笑顔を見せていたが、それは頑張って笑顔を作っていたんだろうし、私も頑張って笑顔を心掛けた。


(続きはまた次に書きます)







久しぶりにブログ更新 母のこと

2023年10月13日 | 日記
何で?何で!?っていう怒りのような疑問と、寝ても覚めても毎日毎日悲しくて辛かった時期があった。

もちろん今もその気持ちは変わらないんだけど、悲しいことに、妙な”慣れ”というか、一時期の激しい感情的なものはだいぶ落ち着いた。落ち着いたと書くのも或る意味腹立たしいけど。


それでも現実を受けとめて、これまでの経過などを残しておくためにも、自分の感情を整理するためにも、ブログは書き続けようと思う。



来月84歳になる私の母が、難病筋萎縮性側索硬化症「ALS」になってしまった。


なんなのよ、運命。あんまりじゃない。


その疑いがあると最初に言われたのは8月のことだった。


私は母とは一緒に住んでいないのだが、春先からたまに会うと、どうも母の喋り方に違和感を持っていた。

母は「入れ歯が合わないせい」と言い、同居している私の弟夫婦は「老化が進んだのでは」と言っていた。

その後私は6月いっぱいで仕事を辞め、7月からは車で片道2時間ほどの実家に帰ることが多くなった。

実家は田舎の小さいスーパーを経営していて、その店の手伝いに頻繁に帰った。

それで母をいつも以上に様子を見ることができ、明らかに話し方がますます悪くなっているのを感じた。

本当はシャキシャキと歯切れ良く話していた母が、モタモタした、そしてろれつが回っていないような喋り方になっていた。

え、もしかして脳梗塞!?

私はそう思い心配で、母にすぐ病院に行こうと言ったのだが、「お盆が終わってから」と言って急いで行こうとはしなかった。

母は今も現役で店の仕事をしている。レジなどはもちろん、店に出すお総菜やお弁当も作り、車を運転して配達もする。

そして自分も高齢だが、高齢のお客さんを車で家まで送ったり、何かと親切にしている。地元の人達はそんな母を慕ってくれて、母と話をしに来るお客さん達もいる。

お盆は商売としてもいつも以上に忙しい。「病院にはお盆が過ぎたら」という母の気持ちは硬く、私としては焦る気持ちでいっぱいだった。



(ブログは少しずつ書こうと思います)