狭野(さの・さぬ)・佐野(さの・サヤ)
・・・カキ(牡蠣)も二枚貝・・・双子・草子・綴じ本・・・?
↓↑
「自分(個人)自身の存在価値」は
「ダレにとっての存在価値」なの・・・か?
「自分の存在価値」は
「自分自身には無い」・・・「使用価値」は相手のモノ?
↓↑

神武天皇
↓↑
幼名
狭野命(さの の みこと)
天皇即位以前の名
↓↑
神 倭 伊波礼 毘古 命
神 日本 磐 余 彦 天皇
(かむ やまと いはれ びこ の みこと)
↓↑
若 御毛沼 命 (わかみけぬ の みこと)
豊 御毛沼 命 (とよみけぬ の みこと)
狭野 尊 (ささの の みこと)
始馭天下之天皇(はつくに しろしめしし の みこと)
馭=馬+又
ギョ
あやつ(操)る
おさ(治)める
す(総)べる
の(乗)る
あやつる・馬を上手くあやつる・馭者その人
のる・馬に乗る・馬を乗りこなす
のりもの・馬車
おさめる・すべる・人をうまくあやつる
御者・馭者(ギョシャ)
制御・制禦・制馭(セイギョ)
控馭之術(コウギョのジュツ)
↓↑
死後に贈る諱(いみな)
彦火火出見(ひこほほでみ)
↓↑
狭野命=サノのミコト
武内宿禰の口伝では
サノは
栃木県
・・・「栃=とち=𣜜」
+ レイ=勵(励)・蠣(蛎)・礪(砺)
+ カキ(牡蠣・牡蛎・牡蠇・蠣・蛎・蠇)
ウグイスガイ(鶯貝)目
イタボガキ
(板甫牡蠣・草鞋蠣
学名: Ostrea denselamellosa)科
ベッコウガキ
(鼈甲牡蠣)科
に属する二枚貝の総称
「木=ぎ=戯・擬・疑・偽」・・・十八=壱(壹)拾八
+ 拾う葉
「県=ケン=縣(かける)・懸」
佐野市「さの-シ」らしい・・・?
↓↑
・・・TVドラマの
「べらんめ」
をみていての
徳川幕藩体制を支えている
大名の
「名前の?」だったが
「田沼」氏
と
「佐野」氏
の確執だった・・・
「家系図」
と
「桜・櫻・🌸」・・・客寄せパンダ
「サクラ」です、か・・・
↓↑
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう)
?~承応二年八月三日
(1653年9月24日)
江戸時代前期
下総国
佐倉藩領の義民
下総国
印旛郡
公津村(千葉県成田市台方)
の名主
本名は
「木内 惣五郎(きうち そうごろう)」
通称
「宗吾(そうご・惣吾)」
↓↑
領主
「堀田」氏
の重税に苦しむ農民のため
将軍へ直訴
処刑された
義民伝説の人物
↓↑
承応二年八月 刑死
子供4人も同時に殺された
祟りを怖れ里民が石の祠を建てた
1715年
『総葉概録』
(佐倉藩主
稲葉正往
の命により
藩儒
磯辺昌言
が編纂)
堀田氏時代
公津村の
「総五」なる者が処刑され
冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだ
堀田氏の改易(1660年)
が総五の祟りとみなされ
「惣五宮」
という祠が建てられた
↓↑
「惣五郎」
は江戸時代後期に形成され
実録本
講釈・浪花節
歌舞伎上演
などで知られるようになった
↓↑
飯田市地域に
惣五郎を祀る祠や神社が
11か所
↓↑
社会運動家や思想家のシンボル
「佐倉惣五郎」を称揚
「福澤諭吉」
『学問のすゝめ』で
「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げた
自由民権運動家たちは
民権運動の先覚者とし
昭和恐慌
戦後改革の際にも新たな解釈と想起
「石川半山」は
「田中正造」に
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」
と、明治天皇への直訴を促した
戦後、1950年代
「九十九里浜闘争」
で逮捕されたものが
「9人の宗吾」
と周囲の漁民から称讃された
↓↑
神武天皇
同時代の史料や考古学的資料で
存在が確認できない・・・?
↓↑
歴史上・・・「記録上での曖昧さ」は当然だが
「実在しなかった」
と考えるのが一般的・・・か、どうかは・・・「?」
推理、推測の問題で
「証拠不十分」
で
「立証・確証」
できないと云うコトだろう
↓↑
・・・「確信犯」
という言葉があるが・・・
問答無用の
「鰯(いわし)の頭」である・・・だろう・・・
↓↑
「権力」を握った
・・・「裁判官・検事・警察」
や
「政治家」が
「いわし」の
「あたま」なら・・・石頭・磐余・・・?
「救われない」のはダレか・・・
「信じるも、確信するもアンタ次第である」?
のはナニ人も「自由」であるが
「命(いのち・みこと・メイ)」・・・命=みこと=尊・・・尊
倭乃血・見事・名 命=𠆢+ー+叩
↓↑ 尊=酋+寸
尊=酋+寸
八+酉+寸
丷+酉+寸
ソン
たっと(い)
たっと(ぶ)
とうと(い)
とうと(ぶ)
みこと
たっとい・とうとい
身分や価値などが高い
敬うべきである
たっとぶ・とうとぶ
敬う・大切にする
相手に対して尊敬の意を表すことば
↓↑
酒だる・酒を入れる器のみならず
飲み水・食糧の保存容器である
↓↑
酒樽・酒坩・・・ ナゼ、酒=氵+酉
、樽=十+八+酋+寸
↓↑ 酒樽を管理する人 酋長
酒で人々を酩酊させる人=バッカス
バッカス=ギリシャ神話では
豊穣と酒の神様
ローマ神話
ディオニューソス
ワインの神
バッコスが
ラテン語化して
バックスとなった
葉通句諏
罰 樟(楠・来栖=クルス・玖珠・九州)?
記紀+文章 十字架・キリシタン
クルス=cruz・Culsu・kuruş
十字架(久留守)
キリシタン用語・クルス=cruz
クルス (エトルリア神話・Culsu)
女性の悪魔・魔女
クルス (ドッキングシステム)
宇宙船のドッキング・システム
クルシュ (kuruş)=トルコの補助通貨
クルス (菓子) =長崎の銘菓=cruz
十字架の刻印がある洋風煎餅に
ホワイトチョコレートが挟んである
↓↑
尊(ソン)
日本語
みこと・神や貴人を敬うことば
↓↑
「冤罪」
をさせるのも、されるのも・・・酩酊状態のアンタかも?
↓↑
神武天皇(じんむてんのう)
神武天皇
庚午年1月1日
~
神武天皇76年3月11日
在位
神武天皇元年1月1日
~
神武天皇76年3月11日 )
↓↑
諱(いみな・キ)
彦火火出見(ひこ ほほでみ)
狭野 (さの・さぬ)
↓↑
鎮座地
宮崎県
西諸県郡
高原町
蒲牟田
小字
「狭野(さの)」
鎮座地は高千穂峰(たかちほのみね)の東麓
山頂から5㎞ほど東に位置
神武天皇
狭野神社の御祭神
↓↑
天照大御神 の五世孫
高御産巣日神 の五世の外孫
↓↑
佐野(さの)秋田県仙北郡美郷町
佐野(さの)茨城県結城郡八千代町
佐野(さの)栃木県那須塩原市
佐野(さの)千葉県館山市
佐野(さの)千葉県木更津市
佐野(さの)千葉県成田市
佐野(さの)千葉県勝浦市
佐野(さの)千葉県鴨川市
佐野(さの)東京都足立区
佐野(さの)富山県高岡市
佐野(さの)福井県三方郡美浜町
佐野(さの)長野県下高井郡山ノ内町
佐野(さの)岐阜県岐阜市
佐野(さの)岐阜県山県市
佐野(さの)静岡県三島市
佐野(さの)静岡県裾野市
佐野(さの)静岡県伊豆市
佐野(さの)兵庫県豊岡市
佐野(さの)兵庫県淡路市
佐野(さの)和歌山県新宮市
佐野(さの)山口県防府市
佐野(さの)大分県大分市
佐野(さの)大分県豊後高田市
佐野(さの)大分県宇佐市
佐嚢(さのう)兵庫県朝来市
佐野上谷地(さのかみやち)青森県三戸郡五戸町
佐野川(さのがわ)神奈川県相模原市緑区
佐之国(さのくに)高知県高岡郡越知町
佐野窪町(さのくぼまち)群馬県高崎市
佐野子(さのこ)茨城県土浦市
佐野台(さのだい)大阪府泉佐野市
佐野町(さのちょう)秋田県大仙市
佐野町(さのちょう)神奈川県横須賀市
佐野町(さのちょう)福井県福井市
佐野町(さのちょう)滋賀県長浜市
佐野町(さのちょう)滋賀県東近江市
佐野町(さのちょう)島根県浜田市
佐野新島(さのにいじま)兵庫県淡路市
佐野原(さのはら)山形県西置賜郡白鷹町
佐野町(さのまち)石川県七尾市
佐野町(さのまち)石川県能美市
佐野町(さのまち)愛知県名古屋市港区
佐野町(さのまち)宮崎県延岡市
佐野緑町(さのみどりちょう)富山県高岡市
佐野見晴台(さのみはらしだい)静岡県三島市
真宗(さのむね)兵庫県佐用郡佐用町
佐野目(さのめ)福島県河沼郡湯川村
佐野屋(さのや)千葉県印西市
佐野良(さのら)福島県郡山市
↓↑
佐野(さの)市(シ・いち)
・・・市場・十市・市街・市長
武市・高市
栃木県
南西部(安足・あだち
・足立・足達・安達・阿達・阿立)
に位置する
↓↑
栃木県
佐野市
高砂町
1番地
北緯36度18分52秒
東経139度34分42秒
↓↑
薬師堂(犬伏新町)
関ヶ原の戦い前に
真田昌幸・信之・信繁
の3人が
東軍・西軍に分かれる協議
(犬伏の別れ)を行った場所
伏(フウ・ブク・ふす・ふくす)=イ+犬(一+人+丶)・・・
↓↑
歴史人物
佐野氏
佐野昌綱
唐沢山城で
上杉謙信
後北条氏
らの侵攻を撃退
↓↑
1531年 (享禄四年)
中世~近世
名医
曲直瀬 道三
田代 三喜
が佐野市赤見で出会った
↓↑
佐野氏
秀郷流
藤原氏の
足利有綱の子
足利基綱が
下野国
安蘇郡
佐野荘(栃木県 佐野市)
の地頭に任じられ
佐野氏を称した
↓↑
「佐野 政信」
「田沼 意次」
「田沼 意知」への刃傷事件
「田沼 意知 (たぬま おきとも)」
「佐野政言(さのまさこと)事件」
江戸城内で起きた
「六・6番目の刃傷事件」
老中
「田沼意次(たぬまおきつぐ)」
の子
若年寄の
「田沼 意知(たぬまおきとも)」
が、旗本
「佐野 政言(さのまさこと)」
殺害された事件
「佐野 政言」
は3度も
「覚えがあろう!」
と叫んだ・・・
↓↑
老中
遠江国
相良藩主
「田沼 意次」
の嫡男
母は
「黒沢 定紀」の娘
↓↑
明和四年(1767年)
19歳
従五位下
大和守に叙任
「松平 輝高」
の没後の
天明元年(1781年)十二月十五日
奏者番
天明三年(1783年)
若年寄
となり
意次が主導する一連の政治を支えた
老中の父が奥詰めも同時に果たし
彼も若年寄でありながら奥詰めもした
↓↑
天明四年(1784年)三月二十四日正午頃
江戸城内の
若年寄部屋から退出し
中之間に入ろうとしていたところ
桔梗の間に控えていた新番士の
「佐野 政言」
に
「御覚有るべし」
と声をかけられて斬りつけられた
意知はよろけながら
桔梗の間に向けて逃走したが
佐野は追い詰め
大廊下で転倒したところを
股を骨に達するほど深く刺した
意知はなおも逃れ
大廊下の新番所側にある暗がりに倒れ込んだ
佐野が意知を見失ったところ
大目付の
「松平対馬守忠郷」
が走り出て取り押さえ
目付の
「柳生 久通」
によって脇差を取り上げられた
意知は重傷であったが存命であり
番医師の
峯岸春庵
天野良順
の治療を受け
神田橋の意次邸に運ばれた
肩と股の傷は骨にまで達する深さで
四月二日未明に死去
享年36
戒名
「仁良院殿光嶽元忠大居士」
墓所
勝林寺
↓↑
世間は佐野を賞賛
意知に対しては
石や馬沓を投げたり
悪口を浴びせた
同じ頃
「松平右近将監」の葬儀を
意知のものと勘違いして
石を投げるものもいた
「斬られた馬鹿年寄と
聞くとはや
山もお城もさわぐ新番」
山城守=若年寄の意知
新番=佐野が新番士
であったことにかけた
↓↑
江戸市民
佐野を賞賛
田沼政治に対する批判
幕閣においても
松平定信
反田沼派が台頭
オランダ商館長
イサーク・ティチング
(Isaac Titsingh)
1745年 1月10日
~
1812年 2月2日)
大運1803年3月(58歳)癸未・食神
1813年3月(68歳)甲申・正財
年柱 甲┏子(壬・ ・癸)正財・傷官長生⇔辛未・比肩
方合壬
月柱 丁┣丑(癸・辛・己)偏官・食神 養⇔辛丑・比肩
方合壬
日柱 辛┗亥(戊・甲・壬) ・印綬沐浴⇔甲子・正財
時柱 己┗丑(癸・辛・己)偏印・食神 養⇔乙丑・偏財
寅卯空亡
↓↑
オランダ の 外交官
歴史家
日本研究家
神武天皇~正親町天皇(1557年~1586年在位)
の代までを
和文編年体で記した歴史書
『日本王代一覧』
を
オランダ語
フランス語
に翻訳して紹介
商人
外科医
ライデン大学の法学博士号
在日 オランダ商館 長(カピタン)
日本の機密を
11(十一)代将軍
「徳川家斉」
の岳父の
「島津重豪」
を通して収集
駐 清 オランダ 大使
西洋に和算、算額を初めて紹介
姓は チチング 、 ティツィング とも表記
彼は
「鉢植えて 梅か桜か咲く花を
誰れ たきつけて 佐野に斬らせた」
という謡曲『鉢木』に因んだ落首
「田沼 意知」
の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり
井の中の
蛙ぞろいの幕府首脳の中
「田沼意知
ただ一人が日本の将来を考えていた・・・
今や完全に閉ざされたのである」
と書き残した
↓↑
この事件から2年半後に
意次は失脚して隠居し
跡は
意知の長男
「田沼 意明(幼名 龍助)」
が継いだが
後見の
意次が間もなく没し
意明も夭折
跡を継いだ
次男・意壱
四男・意信
のいずれも早世し
意知の血筋は絶え
田沼家の家督は
意知の従子
意定
次いで
意知の弟
意正が継いだ
↓↑
田中正造
明治時代の衆議院議員
足尾銅山直訴事件
↓↑
1943年4月1日
安蘇郡
佐野町・植野村・界村・犬伏町・堀米町・旗川村
が合併し
佐野市
となる
↓↑
城山公園
城下町
駅北側
明治22年9月
春日岡城(佐野城)跡地
に開設
桜(櫻)や躑躅(つつじ)の名所
↓↑
佐野 藤右衛門(さの とうえもん)
庭師の名跡
京都・嵯峨野
・・・嵯峨(さが)野
佐賀(さが)の・・・鍋島藩・化け猫
佐賀藩 (さがはん)
肥前国
佐賀郡
外様大名・肥前藩 (ひぜんはん)
鍋島家が藩主であったことから
鍋島藩 (なべしまはん)
鍋島直正
幕末に近代化を進めた
佐賀藩の10代藩主
鍋島藩とは別の藩
相模(さがみ)
佐野(さの)
↓↑
にある造園業
「植藤」
の当主が襲名
天保三年(1832年)より代々
仁和寺・・・二話事(字)?
御室御所の・・・語漆(執)・音質・怨嫉・語書・音書?
造園を担ってきた
第14代(1874-1934)から
サクラ(櫻・桜・🌸)の育成を手掛け
第15代(1900~1981)
第16代(1928~)
の3代にわたって
「桜守(さくらもり)
祇園枝垂桜
(円山公園のシダレザクラの名木)
ケンロクエンキクザクラ
イチハラトラノオ
オオサワザクラ
などの多くのサクラの栽培品種が
桜守の
佐野藤右衛門
に見いだされて
増殖されて全国にその名が広まった
↓↑
第14代
佐野藤右衛門
1874年生まれ
京都府立
植物園
主任技師
「寺崎 良策」
の教示と
西本願寺・・・西の本が元の字?
「大谷 光瑞(コウズイ)」
の応援をえて
日本全国をめぐり・・・二本の全語句?
桜(さくら・ロウ・樓)の収集・・・ロウ=瀧・滝
鳴瀧(滝)塾
第14代
明治時代
近代化政策
都市の水路・街路
大名庭園
などが再開発
サトザクラ群などの多くの
サクラの栽培品種が伐採されて絶滅の危機
第14代は
栽培品種が収集されて保存されていた
荒川堤からサクラを取り寄せて増殖
平野神社
仁和寺・・・二話事(字)
兼六園・・・謙賂句宛?
東京
帝国大学・・・綴語句兌臥句?・・・兌換貨幣?
などの全国から
珍しいサクラの栽培品種や
名木
を収集して増殖
多くのサクラの品種の
保護と育成に努めた
1934年8月31日死去、61歳
↓↑
第15代
佐野藤右衛門
1900年10月7日生まれ
京都市立
第二商業学校卒業
父に続いて桜の収集・研究
1930年
広沢池にあったヤマザクラの実生苗を育て
約1万本から品種を選抜
「牧野 富太郎」
により
「佐野桜」
(Cerasus jamasakura var.
jamasakura ‘Sanozakura’)
京都
円山公園・・・丸耶(邪)麻八項宛?
の枝垂れ桜を育て
優良品種の保存・育成に尽くした
1972年
吉川英治文化賞受賞
1981年5月19日死去、80歳
著作に
「桜花抄」
「桜守二代記」
など
↓↑
第16代
佐野藤右衛門
(1928年(昭和3年)4月1日~)
日本の造園家、作庭家
日本全国のサクラの保存活動を継承し
「桜守」
京都府京都市生まれ
京都府立農林学校(京都府立大学)卒業
造園業「株式会社植藤造園」の会長
桂離宮
修学院離宮
の整備
パリ・ユネスコ本部の日本庭園を
イサム・ノグチ
と協力して造る
1997年(平成9年)
ユネスコから
ピカソ・メダルを授与
1989年(平成元年)
黄綬褒章
1999年(平成十一・11年)
勲五等双光旭日章を受章
2005年(平成十七・17年)
京都迎賓館の庭園を棟梁として造成
2007年(平成十九・19年)
京都府文化賞功労賞
2012年(平成24年)
みどりの文化賞
2020年(令和二・2年)
京都市文化功労者
ー↓↑ー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
・・・カキ(牡蠣)も二枚貝・・・双子・草子・綴じ本・・・?
↓↑
「自分(個人)自身の存在価値」は
「ダレにとっての存在価値」なの・・・か?
「自分の存在価値」は
「自分自身には無い」・・・「使用価値」は相手のモノ?
↓↑

神武天皇
↓↑
幼名
狭野命(さの の みこと)
天皇即位以前の名
↓↑
神 倭 伊波礼 毘古 命
神 日本 磐 余 彦 天皇
(かむ やまと いはれ びこ の みこと)
↓↑
若 御毛沼 命 (わかみけぬ の みこと)
豊 御毛沼 命 (とよみけぬ の みこと)
狭野 尊 (ささの の みこと)
始馭天下之天皇(はつくに しろしめしし の みこと)
馭=馬+又
ギョ
あやつ(操)る
おさ(治)める
す(総)べる
の(乗)る
あやつる・馬を上手くあやつる・馭者その人
のる・馬に乗る・馬を乗りこなす
のりもの・馬車
おさめる・すべる・人をうまくあやつる
御者・馭者(ギョシャ)
制御・制禦・制馭(セイギョ)
控馭之術(コウギョのジュツ)
↓↑
死後に贈る諱(いみな)
彦火火出見(ひこほほでみ)
↓↑
狭野命=サノのミコト
武内宿禰の口伝では
サノは
栃木県
・・・「栃=とち=𣜜」
+ レイ=勵(励)・蠣(蛎)・礪(砺)
+ カキ(牡蠣・牡蛎・牡蠇・蠣・蛎・蠇)
ウグイスガイ(鶯貝)目
イタボガキ
(板甫牡蠣・草鞋蠣
学名: Ostrea denselamellosa)科
ベッコウガキ
(鼈甲牡蠣)科
に属する二枚貝の総称
「木=ぎ=戯・擬・疑・偽」・・・十八=壱(壹)拾八
+ 拾う葉
「県=ケン=縣(かける)・懸」
佐野市「さの-シ」らしい・・・?
↓↑
・・・TVドラマの
「べらんめ」
をみていての
徳川幕藩体制を支えている
大名の
「名前の?」だったが
「田沼」氏
と
「佐野」氏
の確執だった・・・
「家系図」
と
「桜・櫻・🌸」・・・客寄せパンダ
「サクラ」です、か・・・
↓↑
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう)
?~承応二年八月三日
(1653年9月24日)
江戸時代前期
下総国
佐倉藩領の義民
下総国
印旛郡
公津村(千葉県成田市台方)
の名主
本名は
「木内 惣五郎(きうち そうごろう)」
通称
「宗吾(そうご・惣吾)」
↓↑
領主
「堀田」氏
の重税に苦しむ農民のため
将軍へ直訴
処刑された
義民伝説の人物
↓↑
承応二年八月 刑死
子供4人も同時に殺された
祟りを怖れ里民が石の祠を建てた
1715年
『総葉概録』
(佐倉藩主
稲葉正往
の命により
藩儒
磯辺昌言
が編纂)
堀田氏時代
公津村の
「総五」なる者が処刑され
冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだ
堀田氏の改易(1660年)
が総五の祟りとみなされ
「惣五宮」
という祠が建てられた
↓↑
「惣五郎」
は江戸時代後期に形成され
実録本
講釈・浪花節
歌舞伎上演
などで知られるようになった
↓↑
飯田市地域に
惣五郎を祀る祠や神社が
11か所
↓↑
社会運動家や思想家のシンボル
「佐倉惣五郎」を称揚
「福澤諭吉」
『学問のすゝめ』で
「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げた
自由民権運動家たちは
民権運動の先覚者とし
昭和恐慌
戦後改革の際にも新たな解釈と想起
「石川半山」は
「田中正造」に
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」
と、明治天皇への直訴を促した
戦後、1950年代
「九十九里浜闘争」
で逮捕されたものが
「9人の宗吾」
と周囲の漁民から称讃された
↓↑
神武天皇
同時代の史料や考古学的資料で
存在が確認できない・・・?
↓↑
歴史上・・・「記録上での曖昧さ」は当然だが
「実在しなかった」
と考えるのが一般的・・・か、どうかは・・・「?」
推理、推測の問題で
「証拠不十分」
で
「立証・確証」
できないと云うコトだろう
↓↑
・・・「確信犯」
という言葉があるが・・・
問答無用の
「鰯(いわし)の頭」である・・・だろう・・・
↓↑
「権力」を握った
・・・「裁判官・検事・警察」
や
「政治家」が
「いわし」の
「あたま」なら・・・石頭・磐余・・・?
「救われない」のはダレか・・・
「信じるも、確信するもアンタ次第である」?
のはナニ人も「自由」であるが
「命(いのち・みこと・メイ)」・・・命=みこと=尊・・・尊
倭乃血・見事・名 命=𠆢+ー+叩
↓↑ 尊=酋+寸
尊=酋+寸
八+酉+寸
丷+酉+寸
ソン
たっと(い)
たっと(ぶ)
とうと(い)
とうと(ぶ)
みこと
たっとい・とうとい
身分や価値などが高い
敬うべきである
たっとぶ・とうとぶ
敬う・大切にする
相手に対して尊敬の意を表すことば
↓↑
酒だる・酒を入れる器のみならず
飲み水・食糧の保存容器である
↓↑
酒樽・酒坩・・・ ナゼ、酒=氵+酉
、樽=十+八+酋+寸
↓↑ 酒樽を管理する人 酋長
酒で人々を酩酊させる人=バッカス
バッカス=ギリシャ神話では
豊穣と酒の神様
ローマ神話
ディオニューソス
ワインの神
バッコスが
ラテン語化して
バックスとなった
葉通句諏
罰 樟(楠・来栖=クルス・玖珠・九州)?
記紀+文章 十字架・キリシタン
クルス=cruz・Culsu・kuruş
十字架(久留守)
キリシタン用語・クルス=cruz
クルス (エトルリア神話・Culsu)
女性の悪魔・魔女
クルス (ドッキングシステム)
宇宙船のドッキング・システム
クルシュ (kuruş)=トルコの補助通貨
クルス (菓子) =長崎の銘菓=cruz
十字架の刻印がある洋風煎餅に
ホワイトチョコレートが挟んである
↓↑
尊(ソン)
日本語
みこと・神や貴人を敬うことば
↓↑
「冤罪」
をさせるのも、されるのも・・・酩酊状態のアンタかも?
↓↑
神武天皇(じんむてんのう)
神武天皇
庚午年1月1日
~
神武天皇76年3月11日
在位
神武天皇元年1月1日
~
神武天皇76年3月11日 )
↓↑
諱(いみな・キ)
彦火火出見(ひこ ほほでみ)
狭野 (さの・さぬ)
↓↑
鎮座地
宮崎県
西諸県郡
高原町
蒲牟田
小字
「狭野(さの)」
鎮座地は高千穂峰(たかちほのみね)の東麓
山頂から5㎞ほど東に位置
神武天皇
狭野神社の御祭神
↓↑
天照大御神 の五世孫
高御産巣日神 の五世の外孫
↓↑
佐野(さの)秋田県仙北郡美郷町
佐野(さの)茨城県結城郡八千代町
佐野(さの)栃木県那須塩原市
佐野(さの)千葉県館山市
佐野(さの)千葉県木更津市
佐野(さの)千葉県成田市
佐野(さの)千葉県勝浦市
佐野(さの)千葉県鴨川市
佐野(さの)東京都足立区
佐野(さの)富山県高岡市
佐野(さの)福井県三方郡美浜町
佐野(さの)長野県下高井郡山ノ内町
佐野(さの)岐阜県岐阜市
佐野(さの)岐阜県山県市
佐野(さの)静岡県三島市
佐野(さの)静岡県裾野市
佐野(さの)静岡県伊豆市
佐野(さの)兵庫県豊岡市
佐野(さの)兵庫県淡路市
佐野(さの)和歌山県新宮市
佐野(さの)山口県防府市
佐野(さの)大分県大分市
佐野(さの)大分県豊後高田市
佐野(さの)大分県宇佐市
佐嚢(さのう)兵庫県朝来市
佐野上谷地(さのかみやち)青森県三戸郡五戸町
佐野川(さのがわ)神奈川県相模原市緑区
佐之国(さのくに)高知県高岡郡越知町
佐野窪町(さのくぼまち)群馬県高崎市
佐野子(さのこ)茨城県土浦市
佐野台(さのだい)大阪府泉佐野市
佐野町(さのちょう)秋田県大仙市
佐野町(さのちょう)神奈川県横須賀市
佐野町(さのちょう)福井県福井市
佐野町(さのちょう)滋賀県長浜市
佐野町(さのちょう)滋賀県東近江市
佐野町(さのちょう)島根県浜田市
佐野新島(さのにいじま)兵庫県淡路市
佐野原(さのはら)山形県西置賜郡白鷹町
佐野町(さのまち)石川県七尾市
佐野町(さのまち)石川県能美市
佐野町(さのまち)愛知県名古屋市港区
佐野町(さのまち)宮崎県延岡市
佐野緑町(さのみどりちょう)富山県高岡市
佐野見晴台(さのみはらしだい)静岡県三島市
真宗(さのむね)兵庫県佐用郡佐用町
佐野目(さのめ)福島県河沼郡湯川村
佐野屋(さのや)千葉県印西市
佐野良(さのら)福島県郡山市
↓↑
佐野(さの)市(シ・いち)
・・・市場・十市・市街・市長
武市・高市
栃木県
南西部(安足・あだち
・足立・足達・安達・阿達・阿立)
に位置する
↓↑
栃木県
佐野市
高砂町
1番地
北緯36度18分52秒
東経139度34分42秒
↓↑
薬師堂(犬伏新町)
関ヶ原の戦い前に
真田昌幸・信之・信繁
の3人が
東軍・西軍に分かれる協議
(犬伏の別れ)を行った場所
伏(フウ・ブク・ふす・ふくす)=イ+犬(一+人+丶)・・・
↓↑
歴史人物
佐野氏
佐野昌綱
唐沢山城で
上杉謙信
後北条氏
らの侵攻を撃退
↓↑
1531年 (享禄四年)
中世~近世
名医
曲直瀬 道三
田代 三喜
が佐野市赤見で出会った
↓↑
佐野氏
秀郷流
藤原氏の
足利有綱の子
足利基綱が
下野国
安蘇郡
佐野荘(栃木県 佐野市)
の地頭に任じられ
佐野氏を称した
↓↑
「佐野 政信」
「田沼 意次」
「田沼 意知」への刃傷事件
「田沼 意知 (たぬま おきとも)」
「佐野政言(さのまさこと)事件」
江戸城内で起きた
「六・6番目の刃傷事件」
老中
「田沼意次(たぬまおきつぐ)」
の子
若年寄の
「田沼 意知(たぬまおきとも)」
が、旗本
「佐野 政言(さのまさこと)」
殺害された事件
「佐野 政言」
は3度も
「覚えがあろう!」
と叫んだ・・・
↓↑
老中
遠江国
相良藩主
「田沼 意次」
の嫡男
母は
「黒沢 定紀」の娘
↓↑
明和四年(1767年)
19歳
従五位下
大和守に叙任
「松平 輝高」
の没後の
天明元年(1781年)十二月十五日
奏者番
天明三年(1783年)
若年寄
となり
意次が主導する一連の政治を支えた
老中の父が奥詰めも同時に果たし
彼も若年寄でありながら奥詰めもした
↓↑
天明四年(1784年)三月二十四日正午頃
江戸城内の
若年寄部屋から退出し
中之間に入ろうとしていたところ
桔梗の間に控えていた新番士の
「佐野 政言」
に
「御覚有るべし」
と声をかけられて斬りつけられた
意知はよろけながら
桔梗の間に向けて逃走したが
佐野は追い詰め
大廊下で転倒したところを
股を骨に達するほど深く刺した
意知はなおも逃れ
大廊下の新番所側にある暗がりに倒れ込んだ
佐野が意知を見失ったところ
大目付の
「松平対馬守忠郷」
が走り出て取り押さえ
目付の
「柳生 久通」
によって脇差を取り上げられた
意知は重傷であったが存命であり
番医師の
峯岸春庵
天野良順
の治療を受け
神田橋の意次邸に運ばれた
肩と股の傷は骨にまで達する深さで
四月二日未明に死去
享年36
戒名
「仁良院殿光嶽元忠大居士」
墓所
勝林寺
↓↑
世間は佐野を賞賛
意知に対しては
石や馬沓を投げたり
悪口を浴びせた
同じ頃
「松平右近将監」の葬儀を
意知のものと勘違いして
石を投げるものもいた
「斬られた馬鹿年寄と
聞くとはや
山もお城もさわぐ新番」
山城守=若年寄の意知
新番=佐野が新番士
であったことにかけた
↓↑
江戸市民
佐野を賞賛
田沼政治に対する批判
幕閣においても
松平定信
反田沼派が台頭
オランダ商館長
イサーク・ティチング
(Isaac Titsingh)
1745年 1月10日
~
1812年 2月2日)
大運1803年3月(58歳)癸未・食神
1813年3月(68歳)甲申・正財
年柱 甲┏子(壬・ ・癸)正財・傷官長生⇔辛未・比肩
方合壬
月柱 丁┣丑(癸・辛・己)偏官・食神 養⇔辛丑・比肩
方合壬
日柱 辛┗亥(戊・甲・壬) ・印綬沐浴⇔甲子・正財
時柱 己┗丑(癸・辛・己)偏印・食神 養⇔乙丑・偏財
寅卯空亡
↓↑
オランダ の 外交官
歴史家
日本研究家
神武天皇~正親町天皇(1557年~1586年在位)
の代までを
和文編年体で記した歴史書
『日本王代一覧』
を
オランダ語
フランス語
に翻訳して紹介
商人
外科医
ライデン大学の法学博士号
在日 オランダ商館 長(カピタン)
日本の機密を
11(十一)代将軍
「徳川家斉」
の岳父の
「島津重豪」
を通して収集
駐 清 オランダ 大使
西洋に和算、算額を初めて紹介
姓は チチング 、 ティツィング とも表記
彼は
「鉢植えて 梅か桜か咲く花を
誰れ たきつけて 佐野に斬らせた」
という謡曲『鉢木』に因んだ落首
「田沼 意知」
の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり
井の中の
蛙ぞろいの幕府首脳の中
「田沼意知
ただ一人が日本の将来を考えていた・・・
今や完全に閉ざされたのである」
と書き残した
↓↑
この事件から2年半後に
意次は失脚して隠居し
跡は
意知の長男
「田沼 意明(幼名 龍助)」
が継いだが
後見の
意次が間もなく没し
意明も夭折
跡を継いだ
次男・意壱
四男・意信
のいずれも早世し
意知の血筋は絶え
田沼家の家督は
意知の従子
意定
次いで
意知の弟
意正が継いだ
↓↑
田中正造
明治時代の衆議院議員
足尾銅山直訴事件
↓↑
1943年4月1日
安蘇郡
佐野町・植野村・界村・犬伏町・堀米町・旗川村
が合併し
佐野市
となる
↓↑
城山公園
城下町
駅北側
明治22年9月
春日岡城(佐野城)跡地
に開設
桜(櫻)や躑躅(つつじ)の名所
↓↑
佐野 藤右衛門(さの とうえもん)
庭師の名跡
京都・嵯峨野
・・・嵯峨(さが)野
佐賀(さが)の・・・鍋島藩・化け猫
佐賀藩 (さがはん)
肥前国
佐賀郡
外様大名・肥前藩 (ひぜんはん)
鍋島家が藩主であったことから
鍋島藩 (なべしまはん)
鍋島直正
幕末に近代化を進めた
佐賀藩の10代藩主
鍋島藩とは別の藩
相模(さがみ)
佐野(さの)
↓↑
にある造園業
「植藤」
の当主が襲名
天保三年(1832年)より代々
仁和寺・・・二話事(字)?
御室御所の・・・語漆(執)・音質・怨嫉・語書・音書?
造園を担ってきた
第14代(1874-1934)から
サクラ(櫻・桜・🌸)の育成を手掛け
第15代(1900~1981)
第16代(1928~)
の3代にわたって
「桜守(さくらもり)
祇園枝垂桜
(円山公園のシダレザクラの名木)
ケンロクエンキクザクラ
イチハラトラノオ
オオサワザクラ
などの多くのサクラの栽培品種が
桜守の
佐野藤右衛門
に見いだされて
増殖されて全国にその名が広まった
↓↑
第14代
佐野藤右衛門
1874年生まれ
京都府立
植物園
主任技師
「寺崎 良策」
の教示と
西本願寺・・・西の本が元の字?
「大谷 光瑞(コウズイ)」
の応援をえて
日本全国をめぐり・・・二本の全語句?
桜(さくら・ロウ・樓)の収集・・・ロウ=瀧・滝
鳴瀧(滝)塾
第14代
明治時代
近代化政策
都市の水路・街路
大名庭園
などが再開発
サトザクラ群などの多くの
サクラの栽培品種が伐採されて絶滅の危機
第14代は
栽培品種が収集されて保存されていた
荒川堤からサクラを取り寄せて増殖
平野神社
仁和寺・・・二話事(字)
兼六園・・・謙賂句宛?
東京
帝国大学・・・綴語句兌臥句?・・・兌換貨幣?
などの全国から
珍しいサクラの栽培品種や
名木
を収集して増殖
多くのサクラの品種の
保護と育成に努めた
1934年8月31日死去、61歳
↓↑
第15代
佐野藤右衛門
1900年10月7日生まれ
京都市立
第二商業学校卒業
父に続いて桜の収集・研究
1930年
広沢池にあったヤマザクラの実生苗を育て
約1万本から品種を選抜
「牧野 富太郎」
により
「佐野桜」
(Cerasus jamasakura var.
jamasakura ‘Sanozakura’)
京都
円山公園・・・丸耶(邪)麻八項宛?
の枝垂れ桜を育て
優良品種の保存・育成に尽くした
1972年
吉川英治文化賞受賞
1981年5月19日死去、80歳
著作に
「桜花抄」
「桜守二代記」
など
↓↑
第16代
佐野藤右衛門
(1928年(昭和3年)4月1日~)
日本の造園家、作庭家
日本全国のサクラの保存活動を継承し
「桜守」
京都府京都市生まれ
京都府立農林学校(京都府立大学)卒業
造園業「株式会社植藤造園」の会長
桂離宮
修学院離宮
の整備
パリ・ユネスコ本部の日本庭園を
イサム・ノグチ
と協力して造る
1997年(平成9年)
ユネスコから
ピカソ・メダルを授与
1989年(平成元年)
黄綬褒章
1999年(平成十一・11年)
勲五等双光旭日章を受章
2005年(平成十七・17年)
京都迎賓館の庭園を棟梁として造成
2007年(平成十九・19年)
京都府文化賞功労賞
2012年(平成24年)
みどりの文化賞
2020年(令和二・2年)
京都市文化功労者
ー↓↑ー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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