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コジキジゲン

さつき・・・やご・・・とんぼ・・・

2017-05-23 20:57:39 | 古事記字源

 ・・・5/21 (日) 0:57 ~ 2:50 TVで「サンドラの週末」を観た・・・仕事を止めた「サンドラ」・・・「ベネズエラのハイパーインフレ(Hyperinflation)」はNHKの18時の「坂下千里子」さんの「これでわかった! 世界のいま」だったが・・・「原油埋蔵量の世界一のベネズエラ経済、無償医療費、無償教育費の社会主義政権(?)の政策で崩壊寸前・喰うものが無い、医療品、薬品が無い、日常生活品が無い、インフレ率720%?」・・・「起き上がり小法師(おきあがりこぼし・おきあがりこぼうし)=起姫(おきひめ)」の「重心のギミック(gimmick)」・・・「扈従(retainer・tenants)=コジュウ・コショウ=小姓」、「扈=戸(一尸)+邑(口巴)=したがう・つきそう・つきしたがう・ひろい・のさばる・はびこる」・・・「扈行=皇帝につきしたがって出行」・・・「跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)・陸梁跋扈(リクリョウバッコ)・飛揚跋扈(ヒヨウバッコ)」・・・「跋扈=魚を捕らえるための網から魚が躍り跳ねて逃げること・魚を捕まえるための竹簗(たけやな)、魚籠(びく)、竹垣(たけがき)の罠を飛び越えて逃げること」・・・「梁山泊の女傑、扈三娘(コサンジョウ)」・・・「飢餓・飢饉・枯渇」で食い物が無いと「餓死・飢死」・・・「滬=コ」、「中国を流れる川の名・呉松江(ゴショウコウ)の下流・上海(シャンハイ)のこと」、「えり(魞・魚入・fish trap)、あじろ(網代・足代)=竹を並べて魚を捕る仕掛け」・・・「滬港通」の「滬=上海=申」の略、「港=香港」、「通=通行往来」の意・・・「襮=さらす・晒す=曝す=expose・人を危害・攻撃・非難などにさらす・被爆・被曝=ヒバク=飛瀑」・・・
ーーーーー
 「旧約聖書(創世記)のヨセフ、
  料理長の
  夢を解いた後の2年目
  ↓↑・・・料理長=膳夫(カシワデ・柏手)=御膳=高橋
  ヨセフ(Joseph)、
  30歳、牢獄の中から出され
  ファラオ(パロ・エジプト王)が視た夢を
  七年間、エジプトを襲う
  飢饉の夢であると解いた」・・・
  ↓↑
 ヨセフは男12人兄弟の
 下から2番目、・・・二番目
 上から11番目、・・・十一番目
 父の
 ヤコブの4人の妻の中の
 ラケルが産んだ二人のうちの一人(37:2~4)
 兄弟にヨセフは
 「穴」・・・「穴=あな=蛙名・鴉名・阿奈
             坎・坑・阬・嵌」
  ↓↑      穴戸=長門・・・岩戸
 に投げ込まれ殺されそうになったが
 「イシュマエル」人・・・アブラハムの妻サラの所有していた
  ↓↑         エジプト人の
             女奴隷ハガルとの子の子孫
             アラブ人(16:1~16)
             Yišmaʿel=イシマエル=石舞える
                  石舞台=蘇我馬子の墓
             「しまうま(縞馬)のような人」
              島の馬(馬子)?ゼブラ=zebra
              揣摩の宇摩?
             イシュマエル=Ishmaelite
  ↓↑         意趣 眞重留・異種麻重留???
 の隊商に
 銀20枚で奴隷として売られた(37:18~30)
  ↓↑
  ヨセフ(イスラエル・以色列・伊色列
  ↓↑   ユダヤ・猶太→湯拿(ゆ妥)→湯王(?)
       湯王=天乙(紀元前1600年頃の商朝の初代王
          名は履(リ)=くつ・草鞋・・・履歴
          殷墟出土の
          甲骨文占卜には、
          大乙、
          名は唐、成・湯王(湯)、
          太乙、成湯、成唐
          とも
  ↓↑     =湯王=殷王朝の創始者
          主癸の子は、
          天乙=湯王
          帝嚳(コク)の子・・・嚳=臼+爻+告(牛口)
          ↓↑        黄帝の曾孫
                    号は高辛氏
          ↓↑        帝顓頊の後をついだ
          初代殷帝・・・インテイ=音綴
          姓は子・・・・シ・ね=音
          名は履・・・・リ・くつ=句通
          夏の最後の
          帝桀を殺し、
          夏王朝を滅ぼす
          帝位に就いた後、
  ↓↑      日照りが
          七年も続いたので・・・七年間の日照=大旱
          太史に・・・・・・・・太史=ヨセフ?
          占わせたところ
          人を犠牲=生贄にして
          祈るしかありません、と。
          湯王は
          人民のために
          雨乞いをするのである
          もし、人の犠牲(生贄)を以て
          祈らねばならぬのならば、
          吾が自ら犠牲となろう、と。
          湯王は
          白木の車を
          白馬に曳かせ、
          身に
          白茆(ハクボウ)
             白の茅(かや=萱・茆・栢)を纏い、
             葺き合えず=附記合えず=葺不合?
          自ら桑林・・・扶桑=日本?
          の野で祈り、
  ↓↑      六事・・・信・聞・時・主・処・衆
          ↓↑   の六条件が備わった
          ↓↑   釈尊の説法=六事成就?
          を以て自らを責め
          政治に節度がなかったか、
          人民が職を失ったのか、
          宮殿が贅沢すぎたのか、
          女の請託が盛んなるか、
          賄賂が盛んであるのか、
          讒言するような人間が
          横行しているのか、と。
          湯が祈りはじめると、
          その祈りが終わらぬうちに
  ↓↑      大雨(おほあめ・ダイウ)
         (おおあま=大天=大海人=天武天皇?)
  ↓↑      が降りだし、
  ↓↑      その恩恵は方数千里にも及んだ・・・)
 のファラオ(パロ)の視た夢解きは、
  「『ナイル川より上がってきた
   肉付きの良い美しい
   七頭の雌牛はエジプト全土に
   七年の豊作。
   次に上がってきた
   痩せこけた醜い・・・痩=やせる=瘦=疒+叟(おきな)
               叟=老年の男子の尊稱・英雄
               叟=E+|+ヨ+又
                 両手を併せる
                 ヨセフ=Joseph=寄せ附?
                 二つで一組になるモノ
                 老翁・老人
   七頭の雌牛が
   前の肉付きの良い美しい
   七頭の雌牛を食べるのは、
   七年の豊作の後、
   七年の飢饉』
  である」、と・・・
 「ファラオが後から見た夢も、
 『豊かに実った
  七つの穂は
  七年の豊作、
  そして東風に焼かれた
  七つの穂が豊かに実った
  七つの穂を飲み込むのは、
  七年の豊作の後に
  七年の飢饉を現す夢』
  と夢占い・・・
 ファラオは
 「ヨセフに
  ツァフェナト・パネア・・・Zaphenath Paneah
               Zaphnath Paaneah
              「神は語り、彼は生きる」?
               ツァフェナト・パネア
               通鴉附重名訳・葉音蛙?
  という名前と、
  宰相の地位を与えた。
  その後、
  宰相のヨセフは豊作の
  七年間の間に穀物を安く買い集めて蓄え、
  後の
  七年間の飢饉に備えた・・・
  ↓↑  ↓↑
 「七年間の飢饉」・・・
  ↓↑  ↓↑
 「天保の大飢饉」、
 「江戸時代の1833年(天保四年)~
      ~1835年(天保六年)~
      ~1836年(天保七年・丙戌)~
      ~1837年(天保八年・丁酉)
 の最大化した飢饉・・・
 3月25日(天保八年二月十九日)・・・「大塩平八郎の乱」
 7月03日(天保八年六月一日)・・・・「生田万の乱」
 7月30日(天保八年六月二十八日)・・「モリソン号事件」
    (Morrison Incident)=日本人漂流民
     音吉ら七人を乗せた
     アメリカ合衆国の商船を
     三浦半島(浦賀沖)
     野比村沖
     日本側砲台が砲撃
     7月
     モリソン号は、武装解除し
     薩摩の山川港に来航し
     漂流民7人の送還と
     貿易を求める書簡を
     薩摩藩主の島津斎興に提出
     薩摩藩は異国船打払令を伝え
     漂流民はオランダを介して
     送還するように伝え
     モリソン号を退去させた
 天保十年(1839年)五月・言論弾圧事件
 蛮社の獄=高野長英、渡辺崋山、
      小関三英=名は好義・幼名は弁助、通称は良蔵
           号は鶴斎、鶴洲、篤斎
           出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡の生まれ
      天明七年六月十一日(1787年7月25日)
        ~
      天保十年五月十七日(1839年6月27日)
      などの
     「尚歯会」のグループを弾圧←鳥居耀蔵       
  ↓↑  大学頭林述斎の次男・名は忠耀・甲斐守の耀蔵
      旗本、
      鳥居成純の長女
     「登与」の婿として鳥居家を継ぐ
      登与=とよ=臺與・・・?
  ↓↑  幕府老中、水野忠邦配下の南町奉行・勘定奉行
ーー↓↑ーー
 昨日(5/21)のツヅキ・・・
 「七番目のモノ」は・・・
 「亀甲文字・金文」の「七(7)」の形象文字は「十」
           「七=十」って?、困った・・・
で、
           「十(10)」の形象文字は「I」
 「あいうえおかき」の「き(キ)」、
ーー↓↑ーー
 安以宇衣於
 加幾久計己・・・・幾(き・キ)・幾(いく)ら・幾何学
 左之寸世曽
 太知川天止
 奈仁奴祢乃
 波比不部保
 末美武女毛
 也由与
 良利流礼呂
 和井 慧乎
 无
ーー↓↑ーー
 あいうえお
 安以宇衣於
 かきくけこ
 加幾久計己・・・・幾(き・キ)・幾(いく)ら・幾何学
 さしすせそ
 左之寸世曽
 たちつてと
 太知川天止
 なにぬねの
 奈仁奴祢乃
 はひふへほ
 波比不部保
 まみむめも
 末美武女毛
 や ゆ よ
 也 由 与
 らりるれろ
 良利留礼呂・・・・讃良の利を留る
          礼=禮(ライ・レイ)=示+豊
          の呂(ロ音)=背骨・長い
                 音楽の調子・語呂
                 呂翁の枕
                 太安万侶・
 わゐ ゑを
 和為 恵遠・・・・和と為す、敬遠・桂園
 ん
 无
 ↓↑
 アイウエオ
 阿伊宇江於
 カキクケコ
 加幾久介己・・・・幾(き・キ)・幾(いく)ら・幾何学
          キク(規矩)を加え、己(キ・コ)を
          介(カイ)す
 サシスセソ
 散之須世曽・・・・之をサンじ、須の世の
          曽(かつて・かさなる・ます・すなわち
            ます・ふえる・すなわち
            曾孫(ひまご)
 タチツテト
 多千川天止
 ナニヌネノ
 奈二奴禰乃
 ハヒフヘホ
 八比不部保
 マミムメモ
 万三牟女毛
 ヤ ユ ヨ
 也 由 与
 ラリルレロ
 良利流礼呂
 ワヰ ヱヲ
 和井 慧乎
 ン
 レ
ーー↓↑ーー
 「いろはにほへと」の「と(ト)」、
 「以呂波耳本へ止」の「止」
  色の葉は耳の本(もと)の経(へ)の訳(と)
  以色列・伊色列=Israel・イスラエル
ーー↓↑ーー
 以呂波耳本へ止・・・止=と=訳・・・兎=ト=ト(卜占・目)
          「呂不韋(ロフヰ、ゐ)」=始皇帝の養父
           ならば「呂」は「比、卑(ロフィ)」?
 千利奴流乎和加・・・千利の奴・・・千利休=利の休の奴?
 餘多連曽津祢那
 良牟有為能於久
 耶万計不己衣天
 阿佐伎喩女美之・・・喩(さとす)女(おんな)
 恵比毛勢須
 (金光明最勝王經音義)
ーー↓↑ーー
 「ABCDEFG」の「G(g)」、
 「虹色の外側からの順番で・・・・イスラエル=以色列・伊色列
  赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の「紫」、
 「7番目の月の七月=文月」の「July」
 「7年目の耕作」の「Seventh year」、
 「七曜日の月火水木金土日」の「日(Sunday・Sun」
                 「纂出意・簒」・・・?
 「七曜日の日月火水木金土」の「土(Saturday・Sat」
                 「沙汰出意・砂田」・・・?
 ・・・「解通(ゲツ)
     掛 (カ)
     諏易(スイ・出)
     目 (モク・摸句)
     今 (キム・記務)
     努 (ド)
     耳知(ニチ・似知・丹治
              タンジ・にじ・あかじ=赤字)」?
 ↓↑
 出エジプト記23章10~11節
 7年目ごとに土地の休耕を定めた
 (レビ記25章1~7節にも)
 ↓↑
 「デウトロノミウム(deuteronomium)」
  出得訳賂之観得務?
 英語
 the Septuagint=七十人訳聖書
 Septuaginta(セプトゥアジンタ)=数字で70の意味
 7=hepta(ヘプタ)
   sept=(セプト)
   heptagon・september
7個でヘプタン
   7=Ζ・ζ(ジータ)・z・・・Z→乙(おつ・イツ)
ーーーーー
 出エジプト記23章10~11節
 と
 申命記15章1~3節
 ↓↑
 10 あなたは六年のあいだ、地に種をまき、
   その産物を取り入れることができる。
 11 しかし、七年目には、これを休ませて、
   耕さずに置かなければならない。
   そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、
   その残りは野の獣が食べることができる。
   あなたのぶどう畑も、
   オリブ畑も同様にしなければならない。
 ↓↑
 7年目ごとに(安息年)
 土地の休耕を定めたもの
 ↓↑
 この規定は
 レビ記25章1~7節にもある
 ↓↑
 1 主はシナイ山で、モーセに言われた、
 2 「イスラエルの人々に言いなさい、
  『わたしが与える地に、
   あなたがたがはいったときは、
   その地にも、
   主に向かって安息を守らせなければならない。
 3 六年の間あなたは畑に種をまき、
   また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、
   その実を集めることができる。
 4 しかし、
   七年目には、地に
   全き休みの安息を与えなければならない。
   これは、主に向かって守る安息である。
   あなたは畑に種をまいてはならない。
   また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。
 5 あなたの穀物の
   自然に生えたものは刈り取ってはならない。
   また、
   あなたのぶどうの枝の手入れをしないで
   結んだ実は摘んではならない。
   これは地のために全き休みの年だからである。
 6 安息の年の地の産物は、
   あなたがたの食物となるであろう。
   すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、
   あなたの所に宿っている他国人と、
 7 あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、
   その産物はみな、食物となるであろう。
 レビ記25・20-22
 20 「七年目に種をまくことができず、
    また産物を集めることができないならば、
    わたしたちは何を食べようか」
   とあなたがたは言うのか。
 21 わたしは命じて六年目に、
   あなたがたに祝福をくだし、
   三か年分の産物を実らせるであろう。
 22 あなたがたは八年目に種をまく時には、
   なお古い産物を食べているであろう。
   九年目にその産物のできるまで、
   あなたがたは古いものを食べることができるであろう。
 ↓↑
 宗教的な理由で土地の休息を
 7年目ごとに与える制度
 休耕は貧しい者たちが、
 次いで野生の動物たちが、
 その土地で生えるものを食べるための措置
 土地を7年目ごとに
 「休ませる=ティシュメテーナ」
 「休ませる=シャーマット」は、
 「休耕にする・諦める」
 で、
 名詞形の
 「シェミッター」は「負債の免除」
 「負債免除」
 申命記15章の
 7年目ごとの負債の免除規定
 レビ記と出エジプト記の規定は、
 イスラエルの民がまだ半農半牧畜
 申命記の規定では、
 「シェミッター」=経済的な意味で
         「負債の免除」・・・
 レビ記と出エジプト記は
 イスラエルの初期の頃の規定で
 申命記の規定は
 王国時代(1000年頃)以後の規定・・・
ーーーーー
 出エジプト記21章2節以下
 「ヘブライ人」の男性の奴隷を買う場合には、
 その奴隷の期間は
 6年間だけで、
 7年目には、
 無償で自由にしなければならない
 (出エジプト21章2節)
 「ヘブライ」=土地を持つことが許されない
        放浪者、奴隷階級の人たちを指す
 「ヘブライ人」=エジプトでは「ハビルの人(蔑称)」
 出エジプト記では
 「ヘブライ」
 と
 「イスラエル」
 とが微妙に区別して用いられている・・・?
 (出エジプト10章3節
         23節の比較)
 出エジプト記の奴隷規定で言う
 「ヘブライ人」とは、
 生まれながらの奴隷の身分で
 売り買いされている人たちのことなのか(購買奴隷)?
 それともイスラエル共同体の人でありながら、
 負債を返すことができなくて、
 自分を身売りした人たちのことなのか(負債奴隷)?
 あるいは
 購買奴隷と負債奴隷の両方を指すのか?
 ・・・両方を指すと解釈する説と
 ここで言う「ヘブライ」は、
 すでに「イスラエル」と同じ意味で
 用いられていると解釈し、
 「ヘブライ」を「外国人」と区別して
 負債奴隷として解釈する説とがある・・・
 負債奴隷の場合
 7年目に自由にされる時に、
 身売りする以前の土地や妻が返却される
 しかし
 主人が
 奴隷に与えた妻と
 その妻との間に生まれた子供は
 返却されない
 その奴隷が、
 一生をその主人の奴隷として希望する場合は、
 聖所の祭司あるいは裁判官によって
 その
 「耳に錐で穴を開ける」・・・耳朶(たぶ)に穴?
 ことになる
 (出エジプト21章5~6節)
 解放されても
 元奴隷であった者は
 身分的に一段低い階層に属する・・・?
 ↓↑
 女性の奴隷
 7年目でも解放されることがない・・・
 主人の家の所有、私有・・・
 主人の側室になるか、
 その息子の側室になるか、
 その家の奴隷の妻となるか・・・
 主人にほかの側室がいたとしても、
 家族として彼女を対等に扱うことが求められた
 主人が彼女を嫌った場合でも
 彼女を勝手に転売することは許されない
 しかし
 イスラエルの彼女の親族が
 その「女奴隷」を
 「贖う」=「買い戻すこと」ができた
 ・・・「出エジプト記の奴隷規定」・・・
 ↓↑
 出エジプト記に対して
 申命記15章12~17節
 の奴隷規定の比較
 ↓↑
 「同胞のヘブライ人の男あるいは女(申命記15章12節)」
 男女は区別されていない
 「女奴隷」も7年目に、
 「男奴隷」と同じ権利が与えられて解放される
 (同17節)
 「申命記」では、
 女性にも土地や財産の
 所有権が認められている
 (列王記下8章1~6節を参照)
 「あなたの同胞であるヘブライの」
 ここでは
 「ヘブライ」
 と
 「イスラエル」
 共同体の「同胞」とが同じ意味で用いられている
 イスラエル人の
 「債務奴隷に限定された規定」
 オリエントでは
 「ヘブライ」は、
 「自由人」と区別される
 「奴隷身分」を意味・・・?
 「申命記」では特定の意味で用いられてはいない
 「ヘブライ」は民族を表わす用語となった・・・
 「あなたの同胞のヘブライ(奴隷の)男あるいは女」
 という意味に理解して、
 「ヘブライ」を奴隷身分を表わす用語だと理解し、
 これを「自由の身(ホフシー)から
 区別されていると見る説・・・
 ↓↑ ↓↑
 土地の休耕
 出エジプト記23章10~11節
 と
 申命記15章1~3節
 との比較
 「出エジプト記23章10~11節」
 7年目ごとに土地の休耕を定めた
 レビ記25章1~7節にもある
 レビ記のほうは、
 祭司資料編集者たちによる資料
 土地は
 ヤハウェのもの(共同体全体のもの)だとし
 宗教的な理由で土地への休息を
 7年目ごとに与える制度・・・
 出エジプト記のほうは、
 レビ記の宗教的な理由よりも、
 社会的な理由に傾き、
 休耕は
 貧しい者たちが、
 次いで野生の動物たちが、
 その土地で生えるものを食べるための措置
 土地を7年目ごとに
 「休ませる(ティシュメテーナ)」とあり
 この「休ませる(シャーマット)」は、
 「休耕にする・諦める」ことで、
 これの名詞形
 「シェミッター」は
 「負債の免除」をも意味する用語・・・
 この「負債免除」の規定に相当するのが
 申命記15章の
 7年目ごとの負債の免除規定
 レビ記
 と
 出エジプト記の規定は、
 イスラエルの民がまだ
 半農半牧畜の時代の規定で
 申命記の規定は、
 同じ「シェミッター」が、
 「経済的な意味で」の負債を免除する用語・・・
ーー↓↑ーー
 「部曲 (かきべ・ブキョク)」
   ・・・「ブ」の「まがり・よこしま」
 古代の中国、朝鮮、日本の
 私有民や私兵などの身分の人間
 日本では
 「民部(ミンベ)」とも書く
 中国起源の
 「」、「隷属的集団の人々」
 ↓↑
 「部曲」
 古代中国の
 漢代~魏晋南北朝時代において、
 人間集団の組織、
 とくに軍隊組織において
 大隊を部、
 中隊を曲
 といい、
 「部曲=軍団」を意味した
 南北朝時代には
 「私兵」を意味した・・・
 ↓↑
 「部曲」は
 北周時代
 「私」の呼称
 唐時代
 「」の用法が定着
 「」とは違って売買されず、
 法的には
 「」より上位に置かれた・・・
 ↓↑
 日本
 部曲(かきべ・かきのたみ・かき)
 大化の改新以前の
 豪族の「私有民」で
 天武朝以後に
 「公民」となった
 ↓↑
 部曲(プゴク・ブキョク)
 新羅、高麗の「」
 「良民」が住む地方は「郡、県」とされ
 「」が住む地方は「郷、所、部曲」として区別
 李氏朝鮮時代にはなくなった・・・
 ↓↑ ↓↑
 中央・地方の氏(ウジ)・・・得字・宇治・右治・・・蛆
         蛆=虫(中ム)
           +
           且(しばらく・とりあえず
           シャ・カツ・まさに~とす)
 大王との間に
 隷属・奉仕の関係を結び、
 それを前提に
 氏のリーダーは
 朝廷における一定の
 政治的地位や
 官職・職務に就く
 資格と、それを世襲する権利を与えられた
 また、
 その出自や政治的地位・官職の高下・職務内容
 の違いに応じて
 「カバネ」を賜与され、
 「部民(べみん)」の管掌を認められた・・・
 ↓↑ ↓↑
 「カバネ」
 臣・連・伴造・国造(くにのみやつこ)
 「臣・国造」がそれぞれの地域を基盤とする首長
 「連・伴造」は
 大伴氏・物部氏など、
 従者、側近のトモとしての職掌が本質・・・
 5世紀頃
 畿内及びその周辺の中小豪族を
 「トノモリ(殿守)
  モヒトリ(水取)
  カニモリ(掃守)
  カドモリ(門守)」
 など、宮廷の各種の職務を
 世襲的に
 分掌する「トモ」として、
 大王のもとに組織する体制が成立・・・
 トモ制の拡大・発展の結果、
 5世紀後半
 「トモノミヤツコ(伴造)」が
 トモ(伴)を率いるという体制も整備
 稲荷山鉄剣にみえる
 「ヲワケ」も、
 「トモ」としての
 「杖刀人」集団を率いる
 「伴造」・・・
 ↓↑ ↓↑
 大和政権と朝鮮半島情勢の緊迫化
 磐井の乱=継体天皇二十二年(528年?)
      継体天皇二十一年(527年?)
 後に、
 屯倉制や部民制を列島中に拡げていった・・・
 乱後の
 九州では、
 軍事的「部民」が設置・・・
 大和政権は、
 肥後地方に
 日下部・壬生部・建部・久米部
 などに
 「軍事的部民」を設置・・・・・・・・「軍体・軍兵」
 「物部(もののべ)」関係では、・・・「物資・財物」管理?
 「筑紫・豊・火」に及ぶが
 特に筑紫に多
 「大伴」関係では、・・・・「従臣・陪臣・側近」?
 「筑紫・豊・火」に分布するものの
 密度は低い・・・
  ↓↑
 松江市の6世紀後半の
 岡田山1号墳から出土した鉄刀
 「額田部臣」銘が刻まれていた
 出雲地方に部民が設定
 「額田部」とは、
 地域の首長
 「額田部-臣」が部民を統率し
 欽明天皇の皇女、
 後の
 推古天皇の宮に奉仕していた・・・
 出雲地域ではこのほかにも
 『出雲風土記』
 「意宇(おう)郡-舎人郷条」に
 「欽明朝の時
  日置(へき)-臣・・・「日置=ヘキ=戸置」で、
             租税を徴集する
             戸数を調べる役所説・・・
  志毘(しび)」が
 「大舎人」
 「神門(かむど)郡-日置郷条」に
 「欽明朝の時
  日置伴部が派遣され
  政を行った」と伝承
 「欽明朝」の頃に
 「部民制支配」が確立した・・・
 ↓↑
 律令制の実施に伴い部は廃止され
 称号としての性格になった・・・
 670年(天智九)
 「庚午年籍(こうごのねんじゃく)」以後
 すべての人民が戸籍に登録
 「部称」は個人の姓として残され、
 以後は
 代々
 父系によって継承された・・・
 ↓↑
 各地域の「部」
 吉備
 部民の中核御名代(みなしろ)は、
 健部(たけるべ)・伊福部(いふきべ)
 宇治部(うじべ)・額田部(ぬかたべ)
 日下部(くさかべ)・矢田部(やたべ)
 丹比部(たじひべ)・刑部(おさかべ)
 軽部(かるべ)・白髪部(しらかべ)
 石上部(いそのかみべ)・小長谷部(おはつせべ)
 私部(きさいべ)・壬生部(みぶべ)
 これらの部は5~6世紀の大王ごとに設置され、
 御名代として
 大王の宮廷に奉仕
 ↓↑
 広島県
 庄原市
 比婆郡では
 刑部・春日部・物部
 三次市・双三郡では
 私部・刑部・額田部、
 福山市周辺には
 服部・矢田部・品治部・春部
 などの設置が想定されている・・・
 ↓↑
 安芸
 広島湾~太田川流域にかけて
 佐伯部・大伴部・若桜部・伊福部、
 江の川上流の可愛川流域には
 壬生部・品治(ほむち)部・
 丹比(たじひ)部・御使(みつかい)部、
 島嶼部に
 海部・倉橋部
 などの設置
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
ーーーーーーーーーー
 白雉=ハクチ=白痴=ハクチ=白地・白磁・伯治・博治?
       =真っ赤な赤恥
 ↓↑
 解部(ときべ)
 日本における訴訟を職務とした機関、その職員
 古代日本の
 「部民制」において
 訴訟を職務とした部の一
 明治時代の「刑部省」にも設置・・・
 ↓↑
 持統朝に100人設置
 令制では
 刑部省
 解部60人
 治部省
 解部10人
 配属
 ↓↑
 「刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓」
 などの職務を担当し、
 盟神探湯の執行者ともなった
 「物部」氏の配下にあった
 ↓↑
 刑部省解部
 808年(大同三年)に廃止・・・?ナゼ
 ↓↑
 明治時代
 刑部省に
 三等の解部が設置
ーーーーー
 ・・・前回からのツヅキ・・・
 ↓↑
 有りて、
 空より翔び降る。
 天皇の曰はく、
 「此の烏の来ること
  自ずからも
  祥夢(よきゆめ)も叶かなへる。
  大きなるかな、赫(さかり)なるかな。」
 ↓↑
 垂仁即位前紀
 「夢の祥に因りて、
  立ちて皇太子と為りたまふ。」
 天皇諡号
 瑞齒別天皇
 と
 反正天皇に対して使用
 立派な歯・・・瑞齒は「歯(は・シ)」か、
           「鹵(しお・ロ)」か?
 元号では
 白雉(孝徳)~朱鳥(天武)~慶雲(元明)~霊亀(元正)
 養老(元正)・神亀(聖武)~神護景雲(孝謙)
 ・宝亀(光仁)~などに使われた・・・
 ↓↑
 「白鳳」=「私年号」
 白い鳳凰=私年号の一
 『延喜式治部省祥瑞』には
 大端>上端>中端>下端の「中瑞」
 平安後期後
 「白雉」が
 大瑞の
 「白鳳」に変化し、
 天武紀などにも使用された・・・
 「朱鳥」は具体的な「朱雀」に変化
 中国思想の祥瑞の考え方で、
 この頃から
 上下関係が日本でもはっきり理解され始め、
 高い位の祥瑞に書き換えられた・・・
 ↓↑ 
 「白鳳」使用の書物
 孝徳天皇時代(藤氏家伝)
 斉明。天智時代(年代記。皇代記等)
 天智時代(神皇正統記。等)
 弘文天皇(大友皇子即位説)
 壬申年。朱雀と云われることが多い
 天武天皇時代
 天武一年~(多武峯略記等)    
 天武天皇時代
 天武二年~十四年(扶桑略記・水鏡)
 ↓↑ 
 神亀元年冬十月一日
 詔報曰、
 「白鳳以来、朱雀以前、
  年代 玄遠、尋問難明。
  亦、所司記注、多有粗略。
  一定見名、仍給公験。」
 詔し報へて曰く、
 「白鳳より以来、
  朱雀より以前、
  年代玄遠にして、尋問明め難し。
  亦、所司の記注、多く粗略有り。
  一たび見名を定め、仍て公験を給え」
 とのたまふ。
 白鳳は白雉より、
 朱雀は朱鳥以前。
 つまり、
 650年(白雉一年)~686(朱鳥一年)
 を指す・・・
 神亀と書かれたが、
 実際は
 白亀が奉られた。
 元号も「白亀」ではなく、
    「神亀」となった・・・
 ↓↑ 
 「白鳳時代」
 「白鳳」の使用例は平
 安後期になって
 一般化したもの・・・
 私年号は
 孝徳天皇の
 「白雉」が最初
 『唐書東夷伝』に
 倭国の元号白雉を記している
 これ以前に
 「法興」が
 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や
 『伊予国風土記』逸文(伊予温泉碑文)
 にある・・・
 扶桑略記
 『日本書紀』    →『扶桑略記』
 天武一年      → 朱雀一年
 天武二年~天武14年→ 白鳳一年~白鳳十三年
 朱鳥一年      → 朱鳥一年
 祥瑞
 孝徳天皇の前、
 皇極時代から頻繁に現れた
 天武時代は毎年のように祥瑞
 ↓↑ ↓↑ 
 万世一系の系譜を疑う記述
 635年舒明七年七月
 瑞蓮、劔(つるぎ)池に生ひたり、
 一莖(くき)に二つの花あり。
 応神十一年十月
 橿原市石川にある劔池の蓮の花が、
 一つの茎に
 二つ咲いた
 644年皇極三年六月六日
 劔池の蓮の中に
 一莖(くき)に
 二つの萼(はなぶさ)のものあり
 舒明七年と皇極三年の同じ、
 劔池の蓮の記述が
 「一茎二花」
 「一茎二萼」
 で意味は同じ
 「通釈」で
 重複記事と捉える考え方がある・・・
 644年皇極三年六月一日
 大伴馬飼連
 百合の華を獻(たてまつれ)り。
 その莖(くき)の長さ八尺、
 その本(もと)異にして末(すえ)連あへり。
 『延喜式治部省祥瑞』に
 「椒桂合生、木連理」
 とは
 「仁木也。異本同枝、或枝旁出、上更還合」
 とあります。
 日本書紀は、
 豊浦大臣(蘇我蝦夷)が
 妄推して曰く、
 「これ蘇我臣の栄えんとする瑞なり」
 と。
 蘇我氏の繁栄を指す考えを
 日本書紀自身が否定している
 舒明天皇と皇極天皇の間で
 血筋に別の流れが生じた・・・
 ↓↑ ↓↑
 フクロウ(梟)と祥瑞
 ふくろうが
 豊浦大臣の
 大津宅の倉で子を生んだ
 記述が書かれた・・・
 天武天皇の年齢
 フクロウ
 武天皇降誕の慶事・・・
 倭国
 菟田山で
 六尺の紫キノコが沢山見つかる
 毒キノコと怪しんだが
 煮て食べると、はなはだ香ばしくうまい
 その後、彼等は病無く、命長らえた・・・
 これが
 祥瑞「芝草」であることを知らなかったようだ
 ・・・、と
 『延喜式祥瑞』の分類では
 「芝草」とは「下瑞」で、
 分注に
 「形似珊瑚、枝葉連結、
  或丹・或紫・或鄢・或金色・或-隨四時變色。
  一云一年三華,食之令眉壽」
 とあるもの・・・
 「フクロウ」は祥瑞・・・
 フクロウ・・・アテネの聖鳥・メンルバ・・・
        ミネルウァ(ラテン語: Minerva)
 唐の祥瑞一覧に「ふくろう=梟=ミネルバ」は無い
 西洋では
 夜行性からか、
 学業の鳥
 日本では
 フクロウは猛禽類で、
 夜鷹(よたか)といわれた
 常陸国風土記
 茨城郡の項に
 昔。国巣(くず)山の
 佐伯(さえき)と言うもの達がいた
 狼の性(さが)
 と
 梟の情(こころ)
 をもち、
 鼠(ねずみ・イエス=移鼠?=子)のごとく
 隙をうかがって
 かすめ盗る
 「ふくろうの情」とは
 蔭に隠れる者を指し示す・・・
 日本書紀に載る
 ふくろ
 ↓↑
 神武即位前三年十月一日
 「八十梟帥」と対峙
 古事記は「八十建」
 景行十二年十二月五日
 「襲国の熊襲梟」を
 景行天皇が成敗      
 景行二十七年十二月
 熊襲国の
 「川上梟帥」を
 日本武尊が成敗・・・
 古事記は
 「熊曾建」
 伝説的4人
 3人の「梟」は
 日本武尊(古事記では倭建命)の
 「建」は古事記では同じ
 「建」と書かれている
 ↓↑
 313年
 仁徳一年一月三日
 応神天皇の
 子が生まれる際
 産屋に
 木菟(みみずく)が入り込む
 武内宿禰は、
 息子が生まれた際、
 やはり産屋に
 鷦鷯(みそささい)が入ったとして、
 二人の赤子の名を
 入れ替えた
 大鷦鷯尊(おおさざき)
 木菟(つく)宿禰となった・・・木菟=モクト・きうさぎ?
 ↓↑ 
 482年清寧三年七月
 飯豊皇女が
 角刺(カクシ・つのさし・かどさし)宮で
 男と交合した
 飯豊=「いいとよ」とは
 「フクロウ」のこと?
  ・・・梟=ふくろう・たけだけしい
       つよい・キョウ
       鴟梟(シキョウ)
       梟悪・梟将・梟雄
       さらし首にする
       「梟首」
       「梟帥(たける)」
       雛が母鳥を食べる、「親不孝者」の象徴
       武則天は敵対者の姓を
      「蟒(ウワバミ・蛇)・梟」に替えさせた
      「梟帥(たける)」は「長・頭領」
      「梟雄 (キョウユウ)」は盗賊の頭
      獄門首は「梟首(キョウシュ)」
 飯豊皇女は綽名・・・飯豊=いいとよ・いいぶん?
              ひいぶん=比異文?
              ハンホウ=版報?
 青海皇女(あおみのひめみこ)、
 忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)
 が本来の名前・・・?
 ↓↑
 587年用明2年7月
 朝庭は苻を下し稱(い)はく
 「死んだ萬(よろず)を
  八段に斬り、
  八国に散し
  梟(くしさ)せ。」
 河内国司。即ち苻旨に依りて、
 斬り梟(くしさ)す時に臨み、雷鳴り大雨ふる。
 実はこの
 捕鳥部-萬(とりべの-よろず)の
 茅渟縣
 有真香邑(ありまかむら)=和泉郷
 は古くから
 茅渟と呼ばれていた・・・
 すなわち、
 皇極天皇の父、
 茅渟王の故郷であり、
 弟、
 軽皇子(孝徳天皇)
 の住む宮があるところ・・・
 乳母は
 和泉郷の大豪族、
 安曇氏の中から
 大海人連が選ばれた・・・
 ・・・大海人皇子の名付け・・・
 皇極天皇はこうした地で出産した・・・
 644年皇極三年三月
 休留いいどよ
 「休留は茅鴟(バウシ・ふくろう)也」
 豐浦大臣・・・「嶋大臣=馬子」、その子
        「蝦夷=蘇我豊浦-蝦夷-臣」
             「豊浦大臣」と呼ばれていた
 の
 大津の宅の倉に子産めり。
 681年天武十年八月十六日
 白茅鵄(しろいいどよ)が貢たてまつれり
 新田部皇子の誕生
 天武十年、
 新田部皇子は
 天武天皇の子・・・?
 五百重-娘(いおえ-の-いらつめ)
 藤原鎌足の娘
 大原大刀自(おおはらのおおとじ)、藤原夫人とも
 藤原不比等・氷上娘の妹
 天武天皇の夫人で
 新田部皇子の母
 天武天皇の没後、
 異母兄である
 藤原不比等の妻となり
 藤原麻呂を産む
 ↓↑ ↓↑
 天武紀の祥瑞
 673年天武二年三月十七日
 備後国の司。
 白雉を龜石郡に獲て貢る。
 乃ち当郡の課役をことごとく免除免。
 なお天下に大赦した。
 675年天武四年一月十七日
 是日、大倭国、
 瑞鶏(にわとり・ズイケイ)を貢れり。
 東国。
 白鷹(たか)を貢れり。
 近江国。
 白鵄(とび)を貢れり。
 676年天武五年四月四日
 倭国添下郡、鰐積吉事、
 瑞鷄を貢れり。
 其の冠、海石榴(つばき)の華に似し。
 是日、倭國の飽波郡、言さく、
 「雌鷄。雄に化れり」とまうす。
 677年天武六年十一月一日
 筑紫大宰、
 赤鳥を獻れり。
 則ち大宰府の諸司の人に、祿賜ふこと各差あり。
 また專ら赤鳥を捕れる者に爵五級を賜う。
 乃ちその郡の郡司等に、爵位を加増したまふ。
 因りて郡内の百姓に給復したまふこと、一年。
 是日に天下に大赦したまふ。
 678年天武七年九月
 忍海造能麻呂、
 瑞稻五莖を獻れり。
 莖ごとに枝あり是に由りて、徒罪より以下、悉く赦す。
 678年天武七月十月一日
 物有りて綿の如くして、難波に零れり。
 長さ五六尺、廣さ七八寸ばかり。
 則ち風に随ひて松林と葦原に飄る。
 時人の曰く「甘露なり」といふ。
 679年天武八年八月二十二日
 縵造忍勝。嘉禾(よきいね)を獻れり。
 畝(うね・盛り土)異にして
 頴(かび・穂先)同じ。
 (延喜治部式に下瑞とある)
 679年天武八年是年条
 紀伊國の伊刀郡、芝草を貢れり。
 その状菌に似たり。莖の長さ一尺。
 その蓋(いただき)二(ふた)圍(いだき)、
 また因播國、瑞稻を貢れり。
 莖ごとに枝あり。
 680年天武九年三月十日
 攝津國、白巫鳥しととを貢れり。
 巫鳥。此おば芝苔々(しとと)と云う。
 680年天武九年七月十日
 朱雀(あかすずみ)、南門に有り。
 (延喜治部式に上瑞とある)
 681年天武十年七月一日
 朱雀見ゆ。(延喜治部式に上瑞とある)
 681年天武十年八月十六日
 伊勢國、白茅鴟(いひどよ)を貢れり。
 681年天武十年九月五日
 周芳國。赤龜を貢れり。乃ち嶋宮の池に放つ。
 682年天武十一年八月十三日
 筑紫大宰言さく「三足ある雀有り」とまうす。
 九月十日
 日中に、數百の鸖(おおとり)、
 大宮に當りて、高く空に翔りぬ。
 四尅にして皆散けぬ。
 683年天武十二年一月二日
 筑紫大宰、丹比眞人嶋等、三足雀を貢れり。
 ~丙午(七日)詔して曰はく、
 「明藭御大八洲日本根子天皇の勅命をば、
  國司と國造と郡司と百姓等と諸に聽くべし。
  朕、初めて鴻祚あまつひつぎに登りてより以來、
  天瑞、一、二に非ずして多に至れり。
  傳に聞くならく。
  其の天瑞は。政を行う理(ことわり)。
  天道に協(かな)うときには。
  則、應(こたふ)と。
  是に今。朕が世に當りて、毎年に重ねて至る。
  一は以て則懼(おそ)り。
  一は以て則嘉(よみ)す。
  是を以て、親王と諸王及び群卿と百寮、
  并て天下の黎民(おおみたから)、共に相歡びむ。
  乃(すなわち)小建以上に、祿を給うこと各差有り。
  因りて大辟罪より以下、皆赦す。
  亦、百姓の課役、並に兔す」
 とのたまう。
 よって官位のある者には禄を賜い、大赦。
 税金を免除する。
 684年天武十三年三月八日
 吉野人宇閇直弓、白海石榴(つばき)を貢れり。
 686年朱鳥一年一月二日
 攝津國の人、百濟新與(くだらのにいき)、
 白馬瑙(めのう)を獻れり。
ーーーーー
 ・・・「瑞祥=ズイショウ=亠意章」・・・「ズイ=隋」の「章」・・・「ヤコウ=ようこう=陽侯氏」・・・「陽侯麻呂(やこ の-まろ)=奈良時代の官人・姓は史・官職は大隅国守・陽侯氏=陽侯史=陽侯忌寸」は「隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する渡来系氏族」・・・「蜻蛉(とんぼ)=穐津・秋津・安芸津」の幼虫は「やご=ヤゴ(水蠆)」・・・「阿記通詞馬」の「要注意(用註意)」・・「瑞皐(ずいこう)→皐月(さつき)=五月」・・・「瑞光」・・・
 「皐=さわ・ああ・さつき・コウ・白+𠦂・睪・皋」・・・
 「皐=白い頭骨と四本の足の獣の死体」の象形
 「皐=白く輝く・水面の白く輝く沢、沼を意味」
 ・・・ボク的には「皐」の漢字は「とんぼ」=「白+=+十+=」のように見えるが、「皐月(さつき)=五月」の「虫」は「やご」・・・「水蠆(やご)=水+萬+虫=トンボ類の幼虫・田や池などにすみ、小動物を捕食・羽化まで一~三年・やまめ=水蟣=水+虫+幾」・・・
  ↓↑
 「瑞皐(ずいこう)」=「高野長英(文化元年五月五日・1804年6月12日~嘉永三年十月三十日・1850年12月3日)」は、
 「江戸時代後期の医者・蘭学者
  通称は悦三郎
  諱は譲( ゆずる)
  号は瑞皐(ずいこう)」
 ・・・「随行」、「ズイコウ=図(日本地図交換)以降」・・・
 ・・・「やご」・・・いつかは空に飛ぶんだろう・・・
ーーーーー
 「秋津島(あきづしま)=蜻蛉嶋=トンボの島」・・・
 「神武天皇(磐余比古)」の大和の山の国見で
 「この国はまるで
  あきづが
  つるんでいる(となめ=トンボの雌雄が交尾して、
         互いに尾をくわえ合い、
         輪になって飛ぶこと
        (蜻蛉 (あきつ) の
         トナメの如くにあるかな・神武紀)
  ような形だ」
 と云って「あきづしま」と呼ぶようになった・・・
 ナゼ、「やまと」じゃないのか・・・
  ↓↑
 「雄略天皇」の「秋津島」の由来の歌
 天皇が吉野山中で
 猪狩りをしていた時、
 腕に
 虻(あぶ)が喰いつき、
 そこへ
 蜻蛉がさっと飛んで来て
 「アブ」をぱくっと食べた・・・虻(あぶ)は
                則天武后の蔑称
 天皇は「倭の国」を
 「蜻蛉島(あきづしま)」
 と名付けた・・・
 「隋王朝(煬=あぶ)」→「唐王朝(高宗)」
            →「周王朝(則天武后)」
  →「陽侯氏(やご)」→倭國
  →「あぶ(武照・則天武后・阿倍)」→新羅・百済・高句麗
    ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
  →「秋津(安芸津)」→「長州・長門←穴戸(神功皇后)」
  →「石上宅嗣(芸亭院・公開図書館・相模守・三河守)」
    ↓↑
  →「左大臣、石上麻呂の孫・中納言、石上乙麻呂の子」
    ↓↑
 平安時代までは
 蜻蛉を「あきづ」と呼んでいた
 後、「あきつ」と清音で言ったり書いたりした
 鎌倉時代ころから
 「とんぼう・とんばう・とんぼ」・・・訳務葉得(旁)?
 と云い、
 江戸時代には
 「とんぼ」
 と呼ぶようになった・・・
  ↓↑
 ヤゴ(水蠆・水蟣)
 4月末~7月頃にかけ
 羽化し、蜻蛉(とんぼ)になり
 空中で蚊(か)、蚋(ぶよ)、蝿(はえ)、
 虻(虻)・・・虻=あぶ=煬・阿武・阿部
 などの大型の虫を捕らえて食べ
 雌を見つけると飛びついて
 尻尾に食いつき、
 雌の方も雄の尻に食いつくようにして
 輪のようになって交尾する
 雌は池や小川の水面すれすれを飛び、
 時々水面を尾で叩くようにしながら
 受精卵を産み落し、
 それが
 孵ってヤゴ(水蠆・水蟣)になり
 ひと冬を過ごして、
 翌年夏、蜻蛉になって飛び回る?
 ・・・孵化には2、3年かかるから翌年ではない・・・
 蜻蛉は早いものは
 5月初めには飛び始め、
 7月にはほとんどの種類が羽化を終える
  ↓↑
 遠山が目玉にうつるとんぼかな(小林一茶)
 ・・・デスか・・・
ーーーーー
 「五月」の異名、別称
 さつき・サツキ・コウゲツ
  ↓↑
 いななえづき(稲苗月)
 いろいろづき(五色月)
 うげつ(雨月)
 けんごげつ(建午月)
 つきみずづき(月不見月)
 さつき(皐月)
 さなえづき(早苗月)
 さみだれづき(五月雨月)
 しゃげつ(写月)
 たちばなづき(橘月)
 ちゅうか(仲夏)
 ばいげつ(梅月)
 よくらんげつ(浴蘭月)
ーーーーー
 ・・・

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