0、プロローグ
人智を超えた歪みというのは、いつの時代も存在し
誰にも見えない闇の中で、その息を潜めている。
歪みの源……それは悪魔の所業か、それとも神の悪戯か。
物質文明がある程度の発展に到達した現在でも、その歪みは絶えず何処かで起きている。
この現実に、確実に。
その日、西日に照らされた白壁の会議室の中で、ひとつの殺人事件の考察が行われていた。
殺人に関する事件を取り扱う警視庁捜査一課は、今日も慌しかった。
「今月九日、港区で変死体があがりました。被害者の死因は衰弱死。後頭部の裂傷痕から微弱の毒性麻酔が検出されており、それ以外の外傷がないことから、やはり今回も化合弱性毒物による殺人です。被害者の様子から見て、同一犯の可能性があり……」
広めのホワイトボードに貼り付けられた殺された被害者の写真と、姓名、その情報の数々が黒いマジックペンで書かれている。
説明役の背広の刑事が事件の概要を丁寧に説明しながら、他の刑事たちの前で淡々と語り続ける。
「……今月に入ってもう七件目だぞ。さしもの刑事課長もおかんむりだ」
「やれやれ、また雷が落ちるぞこりゃ」
会議の合間にヒソヒソ話をする末席の二人の刑事。
一人は低身長で小太り、一人は高身長で痩せ型の対照的な男だった。
「被害者同士の関連性はまったくなし。殺しの場所もバラバラ。あるとすれば歳が二十歳前後で、血液型がA型ってことだけ……」
「通り魔的な犯行だとしても、度が過ぎるな。それに死因が外傷でも毒物でもなく衰弱死ってところが……」
ヒソヒソ話の合間に、怪奇な連続殺人事件の概要説明が終わった。
それを聞いて、犯人をあげられない怒りから会議室が揺れるほどの怒号を発する課長をよそに、二人の刑事たちの話は続く。
「被害者は、全身の血液が空っぽの状態で発見される、か。なんで犯人はそんなことをするんだろうな?」
「さあな。猟奇的な殺人を繰り返す犯罪者の多くが、凡人には理解できない思考を持っている。ようは怪物なのさ。ヒトの心の中に閉じ込められた、怪物……」
そう言うと小太りの刑事は、目の前にあるペットボトルの蓋をあけ、中に入っていた清涼飲料水を喉に通していく。
刑事課長の怒号が聞こえる会議室で、普通よりやや長い間、ゴクゴクと喉の渇きを癒す音を立てる刑事。
グイと傾けたペットボトルの清涼飲料水は、パッケージ全体の中ほどまで減っていた。
「お前……本当に飲むよな」
痩せ型の刑事が、小太りの刑事の飲みっぷりを見てつぶやく。
「プハッ…うるせえなあ。喉が水で浸されるぐらい飲まないと、なんつうかな、渇きが満たされた感じがしないんだよ」
それを聞いて、もうすでに中身がなくなりかけていたペットボトルの飲み口から唇を離す小太りの刑事。
「渇きを、満たすか……」
「なんだよ。別にお前の飲み物に手を出したりしねえよ」
小太りの刑事の怪訝そうな視線と、何かバツが悪そうに自分の頭に手をまわし椅子に思いっきりよたれかかる様子は、痩せ型の刑事の笑みを引き出した。
プッとふきだした痩せ型の刑事は、自分の席の前に置かれたペットボトルを手にとって、会議室のライトに当てて眺めた。
やや白く濁った清涼飲料水が、ライトに照らされてその液体を刑事の顔に移す。
「連続殺人犯は案外、本当に怪物だったりしてな」
ある程度の間がたった後、痩せ型の刑事は遠い目をしながら、呟くように言った。
「おいおい、どういうことだよ」
小太りの刑事は、どちらかというと現実的な思考を持つ痩せ型の刑事にしては、おかしな発言だなと思い、よたりかかっていた椅子から、やや身を起こして言葉を吐いた。
痩せ型の刑事は、再びペットボトルを眺めながら言う。
「煮詰まっている時は発想を逆転させろっていうのが、俺のポリシーでね」
「怪奇事件で、情報が無いのはわかるがよ。だからって、お前にしては少し乱暴な推理じゃないか?」
小太りの刑事が、苦笑いを浮かべながら話す。
だが、痩せ型の刑事は、それに対して何の反応もせず、またペットボトルを眺めながら呟くように言った。
「被害者たちの血を抜き、吸血することで自分の渇きを潤す……そういう怪物が、もしこの世に居たとしたら?」
ガタン。
発言のあと、小太りの刑事のテーブルに置かれたペットボトルが倒れ、彼の視線と体が凍ったように固まる。
沈黙。
停止。
無為。
暗転。
その空間に流れるのは、そんな似つかわしい言葉ばかり。
「お、おいおい。冗談きついぜ」
二人の間におかしな間が数秒ながれ、耐えられなくなった小太りの刑事が、やや慌てた口調で口を開く。そしてややあきれた様子で、言葉を吐き始める。
「連続殺人事件の犯人が怪物だなんて。天下の警視庁捜査一課の刑事としても、一人の人間としても、妄想のしすぎだ。どうかしてるぜ」
小太りの刑事の発言の何処にも不正解はない。
刑事としての発想、思考。
人間としての倫理、常識。
その全てにおいて正常であるといえる。
しかし、痩せ型の刑事はそんな真っ当な反応を聞いて、さらに真顔で答えた。
「だがな、世界には色んな生物が存在している。……たとえば節足動物の中には、弱性の毒を獲物に与えて、生きたまま食べる怪物みたいなヤツだっている。人間の世界だって、海外に行けば吸血鬼伝説なんてものが実際にあるだろう?」
「じゃあ今回の犯人は、現代に蘇った吸血鬼だってのか。馬鹿らしい……」
真顔で妄想に等しい発言をするのに対して、すかさず明らかに呆れた表情と言葉を放つ。
小太りの刑事は、倒れた自分のペットボトルを起こし、また両手を頭の後ろで組んで、椅子に深くよたると、再び、二人の刑事の間に、しばしの沈黙があった。
「……なあに、こういう思考の柔軟体操も時に捜査に必要だ」
今度は、痩せ型の刑事が先に口をあけた。
「付き合ってられないぜ。妄想も大概にし……」
小太りの刑事が言いかけた、その時だった。
「太田! 細井! さっきから、なぁにぃをぉ、くっちゃべってるんだ! そんな暇があるなら速く現場に行って、近隣の新たな目撃情報がないか調べてこんかッ!」
会議室に地鳴りのように響き渡る、二人の刑事の名前を呼ぶ課長の怒声。
何百台も並んだ大型バイクのエンジンを連続で吹かしたような爆音は、すぐさま二人の背筋をピンとさせた。
「ひー怖い怖い。課長怒りのお呼びだしだ」
「相変わらず声のでかいことで……」
二人は立つと、そのまま課長に敬礼をして、会議室を出て行った。
会議室のドアを開け、ドアを閉めても聞こえる課長の怒号に、キビキビと素早く廊下を歩き始める刑事二人は、いつもの雰囲気に戻っていた。
「まあよ。刑事なんだから、おかしな妄想推理より、まじめな捜査で犯人探しと行こうぜ」
「そうだな。課長のお怒りで地球が真っ二つにならないうちに片付けるか」
会議室のある廊下を抜け、その先の角を曲がり、二つ並んだエレベーターの前にたどり着くと、二人の思考の裏に、ふと思い出したかのように今回の怪奇事件の概要が浮かぶ。
ガッ……!
その時、エレベーターホールの右の突き当たりにある陽光が差し込む窓に、大きな移動する影がひとつ見えた。
「虫……?」
課長から、細井と呼ばれた痩せ型の刑事が、まぶたに指を当てて、もう一度目を見開いて、窓を見る。
「気のせいか……」
だがそこには、いつも通りの陽光が射していた。
「おい、何をしてるんだ。行くぜ」
「あ、ああ」
チーン、というエレベーター到着音が鳴ると、開かれたドアの中に二人の刑事が入っていく。
エレベーターの中に入ると、太田と呼ばれた小太りの刑事が、ふと呟く。
「まあ今回の怪奇事件……おとぎ話に出てくる吸血鬼でもない限り、ありえない話だよな……」
二人の刑事が乗りこむと、エレベーターはゆっくりと動き出した。
ガンッ!
誰も居なくなったエレベーターホールの突き当たりの窓には、いつの間にか波状の亀裂が、幾つも入っていた。
窓に映っていたのは、亀裂の原因である、巨大で、鋭く黒く光る、毛深い、棒状の、足らしきもの。
そして、その窓の外には……。
歪みは、起きていた。
この現実に、確実に。
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