私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

布斗麻邇と吉備津の風景

2015-07-21 09:56:39 | 日記
 「布斗麻邇<フトマニ>」と読ませます。「太占」、上代神話時代の占い一つです。
 この方法は、鹿の肩骨の一部を火で焼き、そこに現れたひび割れで吉兆を占うという方法です。平安時代、天皇の「大嘗会」の際に使われるお米の栽培地を決めるのも、この「太占(ふとまに)」によって行われていました。
 後三条天皇の大嘗会に使われた米(稲)が、この「太占」によって、此吉備津の地で作られることに決まります。それを祈念した緑色変岩の歌碑が有木神社のほとりに、往時を確かに語るように、真夏日を一杯に浴びて、木立の中にすくっと立っております。

 “大嘗会和歌集  後三条院治暦四年十一月 主基方備中国有木山有山祠 
          「祈ることしるし有木の山なればちとせのほどもたのもしきかな」”
 と。

 

 こんなたのもしい風景にも出会うこともできる歴史の町吉備津です。

   “ちとせごの今を映して佇める
              経衡の碑のたのもしきかな ”

   “真金吹く吉備の野に立つ経衡の
              歌碑静もりて何語るかも”

 駄歌です。お笑いください。

「アベ政治を許さない」がいけなかったのでしょうか。

2015-07-20 09:25:35 | 日記
 へんてこりんの表題にしました。昨日の記事です。今の政治を批判したのがお気に召されなかったのかどうかは分かりませんが、昨日の私のブログへの訪問者は少なめでした。やはり、古事記の事を書いているのに、時事問題をそれに絡ませたのがいけなかったのかもしれませんが、反応が大変すくなうございました。

 「まあ、どうでもいいのですが」というのが私の口癖ですが、ややがっかりの感がしないでもありませんでした。

 さて、又、本題に入ります。イザナミが生んだお二人の子は、本来の目的、「生成国土<クヌウミナサム>」より、遠く及ばないものでした。「水蛭」とすぐにも消えてしまうような「淡」のような島だったのです。

 「どうして、このような本来の目的外のものばかりう生まれてくるのでしょうかね」
 と、イザナギアザナミの御夫婦は相談して、その原因を「天神之命<<アマツカミノミコト>」にお尋ねになられます。
 天神之命は、早速、

 “布斗麻邇邇卜相而<フトマニニウラエテ>”

 と、その原因を占ってもらうのです。上古の政事(マツリゴト)は、総て、占いによって行われていたということが、この一文からも、よく伺うことができます。
 

 

淡島誕生

2015-07-19 07:40:17 | 日記
 イザナギイザナミの二神は「水蛭子」をお生みになった後、今度は「淡島」がお生みになられます。この島の名前は「淡島」です。淡路島ではありません。
 この島の事に付いて、古事記には

 “次生淡島”
 と。「国生みをしよう」として生まれたこの島ですから、お二人の間に出来たお子様だったことに間違いはありませんが、そのお子様の数のうちには加えられなかったのです。不思議なのですが。それについては何の説明もありません。
 その前に生まれた「水蛭子」は、手足もなく其の形が「蛭子<ヒル>」に似ているために海に流してしまったのですが、淡島の形はどのようなものであったかは不明です。字から来る感じでは、水に漂うような泡のように、実体のないすぐ消えてしまうようなものではなかっただろうかと思われます。だから、わざわざ、

 “是亦不入子之例<コモ ミコノカズニ イラズ>」

 と書いております。なお、本居宣長もこの事に付いは、どうしてかわ分からないのですが、その形状も、それがどんなものであったかなど、具体的に何も言及しておりません。念のために。

 なお、この「あわしま}という名の島は、仁徳天皇の巻に出て来ます。字は違うのですが「阿波志摩」とあります。(この事につては後述)

 ほんの二,三回と思って「淡路島」に付いて書いてきたのですが、ついつい、例の如く、いらないことまで書いてしまったものですから長くなっております。
 「公約????と違うぞ」と、お叱りを受けているのではないかとか思いますが、誰かさんのように、都合が悪くなると、途端に、それをひっくり返すようなまねはできませんのでお許しくださいね。

 それにしても、安部さんのやり方、「国民を馬鹿にしているのですか」と尋ねたいですね
。自分達の説明が十分でなく、その意味が国民のみんなに分かっていないにもかかわらず、平気で、その法案を採決するなんて、どういう考えなのでしょうかね。
 反対が盛り上がっているのも分かります。それにしても、誰が発案したのかわ知りませんが、あの金子さんの字は大したものですね。

   

 安部政治を批判していたら予定の字数の2倍に成りました。でも、どうにかして、この「戦争法案」を、イザナギイザナミがしたように、葦船に乗せて海に流して廃案にしたいものですね。


触れたくなる円柱

2015-07-18 11:13:09 | 日記
 「触れたくなる円柱―唐招提寺ー」こんな見出しの記事が今朝の新聞に出ておりました。 
 その中で、かって、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に

 “わが古寺の円柱はいうまでもなく木造であるから、光を反射することは少ないない。むしろ光を吸収して柔らかくその木目のあいだに湛えるといったほうがいいようだ。・・・元来、柱というものは人がもたれかかるものである”

 と書かれてあることも知らせてくれました。

 柱には、本来、このような柔らかな、人をしてもたれかからしめるよう、何か不思議な力があるのです。古事記の作者も、このような柱の特性を十二分に知り尽くしてロマン満載の物語を作り上げたのではないでしょうか。
 イザナミイザナギの廻った柱は、勿論、ギリシャ・ローマ時代ののような大理石で作った円柱ではありません。桧か杉で作られた大きな円柱でなくてはなりません。

 そのような意味で、この八尋殿の柱には、宣長の云うような意味だけでなく、亀井勝一郎がいうように、イザナギ・イザナミの二人を柱に触れたくなるように、お互いを寄り添わすような想いを起こさせる働きがこの柱にあったということを示唆しているのかもしれませんね。

 今朝の新聞を読んで、こんな思いがしました。どうでしょうね??

 その唐招提寺の柱を見てください。

 

水蛭子<ミズヒルコ>が生まれました。

2015-07-17 09:18:03 | 日記
 淤能碁呂島<オノコロジマ>におり立ち、八尋殿の柱を廻り、久美度邇興而<クミドニオコシテ>、お生まれになった子は水蛭子<ヒルコ>でした。この子は、手足がなく、水蛭<ヒル>に似ていたことから付いた名前でした。なお、この子について、日本書紀には

 “雖已三歳脚猶不立(みとせなりぬれど、あしたたざりき)載之於天磐櫲樟船而順風放棄(あめのいわくすぶねにのせて、かぜのまにまに、はなちすつ)”

 と出ております。それが、古事記では、

 “生子水蛭子。此子者入葦船而流去<ミコヒルコヲウミタマイキ コノコハ アシブネニイレテ ナガシステツ”

 と書かれております。
 この二つの書き方の違いを眺めておりますと、書紀には、此の船の名前までをはっきりと書いておりますが、古事記には、ただ「入葦船」と簡単に書いております。さらに、その船の流す方法もについても「放棄」と「流去」と。この二つの書き表し方についてどう思われますか。書紀の記述の方が何か荒々しく本当に憎みが激しいように思われるます。流した者(かた)が、さも、イザナギの男神であるかのように思わせているのではないでしょうか。それが、イザナミの言葉が事の初めに発せられた事に対するイザナギの不服の表れではないかと思うのですが????

 さて、そんなことはどうでもいいのですが、その後、この海に流した子はどうなったでしょうか?、記紀には、それについて何も書いておりません。どうなったのだと思いす??????

 その疑問の答えのひとつに、「えびす神」になったというのがあります。
 水蛭子は、葦船に乗せられ、おのころ島から流れ流れて、摂津国(現在の神戸市付近)に流れつき、そこに祀られて「えびす神」になったとされる説です。

 国生みの為の行為が国ではなく、どんでもないものが生まれてきます、宣長は、古事記伝で、「ただ水蛭子なるゆゑに悪<ニク>まして棄たまへるなり」と書いておられます。