私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ジンムは歓びの声を・・・

2019-08-31 09:28:41 | 日記
 ようやく「正妃」も決まり“宮内<オホミヤノウチ>”に入られます。それを大層にお喜びになられた天皇「ジンム」は、例によって歌によって、それを表します。

      “阿斯波良能<アシハラノ>
       志祁去岐袁夜邇<シケコキヲヤニ>
       須賀多多美<スガタタミ>
       伊夜佐夜斯岐弖<イヤサヤシキテ>
       和賀布多理泥斯<ワガフタリネシ>”

 と。これも解釈は必要としないのですが、まあ・・・

 『あの葦が沢山生えている狭井河の辺にあった<シケコキヲヤ>「繁こき小屋」に、菅のしき物を“伊夜佐夜斯岐弖<イヤサヤシキテ>”弥清敷而”清らかに敷いて、二人で寝た事があったなあ。そんなことも思いだされることよ!!!もうこれからは何時も一緒にいてくださいよね。』

 と、優しくも丁寧にイスケヨリヒメに呼びかけるのです。新婚の夫婦の間にかわされた愛の歌です。ジンムの人柄までが読みとれる言葉でもあるのです。
       

狭井河<サイガワ>とは・・・

2019-08-30 09:33:27 | 日記
 ジンムはヒメの家がある“狭井河之上<サイガワノベ>”に行って“一宿御寝坐<ヒトヨミネマス>”のですが、古事記には、ご丁寧に、ここでも、また、この「狭井河」の語源を小文字で補足説明しております。

其河謂佐韋河由者。於河辺山由理草多在。故其山由理草之名。号佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也”

 その川の辺に沢山の「ヤマユリ」(別名「サイ」)が咲いていたので『狭井河』と名付けられたと。

 この狭井河の辺にあったイスケヨリヒメの家に最初の頃は通われていた(妻問婚)のですが、どのくらい後かわ分からないのですが、天皇の「大后<オホキサキ>」として

        “参入宮内<オオミヤノチニ マイレル>”

 宮中にお入りになられたのです。
 
 なお、あの光源氏の住む寝殿にも4つの對夫々に紫の上など4人の女性が同じ屋根の下に共に寝起きしていた様子が描かれていますが、それと「妻問婚」との関係はどのようになっているのかそこら辺りの社会構造が理解できませんが???

「ヨバイ」って聞いたこと???・・・・

2019-08-29 06:10:37 | 日記
 「妻問婚」が日本古来の結婚様式であったのですが、「ヨバイ」もまたその一つであったことは確かです。その

         「ヨバイ」

 という言葉を聞くと、生まれた故郷「美袋」の昔話ですが、私の耳に残っている当時の若者がさも自慢そうに語っていた話が思い起こされます。

 明治の頃までの話ではなかったかと思うのですが、日常の暮らしの中に、未婚の若い男が、ある夜そっと、自分の思う近隣の未婚の女の寝所へ忍び行って一夜を共にする事が堂々と行われていたのだそうです。要するに、『夕べ、わしゃあ、あの子と寝たでえ・・・???』です。そんな会話が、日常の若い男達の暮らしの中で、平気で、なされていたのだそうです。
 このようにして、私の周りに住む多くの夫婦は、ごく近隣の男女同士が一緒になって、共同社会としての村が成り立っていたのです。そして、男が通って来ない女は、大変、軽蔑されて婚機を失ったのだと言い合って、「ヨバイ」を一つの当り前の風習でだとして
 「誰もがしているのだからお前もそんなに恥ずかしがらなくてもいいのだ。胸を張っておればいいのだ。」
 というような女性を社会全体で育て上げたのではないかと考えられます。「ヨバイ」によって、明治までの、若しくは、昭和初期までの、日本の封建的な農村社会が成立していたのだと云っても過言ではないと思われます。このことは、当時の日常の社会が性的関係に於いて大変乱れていたのではなく、それがごく当たり前の健全なる社会だったのです。
 
 この男がそっと女の所に夜忍びこむ、即ち、「夜這い」が「ヨバイ」の語源だと得々と話していた当時の若者に、古事記にある

        「ヨバイ」
 
 について話してやりたい気分になるのですが??

 「ヨバイ」の本当の語源とは、男が女の家の前に行って、「あなたを愛している」なんて歌を歌い、それに対する返答の歌が返ってくる。「歌を読み合う」が変化して、「ヨビアウ」⇒「ヨバイ」になったのだと・・・・
 その例として「オオクニ」の「ヌナカワヒメ」に歌った歌が聞かしてやりたいと思うのですが・・・

  ここにオホクニが歌った歌の一部を

  ・・・・
  賢し女<メ>を 有りと聞かして
  麗し女<メ>を 有りと聞こして
  さ婚<ヨバ>ひに 在立<アリタ>たし
  婚<ヨバ>ひに  在通<アリカヨ>はせ
  ・・・・・

 この歌からも分かるように、「婚<ヨバ>ひ」が本当の「ヨバイ」の語源です。夜、こっそりと忍びこんで娘を「ものにする」という「夜這い」ではありません。ど田舎の若者がわいわいがやがやと「誰それをゆうべヨバイしてやったで・・・。」と、さも自慢そうに話しているに鼻下野郎のにきび面の若者にこの歌を聞かしてやりたく思うのですが・・・

 なお、蛇足ですが、当時は、錠前なんて普通の家には皆無だったのです。誰でも何時でもどこからでも自由に他人の家だろうが構わずに中に入ることができたのです。

  今日も又話がとんでもない方向に進んでしまいましたが???!!!!

ヨリヒメの家は・・・

2019-08-28 07:07:09 | 日記
 ジンムと伊須気余理比売の婚約が成立します。それも仲人が二人の真ん中に立ってです。太古の結婚の形式は多くは

            「妻問婚<ツマトヒコン>」

です。夫が妻の家に通う結婚形式です。あのオホクニが越の国にいた“沼河比売<ムナカハヒメ>の家まで訪ねてその家の前で歌を歌って求婚しますが、それが「ヨバイ」形式の結婚です。この場合は仲人なんていません。直談判で結婚が決まる方式です。
 ととと・・・又、とんでもない方に話が進んんでいますが。元に戻します。
 
 ジンムはヨリヒメの家がある

            “狭井河之上<サイガハノベ>”

 に行幸して

       “伊須気余理比売之許。一宿御寝坐也”

 「ヒメが結婚を承諾したので、狭井河の辺にあるヒメの家に出かけて、一夜一緒に寝られたのです。」
 「妻問婚」そのものです。その時代の色々な風習が色強く書かれた場面です。と云う事は、「民俗学」の大変豊かな参考書でもあるのです。

今朝も、又、その美しい立ち姿を・・・

2019-08-27 07:41:50 | 日記
 昨日の朝顔が大変好評でしたと云うことではないのですが、今朝も「しつけえー」と云う声は届くような気は重々するのですが、毎年のことですが、私の自慢の花をもう一つご覧いただきくて投稿します。よかったらご覧ください・・・・・・・