私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

造山古墳(3)その大きさは・・・

2020-09-30 09:47:55 | 日記
 5世紀初頭に我が国の最も大きな古墳「造山古墳」の大きさについて今日は少々・・・
 その全長は350mですが、後円部の径は210m、墳頂は28m、くびれ部の幅は150m、前方部の前の幅は230m、その高さは23mで、くびれ部の両側には台形の造出がつけられています。
      

      

 葛原氏は、
 「各段には接近して円筒埴輪を据え立て、おびただしい数の円筒埴輪によって、墳頂は二重、三重に囲い込まれて完全に現世と隔絶され、更に墳頂には、専門工人の手によってなった精巧な家形・楯形・靱形・蓋形埴輪など各種の器財埴輪が配される。」
 と書いています。


造山古墳(2)周濠の発見

2020-09-29 11:25:28 | 日記
 我が町吉備津で書きなぐっている「強大な吉備勢力」の最後を飾るべく「造山古墳」について詳しく見て行きたいと思います。
 この古墳について、まず、葛原克人の「吉備考古論考集」に
 「造山古墳は、庚申山と黒住山とにはさまれたあ舌状台地を巧みに利用し、丘尾を切断して墳域を定めたものである。前方部をもとの丘陵へ、後円部を湿田へむけ、整然と三段に築成された雄大にして厳然、まことに造山の名にふさわしい形状をとどめている。」
 と書かれてように、雄大で厳然とした古墳です。

   

 しかし、この古墳には畿内に見られる「周濠」がありません。その理由として、当時の吉備の大王は、大和の大王のもとの屈指の地方支配者であったからだと説明されて来ましたが、平成22年(2010年)に岡大の新納教授たちの発掘調査により、造山古墳にも、畿内の古墳と同じような周濠と周堤跡が確認されました。その時、広瀬国立歴史民俗館教授は
 「周濠の存在が確実になったことで、造山古墳も大王墓と同格の荘厳性、隔絶性を備えたことになる。・・・」
 と話されていました。
 その時、新納教授も「大王墓と遜色ない規格であることが分かった。・・・・」と、  
  
     

大和が強力な吉備国を無視した理由を・・・

2020-09-28 09:28:50 | 日記
 「ちょっと」と思って書き出したのですが、つい長話になってしまいましたが、ぼつぼつ終わりにします。その最後の自慢話に、これぞ吉備王国を象徴する大古墳、というより、日本の今、目の前にはっきりとその形状が見え、その遺跡の中をどこでも散策出来る唯一の大古墳をご紹介します。岡山市加茂にある

              "造山古墳”です

 仁徳(486m)・応神(419m)・履中(365m)陵に次いで日本第4位の大きさ(360m)を誇る大古墳です。

  

  

  

 大きさから云うと第4位ですが、その築造年代から見ると、門脇貞二の「吉備の古代史」によると、応神陵は5世紀前半後期、仁徳陵は5世紀後期前半に造られ、それに対して造山古墳と履中陵は5世紀前半前期に造られたそうです。そうすると、この二つの古墳は当時の日本に於ける最大の古墳であったのです。ということは、
             "5世紀の初頭”
には、「大和」と「吉備」の力が拮抗しており、互いに覇権を争っていたのではないかと想像されます。倭からすれば吉備はにっくき敵で、その吉備の偉大さを己の歴史書に書くのがはばかれ、取り上げずに、それに代わって、既に、己の大和の勢力下にあった出雲を特に取り上げ、吉備を無視した大和を誇張した歴史書を創りあげたのではと私は考えています。

「弥生時代後期中葉の日本列島を代表するような人物であったことでしょう・・・・

2020-09-26 07:07:37 | 日記
「楯筑墳丘墓」の遺跡が吉備の中山の真西約10kmの「西山(倉敷市日畑)」にあります。弥生時代後期末の全長が約80mの当時の我国では最も大きな墓です。(「吉備の弥生時代」)その形は円丘の両側に突出部があり円丘の上には大きな石が立てられており、その斜面には丸い小石が敷き詰められている他所とは全く異なった巨大な特別なお墓だったことがわかります。

    

 この円丘の内部を発掘した時の写真がこの本に出ていますのでご紹介します。

  

丸形の穴を囲って S字状の帯が描かれた「孤帯石」です

   

 胸に勾玉を付けている人形土製品

  
  
  

 これなどの副葬品から「吉備の弥生時代」では

 "このように楯築弥生墳丘墓の被葬者は吉備にとどまらず、広く東アジアを展望するような、”

 と結んでいます。

古代吉備に見える不思議な土器が・・・・

2020-09-25 07:38:03 | 日記
 まず、写真を見てください。(「吉備の弥生時代」より)

   

 これ等の土器は「手焙形土器」とよばれ、教科書にも載ってない大変珍しいものです。大阪など畿内からと岡山平野の遺跡から出土しております。吉備では分銅形土製品と同じように足守川下流の諸遺跡から主に出土して、県の中北部からの出土は、今のところ発見されていません。それも弥生時代の後半期の遺跡から出土しており、その使用目的については諸説があり、現在のところはっきりとしてはいないのですが、これも吉備国の隆盛を物語る貴重品の一つです。