私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

和漢朗詠集に「楊貴妃」についての歌ありか

2015-11-30 10:13:06 | 日記

  こんな便りを例のお人から頂戴仕りました。

 「おめえはなあ、 昨日、和漢朗詠集に、「楊貴妃」についての白居易の歌が有るかのように書いているが、そりゃあまちげえとる。そげえなものはありゃあせんど。そうじゃけえど、王昭君のこたあ、出ているど、よう調べてみいよう」

 と。
 私は、「楊貴妃の話も朗詠集にある」と、以前、どこかで聞いたことがあるような気がして、あまりその辺りのことは詮索せずに書いたのです。この有難い御忠告で、改めて、和漢朗詠集を久しぶりに開いてみました。すると、確かに「王昭君」のことは載っておりました。更に調べてみると、楊貴妃ではないのですが、彼女を失った後の玄宗皇帝の一人で過ごす長き秋の夜明けを読んだ歌が1つだけですが???有りました。

 “遅々たる鐘漏の初めて長き夜  耿々たる星河の曙けなんとする天”

 という歌です。

 明日から師走です。此の歌に触発されて、天空に横たわる最晩秋の天の川を、今朝方、久しぶりに眺めてみました。そこには、玄宗の長恨の代わりに、ただ、寒風だけが身にしみ、ゆく秋の随分と短かったことを今更のように感じ、大急ぎで布団にもぐりこみました。


花も羞じらう美人とかや???

2015-11-29 12:36:59 | 日記

 中国四大美人の最後になりました。いつ誰が選定したのかは知れませんが、中国の人口は200年の昔ですから。現在の十何億人もいないと思いますが、その中から選ばれたのですから相当な美人であったことには間違いありません。でも中国の中国たるゆえんのような美人選定です。魚が泳ぐのを止めたとか、雁は飛ぶのをやめたとか、月が隠れたとかという美人だったのです。鼻が高いとか、目がぱっちりとしているとかという具体的な描き方ではなく、抽象的な表現に終わっております。其の四番の人もその例外ではありませ。花がその美しさに羞じらって咲くのをやめた程の美人だったのです。
 その人の名はかの「楊貴妃」です。どうして、それほど日本でも有名になったかと言いますと、平安時代に刊行された「和漢朗詠集」でなじみの白居易の詩が愛読されたからではないかと思われます。そうです。彼の「長恨歌」が大変人気を博したからではないでしょうか。

 その「長恨歌」という歌は、どんな歌だったのでしょうか??明日からその歌について、ちょっと覗いてみて、楊貴妃はどれくらいに美人だったのか推測して頂こうかと思います。

『天生麗質難目棄』とありますが・・・まあ明日から、例の通り、あまり信用できないような私見を交えながら、しばらく書いてみたいと思います。宜しくお付き合いをお願いします。


「閉月の美女」

2015-11-27 17:36:50 | 日記

 中国の四大美女の一人が「貂蝉<チョウセン>」です。彼女は、その姿があまりにも美しかったため月が雲に隠れてしまた、と言われるほどの美人だったため、「閉月美人」と呼ばれています。しかし、実際にはこの世に存在はしない、伝説の女性だったようです。後漢の時代のお話です。

 当時、悪政を行っていた「董卓」を誅殺するために、その子「呂布」と仲たがいさせる方策に利用された美女です。大変な美人「貂蝉」を此の親子で取り合いさせ、ついに、董卓は子の呂布に殺されます。

 親子でも、その色香に惑わされてお互いに争い殺人行為にまで発展させる計画を、「離間計」と呼ばれています。日本の歴史では、耳にすることは珍しいのですが、中国では、こんなお話がさもあったかのように伝わっています。(三国志より)
 なお、彼女の欠点は、耳が小さかったと言われています。


次は「落雁美人」です

2015-11-26 09:39:12 | 日記

 その美しさの為、雁が飛ぶことを止めて地上に落ちる程の美人だったのが、漢の時代の「王昭君」です。中国四大美人の一人です。
 この女性は漢の皇帝「元帝」に仕えていた女官の一人です。
 当時、盛んに攻め込まれ手をやいていた匃奴の王「呼韓邪単于」から、この元帝の元に手紙が届きます。
  「お主の国と仲良くしたい。そのために、お国の女性を私の妻とする、一人届けくれ」
 と。そこで、元帝は考えました
  「わしに仕えている女性で一番醜い女をくれてやるか」
 漢王朝です、女官は何百人といたのです。皇帝が、未だ、一度も逢ったこともない女性も沢山おります。そこで、宮殿に一体どんな女性が居るのか調べてみようと思い、画家「毛延寿」に、その似顔絵を描かせます。
 「王様が一番醜い人を選んで匃奴の嫁にやるために、女官の似顔絵を書かせている。」
 それを聞いた女性は
 「お願い。私を出来るだけ美人に描いて」
 と、賄賂を画家渡し頼みます。

 だが、その中一人だけ、余程、自分の美貌に自信を持っていたのでしょうか、画家「毛延寿」に賄賂を出さなかった女性がいました。それが「王昭君」だったのです。賄賂を貰えなかった画家は、この「王昭君」を、大変醜く描きます。その結果、選ばれたのが、「王昭君」です。愈々「王昭君」が匃奴に送られる日になります。「どのような女性かな。」と、一目見ておこうと思い、元帝は、当事者「王昭君」を自分の前に連れて来させます。すると、どうでしょう。『あっと驚くため五郎』ではないのですが、「王昭君」のあまりのきれいさに驚きますが、時すでに遅し。「ああもったいないことをした」としきりに嘆きますが、もう今更、どうすることもできません。そのまま匃奴へ送りだします。

 この王昭君が、匃奴に連れられて行く途中の道すがら中、余りにも、己の運命の哀しさに嘆き悲しんでおりました。その姿があまりに美しかったので、空飛ぶ雁がねは飛ぶことを忘れて、その総てが地上の砂の上に落ちたのだそうです。それくらい美しかった女性なのだそうです。だから彼女は、「落雁美人」とも言われたのです。しかし彼女にも、ただ一つの欠点がありました。それは撫で肩であったのです。

 今から二〇〇〇年も昔の、中国での、美人にまつわるお話です。


「沈魚美人」

2015-11-25 10:25:43 | 日記

 中国歴史に残る伝説の四大美女についてもう少し説明します。
 まず、「西施」です。
 この人は紀元前500年ごろの人です。日本で言いますと、未だ縄文の末期で完全にイサナギイザナミの神話の時代です。その時代に中国では、すでに、日本では見られないような高度な文化の花が咲き乱れていた時代なのです。あの「論語」の孔子等いわゆる諸子百家が世に傑出して、道徳が人々の暮らしの中に息づいていた時代です。

 津山院の庄で、児島高徳が桜の木に書いたとされる歌「天匂践を虚しゅうする莫れ、時に氾蠡無きにしも非ず」の物語に登場する一人が、この「西施」なのです。また、此の美女の名前は芭蕉の「奥の細道」にも出て来ます。私の持っている記念切手の中にこんなものがあります。

                 

 此の西施について中国の書物「十八史略」には<とんでもない>美女だったと書いてあるそうです。又、彼女の美しさについて、「川で洗濯しているその姿を見て魚が余りの彼女の美しさに感動して泳ぐのを忘れてそこに沈んでしまった程の美女だ」と言われ、それ故、彼女を中国では(沈魚美人)と呼んでいるそうです。