私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

今日にしか味わえない歌です。

2017-10-31 08:11:35 | 日記

 私は、今、少々自慢にしてもいいような本が手に入ったので、ぱらぱら捲っております。天保年間に出版された藤原公任の「和漢朗詠集」です。

            

 その中に「秋の終焉の日、九月盡」を歌った漢詩があります。今日は、その旧暦の「九月盡」の日です。今日の日にしか味わえない歌がありますので、どうぞ!!!!!!!!!!!!!

 

                

      “縦以崤凾為固 難留將舎蕭瑟於雲衢 縦令孟賁而追 何遮爽籟於風境”

 『今日は、秋と別れる日です。たとえ、周りを頑丈な関(崤凾こうかん)で固めようとも、秋の物悲しい景色(蕭瑟<ショウシツ>を雲間に留めることはできません。たとえ、孟賁のような力強い勇者に追わせても、秋風の通り過ぎる道を遮って通らせないようにはできない。』

 その2番目の歌もついでに、

       “頭目縦随禅客乞 以秋施与太応難”

  <頭目をば たとへ 禅客の乞うに従うとも 秋を持って施代(せよ)することは太(はな)はだ 難(かたか)るべし>

   平安の人達が、秋の終わりの今日と云う日を、如何に大切にして過ごしたかと云うことがよく分かる歌です。    

             


“阿佐比能 恵美佐迦延岐弖”

2017-10-30 07:24:37 | 日記

 「ぬばたまの 夜は出でなむ。(夜がやってきます)」と、高らかにお側の人はオホクに歌いかけ、更に続けて

         “阿佐比能 恵美佐迦延岐弖”

 と。<アサヒノ エミサカヘキテ>です。「夜がやってきてから」と呼びかけたのに、そこに、突然、“阿佐比能”(朝日)がきます。おかしいでしょう???。それを少しばかり。
 この「朝日の」は「むばたま」と同じで、次に在る恵美<エミ>、そうです「笑み」にかかる枕詞なのです。
 「人が大変うれしそうに笑い顔をする様子が、あたかも朝日が山の端から顔を覗けたかのような明るい表情と似ている。」ことから派生した枕詞なのだそうです。これもちょっと宣長の説明を借りました。

 「夜が来たならば、あなたは嬉しそうな顔で家にお入りください」

 と呼びかけたのです。
 これだったら、さしものオホクニも、何も言うことが無く、そのままじっと夜が明けるまでもなく、永遠でも、じっとその場で戸を開けてくれるのを待つだろうと思われます。更に、母親か誰かが、そのオホクニを、女性の持つ艶麗さでもって、誘い込むかのような滑らかなることばで呼びかけております。処女の乙女が口にするような言葉ではありませんが。

          “多久豆怒能 斯路岐 多陀牟岐” <タクヅヌノ シロキ タダムキ>

 と。何のことかお分かりになられますか????


「奴婆多麻能」とは

2017-10-29 08:14:49 | 日記

 「そんな言葉かけではだめですよ。私があなたに代わって云いますから、いいですね。このように云うのですよ」
 と、比売のお側にいた人が、あの女院のように、戸の外にいるオホクニに言います。

    “青山に日が隠らば 奴婆多麻能<ムバタマノ> 夜は出でなば・・・・・・・”

 と。「今は朝です。あの明るい太陽が西山の端に隠れて、そうしたら夜がやってきますね。・・・・」
 
 これから、お側にいた人の真骨頂な歌が出ますが、此処で、又、ちょいと例の通り横道へ。

 此処に書かれている“奴婆多麻能”について少々。
 まずは、その写真を

                  

 この花が秋になると真っ黒い実を付けます。だから、「夜」の枕詞となったのでしょう。

                 

 今は檜扇<ヒオオギ>と呼ばれている草です。<ヌバタマ>は「ヌ」は黒で、その実が写真のように黒玉だったのでこのような名前が付いたと、「古事記伝」に説明がしてあります。大学者「宣長」は、何処で、あの時代にですよ。このような植物学者のような事を詳しく調べたのかと不思議な気がしてなりません。大変な量の情報を持っていたのです。今ですとパソコンですぐにですが!!!


「追影求響」って????

2017-10-28 08:24:29 | 日記

 「追影求響」と云う言葉を何処かの本で読んでノートに書き出してはいるのですが、福沢諭吉あたりの本かとも思うのですが、どの本かは分かりません。そのメモには<トリトメ>とルビがふってあります。それでいいのでしょうか???、辞書にもありません。どなたかご存じのお方がおられたらお教えいただければ幸いですが・・・・・

 まあ、それは兎も角として、この<トリトメ>のないことばかりを書いておりますが、結構、此の私のブログにお目を通しいただいているお方が多くいらっしゃいます。ついでにと思って書いたのですが「小宰相」についてはこれで終わります。

 このようなまことに親切なお人が周りにいたからこそ彼女の物語が生まれたのですが、さて、本論にもどして、「沼河比売」ですが、この比売には、小宰相の女院の様な人の存在は何も書かれては無いのですが、多分、それに似たような人がいたのだろうと、私は想像しております。

 あざけるように「その内、あなたを向い入れて上げますから、死なないようにそこら辺りで、わいわい騒いでおりなさい。

    “許登能過多理碁登母。許遠婆<コトノカタリゴトノモ コヲバ>”

 と。その言葉を聞いて、傍にいた母親かもしれません、姥であるかも??そのようなお人が、先の女院のように、オホクニに言葉かけをした比売に代わって、「そんなことを云ってはだめですよ」と、呼びかけたのだと思うのですが?????


再び「平家物語「長門本」から

2017-10-27 07:35:22 | 日記

                    “ただたのめ ほそ谷河の まろ木ばし
                                        ふみかえしては おちざらめやは”

 上西門院が小宰相の為に代筆して通盛に手紙を書いてやります。その歌ですが、「まる木をふみはずしても、落ちたりはしませんよ。おきらめないで待っていてくださいね。」と、いう内容の歌なのです。細かく云うと、「ざら」は「ず」(否定の助動詞)の已然形で、「やは」は「め」を伴った助詞で、反語になり、「落ちることがあろうか、いや決して、落ちることなんてありませんよ」で、《文を返したからといって、あなたを無視したなんてことではないのですよ}と云う事を言い表わした歌なのです。

 ところが、長門本には
  
”・・・・・・・思ひ直りて人の心を休め給へ、この返事をばわがせんとて、御硯引き寄せて

                    谷水の 下にながれて まろきばし
                                       ふみみて後ぞ くやしかりける

 かくぞ遊ばして遣はさせ給かれば、小宰相殿力及び給はず、終になびき給にけり。・・・・” 

 と書かれてあります。「くやしい」は「後悔している」と云う意味で、「あなたから頂いたこの手紙を見てから後は、どうして、今まで、そんなにつれない事をしたのか残念に思っております。」です。念のために、これも。 

 いずかたにしても、この時代の人々の思いを込めた文には感嘆の声をあげずにはいられませんよね!!!!!!