「白髪新」と,詩人は歌っております。玄宗を取り巻く楽士たちも、随分と、年老いてしまってその演奏する曲も、かってのような勢いはなく、随分と弱々しく年寄りじみてきております。それは玄宗皇帝の権勢と事を一にしており、もう昔の姿はありません。
その衰えた楽に対して、全盛時代の坐部伎たちの奏でる楽はいかであったか、もう一度詩人の歌からその勢いを見てみたいと思います。
“仙楽風飄処々聞 緩歌慢舞凝糸竹”
と、歌っております。
彼らの曲は、あたかも、仙人の歌(仙楽)でもあるような妙なる曲です。何処から聞こえてくるのか遥か空の彼方からでも漂ってるかのように柔らかく辺りに静かに響き渡ります。弦や管から流れ出すその曲にあわせて、ゆったりとした歌声が流れ、その楽に合わせて踊られる舞も、また、歌声と同じく、もの静かで何処までもゆったりとした天衣無縫の羽衣を身に着けた仙女が踊る舞を見ているかのようです。
なお、此処に記されている「緩」や「慢」は共に「ゆるやか」と読みますが、それでは意味が分かりにくなりますので、吉川幸次郎先生は、特に、これを「緩<ユルヤ>か、慢<シズ>か、と読ませてその違いを明らかにしております
そのような「雅」なる曲は、今は、聞くことも見ることもできません。過去の闇の中に完全に消されたってしまっております。それを玄宗の老いをこのように画くことによって、人の悲哀を一心に背負って歩いて行った一人の人間としての人生の終焉を敬仰なる言葉で永遠に言い伝えておるのです。
今、12月31日、pm9:10です。今年もようやくに暮れようとしております。何やかにやっと、この一年も様々な私の人生でした。この年になってその一つづつを反省するのもどうかと思っております。ただ行く川の流れに沿って大仰に生きているだけの人生です。別に明日があるわけでもありませんが、そんなしがない我が生ですが、来年もどうなりましょうか???ケセラセラで生きて行くしか方法は見つかりそうもありません。
だれかさんおように「何方より来たりて、何方へか去る。また、知らず・・・」という心境にも達せず、いい加減にまたも暮らすだろう来年になることは確かだと思いながら「年越し蕎麦」を啜っております。ご批判を!!!!