私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ちょっと寄り道を

2017-09-30 07:34:06 | 日記

 朝起きて庭に出ました。何となく美人のカンバセを伺わせるような、そこら辺りを席巻するがごときのたおやかな、何と形容すればいいのか分からないような匂いが立ちこめています。キンコクセイの花がこぼれんばかりにまぶれ付くように咲いております。朝の爽やかな、あるかないかのような風がその匂いを運んでくるのです。半径にすれば2mくらいの範囲にしか届かないような、誠に清心な匂いです。「いいにおい」としか言葉では言い表せない匂いです。詩人は、これをいかなる言葉で言い表わしているのでしょかね。
 しばらく、何も考えないで、その香りだけの世界に浸りながら、酔い痴れていました。

      朝まだき 山の端よりの 光観え
                  キンモクセイの 匂い立ちおり                                       おそまつさまで・・・・

 

                        

 


「オホクニはもう・・・・と。

2017-09-29 06:51:18 | 日記

 「大国主神<オホクニヌシノカミ>」が、多くの試練を潜り抜け、八十神たちを追い払い、ようやく顕国の中心地「出雲の国」の王になったので、もうこの辺りで・・・と思ったのですが。今、地域の有志の者で作っている「高松歴史を楽しむ会」では、高松地区に坐す神々について調べています。私は「吉備津神社の神々」を担当しておりますが、この吉備津神社の「末社」の中の「一童社」に、「大穴牟遅神」と並んで「小彦名命」をお祭している事を知りました。はて、「小彦名命」とは何神様???。調べてみますと。この神様、大変、「オホクニ」と深い神様であるのです。少しも知りませんでした。それではと、その「小彦名命」が出てくるまで、もう少し、このオホクニのお話の続きを読んでみたいと思いますので・・・・御退屈だとは思いますが、よかったらお付き合いください。

 なお、此処で一寸思うのですが、古事記や日本書紀の世界では、この時代は、専ら、「オホクニヌシ」、即ち、出雲だけが中心で世界が動いており、筑紫や吉備や大和などの国のことは何もないかのように書かれていません。一体、どうなっていたのでしょうかね???出雲オンリーですが??????高天原や根の国〈黄泉)のほかに大八島国はあったはずですが???それが神話の世界なのだ。「いらんこたあ かんげえんでも ええんじゃ」と、例のお人からお叱りがあるのは覚悟して書いておりますが・・・・・でも、気にはなりますよね。そう思もわれませんか??????。宣長からも、「それが事実なのだ。それ以外な物は何もないのだ。そこに歴史という巨大な流れが生まれ、歴史の存在が確認できればそれでいいのだ。」と、お叱りを被るかもしれませんよね。少々理屈っぽくなりましたが・・・・・・・。


オホクニが出雲の国を支配します。

2017-09-28 07:17:49 | 日記

 スサノヲからようやく認められたオホクニは黄泉から顕国「出雲」に「ヨミカエリ」して、宇迦能山の麓に宮殿を建てます。(ここは、現在の「出雲大社」ではありません。)そこを起点にしてオホクニは前々から焼けた石を投げ懸けられたりする数々の「いじめ」に合わせていた八十神を、スアノヲの所から持ち出した

                  “生大刀”と“生弓矢”

 を使って出雲の国から追い払います。それを古事記には

         “毎坂御尾追伏。毎河瀬追撥而。始作国也<サカノ ミヲゴトニ オイフセ。 カハノ セゴトニ オヒハラヒテ クニツクリ ハジメタマヒキ>”

 と書いて、速やかに、今までいじめられていた兄弟たちを出雲の国境から追い払ったのです。

 なお、この“毎坂御尾追伏。毎河瀬・・・・・・”と、古事記に書いていることについて、宣長は

 “二つの「毎」は、処々にて戦ひ賜ふ度毎に、速(すみやか)に勝ち給ふと云うことを、如此(かく)、雅(みやびやか)に言ひなせるは、又古文の巧、後の世の及ばぬ所なり”

 と、その書きっぷりを甚く賞嘆しております。


“居是奴也”と!!!

2017-09-27 06:53:59 | 日記

 スサノヲはオホクニに言いました、“布刀斯理”、“多迦斯理”と。そして、その最後に言った言葉が

      “居是奴也<オレ コヤツ ヨト>

 です。此の言葉から感じられるのは、「オレ」は「意禮」に通じる言葉で、この「おれ」といい、次の「ヤッコ」といい、スサノヲが、如何にもオホクニを憎々しく思っていたかを示す言葉ではないでしょうか・???どうでしょうね!!!!

 所がです、宣長は「古事記伝」で、この二つの言葉について、次のような解説がしてあります。

   “如此<カク>詔へるは、共に裏<シタ>には甚<イタ>く賞賛<ホメ>たる御心以ち、故<コトサラ>に主<ウヘ>に賤め詈<ノリ>賜ふなり”

 と。
 本当は、あの”令寝其蛇室<ソノ ヘミノ ムロヤニ ネシメタマヒキ>を始め、数々のオホクニに対する難行は、宣長が言うように「オホクニの持つ勇気・決断力・胆力などの力を試す」ための試みだったと。その試験に合格したスサノヲにたいして、「よくぞやったぞ!!オホクニめ」と口汚く罵るように言ったのですが、本当は、安心して、その娘〈須世理毘羅と共に出雲の国を治めなさいと励ましの言葉で呼び掛けたのだと説明があります。汚く罵るように言うことが反対にその行為を余計に褒めることになるのだと。そうでしょうかね?????

 


“斯理<シリ>”とは

2017-09-26 07:16:11 | 日記

 スサノヲがオホクニに言った言葉として

                 “宮柱布刀斯理<ミヤバシラ フトシリ>”、“ヒ椽多迦斯理<ヒギ タカシリ>”

 と書かれておりますが、この「斯理(しり)」について、宣長は「しり」とは「知り」で、「敷立て」だ、と説明しております。即ち、宮殿の柱の非常に太くて高い木を用い、また、棟にあるヒ(「冫」+「氷」)椽、即ち、「千木」を、「多迦斯理」で、高天原まで届くように「高く」乗せた、堂々とした雅やかな宮殿を建てよと命令しております。

  なお、この「ヒ椽」(千木)ですが、我が吉備津神社の屋根の両端にも、誠に立派なⅩ型の千木が聳えています。