センター試験国語(現代文)を極めたい!

センター試験国語の法則を解き明かすのが目標です(『ヘタレ競輪王のトホホ日記』のエントリも恥の記録として残しておきます)。

【解説】2011年 本試験 問題1『身ぶりの消失』(鷲田清一) 問2

2012-01-05 11:32:51 | センター試験 国語

問2
 傍線Aに流れ込むまでの記述を整理する。

 形式段落②で、

・「軽い『認知症』を患っている……女性」が、「居間」に上がる。

・「……おしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ちつくす」。

・「なんとなくいたたまれ」なくなる。

・「腰を折ってしゃがみかける」。

・「座布団」のやりとり……

という具体例が挙げられ、

これが形式段落③で、

・「和室の居間で立ったままでいることは『不自然』である」。
||
・「居間という空間がもとめる挙措の『風』に、立ったままでいることは合わない」。
||
・「高みから他の人たちを見下ろすことは『風』に反する」。
(だから)
・「腰を下ろす」。(=「からだで憶えているふるまい」/「ひとりでに」こう動く)

と言いかえられ(抽象化され)、

さらに傍線A

・「からだが家のなかにある」

と言いかえられ(抽象化され)ている。

 このことから、筆者が用いた「からだが家のなかにある」という表現には、

・【空間からの影響】【身体の記憶】【身体の動き】

という関係性が封印されていることが分かり、このことは、傍線A直後の

からだの動きが、空間との関係で……ある形に整えられている
(=空間→からだ→からだの動きの形)

となっていることからも確かめることができる。

 空間(=家)からの影響が、身体に刻まれた記憶を呼び起こすことによって、自然と一定の行動があらわれる、といったことを、「からだが家のなかにある」と圧縮して表現したのである。

 形式段落⑤冒頭には、「バリアフリー」という新出語があり、「バリアフリー」でない「木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サーヴィスの施設」との比較対照展開に入っていくことは明らかなので、傍線Aが所属する展開の部品(高橋先生いうところの「鳥かご」)は形式段落④まで

 展開の境界がうっすらと見え、その展開の部品内にある関係性が見えた時点で選択肢に当たるのが良いと思う。

 【空間からの影響】→【身体の記憶】→【身体の動き】という関係性を写し取った選択肢は⑤。ゆえに解は


 ちなみに、他の選択肢についても見ておく。

 「人間の身体が孤立する」というのは、形式段落⑤「物との関係が切断されれば」あたりを参考に創作した表現であろう。また、「身体が侵蝕されている」というのも、同じく形式段落⑤で、

「バリアフリー」空間において、「身体の記憶」が脱落していくさまを表現した語句

である。このように、文中の別の部分を説明するために用いた語句を転用して誤答の選択肢を作ることがセンター試験ではよく見られる(当 blog では、このパターンを〔用語の転用〕と呼ぶことにする)。

 最後の二択で迷ったとき、「確か、こんな語句が文中のどこかで使われていたな……」というとき、その語句の出典(?)を調べればこの手の誤答選択肢に引っかかることは激減するだろう。

 は、「記憶」→「規律」という言いかえを仮に認めるとしても、【空間からの影響】という要素を欠く。ゆえに不適当。このように、文中で述べられた関係性を意図的に誤写することによって誤答選択肢を作ることもよく見られる(当 blog では、このパターンを〔関係性の誤写〕と呼ぶことにする)。

 は、形式段落⑤で述べられている

からだが「『バリアフリー』に作られた空間」に「なじみ」、「住みつく」こと

に対する説明を圧縮したものである。ゆえに不適当。このように、説明としては正しいが説明の対象が設問で問われているものとは異なるという選択肢もときどき見られる(当 blog では、このパターンを〔別対象への正しい説明〕と呼ぶことにする)。

 で述べられている関係性は、文中で述べられている関係性に合わない。

 には、

「人間の身体は空間と調和していくことができるのでふるまいを自発的に選択できている」

とあるが、これでは【身体の記憶】という要素を欠く〔関係性の誤写〕)。ゆえに不適当。


【問題】2011年 本試験 問題1『身ぶりの消失』(鷲田清一)

2012-01-05 10:53:30 | センター試験 問題

 問題文、および設問を .jpg 画像で貼り付けておきます。

 過去問が手元にある方にとっては必要ないと思います。どうしても手に入らないという方向けにうpしておきます。

 なお、今回の問題は、こちらで .pdf ファイルのダウンロードが可能です。

 

 

 

 

 

※ ワープロでジカ打ちしたものをプリントアウトし、スキャナで画像化しているので、打ち間違いや変換ミスがあるかも知れません。誤字、脱字、誤変換等にお気づきになった方は、ぜひコメント欄でお知らせ下さい。


【問2の解説はコチラ】
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【問4の解説はコチラ】
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2003年 本試験 評論 『世界と人間』 問2

2009-06-01 22:49:05 | センター試験 国語

【おことわり】

 漢字の設問については省略。本文でも漢字に改めてあります。

 では、始めます。本文を一気に引用してしまうと読みづらくなると思うので、適当に区切りながら、合間に問題と解説を入れます。



 1 科学は現在、近代文明社会を根底から支え動かす巨大な力となっている。人間の在り方をも大きく包み込んでいる。我々は気がついた時、既に様々な分野の科学の知の体系ができ上がっていて嫌でもそれらを学ばねばならないようになっている。そのため科学は、越えて行かなければならない山脈のように我々の前に立ちはだかっているので、人間から独立したもののように思われがちである。科学だから大丈夫だとか科学は悪いとか人ごとのようにいわれるのがそれである。しかし本当は、人間を離れて科学があるのではない。科学とは人間の営みであり人間の一つの在り方である。ただし、科学は人間の実存ではない。人間の知性の世界であって存在の世界ではない。人間がものごとを見るある一定の見方を組織したものが科学である。ただ、その見るという客観化の働きの最も徹底したものであるため、科学の知という表現が蛇足になるほど知そのものとほとんど同義語になっている 。
 2 実存として人間から独立し得るほど知としての徹底さを持つ科学といえど、人間の知であるからには人間がものごとを知る意識の働きのなかに基礎を持っている。そこで、意識全体の階層のなかで科学がどのような位置にあるかを確認することが必要であろう。
 3 私(主観)が物(客観)を見るというのは、結果として現れてきた現象である。私という意識は意識されるもの(客観)なしにはありえず、客観も意識するものなしにはない。そこで、人間がものごとを知るという主観と客観の関係の基礎には両者が一体となった状態があり、その原初の世界が分化することによって知るという意識の現象があると見なされなければならない。この意識の根源にある世界は直観の世界であり、古来、主客合一、物我一如といわれてきた。我々が我を忘れてものごとに熱中している時や、美しい風景にうっとり見入っている時のことを考えれば理解しやすい。しかしこの例に限らず、どのような場合にもそのような一体化した状態が意識の根源に存在している。それが分化した時、人間の意識の世界が現れてくる。それは意識するものとされるもの、知るものと知られるものの世界である。これは、主客対立とか主客分裂とかいわれるが、私と私でないものの区別が明瞭となる世界である。


問2 「それが分化した」とは、なにがどうなることか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 人間の主観と客観の混合した直観の世界が、再び主観と客観に区別されること。
② 我々が熱中のあまり我を忘れた状態から目覚め、冷静な自分を取り戻すこと。
③ 私の意識が、意識するものと意識されるものに分裂し、知る働きが現れてくること。
④ 人間の意識の根源にある世界が、見る私と見られる対象の世界に分離すること。
⑤ 私と私でないものの世界が、明瞭に分かれて意識の世界に顕在化すること。


解説

 傍線部(ここでは白ヌキにしてある。以下同)は、「それが分化したとき」であるが、これはあくまでも文の一部分でしかないので、傍線部を含む一文を見てみると、

それ分化したとき人間の意識の世界現れてくる

となっていることに注意。

 単純化すると、

「それ」が先で「人間の意識の世界」が後

だということ。この考え方は結構大事。「因果関係」という言葉に当てはめてみると、

「それ」(黒)が「因(原因)」で「人間の意識の世界」(赤)が「果(結果)」

ということになる。評論を読む際には

因果関係を押さえつつ読む

というのが結構ポイントになる。

 あとは、「それ」の内容。いちおうクソ丁寧にたどっておくと、

それ=そのような一体化した状態

   =主客合一、物我一如

   =直観の世界

   =原初の世界

   =両者(主観・客観)が一体となった状態


である。

 以上のことを図示しておくと、


        →→→→→  主観
それ→→→              }意識の世界
        →→→→→  客観
      分化


となる。

 では、選択肢の①から検討していく。

 ①の「……主観と客観の混合した……世界が、再び……区分される」という記述は、図に示した筆者の「それ」の捉え方に反する。

 まず、「主観と客観の混合した」状態というのは、「主観」、「客観」が「分化」する前から存在することを前提としている。しかしながら、本文の記述によれば、「分化」が起こる前は「主観」も「客観」もないのである。

 さらに、「再び……区分される」という記述も然り。「再び」ということは、「分化」する前にも「主観」と「客観」が分かれていたことになってしまう。

 以上のことから、①は誤りである。


 選択肢の②。

 「それが分化したとき……現れてくる」というのは、

人間に初めて「意識」が芽生えるときのこと

なので、この選択肢の記述も不適。

 「熱中のあまり我を忘れた状態」については、本文に「我々が我を忘れてものごとに熱中している時や、美しい風景にうっとり見入っている時のことを考えれば理解しやすい」とあるため紛らわしいが、これは単に

「熱中のあまり我を忘れた状態」は「分化」する前の「それ」の状態に似ている

ということに過ぎない。だまされてはいけない。


 選択肢の③。

 前掲の図、および、「私(主観)が物(客観)を見るというのは、結果として現れてきた現象である。私という意識は意識されるもの(客観)なしにはありえず、客観も意識するものなしにはない」という記述から、筆者が

〈「それ」の分化 → 意識〉

と捉えていることは明白である。

 本選択肢の記述は、「……意識が……分裂し」であるが、これでは「分化」する前から「意識」があることになる。よってこの選択肢も不適である。


 選択肢の④。

 本文第段落に「……そのような一体化した状態が意識の根源に存在している。それが……」とあるので、

〈「それ」=意識の根源にある世界〉

という言い換えは妥当。

 また、

〈「見る私」=「主観」/「見られる対象」=「客観」〉

という言い換えも妥当。ゆえに、本選択肢の内容は妥当である。④が正解


 選択肢の⑤。

 本選択肢の「……が、……分かれて意識の世界に顕在化する」との記述では、選択肢③と同様、

「分化」する前から「意識の世界」があることになる

ため、本選択肢は不適である。


 ……とりあえず、一問だけ解説してみました。

 おそろしく長ったらしくなり、普通の人にとっては「付き合ってらんないシロモノ」かも知れません。しかしながら、当ブログでは、「普通の人が無意識のうちに処理している過程までも可視化する」ことを目標として徹底解説への道を突き進みます

 受験対策としてはおよそ非実用的なものになるかも知れませんが、この作業をとことんやっていく中で、「センター試験国語の作問の法則」のようなものが浮かび上がってくるのではないか、と期待しています。

 質問等あらば、遠慮なくコメント欄に書き込んでください。レスは遅れるかも知れませんが、誠心誠意返答したいと思っています。

  


久しぶりのごあいさつ

2009-06-01 22:41:35 | センター試験 国語
 どうも、お久しぶりです。

 こちらはずいぶん長らく放置プレイにしてきましたが、このたび、こちらの方で

センター試験過去問の徹底解説

をしようかなぁなんて思いまして。

 あまり実用性にはこだわらずに、とにかくテッテ的に解説したおそうかなあと思っています。なかなか毎日忙しいので、ヒマを見つけての更新になろうかとは思いますが、ヒマな人は読んでみてください。

 DQN校勤務ゆえ、センター試験とガチで向き合うことがなく、「このままでは脳みそが錆ついてしまう」という危機感からの思いつきです。

 相当な不定期更新になると思いますが、よろしくお願いします。

 手始めに、2003年に行われた本試験の評論、『世界と人間』から始めようと思います。

底辺校での国語教育

2009-02-23 21:17:54 | 「国語」ネタ
 今の勤務校は、世間的には「底辺校」と見なされておりませんが、ある

特殊な事情

により、実質「底辺校」といっても差し支えない状態です。

 ほとんどマトモに勉強していなくても卒業できるカリキュラムであるため、うちの高校に入ってくる生徒には、以下のような特徴があります。

 学力の高い生徒は、全く勉強しません。

 高学力であるにもかかわらず、わざわざウチにくるのは、

全く勉強しなくても卒業できるから

、すなわち、高校で遊び倒すためだからです。

 一方、真面目に勉強する生徒は能力が低い。

 真面目に勉強してきたにもかかわらず、ウチ程度の高校にしか来られないということだからです。

 われわれ教師にとって、ハナから勉強する気のない前者のような生徒はいかんともしがたい。

 彼らは確信犯ですからね。

 問題は後者のような生徒たちです。

 彼らをどうやって伸ばしてやるのか?

 今の学校に転勤してきて、早くも5年がたとうとしていますが、あれこれ工夫してはいるつもりですが、今ひとつ成果が見えてこないのです。

 もちろん、国語は他のどんな教科よりも成果が見えにくい教科だということは分かっていますが、それにしても何の手応えもないのはツラい。

 今年一年を振り返って、痛感したのは、

そもそも生徒らがなんにも知らない

ということ。

 どれだけ理屈や理論を教えても、具体的な知識が絶望的に不足していてはどうにもならないわけなのです。

 それこそ、

ケータイ触ることでしかヒマつぶしのできない

低脳には、教科書なんてクソの役にも立たないということなのです。

 こと国語に関する限り、

ストーリーを伴った知識

のストックなしには、どんな授業も実にならないのではないか?

 ……と、こう思うわけです。

 マトモな読書の経験というのは、国語の力をつけるための必要条件(十分条件ではない)です。

 それが決定的に不足している生徒相手に何をしたらいいのか?

 もはや、従来の国語の授業及び試験の常識を捨てねばならんのかも知れません。

 授業の時間に読書させるわけにはいきません(もちろん、部分的に取り入れることはできますが、そればっかりだと試験や評価ができなくなる)。

 では何をするか?

 ここは思い切って「寺子屋の昔に帰る」というのがよいのかも知れません。

 少なくとも高校一年生の間は

ひたすら暗誦

でいいのではないか?

 意味が分かるとか分からんとかにはあまりこだわらず、ただひたすらある程度のまとまりを持った国語文を暗誦してゆく。

 評論系のものなら、抽象度の高い一節(「人間は、本来無秩序な対象世界を言語によって恣意的に文節し、認識する。対象世界には切れ目などなく、言語が切れ目を創造するのだ」みたいなもの)を。

 文学的なものならネタには事欠かぬことでしょう。

 特に今の生徒は、文語的表現にほとんど耐性がないので、文語的表現のものを多く取り入れるのもいいと思います。

 暗誦文集を選定する作業たるや相当なものでしょうが、生徒らの脳内に国語の具体例がほとんどない以上、こういうところから始めるしかないのかも知れません。