牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

10月29日(月) 「牧会学 ③」 トゥルナイゼン著  日本基督教団出版部

2012-10-29 09:30:09 | 日記

 牧会学の第三部「牧会の完成」を読み終えた。一週間かけてじっくりと「牧会学」全部を読むことができた。

 本からの引用。「牧会の具体的な完成は、福音と律法、義認と聖化の確立にある。福音の恵みに満ちた慰めの言葉は、人間を主のものとするために、これをとらえる要求とならなければならない。、、、、、、真正の牧会は、われわれにとって、その形態からいうと対話、内容からいうと赦し、その受け取り手からいうと、罪に病む人間への使信として述べられてきた。今われわれは、そうした牧会の本来の完成に向かう。牧会の完成とは、牧会的な会話における、赦しの伝達の行為そのものと理解される。」

 「罪人を、神の前に、恵みによってのみ義とすることが、赦罪の使信の内容である。だが、いつでも、義認に結びついて現われるのが聖化である。、、、、、、われわれの聖化とは、そこで、われわれの生活の所有権が、こうして神の御手の中へ、完全に移されることを意味する。義認において告げられる、キリストによるわれわれの生の所有が、完全に行われることを意味するのである。」

 「戒めという形で行われる福音の伝達は、悔い改めに至る。この悔い改めは、赦罪によって、人間の生活が具体的に、転向させられることと理解される。」
 「われわれはすでに、牧会の対話が、悔い改めの対話であることを確定した。その意味するところは、牧会においては、きわめて具体的に、人間の罪について語られなければならないということである。」

 「キリストの勝利と慈愛の伝達を伝えなければならない、牧会的な対話にとって、ここから、最後の局面がひらかれてくる。対話は戦いの対話となる。すなわち、牧会のすべてが、今は、キリストの力によって、きわめて具体的に、下からの諸力(悪霊)に対して戦われる戦場と、みなされなければならないのである。」

 「牧会者は、赦罪の福音の、にない手であり、伝達者である。彼が行為するのは、自分自身の力や理性によるのではなく、召命による。、、、、、、、牧会をなす者は、そのことによって、自分が、ひとつの特別な場所に立つに至ることを知らなければならない。それは、聖書的に言うならば、神の言葉と、罪の人間の間にある場所である。言葉が一方にあり、罪人がもう一方にある。今は、罪人に語りかけるために、言葉が移行しようとしている。そのために必要なのは、そのない手であり、伝達者である。このような、言葉を伝達する、にない手、伝達者が牧会者なのである。」



 牧師の働きである牧会に、完成というものはないと思うが、少しでも完成に近づけるように日々神からの「召命」(任命)を確信していたい。昨日の礼拝説教で語られた聖書の言葉は、ローマ人への手紙11章29節 「神の賜物と召命は変わることがありません。」でした。