牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

10月25日(木) 「牧会学 慰めの対話 ②」 E・トゥルナイゼン著 日本基督教団出版部

2012-10-25 17:12:20 | 日記

「牧会学」の第二部「牧会の本質と形態」を読み終わった。 第一部は「牧会の基礎づけ」であった。

 本からの引用。「牧会が全うされるのは、対話という形態においてである。」 
牧会的対話の形態は、その対話自身の持っている要求によって規定される。牧会的対話は、人間の事がらを、それがどんなに遠くはなれたものであろうとも、神と神の言葉に対して持っている関係において見ようとする。」
牧会の対話は、人間生活の全領域を、そこで現実に働いている、心理学的、世界観的、社会学的、道徳的な、諸解釈や諸判断とをそえたままで、神の言葉の判断のもとに置く。」 
われわれの考慮すべきことは、牧会的対話における大切な問題は、人間の生活状況を、現実的に理解することだということである。」 
牧会とは、教会における説教と聖礼典において行われる宣教を、対話という手段を通じて拡大し、延長するということである。この対話において、原則的に問題になることは、すでに、説教と聖礼典の内容をなしているものと同じである。ということは、牧会的な対話もまた、罪の赦しを目指しているということである。」

 牧師が人とする対話(牧会的対話)において大切なことは、「霊的でありつつ、現実的であれ。」ということであろう。


 続いて本からの引用。「牧会において人間に呼びかけるということは、人間についての知識を前提とする。したがって牧会は、心理学を、ひとつの補助学として必要とする。、、、、、、、心理学的な知識をくみとることのできる源泉は、多種多様である。まず最初に取り上げるのは、自分自身の経験から流れ出てくる、人間とその状態についての知識である。人間認識の第一の源泉は、自己認識である。、、、、、第二に取り上げるべきは、他の人間との、生き生きとした交際であり、他人の生活に出会うことである。、、、、、われわれが、人間認識を得る第三の源泉は、生活記録にあるような、それも、信仰深いものばかりでなく、全くこの世的、世俗的なそれにあるような、生活観察である。ここに指摘しておかなければならないのは、小説家(ドストエフスキーとトルストイ、バルザックなど)や詩人たちの中の、人間生活の叙述者たちである。、、、、最後に第四の源泉として考察されるのが、本来の、心理学および精神治療法の専門書である。、、、、、以上述べたすべてのことに対して、最後に言わなければならないことは、人間と、その状態についての決定的な認識は、聖書そのものから、与えられるということである。神の言葉の中には、いかなる心理学も、これに代わり得ず、これを越えることなどもちろんできない、人間、およびすべての人間的なことについての、広く、深い見方があるのである。神の言葉は、自分自身の方から、人間に向かっているものである。聖書の言葉は、人間に語りかけ、これに触れ、これを癒し、つくりかえる。」 
 「聖書において重要なのは、人間理解なのである。聖書は、世俗的な人間学が停止するところ、必然的に停止しなければならないところで、ことを始めるのである。その人格的な存在に基礎づけられた、人間の全体性というところで、始めるのである。聖書は、人間としての全実存を、創造者であり、救済者である神の言葉へと導きかえすことにより、人間の全体性の根源と本質とを、われわれに、あらわしてくれるのである。」

 牧会において大事なのは、真の人間理解である。著者が書いているように、自分自身を見つめる黙想を通して、他の人との交際を通して、文学や心理学の読書を通して、今よりもっと「人間」を理解できるようになりたい。しかし決して忘れてならないのは聖書を通しての人間理解である。聖書を抜きにすると表面的な人間理解に終わってしまうであろう。ドストエフスキーなど偉大な作家は人間の罪を叙述し読む者に迫ってくるが、(ドストエフスキーは聖書に親しんでいた)、聖書はどの作家にもまさって恐ろしいほどに人間の闇の部分に光を当てる書物である。牧会において大切なことの一つは、心が重くなることがあるが、、、、人間の闇の部分に光を当てることである。